第三十七冊『グルメマンガ・ニューウェーブ』~R.I.P AKIRA TORIYAMA~

現役の本屋の店員が好きなマンガについて本気で語る本連載。
大ヒットしているマンガから、知る人ぞ知るニッチなマンガまで、本屋ならではの視点で掘り下げます。マンガ好きの方はもちろん、新しいマンガに出会いたい方にもおすすめです。

▶️いままでの「本屋の本音のあのねのね」

心に空いた穴

鳥山明が死んだ。

日本のマンガ史において、手塚治虫先生の死に匹敵する、重い訃報だと、ぼくは思う。

その早すぎる死を世界中のファンが悼み、なんとフランスの大統領が追悼コメントを出すほどであった。

一マンガ家の訃報に、国連安保理の常任理事国の首長がそこまでするのだから、もはや世界的な事件だったといって差し支えないだろう。

フランスがマンガ大国で、DRAGONBALLが大人気だとしても、だ。

では、日本の一書店員にとってはどうか。

ぼくは最初「鳥山明先生が亡くなった」と書きはじめて、でもなんかしっくりこなくて、冒頭のように書き直した。もちろん、敬意がないからじゃない。

敬称をはぶき、敬語を止めたのは、ぼくがぼく自身に、敬称も敬語も使わないからだ。

だって「ぼく様がお亡くなりになった」とは言わないでしょう?

つまり鳥山明は、ぼくにとって(あるいは、ぼくと同世代のおおくのひとびとにとって)、もちろん他人なのだが、「鳥山明のマンガ」は、そうではないのだ。

それは断じて他人じゃない、もうぼくら自身の一部である。

だからおそらく、鳥山明の死で、ぼくの中のなにかも一緒に死んだのだ。他人行儀な言い方など、できようはずがない……。

ちなみに、ぼくが人生で初めて買ったマンガが「Dr.スランプ」。つまり、人生で最も長く付き合っているマンガということになる。

いま40代くらいのひとには、似たような経験をお持ちの方も多いのではないかと思う。

ぼくのすべてのマンガ観・価値観・人生観のおおもとは、鳥山明作品によって形成されている。どんな教師より、どんな啓蒙書より、ぼくは鳥山明で学び、育った。

だからその死による喪失感は、自分でも驚くくらい巨大で、正直、マンガについてなにも考えられなくなった。

ぼくが生きてる間は死なないって、なんか勝手に思っていた。

ぼくの尊敬する先輩が、かつてデビッド・ボウイが死んだとき、「まさか死ぬとは思ってなかった」という最高にイカした弔辞を言ってのけたことがあるが、まさにそんな気分だ。

直接、Dr.スランプやDRAGONBALLのことを話す気になれないし、なにげに傑作である「SANDLAND」についてもムリだ。

このコラムも、じつは最初考えてたネタすら書けなくなった。なにを書いても、テンションが上がらない。

この心に空いた穴を、ぼくらはなにで埋めればいいんだろう?

原稿の〆切やばいなあ。……そんなふうに、ぐずぐずしてたわけである。

そしたらですね、信じてもらえないかもしれないけど、ぼくのなかの鳥山明が、言ったんです。「こーゆーときは、あんまアタマ使わないヤツがいいんじゃない?」と。

そしたら、悟空の声まで聞こえてきた。「なんだ、おめえ、調子わりいのか?メシ食えよ、腹ペコだとチカラ出ねえぞ」。

……ビビっときた。こ、これは、ずっとあえて触れないできた、禁断の“アレ”をいよいよやるときが来てしまった、ということか。

と、いうわけで、ぼくがこのコラムを引き受けてから、ずっと避けてきた――「グルメマンガ」</strong>が今回のお題です。鳥山明ロスをふっとばすくらい、気合入れていきます。

集合表紙

「グルメマンガ」ニューウェーブ

ところで、なんでグルメマンガに触れないようにしてたのか?

いや、バカげた理由です。それは、ぼくが「食」についてポンコツだからです。

料理はできないし舌がバカなので、旨い不味いがよくわからない。こんなポンコツが、グルメマンガを語ることなど、できようはずがない。

ああ、ワインのテイスティングができたり、寿司屋の大将に「これはドコ何処産のハマチかな」とか言える人間になりたい。

あと、もうひとつ理由がある。こっちのほうが深刻かもしれない。

それは乱発される「○○メシ」「○○ごはん」に疲れきってしまい、もうついていけなくなったからだ。まずはこのあたりを、すこし前置きとしてお話したい。

大前提として、グルメマンガとは「料理や食べ物全般をあつかうマンガ」くらいの定義で、概ね間違いないだろう。

「美味しんぼ」(1983~2014休載)や「クッキングパパ」(1985~)、「包丁人味平」(1973~77)、「ミスター味っ子」(1986~90)といった先駆的なマンガは、すでにぼくが子どものころには市民権を得ていた。つまりジャンルとしてのグルメマンガの歴史は、そこそこ長い。

