第三十六冊『のび太の海底鬼岩城』~ときに人生はたった一粒の涙の問題~

現役の本屋の店員が好きなマンガについて本気で語る本連載。
大ヒットしているマンガから、知る人ぞ知るニッチなマンガまで、本屋ならではの視点で掘り下げます。マンガ好きの方はもちろん、新しいマンガに出会いたい方にもおすすめです。

▶️いままでの「本屋の本音のあのねのね」

煙のなかに3年

石の上にも3年、というが、このケムールのコラムなら「煙のなかにも3年」って感じだろうか。そんなに長い間いたら、燻製になってまうがな。

そんなスモーキーな薫りただようこのコラムも、とにかく今回で丸3年・36回目となる。

この3年、世の中には良くも悪くもいろいろなことがあった。トップニュースは、やはりコロナだろう。

ぼくは、自分の生きている間に、まさか本当にパンデミックを経験することになるとは思っていなかった。

じつは、ちょっと語弊があるかもしれないのだが、ぼくはこのコロナ禍がSF的イベントになるかもしれない可能性に、内心ドキドキしていた。

つまり、もうハッキリ言って、人類は西と東・北と南・人種と人種・金持ちと貧乏、なんでもいいが、とにかく救いようのないほどの分裂のなかにあって、もうこんな状況を打破できるとすれば人類規模の災厄か、宇宙人の来訪しかないと確信していたからだ。

終わりなく殺し合い憎み合う人類が、史上初めてできるだけみんなで生き残るために、一致団結するしかなくなる……そんな奇跡のような瞬間に、自分は立ち会えるのかもしれない……!と。

残念ながらそれは夢に終わった。結局コロナにそれほどのインパクトはなかったからだ。

せいぜいが、たいして意味のないマスクを盲信する信者たちが億の単位でわいただけだった。少なくとも日本はそうだったと感じる。

ワクチン開発にしたって、結局は製薬会社のビジネスチャンスでしかなかった。もしコロナが、エボラのような致死率八割とかなら、汎人類的な動きもあったのかもしれない。世界中の科学者たちが一丸となって、新薬開発に取り組むという、夢のような激アツ展開が。

しかし、そうはならなかった。

もちろん、現場レベルでは、敬意を払うべき共闘や悪戦苦闘があっただろう。そのことは疑いえない。それだけでも良しとしなければならないのかもしれない。

さて、そんなコロナもほとんど話題にのぼらなくなり、外国人観光客も堰を切ったように押し寄せ、なんとなく日常が戻ってきたような2024年は――やりきれないことに、正月から苦難の年となった。

正月だからといって、自然はなんの特別あつかいもしてくれない。そんな理屈は頭ではわかっている。

大自然の前には暦などなんの意味もなく、人間社会の都合などなんの意味もない。だけど……だけど、なあ。

よりにもよって正月だぞ?前日の夜、つまり大晦日に、NHKが紅白でヘンに若者に媚びて大爆死したザマを嘲笑しつつ、お雑煮に餅は何個入れるか悩んだり、そんなどうでもいいことを、平和に、凡庸に、ダラダラと考えたりする、それがニッポンの正月じゃないか。

そうでなければならないはずだ。なのに、なんだってあんなことになるんだ。

ぼくは、自分のコトバで、なにか役に立ったり、苦しんでいるひとを助けたりはできそうにない。自信がない。そうしたくても間違いそうでできない。

だから、とにかくマンガを選んでみた。

マンガが「なにかの役に立つ」などと、口が裂けてもぼくはいいたくない。

ただ、どうにもコトバにできない思いを、とりあえず今回ご紹介するマンガで伝えてみたいと思う。

今回のお題は「大長編ドラえもん のび太の海底鬼岩城」(藤子不二雄 小学館。以下「海底鬼岩城」)だ。

自分でも、どうしてこれを今回チョイスしたのか、うまく言語化できない。

ただ、なんかこれだと思った。

とにかくこのマンガはぼくにとって、おそらく死ぬまでぼくにずっと「正視に耐えないグロテスクで地獄のようなこの世界だが、それでも何かすばらしいものがあるんだ」と思わせてくれるマンガだ。

たぶん、このマンガを「楽しめる」のは、少なくとも自分に命の危険はなく、愛する者に特に不幸もない、そういう安全が担保されたステータスのときであるのだろう。

ファミリー向け映画の原作として描かれたマンガなのだから、それは当然だ。

ただし、そうでない人にこれをすすめて「元気になるぜ」とか「勇気づけられるだろう?」などとは死んでもいいたくない。

そんなクソみたいなことをいうくらいなら、ぼくはひとの不幸をコラムのネタにする人間のクズ呼ばわりされるほうがマシだ。だが、そういうことを心配はしていない。

このマンガを読めば、それはわかっていただけるものと信ずる。

とにかくこのマンガは、藤子不二雄先生というレジェンドが、おそらく最も脂の乗っていた、そのキャリアの最盛期に生み出した、物語のマスターピースだ。この苦難のときに、なにもできないぼくの罪悪感は、これをご紹介することで少しは晴れるかもしれない。

