現役の本屋の店員が好きなマンガについて本気で語る本連載。
大ヒットしているマンガから、知る人ぞ知るニッチなマンガまで、本屋ならではの視点で掘り下げます。マンガ好きの方はもちろん、新しいマンガに出会いたい方にもおすすめです。
おもしろいから悩ましい
映画「ガールズ&パンツァー最終章 第四話」が劇場公開されたので、同僚に「ガルパンの映画、見た?」と尋ねた。
彼は答えた。「ええ、見ましたよ――」
その返事は予想通りだった。彼はオタク必見映画は確実にチェックするタチだからだ。ただ、続く言葉は予想外だった。
彼は続けた。「――5回」
……こういうガルパンおじさんがいるから、このコンテンツは息が長いんだろうなあ。ぼくも立派なガルパンおじさんだけど、1回しか見てない。あと2、3回は見に行かないと。
さて、このコラムをご覧の方であれば、「ガールズ&パンツァー」略してガルパンのことはご存知だろう。
その荒唐無稽の極みともいえるトンデモ設定は、コンテンツとしての大ヒットの前に、もはやだれもツッコまないものとなったと思う。
ガルパンにはまってしまった中年男性を“ガルパンおじさん”と呼ぶが、そこに含まれた揶揄の響きも作品が大当たりしすぎて、むしろポジティブな意味合いに変換されてしまった。彼らは胸をはって“ガルパンおじさん”を自称し、<#ガルパンはいいぞ>と勝者のようにつぶやいてきたのである。
ガルパンおじさんを中心としたファンたちの力は、現実すら変えた。ガルパンのおもな舞台は「茨城県大洗町」なのだが、ガルパンの大ヒット後、この町は“聖地巡礼”の大きな恩恵を受けたのだ(これについては後述)。
ともあれこのように、一見市民権を得たように思われがちなガルパンであるが、元を正せば「女の子×趣味的ジャンル」というテンプレから作られた、ピンキリあるオタク向けコンテンツのひとつにすぎなかった。ドギツイ表現だが、間違いのないことだろう。
ただ、その「バカバカしさ」は群を抜いていたといえる。
なにしろ“婦女子のたしなみ”である「戦車道」なる、剣道や柔道とおなじ「道」を極めるスポーツ競技がある世界で、女子高生たちが戦車に乗ってドンパチするというのだ。ふつうに考えれば死人が出るに決まっているが、戦車はよくわからない謎カーボン素材とやらにコーティングされていて、搭乗者はケガすらしない(という設定)。
これだけでも意味不明だが、トンデモ設定はさらに尽きない。たとえばこの世界では「高校」とはアメリカやロシアやイギリスといった国家を模した「学園艦」という空母のうえにあって、それぞれに戦車道チームがあることになっている。
なぜって?これはつまり、国ごとの戦車を描くためだけに導入された設定なのだ。ドイツ戦車(たとえばティーガー)VSアメリカ戦車(たとえばシャーマン)をやりたい、ってだけ(笑)。ちなみにこの作品に登場する学園艦は、いまのところすべて日本国籍みたい。だから、一応みんな日本人。
――初めて上記のようなガルパンの設定を耳にしたとき、ぼくは心の底から「悪い冗談だろう」と思ったものだ。
以前、同様の着想から生まれたコンテンツとして「ウマ娘 プリティーダービー」をご紹介したことがあるが、「ウマ娘」は競馬へのリスペクトは明白だったから、最初感じた抵抗感もすぐになくなった。とはいえそれも、競馬というドラマあってのことだ。
だがガルパンは、これとは“扱う題材の意味”がまるで違う。
題材、すなわち「パンツァー=panzer(独)戦車)」である。
戦車が殺人兵器である以上どんな解釈をしようと、その戦車が撒き散らした残酷で不条理な死を無視できるわけがない。一応戦車へのリスペクトはあるのだろうが、ミリオタが喜びそうなだけのウンチクの垂れ流しなどされた日にはたまらない。ましてや、それに美少女成分を足してごまかそうなどと、いくら相手がオタクだからって許されるのか?