だが「孤独のグルメ」(1994~)の再評価や、「花のズボラ飯」(2009~2015)、「ワカコ酒」(2011~)が注目されはじめたあたりから、何かあきらかに風向きが変わってきたように思う。次元風にいえば「おもしろくなってきやがった」というやつだ。2010年代がそれにあたる。

仮に「孤独のグルメ」以降のグルメ系の作品群を、「ニューウェーブ・グルメマンガ」略して、NWグルメマンガ」とここでは呼んでおきたい(もちろん「美味しんぼ」がグルメマンガじゃない、という意味ではない)。

この区別にそんなに深い意味はない。ただ、あえて言えば、端的に<ネット社会>前か後かの違いだ。どうしてそこが分岐点になっているのか、ご説明したい。

食の5W1H

たとえば、かつては「情報ツール」としての特権性が、グルメマンガにはあった。つまり一般市民が容易には手に入れられない食にまつわる情報を、マンガという手段で伝えることが、娯楽たりえた。

だがネット社会は、三ツ星レストランのレシピを、ググってコンマ1秒で調べられる環境を作り出した。

世界中のグルメ情報がネットに集約し、一流シェフの実演動画を見ながらシロウトが料理をすることができる、そんな時代だ。

グルメマンガの情報ツールとしての優位性は、この意味で著しく弱体化したと言える。

もちろん、専門家が監修についたり、原作に関わったりしている作品は、さすがにプロの知識や経験に基づいているから、やはり情報の適切さやリアリティが段違いに上であることが多い。

ただ、ぼくが言いたいのは、ネット時代のグルメマンガは否応なく、情報優位性に乗っ取った作品作りから、なにか別の方向性を模索することを強いられた、ということだ。

そういうわけで、ゼロ年代以降の「NWグルメマンガ」は、最初のうちはおもしろい方向へ舵を切った。

特にこの新しい大海原を開拓していくうえで、「花のズボラ飯」と「ワカコ酒」の革新性と意義は、大きかったと感じている。

このエポックメイキングな二作に共通するのは、料理をする/食べる「シチュエーション・文脈」にフォーカスしたということだ。

だれが、いつ、どこで、どういう動機から、料理する/食べるか。

食の5W1Hを問えば、これまでのグルメマンガはWHAT(何)を描いていて、NWグルメマンガはそれに加えてWHO・WHEN・WHERE・WHY・HOWを描いている、といえばいいのか。

言い換えれば、アクションする主体と<料理自体>を、ダブルミーニングに描き出す手法こそが、ぼくはポイントだと思う。

それ以前の作品にも、こうした“シチュエーション・グルメ”はあったが、あくまでも単話レベルの散発的なもので、主題化するところまではいっていなかったように思う。

一流シェフの、あるいはそれに相当する作り手を前提とした、つまりは「料理それ自体の卓越性」に重きを置くのではなく、料理(を含んだ食にまつわるあらゆる価値)の相対化が進んだ時代に適応するべく、グルメマンガはさまざまな試行錯誤を重ねた。そうしないと売れないからだ。

こうして多くの良作が生まれ、グルメマンガはまたたく間に巨大なジャンルとなった。そこまではよかった。だが――

ジャンルの成熟が避けがたく直面する課題、すなわち「記号化」の泥沼が、すぐにグルメマンガを襲った。

ぼくの書店でいえば、店の棚がひとつ丸々一面グルメマンガになったあたりから、「なんかおかしなことになってきたな」と思いはじめた。あきらかに安直な「○○ごはん」「〇〇めし」マンガの増殖が、もうどうにも止まらなくなっていった。