なお、ご紹介に先立って申し上げると、今回ばかりはネタバレ上等コラムになる。未読の方はできれば先にマンガをお読みになっていただければうれしいです。

あと、「ドラえもん」本編や他の「大長編ドラえもん」への言及も気持ち多めです。

ちなみに、「藤子不二雄」はいうまでもなく「藤本弘」先生と「安孫子素雄」先生のおふたりのユニットペンネームで、「ドラえもん」は藤本先生単独の作品だ。
いわゆる「藤子・F・不二雄」と表記されるほう、ということになる。

ゆえに「海底鬼岩城」および「大長編ドラえもん」各作品もまた藤本先生作品である。これも日本人には常識レベルのことだが、いちおう補足しておきたい。

表紙

老若男女だれにでも響くマンガ

国民的アイコンたる「ドラえもん」そのものについてのご説明は不要だと思う。登場人物紹介も、日本人にはやはり不要だろう。

ただ、今回ご紹介する「大長編ドラえもん」という“形式”については、ちょっとお話ししておきたい。

今回ご紹介する「海底鬼岩城」は、「ドラえもん」の劇場版アニメの原作マンガである。

「月刊コロコロコミック」に1982~83年に連載され、同年コミックスが出た(41年前!)。

劇場版アニメはマンガ連載が完結した翌月に公開。劇場版としては第四作目にあたる。

「ドラえもん」本編はマンガ連載が1969年開始で、最初のアニメ化(=第一作)が1973年。

これは一度打ち切られるが、1979年に再アニメ化(=第二作・第一期)する。これが一般的にイメージされる、いわゆる国民的アニメとしての「ドラえもん」だといっていい(たとえばドラえもんの声優が、大山のぶ代さんバージョン、という意味で)。

その後キャストや作画を2005年に刷新し(=第二作・第二期)、今に至っている。

マンガ「ドラえもん」は、はじめのうちは「小学一年生」のような学習誌に掲載されていた。

その後小学館は、少年向け雑誌の主力ブランド「コロコロコミック」を1977年に創刊し、「ドラえもん」はこのコロコロの看板マンガとなっていく。

上記の第二作・第一期アニメ化もこうした人気を受けてのものだ。もちろんアニメも大ヒット。

日本がまだ「お茶の間+テレビ=一家団欒」という、美しい中流階級幻想に酔いしれていられた時代に、アニメ「ドラえもん」はもっとも欠かせないピースのひとつとなった。

パパママが、子どもと安心していっしょに見られるアニメで、しかもごくシンプルに「おもしろい」のだから、ヒットしないわけがない。

こうして、我が国を代表する一大コンテンツ化していった「ドラえもん」だが、「大長編ドラえもん」もこうした大ヒットの流れのなかで持ち上がった話であった。

最初の「大長編」は1979年の「のび太の恐竜」。リアルタイムのコミックス派ならご存知だろうが、この長編は元々ふつうの連載話に原作となる回がある。

ただ藤本先生は自身を「短編マンガ家」と規定しており、長編を描くことに難色を示していたそうだ。ちょっと信じられないなあ。

だが結果として「大長編ドラえもん」は見事な完成度であり、映画もメガヒット。

配給会社である東宝のドル箱シリーズとなり、もはや日本の毎年の風物詩化すらするまでになった。

日本の子どもたちの情操教育において、ドラえもんの、とくに大長編ドラえもん・その映画化作品の果たす影響は、計り知れないくらい大きいといわざるをえない。

ただ、そのことをもって「ドラえもん」あるいは大長編ドラえもんが、“子ども向け”だというのは、短絡的だろう。

「ドラえもん」はもうすこしエイジレスというか、人間であれば、年令を問わず「大事にしている」ようなものごとの本質を描いているのだと、ぼくは思っている。

大長編ドラえもんは、それが連載版に比べてより主題化している、つまり強めに描かれているのだといえる。

わずか200ページの「大長編」

おもしろいことに、大長編シリーズで最初にコミックスになったのは、この四作目の「海底鬼岩城」だったりする。

リアルタイムの読者であったぼくにとっては「一冊まるまるだって、すげー」という衝撃があった。

なにせ連載版の「ドラえもん」は、一話あたり10ページそこそこ、長めでも30ページ弱くらいの長さの短編マンガであるから、扉絵込み207ページのこの「海底鬼岩城」は、まさに“大長編”と銘打つに足るボリュームに思われたわけだ。

さて、令和のこの時代、みなさんはどれくらいの長さなら“大長編”というにふさわしいとお考えになるだろうか?

