現役の本屋の店員が好きなマンガについて本気で語る本連載。
大ヒットしているマンガから、知る人ぞ知るニッチなマンガまで、本屋ならではの視点で掘り下げます。マンガ好きの方はもちろん、新しいマンガに出会いたい方にもおすすめです。
運命的な本と出会える場所
年もあらたまったので、ひとつ「書店の未来」について、考えてみた。
……と、もったいぶって書いてみたが、ぼくは実のところ、このことを毎日毎日、スキあらば考えているから、べつに特別感はない。
自分の仕事・自分の店の存続に関わることだから当然なのだが、まさか書店がなくなるかも、なんてことを考える日が来るとは思わなかった。
書店が恐ろしい勢いで減少している理由は簡単だ。
それは楽だったり、安かったり、とにかく「書店で買うより、コスパ・タイパがいい、別の手段」があらわれたからだ。
それはAmazonに代表される通販であり、電子書籍である。こんなことは、ぼくごときが偉そうにいうほどのことでもない。
他にも、発行される本自体の「質的変化」に遠因があるかもしれない。また、日本に限れば少子高齢化がそれらを助長しているかもしれない。
つまり“ネガティブ”な条件はいくらでも出てくる。こじつければ、無限といっていいくらいに。
じゃあ、例えば原因がかなり限界まで突き詰められたとして、その原因を解決・克服して、書店をその最大数を誇った1990年代後半(売上高だと1996年あたりがピークといわれている)の水準に戻そう、という話になるだろうか?
――まあ、多分ならないだろう。戻すべき積極的な理由があるならともかく、自然淘汰された結果であるなら、ムリに時計の針を逆回しにすることもないだろう、とぼく個人は思う。
生物学でいうところの「自然選択説」とか「最適化モデル」とかでいうなら、リアル書店は今、まっとうに淘汰されつつあるだけなのだ。
書店の減少を嘆く者の言うことは、ほぼ同じである。いわく、書店という「場」は、本との思いがけない出会いを作る、通販や電子書籍の購入では得られない「購入体験」が得られる場だから、なくしてはならないのだ、と。まったく異論はない。
だが、ぼくは「本屋の棚は偶然の出会いがあってステキだ」というひとに、「そう言っていただけてうれしいです。
ところでこの一ヶ月、リアル書店でいくら使い、Amazonで本限定でいくら使ったか、教えていただけますか」と聞いたことがある。
書店で千円ちょっと、Amazonで2万(しかもほぼKindle)という答えだった。
チャップリンの喜劇みたいだ、と思った。皮肉な笑いしか、浮かばなかった。
つまりおそらくもう、リアル書店の命脈は尽きようとしている。ぼくは、そのことを微塵も否定しない。
んー、いや、ちょっと語弊があるかなあ。正しくは尽きようとしているのは「これまでのようなリアル書店のありかた」であって、書店が本当にニホンオオカミみたいに絶滅してしまうことは、たぶんない気がする。
書店の生きる道は、ごく普通にあると思う。別になにかとてつもない逆転満塁ホームランがなければ存続できない、とかいうこともない。たぶん、それは間違いない。
なぜ、そう根拠なく思えるのかと考えてみるに、それはリアルな書店に、あまりに美しい思い出があるからだ、と思う。
書店が苦境にある、そんな話を聞くたびに、ぼくは自分の最も幸福だった書店での思い出を、いくつもの運命的な本との出会いを、思い出すようにしている。
その出会いがあったことで、ぼくはリアル書店を、その存在意義を、これまでも、これからも、微塵も疑うことはない。
電書が、Amazonが便利だろうが、安かろうが、知ったことではない。リアルな本屋で、一生を決めてしまうような本に出会うという経験。
その感動に勝ることなどありえない、と、ぼくはけっこう胸を張って言い切れる。……のかな?