……と、ぼくは思っていたのだ。だから、最初はちょっと距離をおいていた。
だが、ガルパンの制作陣は「死人の出ない戦車バトル」という、常人の理解を超えた設定をキャラクター描写とオタク的こだわりを偏執的に極めることで、力技で「エンタメ化」しきってしまった。このことについても後述する。
ともあれ結果としてぼくは、ガルパンというコンテンツがどうしようもなくおもしろいことを、認めるしかなかった。どハマリした。何度か大洗に行ってしまったくらいに。でもどこかちょっとだけ、割り切れない思いを抱えたまま。
そして――11年が経った。ガルパンが最初にTV放映(2012年)されてから、なんと長い時が過ぎたのだろう。いまや、こんなことを気にするひとも、もはやいない。
しかし今、劇場版公開をきっかけに、この心に刺さったちいさなトゲが、また痛みはじめてきた。そろそろこのトゲは抜いてしまうべきではないか。
そこで今回のお題は、そんなガルパンのスピンオフマンガ「ガールズアンドパンツァー リボンの武者」(野上武志・鈴木貴昭 KADOKAWA)にしたい。
このガルパンのスピンオフは、ぼくがガルパンについてモヤモヤしていたことを、いわば“極限化”した作品だった。おもしろさとはまた別に、この作品はガルパンについて、そしてマンガについて、ぼくに多くのことを考えさせるものだった。
このコラムでは、もちろんマンガ作品としての「リボンの武者」を中心にご紹介するが、ガルパンそのものについても触れさせていただきたい。
強烈タッグのスピンオフ
「リボンの武者」は、メディアファクトリーの月刊誌「コミックフラッパー」で2014~2021年連載・完結。コミックスは全16巻。連載期間7年というのは、この種のものとしてはかなり長いといえる。
ガルパンのコミカライズはとにかく多いので、すべてはあげられない。
ピックアップするとすれば、脇役に焦点をあてた「フェイズエリカ」(才谷屋龍一)と「プラウダ戦記」(吉田創)は、本編アニメの人気キャラクターを掘り下げる、まさに王道スピンオフである。
あと1番長く続いているものとして、ギャグ4コマ「もっとらぶらぶ作戦です!」(弐威マルコ 20巻連載中)は押さえておくべきか。
絶対外せないのは、劇場版のコミカライズ「劇場版Variante」(伊能高史 全8巻)というのがあって、これはちょっと本気ですごい。映画を観たひとは全員読んでほしい。
大枠のストーリーは映画どおりなのだが、映画で見えている部分を「表」とすれば、その「裏」あるいは「スキマ」で進行している出来事を、掘り下げて描いているのだ。映画を見た視聴者が「ああ、そんなことがあったから、あれはああだったのか」と表で起きた出来事を補完するように。
しかもそれがただのオタク的な妄想でなく、ちゃんと独立した創作としてのクオリティで描かれている。童貞オタクなら、こういうのを描いとけば(たとえば不必要な性的描写)喜ぶんでしょ、という“媚び”が一切ない。いわゆる「ディレクターズカット版」みたいになっている、とでもいえばいいのか。
これは劇場版のコミカライズという範疇を超えた、劇場版の「副読本」だとぼくは思っている。未読の方は騙されたと思って、ぜひ読んでいただきたい。杏が文科省に乗り込み、大学選抜との試合を取り付けたシーンなど、独立した番外編としてアニメにしてもいいくらいのドラマだ。
……で、こうしたさまざまな派生作品のひとつとして、「リボンの武者」がある。
作者・野上武志先生は、「セーラー服と重戦車」「紫電改のマキ」(いずれも秋田書店)といったミリタリー色の強いマンガを得意とされていて、「リボンの武者」もこの流れに属する作品といえるだろう。ガルパンにもオフィシャルで参加されている。