マンガに限定しても、数十巻を軽く超える長編マンガは無数にある。だからきっと、大長編というと、そういった山盛りコミックスを想像するかたが多いのではないか。

「こち亀」は……まあ、大長編というのとは違うと思うが、ストーリーマンガに絞っても、「ワンピ」や「キングダム」などはまあまあ“大長編”っぽいだろう。

だが、ドラえもんの“大長編”は、普段の長さに比べれば、そりゃたしかに長いが、つまるところコミックス一冊ぶんにすぎない、200ページあまりの長さだ。若いかたなどにしたら“大長編”と銘打つのは「盛り過ぎ」に思われるかもしれない……。

大丈夫、そんなことはありません。

このコラムを書くのに、もちろんぼくは読み返したのだが、素直に「ああ、長いお話だなあ」と思った。思い出補正抜きで、そう感じた。

これはちょっと、掘り下げてみていいことに思われる。

つまり、「物理的な長さ」と「物語的な長さ」は違うということについてだ。

このマンガが刊行された1983年当時と、今の間には、41年のへだたりがある。そのあいだマンガ技法も大きく変わった(発展した、とはいわない)。

この「海底鬼岩城」を読んでいて改めて思ったのだが、その刊行当時と現代のマンガでいちばん“ちがう”のは、おそらく「リズム」「コマの大きさ(使い方)」だろうと思う。

そしてなにより、そうした技法上のちがいが生み出す「フックのかかる頻度」がなにより“ちがう”。

まず「リズム」、これは「テンポ」といいかえてもいいが、基本的に早い。というか、ムダがない。とにかく密度が異常に高い。

現代のマンガで「海底鬼岩城」なみに早いテンポのマンガはまず見かけない。

たとえば、なんてことのない、このシーン。

3コマ

出典:のび太の海底鬼岩城 ©藤子不二雄・小学館

のび太が深海の魅力を熱く語り、それにしずかが乗り気になり、母親にキャンプにいく許可をもらい、翌日出発しようという話になる、というこのシーンは、わずか「3コマ」で描かれるのだ!

これを、6コマや7コマで描くくらいならだれにでもできようが、3コマというのは異様である。

つまりここで用いられているのは、「省略」の技術だ。

足すより引くほうが何倍も難しいというのは、マンガや小説を書いたことのあるかたなら、おわかりいただけよう。

読者に作者が伝えたいことを伝えようとするために、説明をいくらでもしたくなるにもか

かわらず、それを大鉈を振るって切り捨てられるマンガ家は、現代にはほとんどいないようにすら思える。

このペースで物語が進むのだから、207ページという長さは、その物理的な量が示すより、そのコマのあいだに省略され、折りたたまれた、膨大な行間ならぬコマ間の情報をあわせて考えると、はるかに長いものであることが伺い知れるだろう。

「海底鬼岩城」は、その看板に偽りなく「大長編」である。

200ページの“大長編”。それは超一級のストーリーテラーである藤子先生の、ユーモアと自信にあふれた、見事な風呂敷の広げ方である。

言い換えれば、読み手をワクワクさせようとする茶目っ気まじりのテクニックなのだ。

断じて懐古主義ではない

「大長編ドラえもん」から、今回は「海底鬼岩城」をピックアップしたわけだが、じつは候補にちょっと迷った。

他の候補はというと、第五作「のび太の小宇宙戦争(リトル・スターウォーズ)」と、第六作のび太の魔界大冒険」だ。

とにかく、甲乙つけがたい。ハナ差で「海底鬼岩城」にしたが、「小宇宙戦争」「魔界大冒険」いずれも超のつく、掛け値なしの傑作である。

正直、次のキリ番で順に取り上げたいくらいだ。押し付けがましく“傑作だ”などと断言するのは、ぼくがいちばんキライなことなのだが、さすがにこのマンガについてだけは、そんな遠慮はむしろ無礼であろうと思う。これにダメ出しできる人間なんて、この世にいるのか?

ぼくは知らなかったのだが、なにやら大長編ドラえもんは、第一作から七作までの“初期作”を、別格あつかいすることがあるのだとか。

へえー、まあそういうレッテル貼りは、あんまり興味はないが、ただ確かに大長編ドラえもんは八作目以降は精彩を欠くとは思っていた。

以下、初期の傑作を列挙すると(のび太の~は省略)「恐竜」「宇宙開拓史」「大魔境」「海底鬼岩城」「魔界大冒険」「鉄人兵団」「竜の騎士」までの7作品。

ドラえもんについての著書のある稲田豊史氏の表現を借りれば「神7」。人によって多少の違いはあるかもしれないが、大長編ドラえもんの初期作が圧倒的な良作で、回を重ねた近年のものはちょっとパワーダウンしているという見方は、比較的流布した感想のようだ。

まあさすがに、毎年毎年、大長編ドラえもんを描かねばならないのだから、ネタ切れというか、ちょっと息切れしてしまうのはやむをえないだろう。

逆にいえば、7回も別の切り口で、稀有な作品を連発しまくった藤本先生が化け物なんである。

ぼく個人としては、べつにランク分けはどうでもよくて、ただ「海底鬼岩城」を含む初期作の完成度の高さは明らかで、どうしてこんなおもしろいマンガが藤本先生は描けたんだろうなあ、という尊敬の念だけがある。

