幽霊・妖怪・呪い・祟り……いつの時代にも絶えることがない「怪談」。
そのなかでも、フィクションではない誰かの実体験=「本当にあった怖い話」を「実話怪談」と呼びます。
その実話怪談に日本でもっとも精通しているひとりが、怪談・オカルト研究家の吉田悠軌さんです。
大人のホッとする時間をテーマにするメディア「ケムール」では、吉田さんに、あえて「一服」と「煙草」にまつわる実話怪談の提供を依頼しました。今回は、どんな怪奇を呼び寄せてしまうのでしょうか。
それでは、怪談を一服いかがですか。
リエはその夜、新宿の小さなバーにいた。
十数年前、歌舞伎町のどこかの雑居ビルに入っていた店だという。なにぶん昔のことなので、どのビルのどのフロアにあったか、いまいち定かではない。
当時、歌舞伎町やゴールデン街を一人で飲み歩いていた彼女が、ふらりと立ち寄っていた店。
酒場のハシゴの締めとして、明け方に近い夜更け過ぎに、静かな一杯を楽しむための店。
そんな目的で、おそらく三度か四度――あるいは二度だけだったか、五度だったかもしれないが――訪れたことのある店だった。
カウンターと小さなテーブルがあるだけの、ささやかでカジュアルな内装。
物腰やわらかい中年男性のマスターが一人で切り盛りしており、飲みに来るのも(リエが知る限り)一人客のみ。
またその夜は、ことのほか静かだったのだ。
リエの他には客の姿もなく、マスターと交わす会話は、挨拶と世間話のあいだのような単発の言葉だけ。
ほとんど口をつけていない一杯目のグラスは、ぽつぽつと結露におおわれて、コースターまで水が滲んでいる。
この店だけ海の底に沈んでいるような、穏やかな時間が流れていた。
しかし突然、その静穏が破られた。
なんの前触れもなく、リエはトイレに行きたくなってしまったのだ。
酔っぱらっているせいか、ふと気がついた時には、かなり切迫した尿意に襲われていた。
……ああ、やばい、おしっこおしっこ……
しかし、よほど頭が酩酊していたのだろうか。
腰を上げるより先に、リエの手はグラス横に置いたタバコの箱へと伸びていった。
バージニアスリム・メンソールの、白くて細長くて硬いボックスだ(そう、当時はバージニア・エスではなく、そんな名前で呼ばれていた)。
その箱から、これまた線香のように細長い紙巻きを取り出す。さらにリエの手は途切れることなくなめらかに動き、ライターで火をつけてしまったのである。
あれっ、わたし、なにしてるんだろう……
ひと吸いしたところで、我に返った。こんなことをしているあいだに、膀胱が限界に近くなっている。
急いで化粧室に向かわなくてはならない。となるともちろん、人差し指と中指につまんでいるバージニアスリムを灰皿に置くのが当然の行動だろう。
しかし自らの意思に反して、右手が唇へとタバコを運び、腰がスツールから離れた。そしてタバコをくわえたまま、両足がトイレへと向かっていくではないか。
いやいや、ちょっと待って……
頭ではハッキリそう思っているのに、なぜだか足が止まらない。
こんなの、店に迷惑でしょ……
そのままカウンター脇の化粧室の扉を開け、中に入っていった。
そして結局、狭い室内に煙を充満させたまま、用を足すことになってしまったのである。
ふたたびドアを開けたリエは、恐縮しながら席に戻り、急いでタバコを灰皿へと押しつけた。ただ、そんな彼女に対して、マスターは注意するどころか。
「ごめんごめん、忘れてた」
逆にこちらへ謝ってきたかと思うと、流し台の棚から、スティックタイプのアロマを取り出した。そして火をつけた香を台に乗せ、トイレの中へと置きにいったのだ。
その様子からして、タバコの匂いを消すため、といった嫌味な感じはまったく見受けられない。
「え、マスター、『忘れてた』ってどういう意味……」
リエがそう質問しかけたところで。
「ちょっともう! 飲まなきゃやってらんないわよ!」
タイミング悪く、一人の女性客が乱入してきた。
それがまた、このバーには珍しく、厄介なほど騒がしい客だったのである。
はじめから泥酔しており、初対面のリエにしつこく絡んでくる。恋愛論のような根性論のような人生論のような説教をぶちまけながら、こちらがどんな相づちを打とうと、
「あんたには、絶対にわからないこと!」
などと、即座に全否定してくる。
勝手に大声でまくしたてる女の身の上話をかいつまんでいくと、どうやらお気に入りのホストとの関係がうまくいかず、ストレスがたまっているようだ。
つまりは、やつ当たりである。
「あたし、トイレ行くから!」
さんざん悪絡みした末、女は腰を上げた。そのまま、操り人形のような足どりでカウンター脇へとよろめき歩く。これは便器周りを汚してしまうパターンになりそうだが、それはともかくとして。
やれやれ、このタイミングで帰っておかなくちゃ……
と、財布を出しかけたリエに、
「あ、お勘定? ちょっと待っててね」
などと声をかけながら、マスターはカウンターを抜け、いそいそとトイレのドアへ先回りした。
「なにっ!? あたしが入るんだけど!」
怒鳴りつける女を「ごめんごめんちょっとだけ」と制して個室に入ると、先ほどのアロマスティックを取ってきたのである。
なぜわざわざ、匂い消しの香を外に出したのか。アロマの匂いが気になるといったクレームをつけられることを恐れたのだろうか。
「もう……漏らしちゃっていいわけ?」
ぶつぶつ呟きながら、マスターと入れ違いに、女がドアを閉めた。
その、ほんの数秒後。
――ぎゃあああああああああ!