なお、最新作の趣味的リラクゼーションマンガ「はるかリセット」(秋田書店)で大きく芸風をかえて、ちょっと驚かされた。
ただ、これは読んでみればわかるが、じつに野上先生らしいマンガだった。要するに野上先生は、ジャンルに関わらず、“やりたいように徹底的にやりたい”方なんだろうと、ぼくは思った。
ちなみに、かつて野上先生と仕事をしたことのある編集さんに話を聞く機会があって、そのとき「こだわりがすごすぎて、止めても聞かない」と苦笑しておられたのを、今でも強烈に覚えている(もちろん賞賛の言葉だ)。なんかわかる。
ガルパン風にこれを表現しますと……「ここはやはり師匠の指導を拒否した、三冠王・落合だろう」「いうこときかない天才といえば、スラダンの三井(不良時代)じゃないか」「いや、MLBで我を貫いている藤浪晋太郎だな」「元千葉ロッテの西岡剛選手」「「「それだ!!!」」」
……すいません、歴史ミリネタ思いつきませんでした。
あと、ガルパンの考証・スーパーバイザーを務めた鈴木貴昭氏が、共著の立場で名を連ねておられる。
企画・原案的に関わっているようで、最終巻16巻には鈴木氏による初期段階のプロットが紹介されている。なるほど、着想自体は鈴木氏からの持ちかけだったんだなあ。
おそらく、やたらと掘り下げの深いミリネタや考察系の多くは、野上先生のみならず、鈴木氏の手腕によるものもあるだろう。
ぼくは正直、あまりそのあたりに詳しくないので、これらがどういう意味や価値をもつものか、正しくお伝えできないが、このマンガのリアリティ面を整えているという点で、効果的だと思う。
オリジナルでいこう
ではいよいよ、中身についてご紹介していきたい。
このマンガは、劇場版第一作のあと・最終章の前、つまりふたつの映画作品の間に起きた事件として描かれている。
(以後、劇場版一作目を「劇場版」、六章からなる中篇連作映画を「最終章」と呼ぶことにします。どちらも“劇場版”なので、わかりにくいから)
良質のスピンオフらしく、ちゃんと「劇場版」の内容からつながっているし、「最終章」につながる伏線もてんこ盛りで、ファンが読みたいツボを心得たマンガだ(BC自由学園の隊長がマリー様になった経緯など、なるほど、と思わされた)。
そういった既存のファンを喜ばせる「キャラクターもの」としての読みどころは、おそらくこのマンガの読者の大半が期待していたことだろうし、実際それは成功していると思う。もちろんぼくも、そういうところを楽しませていただいた。
だが今回は、あえて、そういうアプローチでのご紹介はしない。
というのもこのマンガの魅力は、そうしたスピンオフ的な快楽でなく、どちらかといえば「マンガオリジナル」な要素にこそあると思うからだ。そして、そのオリジナルなところが、ガルパンという作品への自己言及となっていて、その本質を結果として露わに示してしまっているところを、お伝えしたい。
そこで、このコラムでのご紹介は、主にそのオリジナルな要素について、あれこれ書いていこうと思う。
まずはキャラクターだ。
この「リボンの武者」というマンガは、まず「主人公の設定」を、まったく新たに作り出したところからして、普通のスピンオフとの違いを感じさせる。すなわち、タイトルの“リボンの武者”である主人公の女子高生・鶴姫しずか(つるき・-)である。
そのヴィジュアルは「大きな赤いリボン」が特徴だが、そういう外見より、その性格がとにかく個性的だ。
純和風……という言い方はキレイすぎるだろう。まさに「サムライ武者」であるかのごとき、言葉遣い、そしてその精神。
生首デザインの筆箱を使ったり、ものの例えに必ず戦国の史実を用いるなど、女子高生とは思えない戦国趣味をしている(徳蔵という使用人の影響)。
造り酒屋の一人娘で、高校では弓道部のエース。その美貌から「しずか姫」と呼ばれている。
