吉田悠軌の怪談一服~ダンディな趣味~【チェ・シャグ】

怪談・オカルト研究家の吉田悠軌さんによる、「たばこ」の怪談です。
今月も、怪談を一服いかがですか。

 ――タバコは魔除けになる――

 当連載で、よく言及していることだ。

 キツネやタヌキに化かされた時、あるいは山で不思議な迷い方をした時、タバコによる一服が機転となって助かることがある。

 昔ながらの民話や言い伝えでも、現代の実話怪談でも、こうしたケースは数多い。

 しかしまた、逆のケースもちらほらと散見される。

――タバコが魔をひきよせる――

 これも当連載の記事にて、生前タバコが好きだった故人の幽霊、またはそれにまつわる怪現象に遭遇したといった体験談を幾つか紹介してきた。

 いや、そうしたケースならまだ微笑ましい部類かもしれない。

 タバコは時に、もっとひどく邪悪な魔をひきよせることもあるようで……。

 トレーニングジムの店長を営む、タナカさん(仮名)の体験。

 その頃、タナカさんは釣りにのめり込んでいた。

 それも山釣り、渓流での釣りであり、さらにいえば夜釣りを得意としていた。

 休日は昼夜問わず、というより主に深夜から明け方にかけて、山の中の川へと足を踏み入れていたのだ。

 行けるところまでは愛車のジムニーに林道を走らせるが、時には徒歩で山奥まで潜ることもある。

 いずれにせよ、山中ではベース基地としてテントをはってソロキャンプを行う。

 朝日がのぼりきった後は、テント前で釣果を確かめつつ、コーヒーを淹れ、タバコをくわえる。

 それも手巻き用の「チェ・シャグ」を、燃焼剤を使っていない、燃える速度の遅い紙に巻く。それを、ゆっくり時間をかけて喫う。

 山の冷気により白くなった吐息と、さらに白いタバコの煙を、木々の上へとくゆらせる。

 そんな休日を過ごすことを、至上の喜びとしていた。

 まことにダンディな趣味である。

 その夜、あたりに人の気配はまったく感じられなかった。

 山の入り口から渓流まで、ジムニーと自分だけの孤独な世界。

 夜間に山奥で釣りをしている人間は、世間が考えるより意外に多い。そのため、人気の釣りスポットにもかかわらず、ずっと人と出くわさないというのは珍しいことなのだ。

 せっかくの山と川を独り占めできる。釣りになるととたんに人嫌いとなるタナカさんは、ほっと一息、安堵のため息をついた。

 深夜とはいえ真夏のこと、軽装のゲーターを履き、ひんやりとした川の中へ入っていった。

 釣り竿を振り、じっと体勢を整えると、自分の周囲に白く細かい粉雪のような紙吹雪のようなものが舞い始めた。

 カゲロウだ。

 川の水面に着水し、水中に卵を産もうとしているカゲロウのメスたちが、ふわふわと自分の周りを飛び交い、落下している。

 彼女らの体そのものもまた、魚たちの良き晩餐となる。

 生と死の饗宴の中で、タナカさんだけがひとり静かに、無心で糸を垂らし続けている。

 こうした時間が、たまらなく好きだった。

 しかしどうしたことだろうか。こんなに最高の夜なのに、今夜に限ってまったくアタリだけが伝わらない。

 しばらくすると、足から腰にむかってじわじわと寒気がむしばんできた。

 こういう時は無理をしてはいけない。

 タナカさんは釣り竿を川端に固定し、岸へと上がった。

 そして休憩がてら、チェ・シャグの葉をペーパーに落とし、リラックスしながらそれを巻くと、心を落ち着かせるように喫いはじめた。

 スローバーニングのペーパーが音もなくゆっくり燃えていく。

 白い煙が、漆黒の闇へと消えていく。

 ――さて、そろそろ戻ろうか。

 暗めに点灯させたヘッドライトを頼りに、そうっと岸辺へ移動し、川面へ足を差し入れる。

 先ほど置いた釣り竿をつかみ、ポイントに向かってキャスト。

 そこで魚に気づかれないようライトを消すと、あたりは暗闇に包まれる。

 まるで身体が川と一体化し、水流そのもののようになったかと感じられたところで。

