第三十二冊『死後出版』~言いたいことも言えないこんな世の中じゃ~

シンデレラフィットな長さ

長く続いてほしいマンガは世に数多あれど、「短く終わってほしい」マンガはめったにない。だが、そういうマンガは確かにあるとぼくは思う。

終わってほしいというのは、つまらないからではない。逆だ。おもしろいからこそ、そう思ってしまうことがあるのだ。

へそ曲がりも、ここまでくると病気かもしれない。

矛盾してる、と思われるだろう。あたりまえだ。おもしろいと思ったら、普通はできるだけ長く楽しみたいから、それが続くことを望むに決まっている。

でも、おもしろさが最大化する適切な長さがマンガにはあるんじゃないだろうか。いわば“シンデレラフィット”の長さ、とでも言おうか。

この話題になると、ぼくがまず思い浮かべるのは何年経っても「北斗の拳」だ。つまり「ラオウが死んだところで終わっておくべきだった」んじゃないか、と(笑)。

しかし、みなさんご存じの通り、ラオウの死後もマンガは長く続いた。

コミックス全27巻のうちラオウの死が16巻。ここからさらに11巻も続くのだ。

この言わば第二部はラオウ伝説のエピローグとしても完璧で変わらず最高におもしろいのだが、個人的には“エクストラステージ”って感じがする。

やはり「北斗の拳」というマンガのコアな部分は、ラオウの死で語りきっているんじゃないか?

そんなふうに思うと、一読者としてはどうしても考えてしまう。なにか「終わらせない力」が働いたんじゃないか――と。

さて、以前のコラムで「マンガを終わらせるのは誰か」ということについて触れたが、今回考えてみたいのはその逆だ。

つまり、マンガを“続けさせる”のは誰か?ということだ。

これは“終わらせる”のと表裏一体だろう。つまり、続けさせる/終わらせる基準はどちらにしても「収益」だろうからだ。ドギツくいえば、儲かっている限り原則として、出版社側はそのマンガをわざわざ終わらせようとはしないわけだ。

だから極論、作者本人がまったく望まなくても、編集サイドから「続投」を要求されることはありうる。

説得されて、やむなく続けたマンガもあったに違いない。かの「DRAGONBALL」にそんな逸話があったと聞いたことがあるが、ドル箱マンガならではの伝説だ。

なかなか連載できないマンガ家にしてみれば「終わらせたい」なんて、ふざけるな、傲慢だ、と叫びたくもなるだろう。もっともだ。甲子園出場を辞退するくらいありえない。

しかし、こういうことも十分わかったうえでなお、「短く終わる」ことがどう考えてもシンデレラフィットに思える、そんなマンガが稀にあるとぼくは思う。

いろんな力学が働いて、そのマンガを“延命”させようとしても、過不足無く短めに、きれいに終わることこそが、関係するプレイヤー全員を幸せにするということがあるんじゃないだろうか。

ひとつ付け加えると、ぼくの考えるそういうマンガの傾向としては、とにかく「ワン・アイディア」ものが多い。“出オチ”ってやつだ。

長編向きじゃないアイディアというのは、やはりあるのかなと思う。

秀逸なアイディアであっても(or秀逸すぎて)、それを使ったプロットにバリエーションがないと、同じパターンを繰り返すだけになって、せっかく鮮烈だった第一印象のインパクトが、みるみる色あせていく……ということだ。

続けさせるのは誰かという問いに、結局のところうまい答えはないかもしれない。理想は「作品それ自体」が自ずとその終わりを示せるのがいいのだろう。

さて、今回ご紹介するマンガは以上の意味において、十年ぶりくらいに「短く終わってほしい」と感じた作品だ。まさに「ワン・アイディア」で成立しているマンガなのだ。

しかもそれが、ぼくの本業である「出版業界」についてのマンガで、もっといえば“本をつくるということ”そのものに切り込んだ、じつに刺激的なマンガで、これはちょっと無視できないと思った。

そのマンガは「死後出版」(田中現兎 少年画報社)。

このコラムでご紹介する作品としては、「マンガのプロが、おもしろいマンガを発掘!」みたいな感じの作品かもしれない。うへー、そういうのだけはやだなー。

だが、今回は仕方ないんです。なにせ「短く終わってほしい」わけだから、早いところ言っておかないと、うっかり長くなってしまいそうなので今やるしかなかったのだ。

それに、このマンガはほっておいても評価されてしまうだろうから、どっかの脂ぎったTVプロデューサーに見つかって「これドラマ化に最適じゃね」とか目をつけられてしまうに決まってるのだ(正直、このマンガはすぐにでも実写化できそうだ、と思う)。