まあ、それが言い過ぎにしても、人生の一大事件クラスの出会いを、本屋で経験したことは確かだ。
ところで、じゃあ、それはどんな出会いだったんですか?と聞かれたら、マンガに限定してみると、ぼくには「三回」そういう出会いがありましたと答えている。
そのうちの一回は、本コラム既出の「風の谷のナウシカ」。もうひとつは今後のネタ用なのでないしょ。そして最後の一回が、今回ご紹介するマンガである。
それは、樹なつみ先生の「OZ」(白泉社)という作品だ。
日本を代表するSFの賞である「星雲賞」を受賞(第24回コミック部門)している、SFマンガの傑作。
紋切りに説明すればこういう感じだろうが、そんなレッテルはクソほどどうでもいい。
ただ、ぼくは書店でこのマンガに出会ったときの衝撃を、生涯忘れることはないし、いまリアルな書店にこだわっているのもその記憶があるからだ。
じつはこの話は、人生で初めて他人に披露する。べつに隠していたわけじゃないが、わざわざいうのもヤボかなあ、と思っていまして。
ただ、新年一発目に自分のルーツを辿ってみるのも悪くない気がしたのだ。
さて、このマンガは、今でも書店の未来を明るく照らしてくれるのだろうか?
若きレジェンドのやらかし
当時高校生だったぼくは、行きつけの書店の棚でこのマンガを見つけた。
いや、見つけた――などという、生やさしいものじゃなかった。それは、薄暗いその書店の棚で、もはや“異形”だった。
当然最初は本の「背」しか見えなかったが、なんの本だかわからなかった。マンガだと思わなかった、思えなかったわけだ。だって、こんな背なんですよ。
マンガといえばジャンプコミックスしかしらない少年にとって、これは理解の範疇を完全に超えていた。
あまりにカッコよすぎて、ぼくは激しく動揺した。
これはなんなんだ、本当にマンガなのか?こんなカッコいいデザインのマンガがあるはずがない――田舎の高校生をノックダウンする程度に、それはとんがっていた。
つまり、ぼくはまず「OZ」の、「装丁デザイン」にヤラれたわけだ。
だってだって、目次からしてこれですよ。
出典:OZ ©樹なつみ・白泉社
今にして思えば、むべなるかな、であった。
なぜなら、このマンガの装丁デザインは、今や我が国を代表するブックデザイナーである祖父江慎(そぶえ・しん)氏であるからだ。
この名を、装丁デザインに携わる者で知らない者はいないだろう。
仕事として本に関わることになってから、ぼくはこのレジェンドのことを知り、深くリスペクトしているのだが、長じて「OZ」のデザインが祖父江氏だったと知ったときは、それはもう驚いた。そして、深く納得した。
かつ、自らの“見る目”に誇りを感じた。ぼくの感性は正常に機能し、正しく一流を感じ取れた、ということだからだ。
祖父江氏と樹なつみ先生は、一歳違いのほぼ同年である。
つまり単行本「OZ」は、ふたりがまだ若かりしとき(29、30歳)に手がけた作品ということになる。
とくに祖父江氏は、独立して会社を作った年=「OZ」1巻刊行だから、意気込みも違ったのではないか。
……っていうかもう、やりたい放題、って感じ(笑)。このマンガ、SFですけど、いちおう少女マンガ枠だと思うのですが、少女に向けたデザイン……?じゃないですよね、これ。
だれも止めなかったんだろうか?当時のご担当者さんは、首を賭けていたに違いない。
それくらい、若き祖父江氏の才気ほとばしりまくりな、この「OZ」のデザインには、ぼくの人生を変えた責任(罪?)がある。
「OZ」というマンガを紹介するうえで、デザインの力というのは無視できないと思う。
これぞマルチなメディア