思うに、どんな偉大なマンガ家であっても、心技体すべてがそろったピークのタイミングというのはあるのだろう。

マンガだけどオーディオコメンタリー

蛇足ばかりが長くなってしまったがさっそく「海底鬼岩城」のお話を紹介していきたい。

ただ、この作品について、いつもの調子であらすじをご紹介するのは、なんだかもったいない気がする。なので、もう思いつくままに、なにか口を挟みたいときは、突然あらすじを一時停止させたりします。また、できればマンガを先に読んでから、もう一度見直す“オーディオコメンタリー”みたいなものとして、ご覧いただければ幸いです。

さっそく、スタート。

――財宝を積んだ船が大西洋・バミューダ海域で発見され世間を騒がせていた、それはそんな夏休みのこと――

どこかへキャンプに行こうとする、のび太たち。だが、さっそく山と海でもめる。

そこでドラえもんは、そのどちらも満たせる場所、すなわち「深海」に行こうと提案する。

うるさあい

出典:のび太の海底鬼岩城 ©藤子不二雄・小学館

だが、イマイチみんなの反応はにぶい。深海は暗い、水圧でペシャンコになる、などなど文句たらたらである。

なので、ドラえもんはひとりででかけてしまおうとする。海底・海中を自由に走れる「水中バギー」に乗って、下見に行こう、というのだ。どこでもドアで海に向かって走り出すドラえもん、それに思わず飛び乗る、のび太。車は海へまっすぐ突入していき、もちろんのび太は溺れてしまう。「あきれたね。だまってのるなんて」「人間が準備もなしに 海底にいけるもんか」。もっともである。

そこで、どんな環境にも適応できるひみつ道具「テキオー灯」の登場。これのおかげで、地上にいるのと同じように過ごせるようになったのび太(ドラえもんはロボットだから元から平気)。

ドラえもんの運転するバギーは、大陸だなを越え、深海底にいたり、日本海溝を飛び越え、そしてその先には、圧巻の山脈がそびえたっていた。

海底山脈

出典:のび太の海底鬼岩城 ©藤子不二雄・小学館

……と、ここで、あらすじ一時停止。

このシーンは、このマンガで唯一「見開き」で描かれている場面だ。

「海」のなかの「山」。ドラえもんの謎掛けに対する答えが、ここで明かされるのだ。

さて、その迫力を描くのに、藤本先生はここでめったに使わない技法を選んだ。

大長編ドラえもんでも、ある例外(後述)をのぞき、見開きシーンはほとんどない。「宇宙開拓史」に2回、「大魔境」にいたっては例外をのぞけばゼロ。

めったにないからこそ、読者はその雄大さ・規模を、レアリティの高い経験として、つまりおどろきをもって受け取れるわけだ。この計算しつくされた、完璧な演出の妙!

しかも、まだここまでで、たった16ページしか使ってない……!流れるような展開でここまで進んで、そしてこの不意打ちのような見開きで、ぼくら読者は暴力的なくらい強い力で、ありふれた日常世界を離れ、深さ4000メートルの深海に、ぐいっと引き込まれてしまう――

あらためて藤本先生(藤子不二雄)という稀代のマンガ家の、超一流の技術を思い知らされたというほかない。派手なドンパチも、大げさな絵も、なにも必要ない。安直な止め絵や大コマに頼りがちな令和のマンガ家たちは、マジで、藤子不二雄全集から学ぶべきだと、ぼくは本気で思う。

あらすじリスタート。

……圧倒的な深海の景色に、のび太はすっかり虜になる。ただちに、しずか・ジャイアン・スネ夫にもその魅力を伝え、全員が深海キャンプに賛成する。

太平洋で、海底キャンプを楽しむ一行。「テントアパート」なる簡易住居をベースキャンプとし、ドラえもんのさまざまなひみつ道具のおかげで、プランクトンを加工した豪華な食事や、海底なのにキャンプファイヤーなど、にぎやかなキャンプの夜はふけていく。
だが、じつはジャイアンとスネ夫は、ニュースになっていた財宝船をなんとか見つけようと考えていた。

みんなが寝静まった夜に、かってにバギーに乗り込むふたり。

ものすごい速度で大西洋をめざすのだが、じつはテキオー灯の効果は「24時間」しか持続しない。つまり、それを知らずに、ジャイアンとスネ夫は出発してしまったのだ。

それに気がついたドラえもんたちだが、先行するバギーに追いつく見込みはなく、このままではジャイアンとスネ夫が死んでしまう。なにか手段はないかと焦っても、ついに万策尽きてしまう。