いかーん、そうゆう安直ムーブを回避し、このすばらしいマンガをなんとかイイ感じに「短く終わらせる」ためにも、今回ご紹介をさせていただきます。

表紙

1巻をがんばって売ります

「死後出版」は、少年画報社の月刊誌「ヤングキングBULL」2022年9月号に読み切りとして掲載され、それが翌年1月から連載化した。

ちなみにこのBULLの看板マンガはたぶんヤクザマンガの傑作「ドンケツ」(たーし)だと思うが、この時点でかなり人を選ぶ雑誌であろう(ちなみにドンケツは超絶おもしろいデスヨ)。ぼくが個人的に好きなマンガ率が妙に高い雑誌なので、逆に心配である。

コミックスは先日1巻が出たばかり。連載も続いているし、コミックスの最終ページには2巻が来年2月に出る、とハッキリ書いてある。

なので、最低2巻は出るだろう。……とは限らないんですかね、最近は。2巻以降は電子のみとか。

まったく読めなくなるよりは億倍マシだけれど、1巻目をがんばってプッシュしたリアル書店はさびしいだろうから、ちゃんと紙の書籍で出てほしいなあ。そのためにも、1巻をがんばって売ろう!

作者・田中現兎(たなか・うつと)先生は、デビュー作である前作「嘘つきユリコの栄光」(講談社)も、かなりテクニカルな作品だった。

せっかくなのでご紹介。……主人公の女の子ユリコは、目立ちたいがためにありえないウソをつきまくり、ついには「セレブでイケメンな王子様系クラスメイトの婚約者」だとメガトン級のウソをついてしまう。

ところがその男子はユリコのウソに付き合い、ウソはどんどんエスカレートしながらも、ふたりは信頼を深めていく……という、もう設定だけで一筋縄ではいかないブッ飛んだラブコメだ。

そして二作目であるこの「死後出版」も、まさにそういう技アリな作品である。

このアイディアがすごい2023ぼく編一位

どういうアイディアか……は、ずばり、タイトルが過不足なく説明している。

この作品は“作者の死後”にのみ出版される本を扱う、「死後出版」という極小出版社の物語である。

死後出版

出典:死後出版 ©田中現兎・少年画報社

この出版社の設定がこのマンガのすべて、と言っていい。

ある本が作者存命の間に、なんらかの事情で発行できない。その「理由」は千差万別あって、そこにその本の作者を巡る、さまざまな人生模様がある。

「死後出版」社とは、そういう“訳あり”の本を専門に出版する中小出版社である。

あまりにこのアイディアが素晴らしすぎて、ぼくは感動した。ここ20年で、ぼく内ランキング一、二位を争うかもしれない。

――「死後」というパワーワードが、とにかく効いている。

ぼくらは、生きている間に、なにか夢を持ったり、なにかを成し遂げたかったり、そのために苦しんだりする。

つまり、ぼくらが考える多くの物語は「生きている時間」にフォーカスしているわけだ。

だが、死んでしまったら後のことは、もう当人には関係ない。例えば死後に評価されることがあっても、当人にそれはわからない。

「あなたは死後に評価されることは間違いないから、安心して死んでください」。そんなことを言われたところであなたはうれしいだろうか?