――と、いうのが、ぼくが感じていたグルメマンガの近況だ。

仕事だから、いちおうチェックはしていたものの、正直読むのがしんどくて、しまいには“タイトルだけ”しか見なくなった。

もうなんでもいいんなら、いっそ、天下のワンピース+ごはんでいいじゃねえか、とか思ってたら、まさかの本当にやりやがった(笑)。

といってもこれはサンジが主人公のスピンオフ「食戟のサンジ」でグルメマンガじゃなかった、あーよかった(ちなみにこのスピンオフは、さすがにおもしろかった)。

とにかく、この閉塞感はきっと多くのマンガ家・編集者も感じていたことなのだろう。

近年、そうした安直な作品作りではなく、あきらかに「ジャンル批評的」なグルメマンガが、じわじわと発表されるようになって――イマココ、という感じだ。

先発中継ぎ抑えでいきます

さて、そんな「NWグルメマンガ」の復権を担うに足る実作品を、さっそくご紹介したい。

ところで今回は、野球に例えると「ブルペンデ―」

先発投手が足りないとき、ピッチャーを何人も小刻みにリレーさせて、なんとか試合を乗り切るのが「ブルペンデ―」だ。

じつは、これからご紹介するひとつめのマンガは、本来は先発完投投手だった(つまり、一作品でコラム一回分まるまる使うつもりでストックしていた)。

だが、鳥山明の死でヘコみまくったぼくは、この元気なマンガをまずご紹介して、はずみをつけたいと考えた。

今回緊急登板してもらったのは、ちょっと申し訳ないです。でも、ブルペンデーの先発は、このマンガしか考えられない。

というわけで、そのマンガは「小塚部長、ごはん一緒にどうですか?」(グリコ 少年画報社。以下「小塚部長」)だ。

このマンガは、この20年で読んだもののなかで、ぼくが最も「グルメマンガとして狂ってる」と思った作品だ。

いうまでもないが、これは最高レベルの賛辞のつもりだ。

「NWグルメマンガ」が、進む先を見失っているように思えるなかで、こういう突然変異が生まれたことには、とても救われた。

というより、このマンガはまさに、その「NWグルメマンガ」が突き当たってしまった記号化の泥沼があったからこそ、<カウンター>として描かれたマンガなのだと、ぼくはそう思う。

さっそく内容についてご紹介していこう。

表紙「小塚部長」

「小塚部長」は、少年画報社のグルメマンガ雑誌「思い出食堂」に、2021年~連載中。現在コミックスが3巻まで出ている。

作者「グリコ」先生は、画報社の複数のグルメマンガ誌で、作品を発表しておられる。

雑誌「ひとりごはん」には「注文の多い喫茶店」(コミックスは既出2巻、連載中)、雑誌「ときめきごはん」には「星と星空のキッチン」(2巻完結)や読み切りをいくつか。

なんかこれだけみると「グルメマンガ専門マンガ家」みたいだが、ぼくはまったくそう感じない。おそらく、本来はなんでも描ける方なんだと思う。

グリコ先生は、おそらく、ぶっちゃけ手堅いジャンルとみなされているグルメマンガを描いてはいても、グルメマンガに「便乗」しているマンガ家では決してない。今回ご紹介する「小塚部長」を読めば、そのことはあきらかだろう。

このマンガは、ひとことでいうなら「グルメ・ラブコメ」なのだが、ラブコメマンガとしても、異質である。

さて、このマンガを狂ってるといってみたり、異質といってみたりするのは、なぜなのか。

それは、このマンガが描いているラブが「一心不乱に食べる姿」にときめいてしまうという、これだけ読むとまるで意味不明なラブだからだ。

な……何を言ってるかわからねーと思うが、おれも何が描かれているのか、わからなかった……

見てもらったほうが早い。

カキ氷

出典:小塚部長 ©グリコ・少年画報社

ちょっと食べる仕草がカッコいいから気になるーとか、そんなチャチなもんじゃ断じてねえ、ってのがわかってもらえただろうか。

これ、ただカキ氷食ってるだけのシーンですから(第14話より)。
(強く申し上げておくが、本作はいわゆるエッチなマンガじゃありません)

このマンガは、同じ職場で働く上司・部下の関係にあるふたりの主人公が、ひょんなことから、定期的にごはんを一緒に食べるようになり、むにゃむにゃあって、ついに恋愛関係になる……というストーリーだ。

で、これだけだと、ベタベタなオフィスラブものとしか思えないわけだが、いやいや、もうまったくそんなヌルいマンガじゃない。

読むときは覚悟してほしい。なにせ、作者グリコ先生自ら、このマンガの執筆を、次のように表現しているくらいだ。

あとがき

出典:小塚部長 ©グリコ・少年画報社

男性側の主人公は、小塚清(おづか・さやか)49~50歳。独身。実家住まい。普段はおだやかな物腰の宣伝部の部長。

だが、そんなかれは食べるときだけ、常軌を逸するほど異常に集中し、見るものを恐れさせてしまうくらいのコワモテになってしまうクセがあるのだ!もちろん、これにはアイデンティティにも関わるほどの、深い深いわけがある。後述。