「すいませーん」

 闇の奥から、声が響いた。

 川のほとりの向こうから、か細く届いてきた音。10メートルほど離れたであろう場所から、明らかに自分へと呼びかけている声だ。

 先述どおり、タナカさんは釣りとなると、とたんに人嫌いになる。

 ――無視だ、無視。

 返答どころか、体を動かすこともぴたりと止めた。

 幸い、先ほどまでのヘッドライトは下向きにしか照らしていないし、消灯させてからやや時間が経っている。この暗さで10メートルも離れていれば、ここに自分がいることなど確認できるはずもない。

 「あれ? すいませーん、そこ、誰かいますよね?」

 ところが闇の向こうの声色には、奇妙な確信が宿っていた。

 相手からしてみれば、勘を頼りに暗闇の中へ当たりをつけているはず。となれば普通、声を向ける方向を山のあちこちに散らしてみるはずだ。

 しかしそれが、まっすぐ自分を目指しているように感じられる。

 「いますよねー、ほら」

 いや、それどころか。

 音自体が大きくなっている。

 声量が上がったのではなく、距離感がせばまっているのだ。まっすぐ的確にこちらに向かって近づいているからだ。

 いったいどういうことか、と衣擦れひとつたてないよう硬直していると。

 「ねえ、そこのタバコ喫ってる人ですよー」

 

 ――チッ

 タナカさんは口の中で舌打ちした。

 うっかりしていた。

 チェ・シャグの紙巻きはまだ悠然と、熾火のようなオレンジの光を灯し続けている。

 あまりにリラックスし過ぎて、タバコを咥えたままであることすら忘れてしまっていたのだ。

 それは小さな点でしかない炎だが、人間が灯した火には違いない。

 水面や葉や岩、蛾の羽や夜行動物の瞳に、月の光が反射したものとはまったく質が異なる。相手からすれば、漆黒の空間にずいぶん目立つ光の点なのだろう。

「……はい、なんですか?」

 しぶしぶ、タナカさんは返答の声をあげた。

 繁華街でキャッチに声をかけられたのとは訳が違う。他に誰もいない深夜の山中でこうなった以上、無視を決めこむのは分が悪い。

「あー、助かった!」

 相手のトーンが高くなった。

「あのー、足滑らせて、竿、流しちゃったみたいなんですよね」

 また先ほどよりも少し距離が近くなったようだ。

「そっち、流れてきませんでしたー? もし拾ってくれてたら、助かるなってー」

 ――いや、そう言われてもな……

 かれこれ2時間近く釣りをしていたが、竿どころか木の枝一本として、自分の足元には流れてきていない。

 もしずっと対岸の方を流れていたのだとしたら、ライトをオフにしている自分に見えるはずがない。

 ――というか、こいつ、さっきから俺の上流にいたってことか……?

 穏やかな水流であり、川幅もそれほど太くない。

 もし誰かが釣りをしていたなら、かなり距離が離れていたとしても、足音ひとつ気配ひとつ感じないなんてことがありうるだろうか?

 恐怖、というほどではない。ただなんとも居心地の悪い不審感が、タナカさんの胃の腑から喉へとせりあがってきた。

「さあ、きてませんね」

 暗闇に向かって声を投げかける。

 しかし相手からはなんの返事もない。

 まるで自分の声が、分厚い漆黒のカーテンに吸い込まれてしまったようだ。

「あの……仮に流れてきてても、真っ暗で見えませんよ」

 と、返したその時。

 グッ、と手元で竿がしなる。

 ただ、すぐにそれが魚のアタリでないと気づいた。

 最初の一瞬だけヒキがあり、その後は固定されたように動かない。これまで感じたことのない、不思議な感触だった。

 とはいえ常識的に考えれば、水底の岩に針やルアーがひっかかる「根がかり」に違いないだろう。

 ――くそっ……いきなり話しかけられるし、ついてねーな

 軽くひっかかっている根がかりであれば、竿を揺すれば取れる可能性もある。イラつきながらも、タナカさんが竿を揺らしはじめた。その時。

 