多少の“なぐさめ”にはなるかもしれないが、やはり根本的にはたいして響かないのではないだろうか。

逆もまた然りだ。書いたものが、命すら脅かすくらいに叩かれるかもしれない。

だが、死んでしまっていれば、もう当人に危害を加えることはできないわけだ。

それを発表することで、だれかが傷ついたり、ひどい目にあうかもしれないが、そのことにも一切責任を負えないし、負いようもない。だって死んでるんだから。

死後なら全部オッケー。……

これは、とんでもない視点であろう。

ひとが、社会的になにかを為そうとするとき、ほぼすべての場合で当人の置かれている立場とそれに起因する関係性と無縁ではいられない。必ず「しがらみ」がある。

自分だけの考えで実行できることなど、社会という集団のなかではただのひとつもない。100%他者との関係性が生まれてしまう。

もし、それに反するようなことをやれば、社会的に制裁を受け人生がつらいものになったりしてしまう。

それが怖くて普通の人は、社会にわざわざ反逆しない。もし反逆するとしたら、それにはすさまじい覚悟が必要で、そんな強い意志をもてる人間など、そうはいない。

だがしかし、死んだあとに出る本でなら「書けることは無限大」なのだ。

少なくとも、自分に及ぶさまざまなデメリットはすべて無視できる。

だから死後

出典:死後出版 ©田中現兎・少年画報社

この軽さ!語尾にハート付けていうようなセリフとは思えない(笑)。

「だから死んだ後に出すんですよ」は、このマンガのキメ文句だ。

“はあと”のない、マジメバージョンも一応ある。

だから死後2

出典:死後出版 ©田中現兎・少年画報社

水戸黄門の印籠もかくや、という感じでこのセリフがでたら「待ってました」という気分になる。

死んだ後でありさえすれば、ひとは無敵になれるんじゃないだろうか。

無敵の人、無敵の本

ネットスラングに「無敵の人」というのがある。あれに近いかもしれない。

いわば「死後出版」の出す本は、「無敵の本」だ。

ちなみに、無敵の人とはウィキによれば「社会的に失うものが何も無いために、犯罪を起こすことに何の躊躇もない人を意味するインターネットスラング」のことだ。

基本的に無敵の人は、犯罪もしくは社会への報復をするのだが、当然ながら「死後出版」は“ちゃんと”そうではない。

「死後出版」は、そういう報復目的の本は、そもそも出版しない(会社として出版の契約をしない)のだ。

このマンガの主人公・栞田(後述)は、次のように言っている。

社訓

出典:死後出版 ©田中現兎・少年画報社

つまり「死後出版」社は、“死後に出す”ことに意味・意義がある、と認める本しか受け付けない。なんでも引き受けるわけではないのだ。

この制約も、マンガの緊張感を保つのに寄与している。死後だから「なんでもあり」では、それこそ無敵の人のしでかす暴挙となんら変わらないからだ。

逆にいえば、死後に出す必然性のなかに、そのいわば「絶対不可侵性」のなかに、依頼人がどんな理由を出してくるのか、そこがこのマンガの読みどころといえる。

文殊の知恵者たち

さて、順番が前後してしまったが、このマンガの基本設定をご紹介しておこう。

まずはキャラクターから。

「死後出版」という会社は、現時点でまだその全貌が明らかにはなっていない。

どうやら社長は登場キャラの叔母で、それ以外の従業員は「3人」らしい、ということだけは描かれているがそれ以外の詳細はとくに描かれていない。三人寄れば文殊の知恵というが、この人数は絶妙だ。

栞田

出典:死後出版 ©田中現兎・少年画報社

まずは主人公の編集者・栞田窓子(しおりだ・まどこ)

年齢はわからないが、見た感じは二十代半ばくらいか。幼い印象で、マッシュルームヘア(なんちゅう髪型か超調べた。たぶんこれじゃないかと)ファッションもなんと言うのかぼくは知らないのだが、甘い系?清楚系?みたいな、流行とか無視して好きなものを着ている感じ。首元にリボンにフリルとは、主張がなければ着られないファッションだろう。とにかく、いかにも編集者っぽい。

この「死後出版」の実質的なプレイヤーは彼女ひとりだ。

依頼人と打ち合わせし、その本が自社で出すに値するかどうかの判断はほぼ彼女が下している。よく暴走して周囲をドン引きさせる。

直ちに出版

出典:死後出版 ©田中現兎・少年画報社

どういう経歴なのかはまだ明かされてはいない。

ただ、単行本になっていない話数(第九章「ないしょのエッセイ」)によれば、彼女は小学生くらいのときに事故で両親を亡くしている、と描かれている。

その悲しみから救われたのは本のおかげだ、とも言っている。

無類の本好きを標榜しており、本についてのものごとなら、いっさい妥協しない。

ヤクザに本の出版を止めるよう脅されても、彼女は言うのだ(第五章 さゆりをよろしく2)。「地獄の果てまで あなた方と戦い抜き」「必ずこの本を出版します」。

必ずこの本を

出典:死後出版 ©田中現兎・少年画報社

この強いセリフに、じつは出版という行為の本質がさりげなく示されている。

すなわち、出版するということは、ときに「何かとの戦いを余儀なくされる」ものだということだ。

栞田は、おそらくだが過去に何度もこういった「戦い」を強いられている。出版は、楽しいだけのものではない。

また、栞田の「出版するということ」についての基本スタンスは、この年にして概ね完成しているようにぼくは思う。それはたとえば、こんなセリフに現れている。

いい作品は

出典:死後出版 ©田中現兎・少年画報社

「いい作品は すぐに世に出したほうがいいんです」。これはシンプルだがかなり肝の座ったセリフだ。このコマの彼女の表情も、どっしりと確信に満ちている。このセリフもまた、出版という行為の本質を突いているとぼくは思う。

