「グルメ」「旅行」「読書」などなど、ケムールではさまざまな趣味の連載を続けてきました。そのなかでも、今回はこれまで以上に激レアでディープな趣味の世界をご紹介します。
ご登場いただく俳優・文筆家の石山蓮華氏が愛好するのは「電線」。私たちの生活のすぐそばにありながら、普段は注目されず、時には風景の邪魔ものとみなされている電線の美しさや表情の豊かさに取りつかれ、『電線礼賛』という電線オンリーのDVDをプロデュース。多くのメディアでその魅力を発信しつづけている電線界のスターです。
いつも街並みの中の電線を見上げているという石山さんは、漫画・アニメ・映画・アートなどのフィクションのなかでも電線を探してしまうのか?
今回のテーマは漫画家・松本大洋氏。国内外に熱狂的なファンを持つ松本氏の代表作「鉄コン筋クリート」を、独自の「電線目線」で語っていただきます。
電線愛好家としてメディアに出演するほか、日本電線工業会コンテンツ監修、オリジナルDVD『電線礼讃』プロデュース・出演を務める。
俳優として映画『思い出のマーニー』、短編映画『私たちの過ごした8年間は何だったんだろうね』(主演)、NTV「ZIP!」、旭化成「サランラップ」C Mなどに出演。文筆家として「RollingStoneJapan」「月刊電設資材」「電気新聞」「ウェブ平凡」などに連載・寄稿。読書とジェンダーと犬をテーマにした初の書評エッセイ集『犬もどき読書日記』(晶文社)を刊行。
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私は電線を愛でるのが好きだ。名刺の肩書きには一番初めに「電線愛好家」と入れている。
散歩の途中や通勤の合間には、つい電線を見てしまう。見てしまう、というよりも目線を電線の高さへ持っていくのが習慣になっているので、外にいるときはいつも何の気なく電線を見ながら歩いている。
そうすると、何を見ても電線のことばかり考えてしまう。
日本国内に初めて電信線が架線されたのは1854年、江戸時代のことだった。
ペリー提督によってもたらされた電柱と電線のセットは、100年以上ほとんど変わらない姿で街の血管・神経として人々の生活を今もばりばりと支えている。
地面とビルの間を縫うように布設された電線をたどっていくと、映画やアニメ、漫画に文学など、フィクションの世界へもつながっている。
本を読んでも映画を観ていても、電線の姿やその二文字が登場すると、街中で友達とばったり会ったときのように「おっ」と嬉しくなってしまう。
電線の出てくる作品といえば、で思い浮かべる人が多いのは『鉄塔 武蔵野線』だろうか。たしかに、送電線と鉄塔は切っても切れない関係だ。
「鉄塔 武蔵野線」銀林みのる(1994年)
夏休み。小学5年生の美晴は友達のアキラとともに、鉄塔と送電線をたどって発電所を目指す冒険に出る。子供の無邪気な好奇心と探究心を見事に描き出した児童文学の意欲作であると同時に、作中には著者撮り下ろしの実際の鉄塔写真(約500枚!)を収録する驚異の「鉄塔小説」。第6回日本ファンタジーノベル大賞受賞。97年映画化。(リンク:文庫版)
ただ、私はどちらかと言うと、電線の中でもより身近な配電線が好きなので、電線や電柱の出てくる映画や本に目を光らせている。庵野秀明監督の『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズや太宰治の『人間失格』など、電線はジャンルを問わずさまざまな作品に登場する。しかし、その登場シーンだけを集めた記事はまだまだまとめられていない印象だ。
犬や猫の登場するエッセイはオムニバス本になっているのに、電線にフォーカスを当てた作品がまとめられていないのは、電線がそれだけ生活や風景に馴染み、その上無口だからなのかもしれない。
『シン・ヱヴァンゲリヲン劇場版』シリーズより。庵野秀明監督は電線・電柱を効果的に使用することでも知られる ©カラー