じつにガルパンらしい、過剰な演出だ。
出典:ガールズ&パンツァー リボンの武者 ©野上武志/鈴木貴昭・KADOKAWA
ガルパンの登場キャラクターたちは、なんらかの「記号」を、味付け強めに強調したものがほとんどだ。
アメリカ人ならフレンドリー、イギリス人なら紅茶ばかり飲む、といった国籍由来の演出もあれば、部活動由来のキャラ付け(バレー部はバレー狂だったり、自動車部は高校生ではありえない整備技術を持っていたり)、委員会(風紀委員)のメンバーが異常に職務に忠実だったりする。
登場キャラの人数が多い割に、各キャラの描き分けは明確で、すべてのキャラにファンが付くような造形は、このガルパンというコンテンツが大ヒットした最大の理由だろう。
しかし、しずかはそうしたガルパンの「エンタメ貯金」、つまり既存の人気を用いず、完全にオリジナルに生み出されている。その存在感は、既存の人気キャラにまったく劣ることはない。これだけでもすごいことだと思う。
物語はそのしずかと、彼女のパートナーとなる松風鈴(まつかぜ・りん)が出会うことで、動きはじめる。
ここからは、物語のあらすじについてご紹介していこう。
「伝説」を超えて、その先へ
鈴は、ごく平凡な高校生だったが、大洗女子の戦車道全国大会優勝(つまりアニメでいうTVシリーズ)を見て、その輝きに魅せられてしまう。「なにか大きなことが起こっていた」。
出典:ガールズ&パンツァー リボンの武者 ©野上武志/鈴木貴昭・KADOKAWA
しかし、ふたりの通う「楯無高校」には、戦車道をする部活や団体がなかった。鈴はしずかに、一緒に戦車道しない?と誘うが、しずかは「“道”がつくものは好かぬ!」といって、戦車道をすることは拒否する。
そんなしずかだったが、放課後、鈴を待ち伏せて、戦車について語りはじめる。
「戦車は甘くない 輝くどころか 鉄の棺桶の中で――生きながらにして松明のように焼きつくされるかもしれぬ」。それでもなお突き進むなら、としずかは告げるのだった。「戦車はある」。
出典:ガールズ&パンツァー リボンの武者 ©野上武志/鈴木貴昭・KADOKAWA
しずかの家に、かつて戦車好きの叔母がいて、「九七式装甲車(通称・テケ車)」を残していってくれたというのだ。
そしてしずかは鈴に、高らかに宣言する。
「私たちがやるのは戦車道にあらず タンカスロン(戦車戦)なり――!」
「強襲戦車競技(タンカスロン)」。
それは、戦車道連盟非公式・非公認の、重量10トン以下の軽戦車・豆戦車のみ参加できる戦車道競技の1つである。
しずかの先祖が武田軍団の使番「百足衆」に連なる縁があり、テケ車にムカデの旗印が描かれていたため、「百足組=ムカデさんチーム」を自称することに決まる。
こうしてしずかと鈴は、チームを結成し、物語の序盤では、まずこのタンカスロンに挑戦していく。
このタンカスロン参加をきっかけに、しずかと鈴、そしてサポートメンバーのエンドーは、サンダース付属やアンツィオといった、アニメに登場する高校の戦車道チームが、タンカスロン向けに結成した新造チームと戦ったり、交流したりしながら、徐々にその名を上げていく。
なかでもタンカスロン最強の「ポンプル高校」、そしてその隊長ヤイカとは、ライバルとしてしのぎを削ることになる。
そして、ついに公式戦車道最強とされてきた「黒森峰女学院」が参戦し、選抜チーム・シュヴァルツヴァルト戦闘団と死闘を繰り広げる。しずかたちはかつて戦ったBC自由学園との混成チームで、激闘の末、それを打ち破る。「舐めてなどいない 仲間たちは みな散っていった」「全ては この一刺しのために」。
出典:ガールズ&パンツァー リボンの武者 ©野上武志/鈴木貴昭・KADOKAWA