興奮

出典:小塚部長 ©グリコ・少年画報社

そして、そんな小塚の食べる姿に、もはや“発情”してしまうくらいに惹かれてしまうのが、女性側主人公の桜沢はるき(さくらざわ・-)。27歳。独身。

はるきは仕事では有能な社員だが、プライベートでは彼氏に浮気されて、別れたばかりである。物語はそんな彼女が、宣伝部に異動したところから、はじまる。

おひとりさまになったはるきは、以前は彼氏の手前、あまり行かなかった“ガッツリ系”の豚丼屋に食事に行く。そしてそこで、小塚の「全集中食い」を目にしてしまう。

全集中1
全集中2

出典:小塚部長 ©グリコ・少年画報社

その食べる姿に、異様に興奮してしまったはるきは、思わず叫んでしまう。

「小塚部長! これからは 私と ごはん一緒にどうですか!?」

そしてふたりは、(いちおう人目を忍びつつ)つぎつぎと会食を重ねていく。

つけ麺、パフェ、手羽先、お茶漬け、うな重、焼き肉……

そのたびにはるきは、小塚の食べる姿に、ちょっとグルメマンガではまず聞くことのないような、R18なリアクションをしてしまう。

それにひっぱられて、小塚もなんだかセリフだけ読むとAV男優か、的なことを話してしまうのだ。

これ、チキン食ってるとこ。

チキン

出典:小塚部長 ©グリコ・少年画報社

こっちは手羽先食ってるとこ。
手羽先

出典:小塚部長 ©グリコ・少年画報社

そして、ふたりは徐々にお互いのことを異性として意識し、ついに2巻ラストで恋人どうしとなる。

と、いっても、いまのところは中学生の恋愛レベル。さっそくホテルにしけこんでしっぽり、みたいな描写はまったくない。手をつないでドキドキ、みたいな段階だ。

50歳と27歳だからこそ、そうなのであって、それがむしろリアルすぎて見てるほうが赤面しちゃう。

最新3巻では、ぼちぼちオトナの関係になっちゃったりするのかしら、とも思ったが……このマンガは、そーゆー安直なマンガじゃない。

一線を越える前に、ここでラブコメの定番トラップ、「元カノ」「幼なじみ」登場!なんと手堅い……!

だが、その障害も、結局はふたりの絆を深める結果となった。

そのお互いの思いを確かめ合う場面。もちろん、ごはんを食べながら為されるわけだが……すごすぎる。

回転寿司1
回転寿司2

出典:小塚部長 ©グリコ・少年画報社

(しつこいようだが、このマンガはエッチなマンガではありません)
小塚が「食べている時間」というものに、特別な意味を感じ、ちょっとふつうではないほど激しく、静かにのめりこんでしまうのには、過去のトラウマが関係している。

もともと、“透明人間”のように存在感がなかった小塚は、食べるときだけは「自分の存在を感じられる」と思っていた。が、そのことは周囲に理解されず、子供のころからそのことをコンプレックスに感じていた。

しかし、大学生のとき、同じサークルの藍田深雪(あいだ・みゆき)に、「食べる姿が好き」だと言われ、救われる。ふたりは付き合うようになる。だが、ふたりとも就職し、仕事ですれ違うことが増え、ついに別れてしまう。

小塚は、自分のことを認めてくれる彼女がいて、そこにふたりの「居場所」ができたと思っていたのだが、いつしかそれは小塚ひとりの「檻」になっていて、深雪はそこから出ていってしまったのであった。

それがトラウマとなり、小塚はこれ以降、他人といっしょにごはんを食べることを恐れるようになってしまう……

檻1
檻2

出典:小塚部長 ©グリコ・少年画報社

その「檻」に強引に入ってきて、しかも手をとって小塚をそこから連れ出したのが、はるきであった。

このへんの描写は、グルメマンガの域をはるかに超えていると思う。恋愛マンガとしても、演出やセリフまわしがとてもいい。

というより、そもそも「集中して食べること・その迫力が異様」というだけの着想が、アイデンティティの問題、ひいては男女関係の問題にまで拡張されていく、その巧みなストーリー展開は、見事の一語に尽きる。

さて、この「小塚部長」というマンガは、きわめて娯楽的で、読んでいてシンプルに楽しくなる作品だ。そして、そのあまりに“エロすぎる”小塚とはるきの会食シーンは、いうまでもなくこのマンガの肝であり、そのバカバカしさはおかしくてたまらない。

くりかえし描かれる、なぜかなにをどう表現してもエロワードにしか聞こえないふたりの食事トークには、爆笑しかない。バカバカしすぎて(笑)。

ただし、このマンガが「NWグルメマンガ」として卓越しているのは、一見ただのギャグシーンでしかない、このエロまみれの会食シーンにこそある。

つまり、「食べることのエロティシズム」に着目し、かつ「アラフィフ独身男性」にそのエロティシズムを担わせているところは、まさに慧眼というほかない。

多くのグルメマンガがただ短絡的に、特定の料理や飲食物についての、百科全書的な情報の羅列と、その味にしかフォーカスしていないのに対して、「小塚部長」は食べるという行為そのもの、あるいは「食事・食材が孕んだエロティシズム」にフォーカスしている。