あと十五分
人間ナンテ

出典:のび太の海底鬼岩城 ©藤子不二雄・小学館

……あらすじ、一時停止。

ぼくにかぎらないが、この「海底鬼岩城」というマンガに、ある種のトラウマを覚えるひとがいるらしい。

それはこのマンガが、深海のおそろしさを、かなり生々しく描いているからだ。

とくにこのシーンなど、ジャイアンとスネ夫が窒息死(寸前)になっていて、子供心にマジで恐怖した。

飛び出していったふたりに、「3時間」遅れて出発したドラえもんたちは、速度の問題から、もう追いつくすべがない、とわかってしまっているという設定も、とにかくおそろしい。

これはSF小説で、もはや計算上助かる道がない、という「冷たい方程式」と呼ばれる見地である(同名の傑作SF短編に由来する)。

こうした、ひとの思いなどなんの意味もない、物理法則や計算結果が、この世界をじつは支配し動かしているのだという、冷酷(という感じ方すら、人間のエゴでしかない)な描き方は、いちおう小学生をターゲットとする「ドラえもん」という作品としては、かなり衝撃的だったといえる。

藤子不二雄というマンガ家は、さまざまなマンガを描いているが、ご本人あるいは一般的にも、「SFマンガ」を得意とするSF作家だ、と認知されている。じっさいそうだと思う。藤子マンガは、あきらかに、深いSF知識と、SF的認識にもとづいて作られている。

SFを「すこし・ふしぎ」と読み替えて、より敷居の低いジャンルとして再提唱したのは、他ならぬ藤本先生であったが、それも根底に、確固たるSF的認識があってのことで、べつに「ぬるい」SFに逃げたわけでもなんでもない。

むしろ逆で、藤子不二雄、とくに藤本先生はシビアなSF観を生涯保持していた。そうでなければ、「海底鬼岩城」でこうした描写をするわけがないのだ。

……あらすじリスタート。

もう絶命しているであろうふたりを、それでも追いかけたドラえもんたちは、なんと、五体満足で生きているふたりを発見。

なぜふたりが助かったのかは不明だが、だれかがテキオー灯をあててくれたとしか思えず、このことは謎のままであった。だが、とにかくふたりが助かったことをよろこぶ一行。

ただ、そうと知っていながらジャイアンとスネ夫を乗せたバギーを、みなが責め立てる。しかし、しずかだけがバギーをかばう。「機械にいいこと悪いことを区別する力なんかないわ。命令されたから走っただけじゃないの」

マリアナ海溝

出典:のび太の海底鬼岩城 ©藤子不二雄・小学館

気を取り直して、海底あそびを再開する一行。次は知られているかぎりでは地球でもっとも深いとされる「マリアナ海溝」へ。11,034メートルのフリーフォール!

ついに底へたどりつく。一行はめいめい散策するのだが、なんとそこに巨大な中世の巨大船が座礁しているのを発見する。これはニュースになっている、バミューダ諸島沖で発見された財宝を積んだ沈没船ではないのか……?

沈没船

出典:のび太の海底鬼岩城 ©藤子不二雄・小学館

船内を捜索したドラえもんたち。おなじみ「ほん訳コンニャク」で航海日誌を読んでみると、たしかにこの船は、くだんの沈没船と思われた。これはどういうことか?大西洋で見つかった船が、なぜ南太平洋のマリアナ海溝にあるのだ?

……怖くて船外にひとり残っていたのび太。みんなが帰ってこないので不安になっていたところ、突如、「巨大な黒い魚」があらわれて、船に攻撃をしかけてくる。熱線のビームのようなものを発射してきて、のび太はほうほうの体で逃げ回る。

船外のさわぎを知らずに船内調査をしていた残りの一行がもどってきたので、のび太は巨大魚におそわれたと騒ぎ立てるが、だれも信じようとしない。

とにかく一度ベースキャンプに戻ることにし、三日の予定だったこの深海キャンプの最後の夜をむかえる。

しかし、寝ようとしていたしずかのところに、バギーが訪問してくる。

「シズカサン ジャイアンタチヲ 助ケタ人、シリタイトイイマシタネ」「ボクシッテイルノデス」。

なんと、バギーはいわゆる“ドライブレコーダー”を装備していて、一部始終を録画していたというのである!

その録画映像には、魚のような乗り物に乗った、人間と同じ姿をしたものが映っており、ジャイアンとスネ夫にテキオー灯をあてて助け、その直後、(のび太の見た)黒い巨大魚――かれらは「バトルフィッシュ」と呼んでいた――に襲われ、逃げ去ったところまでが記録されていた。

……ここで、また、あらすじ一時停止。

さて、なぜここで止めたかというと、熱心なドラえもんファンにはよく知られた話なのだが、この「海底鬼岩城」という名作の、おそらく唯一といっていい瑕瑾、設定上の矛盾があるのが、このシーンだからである。

それはなにかというと……「なぜ、海底人がテキオー灯を持っているのか?」。

本編でも9ページに、このテキオー灯は「二十二世紀最新の科学技術がうんだ」とはっきり書かれている。

また、バギーの翻訳ではあるが、海底人たちが「死にかけているみたいだぞ とにかくテキオー灯を」と、同名の道具名称を使っている。これはあきらかにおかしいといえる。

まあ、この点についてのぼくの見解はハッキリしていて、「海底文明で並行進化した別の科学技術によって、テキオー灯と同種の機能をもった道具を、海底人が開発していた。名前が同じなのは、たんなる翻訳上の“異訳”だ」というもの。