また、もっと根源的な「本」そのものについても、栞田はその膨大な読書経験から、その本質を直感し、こう断言してみせるのだ。

誰も傷つけない本

出典:死後出版 ©田中現兎・少年画報社

「誰も傷つけない本などない」。

これもなかなか容易に言えるセリフではないだろう。どれだけ読み、感じる経験を重ねれば、こんなことが言えるようになるであろうか。

実際にひとを傷つける本に出会い、しかしそれが短絡的な凶器や毒ではないことを体験しなければ、こうは言えまい。

そう――

栞田はプロとして、つまり仕事として本を扱う者のほとんどがそうであるように、本によって救われた経験がある人物だ。

例えばぼくは一応書店をやっているが、儲かるからやっているわけではない。だって、実際儲からない(笑)。ハッキリ言って、今の御時世で儲かるからという理由で本屋をやるのは正気じゃない。

だが、ぼくは、本がなかったら気が狂っていただろう。好きなんてもんじゃない。水や空気のように、それがなかったら生きていられないくらいだ。この40年で1000回くらいは本のおかげで死なずにすんだ。だから本を仕事にした。

たぶん、ぼくはそういう本のプロにしか共感できない。やりたい、というよりやる以外の道は用意されていなかった、とでも言うか。

栞田も、これも全く同じようなことを言っている。

編集者ですから
流れ

出典:死後出版 ©田中現兎・少年画報社

「流れですかね」。そういう栞田の表情は、どこか困ったようにも見える。

本を仕事にするということは、野球少年がプロ野球選手を目指すのとは、どこか違うのかもしれない。呪い?とか、行きがかり上?とか、なんかそういう感じ。

そういえば、わが国最強の編集者のひとりである佐渡島康平氏が、あるインタビューでこんなことをおっしゃっていた。

曰く、自らが経営する会社「コルク」に人を入れるかどうかを決めるとき、ふたつのことを見極めようとするそうだ。

一つ目が「他人のために働くことが喜びになる人間か」。二つ目が「作家・作品によって救われたことがある人間かどうか」。

前者はさっぱりわからんけど、後者は超わかる。

栞田というキャラクターは、このいずれにも該当するという点で、典型的な本のプロだ。強烈といえば強烈だが、そんなに珍しくはない。強い表現でいえば「類型的」ですらある。ありがち、ということだ。

だが、類型的であることが、心に響かない、というわけではない。

それはこのマンガで、栞田が依頼人たちに語りかけるコトバを読めば、だれにでもわかることだと思う。

星

出典:死後出版 ©田中現兎・少年画報社

次に二人目は、社長の甥である青年・(ひかる。名字は不明)

本人の独白によれば「大学に馴染めなかったおれは 叔母さんが社長をやってるこの出版社に入れて貰った」とのこと。縁故採用というやつだ。

まったく出版にも本にも興味がなくただ、行く先がないので「死後出版」にやむなく在籍しているだけ、というキャラクターである。

こういう、本の世界の「外部」にいるキャラクターこそが、じつは最も「健全」な感性の持ち主であったりするというパターンは多い。以前ご紹介した「バーナード嬢曰く」もそうだった。

この星くんもそうだ。ある本の内容について、栞田に感想を聞かれるシーンで、その片鱗が示される。

最初は当たり障りのない答えで済まそうとするのだが、栞田の逃げを許さない詰問が、うそのない、素直なコトバを引き出す(ちょっとした描写だが、一流の編集者ならではの引き締まった問いだ)。