食べるとき、ひとは自由になれる、と喝破したのは「孤独のグルメ」であった。

このNWグルメマンガの歴史的傑作は、最初からすでに食べるという“行為自体”に目を向けている。それは動物的本能・欲求であるとともに、ある種の「精神性」をはらんでいるのだ、と。

そして、こうした精神性のなかに、セクシャルな意味を読み取ったのが、この「小塚部長」というマンガだ。

食べる行為にエロスを感じることは、じつは多くの人々に共有されている感性なのだと、ぼくは思う。口の中にモノを入れるとか、唾液がわくとか、むしゃぶりつく、といったような描写に、エロティックな響きがあると思いませんか?

だがこれまで、ほぼすべての食にまつわる言説、とくにグルメマンガはそういう切り口をしなかった。そもそも、エロ自体が社会的なタブーのもとに抑圧されている日本という国では、なおのことそうだったといえる。

その唯一の例外たる先行作品が「たべるダケ」(高田サンゴ 小学館 2011~2014)だ。これも食のエロティシズムを鮮烈に描き出した傑作だ。TVドラマにもなったので、ご存じの方も多いだろう。こちらも合わせてぜひ読んでいただきたい。

そして、そこに上質なラブロマンスを乗せて、ストーリー性を加えたのが「小塚部長」だ、といえる。これを読んだあとだと、もう、異性と食事するさい、平静を保てなくなること、うけあいである。

誰が食べるか それが問題だ

三國さんのバラ園表紙
ところでグルメマンガは、食べるという行為がそうであるように、本来は年齢・性別・職業・社会的地位などに関係なく、全人類を対象としたジャンルである、はずだ。一流シェフだけが主人公になれるわけではない。

物語り方によっては、はじめて包丁を手にする女子小学生が主役になることもあるだろうし、また逆に生涯一度も台所に立ったことのない尊大なジジイが、認知症になった老妻のために意を決してエプロンをつける、ということだってあるだろう。

それはなにも特別なことではない。それくらい食べるということは、人生に深く関わっている。

だが、マンガというエンタメにおいては、やはり、なんらかの“意外性”というか、読者を非日常体験のなかにいざなうような演出や設定は求められてくる。

この意味で、次にご紹介するマンガ「三国さんのバラ園」(澤枝すぽこ 講談社)は、「ギャップ」の意外性の快楽を楽しむ作品だ。

ただし、これをグルメマンガに分類するのは、ちょっと異論があるかもしれない。

タイトルにあるように、このマンガは「バラ園」のお話で、そちらをメインとして読むこともできるからだ。

それでもぼくにとって、このマンガは食べるシーンの心理描写が、立派なグルメマンガのそれだとしか思えないので、今回取り上げることにした。

「三國さん」がどういうマンガかは、非常に説明しやすい。

――このマンガの主人公・三國玄一郎(みくに・げんいちろう)65歳は、親からバラ農家をひきついで45年。見た目がおそろしく貫禄のある、任侠映画に出てきそうなイケオジだ。

だが、その見た目に反して、趣味は「乙女」であった。

スフレパンケーキ

出典:三国さんのバラ園 ©澤枝すぽこ・講談社

物語は、女子高生・小鳥遊ひな(たかなし・-)が、このバラ園にアルバイトにやってくるところからはじまる。

ひなは、当然ながら見た目がいかつい三國のことを、見た目どおりの人物とみなしているわけだが、もちろんまったくのカン違いである(笑)。

真剣にバラの剪定をしている三國をみて、渋い、とか思っちゃうわけだが、じつはそのとき、三國はおやつのシュークリームのことばかり考えていたりする。

シュークリーム

出典:三国さんのバラ園 ©澤枝すぽこ・講談社

三國は、女子高生のひなに合わせる、という名目で、勤務途中の「おやつタイム」に、スイーツが用意できると喜び、こだわりまくったおやつを毎回用意する。

……のだが、それは毎回、邪魔されて食べられない。

三國をはばむ思わぬ“敵”は、このバラ園にもともと働いているもうひとりのバイト大学生・佐伯亮太

この亮太くん、三國のことを「渋い男」とカン違いしていて、憧れている。

なので、本人としては尊敬する三國のフォローをしているつもりなのだが、必ず三國の意に反する邪魔ムーブをしてしまうのだ。

もちろんそこに悪意はないので、もうお約束のように繰り広げられる、トンチンカンな亮太くんの謎フォローと、スイーツを食べられない三國の絶望感は、ドリフの笑い並みにおかしくてたまらない。