というか、こう解釈しておけば、特に問題はないでしょ、ということだ。こういうところに、いちいちケチをつける読み方は、ホント、軽蔑します。

矛盾のない物語しかみとめられない、という読み方自体が、拙速にすぎるとぼくは思う。

……あらすじリスタート。

なんと「海底人」がいた、という事実に驚愕する一行。そしてその海底人には「敵」がいるのだ、ということ。

そのとき、以前から周囲にちらほら姿を見せていた(と、のび太が主張し、当然のように無視されてきたのだが)巨大イカが、一行におそいかかってくる。

テントに逃げ込む一行だが、イカの怪力にテントがもちそうにない。ついにテントが破れ、またたく間に危機におちいる一行。

そのとき、どこからともなく一閃の光が放たれ、イカはのびてしまう。

助けてくれたのは、なんと例の海底人であった。

お礼を言おうとしたドラえもんたちだが、電光で気絶させられてしまう。

――気がついたのび太、ドラえもん、しずかはどこともしれぬ一室に横たえられていた。そして、かれらを救い、そして気絶させた海底人・エルがやってきた。「きずつけるつもりはなかった。ビームのパワーを最小にしぼってうったんだ」「わかってほしい、きみたちがどんな人物かわからなかったからね」。ちなみにジャイアンとスネ夫は、精神鑑定の結果、「凶暴性とウソつき性がでたので、地下ろうにとじこめてある」とのこと(笑)。

話によると、ここは海底国家「ムー連邦」の首都で、マリアナ海溝の底にあるのだという。

あれこれと質問攻めにするドラえもんたちは、あの沈没船はなんなのか、と問う。エルは答える。「ただの沈没船なんだけどね。沈んでた場所が悪かった」。

悪かった

出典:のび太の海底鬼岩城 ©藤子不二雄・小学館

ムー連邦首相の前にひきたてられた3人。「ようこそといいたいところだが、はっきりいってきみたちはまねかれざる客なのだ」。そして、市民権は与えるが、二度とここを出てはならない、と告げる。国境を超えたら死刑だ、とも。

軟禁される3人。だが、もちろん黙ってはいない。おなじみ「通りぬけフープ」で部屋を脱出し、ジャイアンたちも助けると、ただちに首都から脱走する。

すぐに追っ手がかかるが、そこでドラえもんが深海キャンプ初日からずっとかぶっていた「カメレオンぼうし」の出番となる。

カメレオンぼうし
カメレオンぼうし2

出典:のび太の海底鬼岩城 ©藤子不二雄・小学館

このひみつ道具によって、地表の下を気づかれずに歩けるのだ。難なく国境を超えることに成功する。だが、このぼうしは垂直には歩けないので、海溝の壁までで行き止まり、そこで一行は追っ手があきらめるまでガマン比べと決め込む。

しかし、追ってきたエルたちの背後に、例のバトルフィッシュが迫っているのに気づく。不意打ちで攻撃され、エルの乗る機体は撃沈。そしてとどめを刺しに旋回してくるバトルフィッシュに――ジャイアンが飛び出していく!

……一瞬だけ、あらすじ一時停止。

ちなみに、大長編ドラえもんで、仲間の危機に、男気をみせてジャイアンが無謀な戦いに赴く、というのはお約束である。

どんな長いマンガよりも、「ほんとうの勇気」とはなにかを教えてくれる、劇中屈指の名シーンばかりだ。

とくに「大魔境」のジャイアンは、かっこよさが振り切れている。ぜひこちらも読んでいただきたい。

……あらすじリスタート。

もちろんジャイアンでは勝てないので、ドラえもんがスモールライトでバトルフィッシュを小さくし、あっという間につかまえてしまう。

命を助けられたエルは、その行為に感極まるのだが、しかし別の追っ手によって、ドラえもん一行は、再度囚われてしまうことになる。

被告不在の欠席裁判がひらかれ、エルはドラえもんたちの無罪を訴える。

バカバカバカ
ぼくははずかしい
カビのはえた法律

出典:のび太の海底鬼岩城 ©藤子不二雄・小学館

結局、裁判では死刑が宣告されてしまうことになる。

そのとき、緊急事態をさけぶ兵士が法廷にとびこんでくる。バミューダ沖を監視していた巡視船が、ぼろぼろになって帰還したのだ。操縦者は必死に報告する。

「鬼岩城が活動を始めました!」

どうやら海底火山が爆発し、それをキャッチした鬼岩城が、敵襲とみとめ、7000年ぶりに臨戦態勢に入った、というのだ。

世界の破滅

出典:のび太の海底鬼岩城 ©藤子不二雄・小学館

しかも、ここ2、3日のうちに大西洋で大規模な海底火山の噴火がみこまれ、それを攻撃とみなした鬼岩城が、おそるべきミサイル兵器「鬼角弾」を世界中に降り注ぐことになる。