正直に
面白くない

出典:死後出版 ©田中現兎・少年画報社

このシーンの星くんの気持ち、痛いほどわかる。

「読み巧者」相手に、読んだ感想を語るのは、もはや罰ゲームだからだ。

だが星くんは、おそらくは栞田の「正直に」という一言で、ごまかしがきかない立場に追い込まれてしまった。だからこそ「おもしろくない」という本音を絞り出せたのだろう。

そう、本を読む、ということが、まったく新しい意味をもつ瞬間が、人には訪れることがある。

それは思うに、「その本について、自分のコトバで(少なくとも自分にとっては)正しく言語化できたとき」だ。

おそらく、それが<その瞬間>であることは、他の誰より自分自身でそうだとわかるのだ。「つかめた」と、そう確信できてしまう瞬間が。

その本を、自分のものにできた、と思えた経験の有無こそが、真なる読み手たりえるかどうかの試金石であろう。

星くんは、うまくコトバにできなくとも、彼の心は正常に機能し、おもしろい・おもしろくないを感じとっている。

だから、じつは彼は自分では「おれには読書の才能がない」などと自嘲気味にいうが、そんなことは全くない。

星くんというキャラクターを配したのは、どこまで考えてのことかはわからないが、じつに巧みであると思う。

栞田という本を読むことのプロがいるいっぽうで、経験でなく感性で読む星くんがいることで、この「死後出版」という出版社は、文芸批評が「理想の読者」と呼ぶような仮想の読み手を網羅することができているのだ。

この「死後出版」社では、まだ星くんはただのゴクツブシ(笑)でしかないが、いずれ彼の「健全」な感性が、彼にしか作れない本を作るハナシが語られるであろう。

路春

出典:死後出版 ©田中現兎・少年画報社

そして最後三人目、経理・法律関係担当の路春(みちはる。名字は不明)。星からは“みっちー先輩”と呼ばれている。

四十代くらいだろうか。「学童のお迎え」があると言っているから、幼いひとり娘がいるのは確かだろう。奥さんと娘と三人で撮られた写真を、仕事机の写真立てに入れている(もしかすると妻は死別している?かもしれないが、はっきりはしない)。

至極真っ当なオトナとして描かれており、社会人としても堅実であるようだ。栞田が、ことあるごとに「死後出版」では出せないと判断した原稿を他社に斡旋してしまうことを、たしなめたりする。「死後出版がなくなっちゃったら 元も子もないでしょ」。

三人のなかで、いちばんの常識人であろう。

事務員という立場ではあるが、出版とそれに関わる人種の心理に精通している。

さりげないが、彼の底知れなさが垣間見えるシーンが「第三章 妬みは人を変えるのか」にある。

――ある売れないマンガ家の奥さんが、自分の描いたマンガを死後出版したいという。そのマンガは、栞田の目には大傑作で、なぜ今すぐ発表しないのかわからない。

だが、夫であるマンガ家に「妬まれる」のが怖い、そんなことになるくらいなら死後に……と考えたわけだ。栞田はあえて言う。「作家というのは この世で一番 嫉妬を力に変えられる方たちなのだと思います」と。でも、嫉妬は嫉妬でしょ、と奥さん。

それに対する路春のアプローチが、これだ。ドキッとさせられるでしょ?

ただし
憧れも嫉妬の

出典:死後出版 ©田中現兎・少年画報社

「死後出版」の常勤社員は、どうやらこの三人だけらしい。中小出版社としては、ごく普通の規模感ではある。

あと、編集の栞田は「書店営業」も兼任しているような描写がある。

すこし専門的な話をすると、ある程度の規模の出版社だと「編集」と「営業(販売)」に分かれているようだ。

小さい出版社だと、栞田のように編集が営業も兼ねていることが多いが、自分が編集した本を売り込みにいくのだから、熱も入るし、推しどころも説明できるから、これはこれで効率のいいスタイルかもしれない。