男気

出典:三国さんのバラ園 ©澤枝すぽこ・講談社

こういう、シンプルな笑いに、ぼくは飢えているので、ほんとに癒される……

ちょっとだけマジメな話をすると、このギャップに笑ってしまう者には、見た目や年齢、あるいはTPOによる偏見があるのだ、とも言える。

65歳のイケオジが、乙女なスイーツを愛し、一方で外見から誤解されてそうした趣味嗜好が理解されない、という設定にユーモアを感じるとすれば、そこには読み手の先入観や固定観念が前提とされているからだ。

外見や年齢と、食の嗜好は、本来なんの相関関係もない。

このマンガには別に、そんなに大げさに、こうした偏見から自由であれといった強いメッセージ性はない。もっと気軽に、ぼくらの思い込みからくるギャップで笑いをさそう、コメディ作品だ。

だから、偏見云々はあまり重くとらえなくてもいいと思うが、慎重さは持っておきたい、と個人的には思う。

ちなみに、こうした「ギャップ」を駆使したNWグルメマンガは他にもあって、なぜかマジな極道がやたら出てくるのがどれもおもしろい。

そのものズバリの「極道めし」(土山しげる 双葉社)という強烈な名作もあるし、「極主婦道」(おおのこうすけ 新潮社)はおそらくこのジャンル最大のヒットだろう。

つまり、食そのものというより、その「作り手・受け手」のほうに仕掛けをめぐらせる、という手法は、いくらでもバリエーションが考えられるだろう。

たとえば、女優が食べる主体となる「女優めし」(原作:藤川よつ葉 漫画:うえののの 集英社)はその代表的なマンガだ。

国民的女優・和泉撫子が食べ歩くだけのマンガなのだが、その「羽目のハズシっぷり」がひたすら尊い。

食べるたびに、撫子の脳内でくりひろげられる、謎のミュージカル風味寸劇に、身悶えすること必至である。ギャップ好きの方は、こちらもぜひ読んでいただきたい。

江戸の昔のヲタクとグルメ

吉原プラトニック表紙
やっとノッてきたところであるが、次で抑えピッチャーの登板とさせていただく。

最後にご紹介するのは、形式としては、比較的オールドスタイルなグルメマンガなのだが、舞台と設定がとんがっている。

どういうことかというと、このマンガの舞台はなんと江戸時代の「吉原」なのだ。

しかも、主人公は三次元がダメなヲタク侍。そんな彼が、吉原最高の花魁に童貞を奪われかける、という悪夢のような(笑)シーンから、そのマンガは幕を開ける。

「吉原プラトニック」(漫画:オキモト・シュウ 企画原案:藤川よつ葉 講談社)がそのマンガだ。全四巻完結。

企画原案の藤川よつ葉氏は、上にもあげた「女優めし」(集英社)や「今日もカレーですか?」(竹書房)などのヒット作を手がける、今ノリにノッている原作者だ。そしてマンガ担当のオキモト・シュウ先生は、いわずとしれた大ヒットワインマンガ「神の雫」(講談社)のマンガ担当であり、その画力・マンガ技術には一片の疑いもない。

というように、もう鉄板といっていい布陣のマンガなのだが、うーん、意外と評価されてる様子がない?ように思う。

この「吉原プラトニック」は、明らかに熟練の技がつぎこまれた良作で、いつかご紹介したいとずっと思っていた。

吉原遠景

出典:吉原プラトニック ©漫画:オキモト・シュウ 企画原案:藤川よつ葉・講談社

ところで、吉原という場所について、みなさんはご存じだろうか?

現在の台東区千束三~四丁目にあたるこのエリアは、江戸時代に「吉原遊郭」という、つまりは風俗街であった。堀で囲まれ、入口も大門ほか限られたところしかなかったから、街というより「独立都市」に近い。

上の絵は、第十四夜「紫の上」に描かれた吉原の遠景だ。この絵は、元ネタがおそらく歌川広重の「東京名所新吉原五丁町弥生花盛全図」という浮世絵だ。で、右下のほうをよく見ると、わずかに堀があることがわかる。