『人間失格』・・・女性のアパートに転がり込むことになった主人公が、窓から見える電線に絡みついて離れない奴凧(やっこだこ)を、男やもめの自分の身の上に重ねて恥じるシーンがある。
電線や電線のある風景は、さまざまな作品の中でどのように描かれ、作家たちの目にはどう映っているのだろう。本当なら、誰かもっと文学研究とか批評に詳しい人がやってくれたらなと思っていたのだけれど、そういう人にはそれぞれのテーマがあり、ぼんやり待っていてもどこかからぽんと降りてくることはなさそうだ。なので、電線好きとしてまずは自力でやってみる。
【映画版】監督:マイケル・アリアス(2006年)
ヤクザと暴力が幅を利かせる”地獄”の「宝町」が舞台。
都市開発から取り残された宝町は、新宿の繁華街や九龍城などアジアの街々を中洲の土地に素手でぎゅうっと押し込んだように、ケバケバしくて猥雑で、どこか古びた場所だ。
ある時、ヤクザ主導の不穏な開発計画が持ち上がったことをきっかけに、街の景観が変わり、人間関係も殺伐としていく。高速道路の下で、野良猫のように暮らす二人の不良少年「シロ」と「クロ」も、その大きな波に巻き込まれていくのだが……。
2006年の公開当時、父と一緒に映画版『鉄コン筋クリート』を観に行ったのを覚えている。中学生だった私は、始まってすぐに「これはすごい映画だぞ」とぞくぞくして椅子に座り直した。私の目は開始早々カラスの先導で宝町へ落下し、スクリーンいっぱいに広がる魅力的な街の景色に釘付けになった。
蒼井優演じるシロの舌足らずな話し方は、空想好きの子どもそのもので、二宮和也演じるクロには、様々なせめぎ合いの中で葛藤し、暴力を言葉にして生きる柄の悪い同級生たちの面影があった。
すっかり映画に浸っていた私は、エンドロールでASIAN KUNG-FU GENERATIONの「或る街の群青」が流れ、急に恥ずかしくなってしまった。なぜか、顔も知らない大人たちに自分の好きなものの先っちょまで握られているような気がしたのだ。
先日、漫画好きの知人がS N Sで松本大洋の新刊『東京ヒゴロ』が面白いと書いていたのをみて、ウェブに掲載されている試し読みページを読んでみたら、会話のちょっとしたところに丸く電線のコマが抜かれていて、「おっ」となり、宝町のことを思い出した。
『東京ヒゴロ』第一話より。左下に電線と電柱が。 ©小学館
そうして手にとった漫画版『鉄コン筋クリート』を読み始めて数ページは、目がコマの様々なところに引っかかるような感覚があった。松本大洋のタッチで描かれる背景や人間たちは、物語を語るための清潔なガイドとしてではなく、街で暮らす肉体のような呼気とあたたかさを伴って迫り出してくるからだ。
『鉄コン筋クリート』1巻より ©小学館
週刊「ビッグコミックスピリッツ」での連載開始時の1993年、編集者の予想を裏切って、読者アンケートでの人気は低かったそうだ。しかしその後、13年の時を経て映画化され、現在も長く愛され続けている。
©小学館
宝町を「俺の街」と呼ぶクロは、冒頭の登場シーンから電柱の上に立っている。見上げているのは相棒のシロだ。
本作ではまず、電柱の上にいるクロの視点で宝町の概観が提示される。
街の最下層で生きる子供たちは街中を自由に飛び回り、カラスのように街の隅々までよく見ている。読者は読み進めるにつれてよそ者のきょろきょろとした目線から、少年たちの目線へと同期していく。
物語の前半、二人はある夜に街の若者「チョコラ」から「こんな時間に下、歩いてるなんて珍しいじゃないか。」と声をかけられる。
ヤクザの関わる巨大遊園地「こどもの城」開発計画によって建てられるタワーは、街を縫う電線やビルよりも頭ひとつ分高い。
後半、ある事件をきっかけにクロはシロと離れて暮らすこととなる。クロは自暴自棄になり、夜、駅のホームで茫然と地べたに座り込む。
同作・3巻より ©小学館