さて、リアルな書店の現場では、営業さんこそが生命線である。なぜなら(とくに地方の)書店にとって、出版社とはイコール、担当の営業さんなのだ。

ある本の売上、ひいては書店の生死は営業さんにかかっていると言っても過言ではない。

ぼくは、出版業界を扱うマンガの大半に違和感があるが、それは、作り手しかクローズアップされないからでもある。

マンガ家も、実際に接するのは編集者だけだから、スポットライトを浴びるのは主に編集である。

あとがきで、よく「担当○○氏に感謝」みたいなことが書かれているのを見るたびに、知らんがなと思ってしまう。

踊る風にいえば「本は、編集部で売れてるんじゃない、書店の店頭で売れてるんだ」というわけだ。

営業さんの地道な外回りが、どれほど書店の支えになるか。その黒子に徹した仕事なくして、本は書店で輝きはしないのだ。

地方の書店であれば、遠い東京の業界トークなど別世界のハナシでしかない。

それに対して、ポスターや販促品を抱えて書店回りに勤しむ栞田のような営業さんは、リアルな存在である。

……とまあ、秋葉原のド真ん中で書店をやってるぼくがいうのは口幅ったいか。

まあとにかく、ごくごくまれに、営業をピックアップしているマンガに出会うと、それだけで愛したくなる。

でも、ホントにないんですよー。思いつくのだと「働きマン」(安野モヨコ 講談社)くらいしかない。

あのマンガの営業のお話は、マジで感動モノだ。

作者自らが営業に「売ってくださってありがとうございます」と礼を言うシーンがあって、目頭が熱くなる。

もうすべての出版関係者必読である。

この「死後出版」も、その一話目で小さいけれど栞田の営業行脚を描くコマがあって、ぼくはうれしくなってしまった。

そりゃ書店の店員だって、こんな熱心にこられたら意気に感じて、がんばろうって思いますよね。

営業

出典:死後出版 ©田中現兎・少年画報社

死後出版刊行リスト

この「死後出版」のコミックスのカバーをめくってみると、そこには「死後出版」の刊行書リストが掲載されている。

よく、文庫の最後のほうに、一覧で載っているような感じのアレだ。

マンガの話数と、このリストは概ね照応している。

裏1
裏2

実際には、死後出版での刊行を断念した作品もここには載っている。なので、これはあくまでもストーリーの参考資料「おまけ」として見るものだろう。

マンガ内では、依頼人たちが預けた原稿のタイトルだけ明らかになっているものも多いが、詳細までは描かれていない。

だれが考えたんだろうなあ。作者・田中現兎先生ご自身だろうか?それともご担当の編集さんか。いずれにしても、じつに洒落たおまけである。

これを補助線に、簡単に「死後出版」のストーリーについてもご紹介しよう。

まず、コミックス1巻には前後編の話を含め、六人の依頼者が登場する。

彼らには大きく分けて、ふたつの立場がある。

ひとつは何らかの理由で「死に直面している」立場。実際に病に冒されていたり、死刑を宣告されていたり、ヤクザとして命のやり取りをしていたり。

もうひとつは、死は迫っていないが「今の環境では言えないことがある」立場。

そうした依頼人たちのそれぞれの事情を聞きながら、栞田たち「死後出版」のメンバーたちは、その作品と依頼者たちにとって、ベストなやり方を模索していく。

余命短い老女、死刑囚、ヤクザ、ベストセラー作家とそのゴーストライター、ライトノベル作家、難手術を待つ少女……言いたいことを言えない、そんな彼らの苦しさを、栞田や星くんは死後出版という方法で救っていく。

このマンガはつまり、「抑圧からの開放」の手段として本を書く、という方法を示していると言える。

またそこでは「出版」という方法それ自体の、その意義や意味が問い直されてもいる。

さらには「本」というものを、存命の作者の金儲けや名誉欲とは完全に切り離して、すなわち「死後」の出版という形で、作品それ自体の純粋なあり方を浮かび上がらせている。

これだけでもすごいのだが、田中現兎先生はさらにその上、話数によってはトリックを仕掛けたりもする。特に一話目は、してやられた、という感じだ。ネタバレ寸前まで、ちょっとご紹介。