もはや、それをとめる手段はない。過去、鬼岩城の奥深くにひそむ、鬼角弾を制御している「ポセイドン」を倒すため、多くの勇士が鬼岩城に潜入を試みたが、むなしく死んでいった。

神に祈るしか、もうできることはない……そうあきらめた首相に、エルが告げた。

「もう一つ道があります」「鬼岩城に潜入する方法が、たった一つあるのです」「ただしそれには、ふしぎなぼうしをもつドラえもんたちの力をかりねばなりません」と。

エルは、あざやかに首都を脱出してみせた「カメレオンぼうし」を使えば、鬼岩城までは敵に気づかれず接近できる、と考えたのだ。

首相はそれを受け入れ、ドラえもんたちに頭を下げて頼み込む。「きみたちのもっているふしぎな道具の力を、かしてもらいたい」「世界を救うために」。

こうして、ドラえもん一行と同行するエルを乗せて、バギーは一路、南アメリカまわりで、鬼岩城のある大西洋はバミューダ海域を目指して走り出す。

道行きエルは、この事態の全容を説明する。

――太平洋に栄えたムーと、大西洋に栄えたアトランティスというふたつの海底国家は、かつて激しく争った。そして、アトランティスは鬼角弾でムーを脅した。バミューダ海域をバリアで囲み、その外の世界が放射能に汚染されても、バリア内は無事になるようにしたのだ。だが皮肉にも、バリアの内で核実験が失敗し、バリア内のアトランティスだけが滅び去った。

しかし、国が滅びても、鬼角弾はそのまま残っていた。「きみたち自動報復システムってしってる? 敵から攻撃をうけたとき すぐにしかえしをするしかけなんだ。ポセイドンはそのためのコンピューターなんだよ」。

そして、ついにバギーはそのバリアの目前にたどりつく。

バリアが地表地下まで伸びていたら事だったが、幸いバリアは地表だけで、「カメレオンぼうし」で地下からバリア内に潜入することに成功する。

ここから鬼岩城を探さないとならないのだが、あてもなく、困り果ててしまう一行。

ふと、巡回する敵のロボット兵士・鉄騎隊の行く先に、鬼岩城があるはずだと気づくのだが、こんなこわいところは走りたくないと駄々をこねるバギーは、ドラえもんのポケットに逃げ込んでしまう。

しかたなく、タケコプターで進む一行。しかしタケコプターは連続運転するとバッテリーがあがってしまうのだ。すぐに速力が落ち、鉄騎隊を追いきれなくなってしまう。

――そこでしずかが、ハイリスクな提案をする。「神殿をみつける確かな方法があるわ。わざと一人つかまるの」。

喧々囂々の議論の末、女の子ということで相手も油断するだろうと、しずかが自ら、捕まることに決まる。

策はうまくいき、つかまったしずかを追った一行は、ついに鬼岩城にたどりつく。

鬼岩城

出典:のび太の海底鬼岩城 ©藤子不二雄・小学館

さまざまな攻撃用のひみつ道具(大長編ドラえもんの決戦ではたいてい出てくる、スモールライト、ショックガン、空気砲ならぬ水圧砲、ヒラリマント)を装備し、一行は鬼岩城に突入する。

激しい戦闘が繰り広げられるが、徐々にドラえもんたちは不利になり、追い詰められ、散り散りバラバラになっていく。

ポセイドン

出典:のび太の海底鬼岩城 ©藤子不二雄・小学館

ポセイドンの前に引き立てられたしずかは、モニターごしにその苦戦を見る。

ひとり、またひとりと倒され、とらわれていく仲間たち。

そしてポセイドンが告げる。「時はきた!わが前にいけにえを!その娘の首をはねよ!」。

……と、そこへかろうじてここにたどり着いたドラえもんがあらわれる。

爆弾を手に、よろめき歩くドラえもん。「まて……、ポセイドン……」「この爆弾で……おまえを……」。しかし、力尽き、倒れてしまう。

駆け寄るしずか。

「もう おしまいね……、みんなで力をあわせてここまできたのに」「おしまいなのね なにもかも……」

しずかの涙がこぼれ、ドラえもんのポケットに落ちる。

――ナイテルノ?シズカサン。

ふと、声がする。

それは、ドラえもんのポケットに逃げ隠れていた、バギーの声だった。

ナカナイデ、ボク、シズカサンノタメナラナンデモスル。

そして、バギーは――

ちょっと主題歌のこと

……これが「海底鬼岩城」のあらすじである。ラストだけはどうしても書けない。

ネタバレ上等とか宣言しておいてヒヨッたのか?と思われそうだが、そういうことではない。

それはコトバで書いていいような場面ではない、と思ったからだ。

ここは、アラフィフ目前になって読んでも、熱いものがこみあげてくる。

「海底鬼岩城」というマンガを、あるいは大長編ドラえもんを読むと、どうしても「冒険」「仲間」「友情」といった、この年になると、もはや口にすることすらはばかられる単語が、浮かんできてしかたない。

武田鉄矢ふうにいうなら「がらくただらけの心のなかの ほんの隅っこから ひょっこり顔を出してきそう」になる。っぽいでしょ?