その後、クロが「愛を捨て、暴力だけを信じる」と言われる伝説の「餓鬼」イタチと出会い、会話するシーンでも背景に電線が描かれ、このコマと対になるように描かれるイタチの登場シーンでも電線が描かれている。
ビルからビルへ飛び移るのは、クロにとっての日常の動きのひとつなはずなのに、このコマではビルの上から飛び降りるようなポーズに見えた。
ここでの電線は、クロが自分自身のある一線を越えてしまったことを描いているのではないだろうか。
【イタチ登場=右ページ上部のコマ】 ✕ 【笑うクロ=左ページ末のコマ】の対比を電線が強調する ©小学館
マイケル・アリアス監督の映画版は、原作への深い愛情とリスペクトがシロとクロが体験する世界をガシガシ動かしていて、アニメを観る快楽にあふれた作品だ。
出典:STUDIO4C
原作でも重要なキーとなっていた視点の高低差は、拡張された宝町の世界と、臨場感のあるカメラワークによってよりはっきりと物語に作用している。
そして、原作版では決めカットや長めのコマで登場していた電線が、映画版では舞台装置として街のあちこちに描かれている。
映画版『鉄コン筋クリート』パンフレットより
そんな今作では、電線が単なる背景としてだけでなく、ちょっとした脇役としていい味を出しているシーンがいくつもあった。
たとえば物語の中盤、殺し屋に追い込まれたシロがビルの窓から落ち、一瞬だけ電線にバウンドするシーンがある。その際に入る「ビヨーン」という電線の音は緊迫したシーンの中でもほんの少し空気を和らげると同時に、クロの焦りを引き立て、次に起こることの衝撃をより効果的に演出している。
その後、シロが殺し屋に真上からガソリンをかけた後、マッチを擦るシーンでは、モノローグと一緒に街のカットが差しこまれる。そこで、ビルの手前に架けられた電線の前を赤い風船がふわふわと浮いていく様子は、漫画版のクロが電線を背景に闇へ向かって落ちていったシーンを思い出させる。
ヤクザの木村が親代わりのネズミに手をかけるシーンでは、何度か電線のカットが差し込まれる。会話をしながら階段を降りる二人も、少年たちとは違う重い足取りで上から下へ移動し、電線の前である一線を越える。
光と影、愛と憎しみ、白と黒。対比するものごとの境界線ははっきりと引かれていない。けれど、見えない線はたしかにある。誰も見ていない場所で、見えない線を見ているのは誰か。それは自身が実線としていくつものものごとをつなぐ電線だ。
再開発により変わっていく「宝町」を見て思い出したのは、今年のオリンピックだった。
平成26年に制定された「東京都無電柱化推進計画」では2020東京オリンピックを前に「首都東京にふさわしい風格のある、快適で美しい都市景観の形成に向け」て、競技会場周辺で無電柱化が推進された。無電柱化に対する費用は国の交付金に加え、都の補助金が引き上げられていた。
貧富の差が広がる街で、様々な問題が噴出しながらも押し進められた大きな事業や、それによって起こった再開発、なくなった街の風景。”地獄”として描かれた宝町はすぐそこにある。
無電柱化は設計から完了まで1kmあたり7年程度というゆっくりとした速度で、今日も進んでいる。
宝町に張り巡らされた黒い電線は、単なる背景ではなく、この街の血管として生きている。
「ドラマは、映画の表層に過ぎない。背景こそが、監督の現実のビジョンなのだ」とは映画監督・押井守の言葉だ。
作家たちが描く電線は、日常生活と地続きでありながら、現実とは別の意図を持ってそこに描かれている。私はもっと、電線が次に何を語るのか、人は電線に何を語らせるのかを聞いてみたい。
ちなみに、クロが片手に持つパイプのような武器は、電柱に足場釘(足場ボルト)が刺さったような形に見える。
「銀座の街に革命が起こったら どのブランドを着て闘おうかな?」(けもの/tO→Kio より抜粋)
これは好きな歌のワンフレーズだ。私はもし銀座に革命が起こったら、手には釘バットならぬミニ電柱を持ってかち込みたいなと思った。
映画版『鉄コン筋クリート』パンフレットより