 バシャ、バシャ、バシャ

 

 川上からこちらへ向かって、なにものかが歩いてくる音が響いた。

「え、だから、竿きてないですって!」

 竿を揺らしながら、慌てて声をあげるも

 

 バシャバシャバシャ

 

 水が跳ねる音は、止まるどころか速度を増していく。

 もはや竿への気遣いもなく激しく上下に振っているが、いっこうに根がかりがとれる気配はない。

 先ほどから抱いていた不審感はここで一気に、純然たる恐怖心へとボルテージを上げた。

「ちょっと怖いから! 来ないでくださいよ!」

 感情に任せ、タナカさんが悲鳴をあげる。

 と、そこで水音がぴたりと止んで。

「……いやあ、あれね」

 音の激しさとは不釣り合いな、落ち着いた声が響いた。

「……大切な竿なんですよ。助けてくださいよ」

 ぴちゃり、という柔らかい水音が、もうすぐそこで跳ね上がった。

 音と声の主は、今にも暗闇の向こうから姿を現してしまうだろう。

「ねえって言ってんだろ! それ以上くんなよ! ぶっとばすぞ!」

 叫びながら釣り竿を思いきり引くが、糸の先は巨人にでも握られているようにビクともしない。

 バシャバシャバシャッ!!

 ついに相手が、全速力の荒々しい音を響かせてきた。

「うわっ!」

 限界を迎えたタナカさんは竿を放り出し、猛全と車に向かって駆けだした。

 バシャバシャバシャバシャ!

 水音はすぐ後ろを追いかけてくる。

 とっくに川を抜け、土の上を走っているにもかかわらず。

 バシャバシャバシャバシャ!

 水面を跳ねる足の音が、どこまでもついてくる。

 もつれる足を必死にこらえ、なんとかジムニーへたどりつく。

 乱暴にドアを開閉し、ロックをかけると、シュラフを頭からかぶって運転席にうずくまる。

 バシャバシャバシャバシャ!

 なぜなのか、どうしてなのか。

 ジムニーの周囲をぐるぐるぐるぐる、激しい水音が巡っている。

「あっちいけあっちいけあっちいけあっちいけ……」

 シュラフの中で必死に目を閉じ耳をふさぎ、そう連呼しているうち。

 バシャバシャバシャバシャ……

 音はいつしか夜の彼方へと消えていった。

 いや、そうではなく、自分がどこかで眠りについてしまったのかもしれない。

 ともかく気づけば、朝日が樹々のあいだから射し込んでいた。

 鳥のさえずりと虫の声がうるさいほどに合唱する、賑やかな夏の山が広がっていた。

 タナカさんは急いで荷物を回収すると、なるべくジムニーのアクセルをベタ踏みしながら帰路についた。

 

 ――それ以来、釣りもタバコも辞めたんだ。

 そう語るタナカさんの、新しいダンディな趣味はまだ見つかっていない。

吉田悠軌(よしだ・ゆうき)
1980年、東京都生まれ。怪談サークル「とうもろこしの会」の会長をつとめ、オカルト、怪談の研究をライフワークにする。著書に『現代怪談考』(晶文社)『一生忘れない怖い話の語り方』(KADOKAWA)『オカルト探偵ヨシダの実話怪談』シリーズ(岩崎書店)『新宿怪談』『恐怖実話 怪の遺恨』(竹書房)、『日めくり怪談』(集英社)、『禁足地巡礼』(扶桑社)、『一行怪談(一)(二)』(PHP研究所)など多数。

・・・・・「怪談一服の集い」募集のお知らせ・・・・・

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