大長編ドラえもんといえば、武田鉄矢だ。つまり、かれが作詞する・あるいはみずから歌う主題歌は、大長編ドラえもんの映画に、ちょっとありえないくらいに、ハマった。

「海底鬼岩城」の場合は、主題歌『海はぼくらと』の作詞が武田鉄矢、歌が岩渕まことさん。

これもいい歌だが、おそらく最高傑作は「小宇宙戦争」の『少年期』だろう。

大長編ドラえもんに限定せず、日本のアニソン史上、ヘタすれば三指に入りかねない名曲中の名曲だ。

とにかく、大長編ドラえもんには、武田鉄矢の歌が欠かせないわけだが、もちろんマンガだと、それは関係ない……と思いきや、そんなことはない。

大長編ドラえもんには、原則として、この主題歌を背景に流した見開きページの描き下ろしがあるのだ。

すでに述べたように、大長編ドラえもんにはめったに見開きページは描かれないのだが、例外があって、それがこの「主題歌ページ」というわけだ。

「海底鬼岩城」にはない(ぼくのてんとう虫コミックス版だとない。全集とかにはあるらしい)から、例として「大魔境」をあげる。曲は『だからみんなで』。画像だとちょっとみにくいかな。読めない方は、歌詞を調べてみてください。

だからみんなで

出典:のび太の海底鬼岩城 ©藤子不二雄・小学館

武田鉄矢の歌詞が、やはりすばらしいというしかない。

おわりに

このマンガのテーマをふと考えたとき、たとえば、鬼角弾=核ミサイルと読み、冷戦下の軍拡競争のさまと、ムーとアトランティスの対立を、対応させるひとは多いだろうと思う。

もちろん、ぼくも最初はそう思っていた。そして、それが間違いだとは思わない。

そういう、核の恐怖は、間違いなくこのマンガが描かれた80年代にはあったし、それがマンガ上の虚構でもなんでもなく、現実的な問題であって、おおまじめに取り組むべき人類的な課題であることも否定しない。

藤本先生のことだ、そういった社会性をひそかにこのマンガに忍ばせていたとしてもおかしくないし、「海底鬼岩城」という作品はそうしたテーマをあからさまに表現せずに、ちゃんと虚構の物語として描ききっているので、いやらしい教条主義的な印象もまったくない。

だが、時が経ち、いまこのマンガをあらためて読んで――ぼくはすこし、考え方を変えている。

結局、「海底鬼岩城」でもっとも心をうたれたのは、どこなのか。

ぼくがこのマンガから受け取った、いちばん大切なものは、なんだったのか。

藤本先生はこのマンガに、なにを込めたのか。

そう考えたとき、ぼくは、3つのことが思い浮かんだ。

まず、深海という、人類にとってもまだ多くの未知を残したフロンティアに対する、純粋な興味と恐怖。雄大な山脈の描写と、テキオー灯なしでは生きていられない描写で、それは強烈な印象となってやまない。

次に、国家の体面や、古臭い法律を守ることと、純粋な勇気や善意が相反するとき、個人はどう考えるのか。

それは法廷に立ったエルが、ドラえもんたちのことをかばい、こう叫んだところに集約されている。

「そんなうけとり方しかできないんですか……。危機におちいっている者を、見殺しにできないという人間らしい心をそんなふうに……」「同じ海底人として、ぼくははずかしい!」。

そして最後は、バギーだ。かれが最後にとった行動は、大した理由じゃない。ただ「しずかを苦しめるものを許せない」。

いわばそれだけだった。ひとが必死になにかをしようとするとき、動機が問題になることもあるだろう。

だが、たとえばときには「女の子の涙を止めたい」。これ以上の理由が必要でないときがあるのだ。

この3つを思うとき、ぼくはこのマンガを、なんの毒性もない、真水のようにピュアで無害なファミリー向けエンタメ作品だ、とは思えない。もちろん、毒の効いた、インテリ向けサブカル作品でもない。

カテゴリ分けなどどうでもいいが、ただ言いたいのは安全なときは安全なりに、絶望しているときは絶望なりに、このマンガは読めるということだ。

それはおそらく、この作品が、どこまでも、マンガに対して、そして人間に対して、誠実に描かれているからだ。

つまり、歓喜の頂点から、絶望のどん底まで、ひとは時として、さまざまな状況におかれる。

そのあらゆるシチュエーションにおいて、ひとを突き動かすものは、今も、昔も、そしておそらくこれから先も、そんなに変わりはしないんだろう、ということだ。

それがなにか、コトバにはせずとも、このマンガは教えてくれるように思う。

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