物語の中盤(6巻~11巻)では、こうしたタンカスロンでの動きが、硬直した戦車道への風穴をあけるものだと直感した、名門「聖グロリアーナ高校」の隊長・ダージリンが、動き出す。
ダージリンは<大鍋(カルドロン)>と称する、戦車道の特別大会を提唱。
多くの賛同を集めて、カルドロンは開催され、ダージリンの思惑通り(そしてときには思惑を大きく超えて)、大会はたいへんな盛り上がりを見せ、多くの参加者にさまざまな思いを残して、幕を閉じた。
こうしてしずかと鈴は、テケ車で奮闘しながら、多くの戦いを経験していく。そしてふたりの戦いは、徐々にある「目的」にむけて、収束していく。
それはしずかが、鈴が、戦車道に身を投じた、そもそもの理由でもあった。
西住みほ。生ける伝説である彼女と戦うこと。
それは、大洗女子の戦いにあこがれた鈴には当然のことだが、しずかにはもっと別の理由があった。
「西住みほ……あのかたに 我が首を獲っていただきたい」。
恐怖、嫉妬、憧れが、しずかにそう言わせるが、鈴は激高する。そしてしずかも驚くようなことを言う。「西住みほ殿を――超える……?」「諦めなければ 勝ちなんです!――って あのひとはそう言った!」。鈴の叱咤に、しずかは心を立て直す。
そして、ついに大洗との「公式戦車道」での決戦が決まる。
ポンプル高校のヤイカを始め、多くの戦友たちが集い、混成チームとなって、伝説に挑むのであった。
その結末は、そして、しずかと鈴の戦車道はどうなっていくのか……?
ダー様はいつも正しい
以上、かなり最後は端折ったが、おおむねこんな感じのお話である。
とにかく情報量が異様に多いマンガなので、あらすじごときでその緊迫した戦車戦や、そのなかで放たれる乾坤一擲のセリフなど、ご紹介しきれないのが口惜しい。
物語としてのおもしろさは、まあ、マンガを読んでください(あっ、投げた)というしかない。
あえていえば、このマンガの“表面的”な読みどころは、「大げささ」にある。
とにかく、ケレン味がすごい。野上・鈴木両氏のミリタリーについての博覧強記ぶりが、ほぼすべての戦いで発揮されていて、なんかもう、いちいち「大げさ」なことになっていくのが、だんだん気持ちよくなってくる。
たとえば、こんな感じ。
出典:ガールズ&パンツァー リボンの武者 ©野上武志/鈴木貴昭・KADOKAWA
女子高生のセリフじゃないから(笑)。こうした過剰ともいえる演出は、それだけで楽しいので、読者としては、これだけでお腹いっぱい、というところだろう。
だが、ぼくがこのマンガをご紹介したいのは、そういう見た目の派手さではない。
そうではなく、「リボンの武者」が意図的に「公式戦車道」というこのガルパンという作品の、そもそもの設定自体を、いわば根底から疑うような視点を示しているからだ。
ただのキャラ萌えコンテンツとして消費されるだけのものなら、わざわざそんなめんどうなことをする必要もないだろう。
そこをあえて、自己言及的に描き、再構築してしまおうというのだから、これはただのスピンオフなどではありえない。作者のおふたり(野上先生・鈴木氏)の、ガルパンのオフィシャルスタッフであるという自信と自負もある気がする。
このことを、もっとも強く言語化しているのは、やはりダージリンであろう。
劇場版でも、全国の有力チームを動かして大洗女子を助ける大同盟を演出した、作中最強の策士として描かれ、また西住みほを二度破った作中唯一のキャラクターでもある彼女は、この「リボンの武者」でも特権的な立場として描かれている。
ダージリンは、公式戦車道の閉塞感を打破するため<大鍋>の仕掛け人となる。そしてそのCFO(最高財務責任者)に、BC自由学園の隊長・アスパラガスを指名する。
ダージリンはアスパラガスに、次のように言う。