これは吉原を囲む「お歯黒どぶ」という堀で、吉原は四方をこの堀に囲まれ、その外はもう、田んぼになっている。

当時の江戸市街は、まだこのあたりだと少し途切れがちになるから、吉原に行くには、浅草あたりからだと畦道みたいなところを通っていくことになる。

今のように、東京の「中」にあるというよりは「外」にある、というイメージだろうか。そこは今よりはるかに「異界」だったといえる。

もともと吉原遊郭は日本橋にあったのだが、明暦の大火(1657年)で焼失。そこで浅草裏に移転し、今でいう吉原となったわけだ。

吉原を単なる風俗街とするのは、少々ものたりない理解だろう。

江戸時代、この吉原はもちろん欲の渦巻く「悪所(わろどころ)」であったわけだが、同時に文学・演劇、そしてこのマンガでも描写されるように「絵画」の最先端が集い、この苦界を苗床として発展していった、という側面もある。

その後、二十世紀初頭まで遊郭としての吉原は続いたが、第二次大戦の敗戦後は、GHQやお役人にあれこれと規制され、実質的には消滅してしまう。ただ、風俗街としては継続し、現代では日本最大のソープランド街になっている。

この「吉原プラトニック」というマンガは、吉原がまだその独自の個性・文化を保っていた、江戸時代の全盛期を舞台にしている。

……と書くと、なにやら「歴史マンガ」か、と思われるかもしれない。もちろん、そういう側面もちゃんとあって、随所に当時の風物についての詳細な解説があったり、独特の行事を描く話数があったりして、おもしろい。ただ、下記のとおり、歴史描写は厳密なものではない。

浮世絵師・喜多川歌麿(1753~1806)の名が頻繁に登場し、どうやら現役で描いている時代のようなので、このマンガもおそらくこのあたりの物語だと推定できる(歌麿には“初代”と“二代目”がいるのだが、このマンガに出てくるのは“初代”のほうだから、この年代)。

とくに3巻で、歌麿ら大勢の浮世絵師が、幕府のきびしい規制に反したとして捕らえられ、手鎖五十日の刑を受けるという有名な事件が描かれるのだが、それが1797年のこと。

これがリアルタイムに起きているわけだから、つまりこの場面はその年であるとわかる。

ただ、このへんは厳格ではないのかもしれない。

というのも、浮世絵師として歌麿と並び称される天才・葛飾北斎の艶本「喜能会之故真通(きのえのこまつ)」が、作中の重要なアイテムとして登場する(なお作者には諸説ある)のだが、これが刊行されたのは1814年なのだ。

つまりこちらに準ずるなら、時代はこれ以降ということになる。つまり、微妙に年代が合わない。

ま、ストーリーの都合上、ここは意図的に時代を混在させた、ということなのだろう。

おおむね同じ年代で、描写としてもとくにかけ離れたものにならないから大丈夫、と判断されたのかもしれない。

あるいは年代に新説があるのか。原案の藤川氏に、ぜひお伺いしてみたいものだ。

ぼくは、物語の都合上なされるこうした歴史改変には全面的に賛成派です。

……グルメマンガの紹介になってないので、話を戻そう。

貞近
やばい

出典:吉原プラトニック ©漫画:オキモト・シュウ 企画原案:藤川よつ葉・講談社

主人公は、大身旗本留守居役の名家・大久保家の嫡男・大久保貞近(おおくぼ・さだちか)。

彼はすでに述べたように、リアル女性に触れるのも苦手で、浮世絵をこよなく愛する「ヲタク侍」であった。

もうこの設定には膝を打ってしまった。同じヲタクとして、同士感をおぼえてならない。こーゆー侍、ほんとにいたらおもしろいなー

だが、彼の立場としては、嫁を取り、世継ぎをもうけねばならない。

そこで、父親がいささか突拍子もない荒療治をする。つまり、まずは吉原で「筆おろし」をさせ、リアル女人に慣れさせようというわけだ。

そこで名家の金がうなり、その難題をひきうけることになるのが、吉原大見世「角屋」のトップ花魁・紫太夫(むらさきだゆう)。

紫太夫

出典:吉原プラトニック ©漫画:オキモト・シュウ 企画原案:藤川よつ葉・講談社

美貌と知性を兼ね備えた彼女であるが、それでも貞近は手を触れようともしない。

それでは「お職」の名が泣く、と力づくでも本懐を遂げさせようとするが、貞近はめっちゃ抵抗して、断固拒否する(笑)。ありえない。ぼくと代わってほしい。

ぬぎなんし

出典:吉原プラトニック ©漫画:オキモト・シュウ 企画原案:藤川よつ葉・講談社

ところで、紫太夫にはひとつ玉に瑕なところがあって、それは「食道楽」であること。

吉原一味にうるさいと自負する彼女は、床入りをこばむ貞近となんとかコミュニケーションを取ろうと、ちょうど届いた彼女のひいきにしている料理茶屋「八百善」の台の物をいっしょに食べようと誘う。