樹なつみというマンガ家を、ぼくはこの「OZ」で知った。
今や還暦をこえた(!)先生の、初期の代表作といえるのが、このマンガだ。
「OZ」は1988年11月の「ララ増刊AUTMNCLUB」でchapter.Iが雑誌初掲載。その後、増刊ララ・ダッシュを経て、最終章chapter.Xはララ本誌(1992年6月号)に掲載されて完結した。一回の掲載は必ずchapter一章をまるまる掲載していて、つまり都合4年にわたって、十回掲載されたということだ。
コミックスは、全4巻。90年に1巻が発売し、最終4巻が発売されたのは、92年の9月(ぼくが高校2年生のときだ)。ジェッツコミックスのワイド版(A5サイズ)だ。祖父江デザインはこれ。
なお、21世紀に入ってから「完全収録版」というのも出た。かなり背景が書き加えられているのと、トーンワークに手が入っている(人物はそんなにいじってない)。
なお、こっちは判型がB6と、小さくなっている(デザインも変わっている)が、旧ワイド版未収録のサイドストーリーが入っている。これだけのために買ったぜ。
ちくしょー。ただ、これのおかげで、今なお「OZ」を新刊で入手することができる。すばらしいことだ。
さらに「OZ」はアニメ化もしている。
正確には、90年代に流行した「OVA」、つまりオリジナルビデオアニメという形式だ。
テレビでの放映枠を獲得するほどのコストはかけられないが、アニメ化はしたい、というマンガや小説にとって、OVAというメディア形式はまさに福音だった。
アニメ化のハードルがだいぶ下がった現代では、ちょっとニュアンスを理解してもらえないかもですね。
「OZ」のアニメは、かなりアレンジされている。さすがにOVA二話(70分)で作れる物語じゃないので、正直ちょっともったいないかなー。
今の技術で、二クールで、再アニメ化したら、と何度も妄想したものだ。
ついでにいうと、このマンガはラジオドラマ、そしてなんと舞台にもなった。マルチに展開しまくりだ。
ぼくの勝手なイメージなのだが、特に舞台という形式は、女子ウケする題材なら、けっこう節操なく取り込むイメージ(失礼!)がする。
舞台「OZ」もそのへん心得ていて、ちゃんと女子向けになっている。
なにしろ、作中ではかわいい女の子であるキャラを、“かわいい男性”が演じているらしい!ああ、超・観てみたかった。お、男の娘、ってやつか(キモい)。
樹なつみというジャンル
さて、作者・樹なつみ(いつき・-)先生だが、2023年現在では、もう大ベテランといってよいと思う。
きっと熱心なファンも多いだろうし、うかつなことは書けない。ぼくはこの「OZ」から、樹なつみ作品を読むようになったから、実は、新参者なのである。優しくしてほしい。
おそらく、古参ファンなら、まず「マルチェロ物語」(1982-85)や「朱鷺色三角」(1985-87)を上げるところだろう。
「OZ」と同時期に連載していた「花咲ける青少年」(1990-94)は、超王道少女マンガで、同じ作者とは思えなかったが、さすがにおもしろかった。
ただ、「OZ」に匹敵するとまで感じたものはなかった。
……などと思っていたら、まさか、けっこうすぐに「OZ」を超えたかも、というマンガを描いてしまうのが、樹なつみというマンガ家のこわいところだ。
それが「獣王星」(1994-2004)。樹なつみ作品では、ぼく的最高傑作は「OZ」かこれで迷うところです。
ラスト以外は、最高のSFマンガです。未読の方のために詳しくいえないけどサードはあれがベスト、でもティズはなー。