出典:ガールズ&パンツァー リボンの武者 ©野上武志/鈴木貴昭・KADOKAWA
「とどのつまり、大人の事情という淀み」が、公式戦車道のありかたには、もはや無視できないレベルで蔓延している。作中キャラのセリフだが、これはガルパンの根本的な設定それ自体に対する疑念でもある。
そして、さらにダージリンは踏み込んでいく。
出典:ガールズ&パンツァー リボンの武者 ©野上武志/鈴木貴昭・KADOKAWA
「私たちは世界に伍していくのではなく――世界をここに持ってくるべきじゃないかしら」。おそろしいセリフだ。結局、内輪のルールの中で動いているあいだは、それが公式戦車道であれ、ぼくらのあらゆる日々の営為であれ、井の中の蛙大海を知らずだ、とダージリンは言うわけだ。
このセリフを言わせることができただけで、この「リボンの武者」というマンガは、ガルパンのスピンオフという水準すら超えてしまった、とぼくは思った。
リボンの<騎士>と<武者>
ところで、わざわざ書くのもヤボかもだが――「リボンの武者」という“タイトル”は、手塚治虫先生のマンガ「リボンの騎士」(1953~)の“タイトル”へのオマージュである(騎士→武者)。
このマンガ史に残る名作は、「男装」した女の子が活劇マンガの主役を張るという、発表当時としては<破壊的>な作品であった。
「リボンの騎士」の主人公・サファイアは、凛々しい男装キャラとして、剣をふるい、さまざまな悪役をなぎ倒していく。その痛快な姿は、少女たちの(そして後には、一部の男性の)あこがれとなった。それは単なる少女趣味、あるいは宝塚的な男装の麗人趣味という範囲にとどまらず、もっと大きなものをブッ壊したのだと、ぼくは思う。
このマンガが破壊したのは、恋愛脳か・さらわれるしか能のないヒロイン像であり、男性上位の家父長制であり、旧態然とした社会通念であり、日本という国独自の陰湿さや後進さであり、つまりは「くだらない過去」だ。「引き継ぐべき歴史」ではなく、ひとの可能性を狭めてきた因習。
読者たちが、サファイアの凛とした姿に見たのは、そうした過去を吹き飛ばす、わくわくするような「新時代」への予感であったはずだ。
タイトルを、この作品のオマージュにした時点で、「リボンの武者」がこれらの<破壊>を意識していないわけがない。
……とはいっても、直接的に内容を引き継いだり、影響を受けたりしているわけではないとも思う。ぼくの考えでは、主人公のヴィジュアルイメージに(つまりその巨大な赤いリボンに)引っ張られただけな気がする。
そもそも、ガルパンというコンテンツ自体、べつに男権的社会と戦うようなお話じゃない。「女性」であることがなにか不利であったり、逆にその意味を問うたりするような描写は、まったく、いっさい、ない。
単に想定されるユーザーがオタク男性だったから、キャラを美少女にしちゃえという、それ以上でも以下でもない、身も蓋もない理由でそうなっているんじゃなかろうか。
ガルパンというコンテンツは、「カワイイ女の子がマニアックな戦車に乗って戦う」ということだけを目的とした、別に深くもなんともない、いわば「正しく、浅い」エンタメコンテンツだ。そこは間違っちゃいけないと思う。
“後付け”上等
だが、「リボンの武者」という作品は、そうしたガルパンの意図した浅さ・短絡さに、わざわざ理屈をつけようとするマンガだ、といえる。
それはもう、絶対、最初からそんなことは考えてなかっただろう(笑)ことを、あたかも「じつは、最初からこういう設定・考えがあったんだよ」と言わんばかりに堂々と語る。
こうした<後付け>を、キャラの掘り下げ、などと言い換えることもできそうだが、それは違うだろう。大本の時点で決まっていた設定でないのなら、こじつけはこじつけ、後付けは後付け、それ以上でも以下でもないはずだ。