すさまじい悲鳴が、個室の中から響いた。
続いてドアが勢いよく開き、青ざめた顔の女が飛び出してくる。
下着を膝上までずり落ちさせたまま、トイレを指さし、ぱくぱくと口を開けたり閉じたりしている。
「大丈夫? 酔っぱらいすぎて、幻覚でも見たんじゃないの?」
マスターが落ち着きはらった声をかける。
そこで女も、自分の醜態に気づき、さすがに恥ずかしくなったのだろうか。
「そ、そうかも……お会計、ツケにしておいて」
あわてて身だしなみを整えると、金も払わず逃げるようにして店を出ていったのである。
そんな光景をポカンと眺めていたリエに、マスターが一言。
「見ちゃったんだよ」
「見ちゃった……ってなんのこと?」
微笑んでいるかのように、マスターの口角がかすかに上がっている。
「さかさまの、女」
そしてマスターは、以下のような説明をしてくれた。
この雑居ビルでは、決まった時間帯になると、ある異変が起こるのだという。
「位置関係としては、建物のいちばん奥のスペース。ほんの狭い一画だけ」
このビルは7階建てなので、そのスペースも当然、1階から最上階まで縦に存在することになる。
「そこでね、7階から1階に向かって上下に、すとーん、と」
頭を下にした女が、天井も床もすり抜けて、まっさかさまに落ちてくるというのだ。
「それは昔、ここに別のビルが建っていた時、屋上から飛び降り自殺した女なんだってさ」
以前のビルは、現在のものよりもやや狭いサイズだった。このビルの最奥部のあたりはかつて、なんら構造物がない空間だったようだ。
ちょうどその空間に、女が飛び降りたのである。
つまり、過去の記憶とでも呼ぶべき映像が、現在の建築と折り重なるようにして再現されている。だから落下していく「さかさまの女」が、床や天井をすり抜けていくように見えるのだ。
その再現は、毎晩くりかえされる。
朝や昼間、夜でも早い時間帯なら大丈夫。しかし深夜三時を過ぎ、太陽がのぼるまでの時刻――ちょうど今ごろ、明け方に近い夜更け過ぎあたり――になると、ほぼ必ず、女がさかさまに落ちてくる。
おそらくそのあたりの時刻に、女が飛び降りたからだろう。
「いや、詳しい真相はわからないよ。本当に、ここに昔は別のビルが建っていたのか、そこで飛び降り自殺した女がいたのか。ちゃんと調べたわけじゃないからね」
とはいえ、そんな奇妙な現象が起きてしまうこと、そして古株のビル関係者のあいだでこの情報が共有されていること自体は、確かなのである。
もっともその現象は、深夜遅くの時間帯、ビル裏手の壁ぎりぎりで起こるため、他階のテナントでは知らない人も多い。
「ただ困ることに、その部分ってのが」
と、マスターはカウンターの脇を指さした。
「トイレにあたるところだから、迷惑なんだよね」
それでも対処法はある。
線香やロウソクやアロマスティック、そしてタバコなど……火のついたものが同じ空間にあると、なぜか「さかさまの女」は落ちてこないのだ。
理由はわからない。
とにかくそれが、古くからビル関係者に伝えられている「対処法」なのである。
「リエさんみたいに勘のいい人だと、自分で勝手に『対処法』に気づいちゃうみたいだね」
もっとも、迷惑な客が来た場合などは、逆パターンの使い方をしてみたりもする。
「さっきみたいにタイミングが合えば、わざと火を消しちゃうとか……」
そうすれば、わざわざ出禁を宣告せずとも、その客は二度と来なくなる。
それはそれで、このビルで商売するための、ひとつのうまい「対処法」なのだそうだ。
次回もお楽しみに。また一服の時間にお会いできますことを。
吉田悠軌(よしだ・ゆうき)
1980年、東京都生まれ。怪談サークル「とうもろこしの会」の会長をつとめ、オカルト、怪談の研究をライフワークにする。著書に『一生忘れない怖い話の語り方』(KADOKAWA)『オカルト探偵ヨシダの実話怪談』シリーズ(岩崎書店)『恐怖実話 怪の残滓』(竹書房)、『日めくり怪談』(集英社)、『禁足地巡礼』(扶桑社)、『一行怪談(一)(二)』(PHP研究所)など多数。
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