樹作品をあえて図式的に整理するとすれば、「大スケールのSF」ラインと、「狭い特殊コミュニティでの物語」ラインのふたつがある。
前者が「OZ」「獣王星」で、後者が「朱鷺色三角」「花咲ける青少年」、そして樹作品最大のヒット作「八雲立つ」シリーズだ、といっていいだろう。
いずれも少女マンガ誌やレーベルで発表しているから、もちろん主な読者である少女のニーズに、しっかり応える要素はある。
圧倒的なイケメンや、感情移入しやすい少女キャラなどだ。ただ、描くドラマは、ぎょっとするくらいシビアである。
「OZ」にしても、デザインの次に衝撃を受けたのは、そうした少女マンガの枠組みを逸脱しているとしか思えない硬派な物語構成であった。
はじめぼくは、樹なつみ先生を少女マンガ家だ、と考えていた。だが、「OZ」を読み、ほかの作品に手を広げて、正直混乱した。
で、もうこれはジャンル樹なつみ、って感じだな、と思うようになった。
あと触れておきたいのが、OZの副読本である「OZマニュアル」(1994)というのがある。この「OZマニュアル」は画集サイズの大判だ。
おそらくアニメ化したことでヴィジュアルブック的な企画が出たのだろう。
ただし、アニメの記載は少なめで、キャラクター紹介がメイン。あとは、やたらと細かい作品世界の背景設定が詰まっている。
「産業と技術」とか「文化・風俗」とか。これ、ぼくにはとてもおもしろかったけど、メインターゲットの少女たちは、つまんなーいとかいってたんじゃなかろうか(笑)。
こういうところでも「OZ」は、ぼくが当時考えていた<少女マンガのイメージ>とは、かけ離れていた。
「OZ」を少女マンガのカテゴリに無理に押し込めるべきではないと思うが、発表誌を踏まえれば、少女マンガとみなされるのはごく自然なことだといっていいはずだ。
そうした読み手の自然な期待を、「OZ」はいい意味で裏切ってくれる。
少女マンガと人類滅亡
ところで、少女マンガというカテゴリは、SFを含めた多様なジャンルを、貪欲に取り込んで成立してきた。
古典的なところでいえば、萩尾望都先生の「11人いる!」「百億の昼と千億の夜」、竹宮恵子先生の「地球へ…」のように、いわゆる「花の24年組」の作家たちは、少女マンガ的な手法・絵を駆使しながら、マンガ史に残るSF大作を発表した。
ポスト24年組といわれる佐藤史生先生も「夢見る惑星」「ワンゼロ」など、やはり少女マンガ的なアプローチをもちいたSFマンガの傑作を描いておられる。
少女マンガというカテゴリが、花しょった、キラキラおめ目の女の子の恋愛マンガ、などというイメージではまったく捉えきれないことは、7~80年代の時点でもはや明白だ。
というより、そうした「偏見」を隠れ蓑に、暴れまくっていたのが、こうした少女マンガ家たちであり、マンガというものがどれだけ<自由>であっていいのか、を実作で示し続けたのが彼女たちであった。
「OZ」も、こうした系譜に連なる作品とみていいだろう。
オールドスタイルな少女マンガを期待して読んだら、度肝を抜かされるに違いない。
だって、「OZ」の序章であるchapter.Iが終わって、さあ本編だっていうchapter.IIの最初のページって、これですよ。
出典:OZ ©樹なつみ・白泉社
どこの「北斗の拳」ですか(笑)。
……と、笑っている場合ではない。こうした「世界滅亡後」系の物語はおそらく、戦後固有の物語形式であり、ある種の時代精神を示しているからだ。
人類滅亡の可能性というヴィジョンは、第二次世界大戦の五千万を超える死者によって準備され、米ソ冷戦時代の「人類を滅ぼせる量の核保有」で完成したといっていい。