そりゃ反則だろう、と思うひとはいるかもしれない。
だが、ぼくはそうは思わない。
こうした後付けというやつは、ヒットしたタイトルにのみ許される、エクストラボーナスみたいなものだと思うからだ。
この<許された後付け>を、いちばんド派手にやってるのが天下の「ONEPIECE」だろう。世界一売れたから、覇気だって許されているにすぎない。そもそも、東の海がいちばん弱いって時点でおかしい。もし麦わらの一味の冒険がドレスローザの手前あたりから始まってたら、ワンピは七巻あたりで全滅して完結してた(笑)だろう。なぜ順番に強くなっていくのだ。つまりワンピは、もうなんでもありに近い。
そして、ガルパンも似たようなところがあると、ぼくは思う。大量のスピンオフは、そうして生まれたものだ。ヒットしたことで、<後付け>する特権を得た、ということだ。
そして、この<許された後付け>を“極大化”したのが、「リボンの武者」だ。
そうした後付けが、とくに如実であるのは、やはり「西住みほ」の(そして「大洗女子」の)描かれ方について、だろう。
みほは、なんかもうどこの魔王か、みたいな扱いだ。
出典:ガールズ&パンツァー リボンの武者 ©野上武志/鈴木貴昭・KADOKAWA
こうした「権威付け」は、オタクの専売特許といっていい。キャラ付け、記号化、言い方はなんでもいいが、ある人物をひとことで表現するような「表象」を与える手法は、ぼく個人としては苦手だが、こういうのが好きなひとがいるのは、わかる。
その延長線上にある、オタクの大好きな「二つ名」付けも、ちゃんとある。
出典:ガールズ&パンツァー リボンの武者 ©野上武志/鈴木貴昭・KADOKAWA
……とか、こーゆーやつ。ノリとしては「特攻の拓」と全く同じな気がするが(笑)、とにかくこれも典型的な<後付け>だろう。
あと、ぼくがここまでやるかーと思ったのは「ボコ」の解釈について、だ。
「ボコ」とは、ガルパン本編の主人公・西住みほが愛好している、まあいわゆる「ゆるキャラ」の一種だ。
全身傷だらけで包帯を巻いているクマの姿をしている。ケンカをしても、必ずボコボコにされて、必ず最後には負けてしまう、という、ちょっとこれが好きって時点で、かなり「病んで」いるとしか思えない。こうしたみほの性癖については、ガルパン本編が放映されていた時代には、みほ=サイコパス説すら飛び交っていたくらいだ。
このボコについて、「リボンの武者」では、新しい解釈を示している。
13巻。西住みほ攻略の糸口を探るべく、大洗の「ボコミュージアム」に乗り込んだしずかたち。みほ同様に、戦車道の名門流派を継ぐキャラにしてボコマニアである島田愛里寿が、案内役をつとめる。そしてひととおりミュージアムを堪能したあと、しずかは喝破する。
出典:ガールズ&パンツァー リボンの武者 ©野上武志/鈴木貴昭・KADOKAWA
みごとな<後付け>だ。
これは揶揄ではなく、本当にぼくは感心した。このボコの解釈ならば、サイコパスみほ、という短絡的なレッテルを、完全に払拭できる。それどころか、愛里寿は「負けることが許されない立場」である自分は、「だから私は“ボコになること”で救われるの」と言ってみせるのだ。みほもまた、その重圧と狂気を、このぬいぐるみで癒やしている――
この<後付け>は、みほや愛里寿のキャラクターを、巧みに再解釈していると思う。
「リボンの武者」というマンガは、よくもここまで<許された後付け>を徹底して描ききったものだ。しかもこの<後付け>は、ただのオタク向けサービスにとどまらず、戦車道、あるいはガルパン自体に、予想もつかない視点をあたえている。
その最も予想外の描写として、最後にひとつ、ご紹介したいシーンがある。
<大鍋>のバトルロイヤルの最終局面。