……余命短い老婦人が、若いときに書いた「恋人との文通」を、詩集としてまとめたいという。

その恋人とは引っ越しで離れてしまったのだが、ある日「結婚しました」という知らせが来てしまう。それっきり、ふたりは連絡を取らないまま月日は流れた。

栞田の奮闘もあって無事詩集は編まれ、老婦人の死後それは出版される。

最後、店頭に並んだその詩集をどこかの書店で、ある人物が見つけるシーンが流れる。

確かに老婦人の思いは、かつての想い人に届いたのだ。だが、なんとその人物とは……おっと、ここから先は、本編をご覧ください。

喫茶「ジョバンニ」のこと

「死後出版」社は、特にモデルがあるということはなさそうだ。そりゃそうだ、こんな特殊な出版手法で経営が成り立つわけがない(笑)。

絵によれば雑居ビルの二階にあるようで、一階には「ジョバンニ」という喫茶店があるらしい。

ジョバンニ

出典:死後出版 ©田中現兎・少年画報社

この「一階が喫茶店」という絵を見たとき、ぼくは「あれ?これってアレがモデルなのかしら」と、じつは思ってしまった。

それはSF・ミステリを多く出版する「早川書房」のことだ。

早川書房は神田にある出版社だが、一階には「クリスティ」という喫茶店があるのだ。もちろんミステリを扱う出版社に掛けたであろう店名だ。

最近改装し、超絶オシャレになってしまった。ま、ただの偶然ですかね。

それにしても「ジョバンニ」という店名の狙いはなんだろうか?

本当のところはわからないが、ぼくは当然「銀河鉄道の夜」を思い出した。宮沢賢治によるこの幻想小説の主人公の名が、ジョバンニだ。

ジョバンニは、親友のカンパネルラとともに銀河鉄道に乗り、ふしぎな旅をするのだが、カンパネルラは現実世界においては友人を助けるために、川で溺れて死んでしまっているのだ。

銀河鉄道に乗っていたのは、死んだカンパネルラの魂なのだろうか?そんなこととは露知らないジョバンニは、銀河鉄道の旅の中でカンパネルラと「みんなのしあわせのため」に生きよう、どこまでもいっしょに行こう、と約束する。

物語の最後、現実に戻ったジョバンニは、カンパネルラの死を知る。そして親友の「死後」を、カンパネルラとの約束を胸に秘め、生きていこうと決意するのだ。

「死後」を引き受ける、というジョバンニの決意は「死後出版」の社訓に通じるものがある……というのは、深読みしすぎだろうか?

だが、はっきりと背景は手抜きしている(笑)と思われるこのマンガで、なぜかわざわざ「喫茶ジョバンニ」だけ名ありで描かれているのは、意味ありげすぎる。

発表されている全話を通して(全コマチェックした!)、明確に名前がついている場所は、この喫茶ジョバンニが2コマ、そして隣のビルの一階の歯医者(星空歯科、とある)のふたつだけなのだ。

この先、「ジョバンニ」にまつわる話数がきっと登場するだろうと、ぼくは予想しているのです。

帯付き表紙

終わらせ方のご提案

さて、「死後出版」がどんなマンガか概ねご紹介したと思う。

もう、とにかく、お見事というしかない。本と出版について、ややこしいプロットや小難しいセリフなど用いず、シンプルで洗練されたアイディアひとつで、ここまで掘り下げたマンガをぼくは読んだことがない。

ただ――ぼくは不安も感じている。

死を賭した出版、というこのマンガの基本構成は、案外バリエーションに限界があるんじゃないだろうか……

アイディア自体がすばらしすぎて、もうある意味で、一話目ですでに完成されきっているというか。

この先、さらに次々と変わった依頼人たちが登場し、巧みなストーリーテリングと、栞田の信念に満ちたコトバによって、確実におもしろいマンガが続いていくだろうということを、ぼくは疑わない。

だが、あえて、この見事なアイディアを無理に延命させるのでなく、いい塩梅のところで終わりにできたら、世紀の傑作になってしまうんじゃないか、なんてふうにも思う。

そこでぼくは考えました。このマンガの終わり方を。

このマンガを完璧に終わらせるには、最終兵器を出すしかない。

ズバリ、「栞田が余命宣告を受ける」。いや、もう、これしかないでしょー

理想的な出版人として描かれている栞田。それまで他者の死後出版を手掛けてきた彼女が、自らの死と向き合ったとき、なにをするのか。乞うご期待。

どうです、安直でも、鉄板じゃないすか。……はい、余計なお世話でした、サーセン。

冗談はさておき、このマンガは続けようと思えば、いくらでも続けられる気がする。

“言いたいことが言えない”人間など、この世界には星の数ほどいるのだから。

おわりに

以上、今回は“終わらせ方”までご提案するようなお節介までして、正直に書かせていただいた。

これでもかなり、穏当な表現にあらためたり、書きたくても書かなかったこともたくさんある。

一応、あんまり怒られたりしなさそうな感じにまとめたつもりだ。

……もし、これでもダメなら、最後の手段がある。

みなさま、もうお分かりですね。

ケムール様、すんごい爆弾発言だらけの原稿をお預けしますので、そのコラムを「ぼくの死後」、公開してください!

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