核戦争(それに類する戦争)が人類を一度ほぼ壊滅させ、生きのびた人々があたらしい秩序を打ち立てた世界。
みなさまご存知のとおり、こういう設定には枚挙にいとまがない。「199X年、世界は核の炎に包まれた!」ってやつだ。とにかく、人類は、いったん滅亡しないといかんらしい(笑)。
もちろん、ここにいかなる政治的な意図もないことはあきらかだ。ただ、「OZ」の描かれた8~90年代に、それは“なんちゃって”人類滅亡でなく、リアリティのあるイメージだったとはいえる。
おもしろいのは、ちょうど「OZ」が発表されていたころに、米ソ冷戦が終わり、世界情勢が大きく変わっていったことだ。「完全収録版」のあとがきで、樹なつみ先生も「90年代に入ってから想像が現実に追いつかない」と述懐しておられる。
かの007も、冷戦が終わって仕事が減ったとか冗談をいわれるが、「OZ」世界もこの点で“パラレルワールド”になった、と同あとがきにある。マンガ的想像力と、現実との、終わりなき追いかけっこみたいだ。物語世界内でつじつまが合ってさえいれば、気にする必要のないことではあるが、ちょっとおもしろい。
そんなところで、今ではパラレルになった「OZ」の本編について、ご紹介していこう。序章のchapter.Iだけ詳細に、あとは駆け足でいきます。
OZの都をめざして
「1990年10月15日 たった一発の誤爆によって わずか40分間の第三次世界大戦がひきおこされた その40分間で世界は壊滅状態に陥る」「生き永らえたのは 全人口の40%にしかすぎなかった」
そして、この崩壊した世界に、まことしやかに囁かれる噂があった。
大戦前に、ひとつの頭脳集団が巨大シェルター「OZ」を建造した、というのだ。それは飢えも戦いもない、最先端の科学都市だ、と。
そして大戦から、31年後――
この崩壊した世界は、いくつかの勢力に再編され、あいも変わらず戦争に明け暮れている。
武藤徉(むとう・よう。通称ムトーもしくはヨウ)は、傭兵として、そうした戦場で生き抜いてきた。
弱冠22歳にしてランクAの傭兵であり、大手であるヤンセン傭兵部隊の事実上のナンバー2という強面のキャリアだが、見た目が高校生みたいな童顔で、よく誤解される。だが、彼を知るものからすれば、決して侮ってはならない危険な男であった。
出典:OZ ©樹なつみ・白泉社
旧アメリカ合衆国は、6つの勢力に分断していたが、ムトーはそのうちのひとつ「サンレイト連邦共和国(旧カンザス州)」のサバナ基地と軍曹待遇で契約していた。
そんなある日、ムトーは命令を受ける。それは、財界の大物エプスタイン家の娘・フィリシアの案内役であった。
15歳にして生体工学の天才といわれ、父がサンレイト首相補佐官ということもあり、VIP待遇である。
フィリシアは行方不明になった兄・リオンを探しており、その手がかりを得て、サバナまでやってきたのだった。
その手がかりをもつと思われる叔父がいる地区は、私兵部隊のなわばりで、入るにはムトーのような、顔の効く案内役が必要とされたからだ。
出典:OZ ©樹なつみ・白泉社
ところが、その叔父は不審な死をとげていた。フィリシアに書きかけの手紙を残して。
いわく、リオンとは連絡をとっていた、もし彼と会いたいならここで待て。「そして OZへ――」というところで手紙はとぎれていた。
そのとき、近くに飛行機が墜落する。
かけつけたムトーたちは、その残骸のなかに、ガラスケースに入った、おそろしく美しい「ひと」を見つける。
フィリシアはそれが人間でなく、高度な技術でつくられた人造人間であると見抜く。
ありえないほど高度すぎる技術――これは「OZ」のものではないのか?