しずかやヤイカをはじめ、参加するすべての“戦車乗り”が、ひとつの思いで戦いにのぞむクライマックス。そこで「リボンの武者」というマンガが示す、ガルパンの再解釈の極点がここだ、とぼくは思う。
出典:ガールズ&パンツァー リボンの武者 ©野上武志/鈴木貴昭・KADOKAWA
この「単語」にいたる物語がどこにあるだろうか。「リボンの武者」というマンガは、戦車道というありもしないスポーツを、虚構的に極めきることで、こんな精神性までたどりついてしまった。ひとつの答えとして、ぼくは納得できました。
大洗はいいところです
ここで「リボンの武者」から少し離れるが、ガルパンの舞台「大洗」について、ちょっと補足しておきたい。
もともと大洗は、茨城の太平洋側では歴史ある観光の町で、海水浴場や水族館、「あんこう祭り」などの催事は多くの観光客を呼んでいた(年間560万人)。が、「ガルパン景気」の激しさは、よくも悪くもハデな数字となってあらわれた。
たとえば、2014年度764万円だった「ふるさと納税」が、返礼品にガルパングッズを加えたところ、2015年12月一ヶ月だけで、なんと1億6000万を超えたというのだ(約21倍!)。
また、「あんこう祭り」の来場者数も、ガルパンイベントとコラボして以降おそろしい勢いで増加して、当初3.5万人(東日本大震災の影響込)だったのが、初コラボの2012年に6万人と過去最高を更新。その後も増えつづけ、ついに14万人にもおよぶ大イベントとなった。
ただし、大洗の経済効果については、いささか加熱しすぎたきらいもあって、野村総研が冷静に分析したところでは「年間7.21億円(2014年)。NHK大河の舞台になった地域には数百億の経済効果があることに比べると、大洗のそれは限定的」とのこと。
まあ、真偽のほどはわからないが、ガルパン効果があったことは間違いないといっていいのだろう。
注意しておきたいのは、この経済効果はアニメの製作者たち、および大洗の人々の狙いではなかったということだ。
アニメのプロデューサーである杉山潔氏は、ガルパンをいわゆる“まちおこし”と紐付けることに否定的で、あるインタビューでこう語っている。
「このアニメで最初から町を巻き込むことはしない」「行政を巻き込むのは最後の最後にしよう」。非の打ち所のない、完璧な姿勢である。ぼくは心から尊敬する。
そもそも大洗は、もとから一級の観光地であって、別に“まちおこし”の必要もなかったわけで、メディアが騒ぐほどに、大洗の方々がガルパンに望みを託したり、それに救われたりしたわけではない。
ただ、もともと観光地、つまり「外からくる観光客に楽しんでもらうというホスピタリティー」が街全体の基調にあって、だからこそガルパンファンは大洗のもてなしに感動したし、その魅力にハマってしまったのだとはいえる。
この大洗の成功に、多くのアニメや地方自治体があやかろうとタイアップしまくったのは当然の流れだが、その良し悪しについて、ぼくはとくに意見はない。
ただ、杉山氏の発言が示唆するように、アニメは、あるいはエンタメコンテンツは、どこまでいっても「虚構」であるのだということ、そしてそれをリアルの社会につなげて考えることは、「結果」であって「目的」ではないのだということ。
あたり前のことだが、案外このことは、混同されてしまっているのだと思う。
そう考えると、ぼくがガルパンに対して当初感じていた懸念も、おおむね解消してしまった。虚構はどこまでも虚構だ。
しかし、ガルパンがそのコンテンツの生命力を失ったあとでも、大洗の海はそこにある。
そしてぼくはガルパンを観なければ、大洗の海を目にすることはなかった。そう理解していればいいのだろう、と。
おわりに
こんな格言を知ってる?
無駄を楽しんでいるならば、その時間は無駄ではない。
(ジョン・レノン)