……ところが、それを食べた貞近、ひとこと「まずい」。

ひいきの店をけなされた紫太夫、売り言葉に買い言葉で「だったら お武家様が食べておられる美味いものってヤツを 見せてもらおうじゃありんせんか!!」とけしかける。

紫太夫の部屋には、調味料や鍋などがそろっているので、食材さえあれば、ある程度の料理ができるのだ。

そこで貞近は、先刻までのひきこもり童貞ヲタクモードから、がらりと表情を変える。

豆腐料理だ
うっまー

出典:吉原プラトニック ©漫画:オキモト・シュウ 企画原案:藤川よつ葉・講談社

貞近の料理に惚れこんだ紫太夫は、思わぬ提案をする。「ここへ通って 料理を好きなだけ作りなんし」。

というわけで、この「吉原プラトニック」というマンガは、毎回、紫太夫のところへ通う貞近が、彼女の出す難題にこたえるような創作料理を、季節折々の吉原の風物や、ぐうぜん手に入った食材などに着想を得て、つぎつぎと生み出していく、というストーリーである。

つまり、花魁とえっちするための部屋で、びしばしと料理をしていくという、なんともシュールなマンガなのだが、一見単調になりそうなこのマンガは、読者を少しも退屈させない。

吉原ならではのさまざまな事件や、妓楼のイベントがこれでもかと起きるし、また途中から登場する貞近の許嫁・京極なつ(きょうごく・-)、長崎帰りの無頼派絵師・階残雪(きざはし・ざんせつ)が、いい感じに事態を引っかき回してくれる。

もちろん、料理も凝りに凝っている。江戸時代の料理だから、食材も今とは違うし、いまでは当たり前にあるようなものでも超高級品だったりする。

たとえば、燻製をするシーンがある(第一六夜 夜桜の香り)。

いまでは「桜チップ」でいぶすのは比較的オーソドックスな手法だが、当時はまったくしられていない。

だが、吉原三大行事のひとつ「吉原夜桜」にからめて、貞近は桜の枝でいぶすアイディアを得る。このプロットは、個人的にはこのマンガの白眉だ。

そして、このマンガのいちばんの読みどころは、ページの大半が料理・食事シーンで占められていながら、じつは旗本の嫡男と花魁という、「身分違いの恋」を描いているところにあると思う。

ヲタク侍・貞近が、そして花魁・紫太夫が、食を通じて思いを通じさせていくプロセスは、いわば「食はあらゆる人間に共通のよろこび」であることを教えてくれる。

ふたりは、ふつうには結ばれることのない立場なのだが、食はその垣根をこえるのだ。

くわしくは書かないが、結論からいえば、このマンガは“ハッピーエンド”で終わる。

ただ、そこには甘っちょろいご都合主義はない。一歩間違えば、悲恋に終わったはずのふたりの恋はこれしかない、という見事な着地をみせる。

異様な完成度のマンガだと、あらためて思う。

おわりに

そもそも、グルメマンガというジャンル自体に、どこか“職人的”な愚直さと純粋さがあるのかもしれない。

かつてはたぶん、<料理>という技術が職人芸的なものであるからなのか、そうした切り口のマンガが多かったように思う。

でも、たとえば女の子が、好きな子のために、市販のチョコを湯煎して型に流し込んだバレンタインのチョコをはじめて作ったとして、「そんなのは料理じゃない」と一刀両断するのか、それともそこに秘められた感情にフォーカスするのか。

どちらがいい・正しい、という話ではないが、新しいグルメマンガは後者寄りとはいえるだろう。

グルメは金持ちの道楽だが(これは間違いのないことだ)、食べることはすべての人類にとってのよろこびだ(拒食症などの病の方はのぞいて)。

空腹で苦しむ人間を、かぎりなくゼロにすることがおそらく、この地球に生き、仕事をし、社会生活をいとなむすべての人類にとって、とりあえず最初に達成すべき共通の目標であるのだと、ぼくは大マジメに思っている。

国家も、政治も、経済活動も、極論すればこの目標のためにある。

新しい時代の「グルメマンガ」だって、“旨さ”を無意味だとはいわない。そもそも、すべてのグルメマンガは、“旨い”食べ物のことを、そういう感想をいだくような食事体験のことを描く。

だがNWグルメマンガは、その“旨さ”に必ずしも職人的な技量は必要ない(あるにこしたことはない、くらい)、という立場を取るジャンルなのだと思う。

グルメマンガが描く「食べるよろこび」は、ぼくのような味音痴にすら、たしかにあるのだ。

人間、食べてるときは、嫌なこと・悲しいことを忘れられるし。

ふと気がついたけど、鳥山明ロスも、ちょっと収まったぞ。

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