出典:OZ ©樹なつみ・白泉社
いったんこの人造人間は、サバナ基地に回収される。ところが、完全に動きを止めていた人造人間が、動き出す(光子アキュミレーターで部屋の光から蓄電した)。動き出した人造人間は、基地の人間を惨殺し、逃走。
さらに追撃する軍すらも壊滅させ、ムトーも格闘戦で追い詰められる。しかし、フィリシアの静止に、人造人間が反応する。「声門確認。フィリシア・エプスタイン」。
この人造人間は「19(テン・ナインティーン)」と名乗り、OZへの案内役だという。19はリオンのメッセージを録音していた。リオンは、フィリシアにOZへ来るようにいう。
(その外見に、フィリシアはおどろく。兄リオンに、いや、母パメラにあまりに酷似していたからだ。リオンはOZの科学力で、非業の死をとげたパメラを蘇らせたのか……)
フィリシアは、迷わずOZを目指すことを決めた。
そして、護衛としてムトーに付いてきてほしいと懇願する。「おれはあと一ヶ月で契約が切れて自由になるはずだったんだ……」。
どうしてそんな選択をしたのか、ムトーにもよくわからなかった――いや、理由はひとつで十分だった。
出典:OZ ©樹なつみ・白泉社
ここまでが序章であるchapter.Iとなる。この調子で十章やってたらキリがないので、以下急ぎます。
……19に導かれて、OZへの道をゆく一行。次に彼らの前に現れたのは、19の後継バージョンである、より進化した人造人間1021だった。
しかし、19はそこで自らが欠陥品であり、いずれ狂ってしまうため、廃棄処分されると告げられる。
それを拒んだ19は、1021を破壊してしまう。19はOZの場所を把握しており、おのれの不完全なプログラムを直してもらおうと宣言する。
出典:OZ ©樹なつみ・白泉社
ユカタン半島、旧グァテマラにある、マヤ文明の遺跡「ティカル」。OZはそこにあるという。貨物輸送機に便乗して、空路南を目指す一行。
ところが事故で輸送機が墜落の危機に瀕してしまう。錯乱するフィリシアをなだめるため、キスするムトー。フィリシアはムトーへの想いを自覚する。脱出する19とフィリシア。
出典:OZ ©樹なつみ・白泉社
ひとり機に残ったムトーは、墜落寸前に追手に救出される。追跡部隊を指揮していたのは、かつての部下オーティス・ネイト。そしてそれを率いていたのは、フィリシアの姉であるヴィアンカ・エプスタインであった。
囚われの身となったムトーは、結局19に救出される。
しかし、19の様子は明らかにおかしかった。19の人工知能は、フィリシアたちの母親である、パメラのすべてをコピーしたものだというのだ。
ムトーらが最初にあった19は、それをおさえるための表層プログラムに過ぎないのだ、と。
パメラは徐々に19を支配しようとしていた。その性格は残忍にして冷酷な殺人鬼であった。
19への罪悪感を覚えながらも、いずれパメラに支配されてしまう19を放置できず、ムトーは爆薬で19を瓦礫の下敷きにしてしまう。
いっぽうフィリシアのもとには、新たな案内役1024(テン・トゥエンティーフォー)がやってきた。中性的であった19と異なり、24は完全な女性体であった。
ムトーと再会したフィリシアであったが、ムトーは拷問のケガで意識がない。
そこへ24の案内で、OZからの迎えが来てしまう。フィリシアだけを連れていくという。フィリシアは必死の思いで、24にムトーを助けるよう命令する。
残されたムトーと24は、追跡してきたヴィアンカとネイトに捕捉される。そこはちょうどネイトの旧知である、ゴールディ開放戦線のリーダー・スカイルズのなわばりであり、彼らはスカイルズのもとに、いったん身を寄せる。
基地では、ムトーにべた惚れしちゃったヴィアンカが看病し、ついでにネイトは24と男女の仲になってしまう。いやーん。
出典:OZ ©樹なつみ・白泉社
だが、その基地が爆発を回避していた19に襲撃される。19はパメラ化していた。
応戦するムトーはパメラに殺されかけるが、かろうじて19の意識がもどる。
出典:OZ ©樹なつみ・白泉社
結局、スカイルズの協力で、ムトーとネイト、24はティカルのOZに向かうことになる。
そんなムトーに、フィリシアの父親にしてパメラの夫、そしてサンレイトの首相補佐官であるルパートが接触してくる。
ルパートは、OZの成り立ちや世界核戦争の原因を知る人物でもあった。そして、OZが科学の都などではなく、新兵器開発の軍事基地であること。
OZを支配しているのがリオンで、その圧倒的な科学力で世界に残った核兵器をいつでも爆破できること。
リオンは世界の戦争を操り、おもちゃのように世界をコントロールしようとしていること……
そして、ムトーに「リオン暗殺」を依頼してくる。
こうして、さまざまな思惑が交錯するなか、ムトーたちはOZに出発するのだった。
そして一行は、ティカルのはずれ、ジャングルのさなかに、ついにOZを見ることになる。
出典:OZ ©樹なつみ・白泉社
――というところまでで、chapter.VIIの途中まで。ここからOZ内部での、リオンとの駆け引きと死闘がはじまるのだが、とりあえずOZに到着してキリがいいので、あらすじ紹介はここまで。
残り三章かけて描かれるのは、なんだと思われるだろうか。リオンとの戦いでしょ、というのは間違いじゃないのだが、本当はちょっと違う。
じつは、「OZ」というマンガの“読みどころ”は、OZの悪い魔法使いリオンを倒す、勧善懲悪なお話ではない、とぼくは思っている。では、なんなのか。
ネタバレにならないようにいうと、この「OZ」というマンガは、おそらく「ムトーと19」の物語なのである。
パメラ化の進行する19は、それでも19としての「自我」を守ろうとする。そして、19のAIが異常をきたすのは、常にムトーのコトバが引き金となっていた。
19にとって、ムトーは己の存在そのものを生み出す、かけがえのないパートナーなのだ。
フィリシアの愛は、最終的にムトーを救うのだが(まあ、これは言っていいでしょ)、19もまた、それが愛なのかどうかは定かではないが、とにかく何か己を突き動かすもの――それを<感情>と断ずるのは短絡的だ――によって、ムトーの命を救うことになる。
そして、その行動はもしかすると、機械と人間の隔たりを超えたのかもしれない。そう思わせるエンディングなのである。(フィリシア、ヴィアンカ、そして19。ムトーくん、モテモテである)
「OZ」は、表面的には間違いなくSFマンガなのだが、やはり“少女マンガ魂”が強いマンガではある。
機械は恋することができるのか?やっぱりそこにフォーカスするんだなあ。
今、現代社会はAIで沸騰気味なわけだが、AIが失わせてしまう仕事だったり、AIの作り出した絵が品評会で一位になってしまって騒然となったり、つまりは「ひとの領域」に、AIがどう関わっていくかが問題となっている。
ぼく個人は、生物と機械の違いにそれほど悩むことはない。
脳で起きている物理作用が、意識のみなもとであることは、まあ自明のことだと思うし、究極的にいえば生物とて、機械と同様の意味において存在していることに変わりはないと思うからだ。だから、なにを「なす」か、だけが問題だ。
19の最後の行動は、ひとを動揺させるかもしれないが、ムトーにとっては、どんな「告白」よりも胸をつくものであったと、ぼくは思う。
たった二文字の魔法
「OZ」は、世界的な幻想文学「オズの魔法使い」(1900年)をモチーフとしている――というのは、タイトルを見れば誰にだってわかる。
ただし、読んでみるとわかるが、実際にはそこまでいうほど内容上のつながりは強くはない。まあ、そう読めなくもないかな、くらいだ。
たとえば、「オズの魔法使い」には、主人公ドロシーの冒険の旅に同行する従者的な存在がいる。
藁のカカシ、ブリキの木こり、臆病なライオン、である(仮に三従者としておこう)。
三従者にはそれぞれ、なにがあっても手に入れたいものがある。カカシは「脳」、ブリキの木こりは「心」、臆病なライオンは「勇気」である。
当然、「OZ」のキャラ設定でも、これらは引用されてくる――と思うところだろう。
実際、樹なつみ先生の構想としては、いちおう三従者に相当するキャラクターを描こうとはしたらしい(完全収録版1巻・あとがきより)。
フィリシアはもちろんドロシーだとして、ムトーがライオン、19がブリキの木こり、ってな配役だったとか。
だが、カカシ役がいない。最初の設定ではいたらしいが、ストーリーの都合上、削除したそうな。
ちなみに、そのカカシ役だったキャラのサブストーリーが、完全収録版二巻に入っている。
そして、読めば明らかだが、別に「OZ」のキャラクター設定は「オズの魔法使い」と照応するようにはなっていない。
結局、樹先生は、最初はなんとなくそれもアリかな、とは思ったものの、ムリに合わせることを断念したわけだ。
つまり、要するにこの「OZ」を読む上で、「オズの魔法使い」について知っておく必要は、まったくない。ムリヤリ、内容を結びつけて考えることもない。
「OZ」が「オズの魔法使い」を引用しているのは、いわば「オズの魔法使い」という西欧ファンタジーの普遍的なイメージの部分だけだ。
すなわちそれは、少女の躍動する物語であり、苦難を乗り越える旅であり、人生における警句に満ちた寓話であり、すなわち「オシャレで、洗練され、スマートな、汎用性の高いファンタジー」ということだ。
われら日本人には、「オズの魔法使い」とは、そういうものとして受容されていることは、おおむね間違いではないだろう。
じつは「オズの魔法使い」自体は、けっこうドロドロした逸話も多い小説ではある。また読み方によっては政治的アレゴリーに満ちた小説だ、という解釈もある。オズという名称も、金の単位オンスの略号(OZ)からきている、という説すらある。
ただ、われら日本人にとって、「オズの魔法使い」という“おとぎ話”には、どこか西欧的ファンタジーの理想というか、そういうものがたっぷり表現されているものだ、という先入観があるように思う。
初めてぼくが「オズの魔法使い」を読んだのは、幼稚園生のとき。母親が世界文学全集の子ども用を読んでくれたのが、最初。
それはもう、興奮したものだ。エメラルドの都のトリックなど、子供心に「マジかよ、超すげえ」と思った。
そして、オズ、という響きも、幼かったぼくには、どこか魔術的というか、異国的というか、不思議な感じがするものだった。
オ・ズ。
ああ、二文字だ……口にしてみると、なんてステキなんだろう……いや、べつにタイトルが短いからいい、ってわけじゃないですよ。
……いや、そうでもないか。やっぱり、この短さは重要だ。
マンガ「OZ」のタイトルは、潔いくらい短い。ぼくが撃沈した装丁デザインの凄みも、アルファベットのOとZだけを用いた、削ぎ落とすところのもう見つからないほどのシンプルさにこそ宿っている。そしてこのタイトルは、ぼくの好きなマンガでもっとも文字数の少ないタイトルだ。
だが、たった二文字なのに「異世界に転生した最弱の俺が実は最強でハーレム三昧 ~追放された勇者パーティーに戻ってくれと頼まれても余裕で断る~」というタイトルより、なんて豊かな情報を伝えているんだろう、と思う。
オズ、という、たった二音の魔法の呪文は、あの日、16歳のぼくの魂に刻まれて、いまなお響いている。
おわりに
「OZ」に出会った書店も、今はもうない。だが、失われるものすべてが、ムダなものではない。ぼくにとっての「OZ」のように、ぼくの本屋でも、だれかがそんな出会いをしていてほしいと思う。
ミュージカル映画「オズの魔法使」(1939年)で、ドロシー役のジュディー・ガーランドが歌った「虹の彼方に(overtherainbow)」いわく、信じた夢は現実になる、んだそうだ。
それをコトバどおりに信じられるほど、ぼくはもう子どもじゃないが、信じたい、とは思うのだ。