鈴木涼美 たばこと恋 苦くて切ない香り|特別寄稿「#たばこのことば」

愛煙家の方々がけむりを通して見えたもの・考えたことを綴る特別寄稿です。今回の愛煙家は、鈴木涼美氏(作家・文筆家)です。

 

 

 そっちを切っちゃだめだよ、と言われるまで私は、銀紙の折り目など気にしたことがなかった。学生時代にバイトしていた雀荘では、お客が煙草を買うと、丁寧に口を切り、最初の一本が取り出しやすいように先を数センチ出してから手渡すことになっていた。麻雀に夢中のお客たちが、透明フィルムを剥がしたり、ぎゅっと詰まった新品のケースをトントンして一本取り出したりせずに、片手ですぐに吸えるようにという配慮で、大抵のお客は雀卓の横の小さなテーブル台に置かれた煙草を見もせずに口に咥えて、ゲームを続ける。店内は複数のお客やバイトの女の子たちが常に紫煙を燻らせていて、複雑な匂いがした。

 普段から自分が吸っていたバージニア・スリムと同じボックス型なら、さっと開封して2、3本の先をずらして手渡すことなどわけないのだけど、セブンスターやハイライトのソフト・パックは少し手間がかかる。銀紙を切り取らずに蓋として残して欲しいという人が多いので、片側の銀紙の両脇だけ切って、トントンと数本の吸い口を出すことに慣れるまで数日かかった。それでもすでに一ヶ月以上バイトを続けていた私は、いつもハイライトを注文する初老のお客の横で何気なく銀紙を切って一本目の先端を二センチほど出して、取りやすいようにテーブルの上に置いた。背の高い、紺色のスーツの男に声をかけられたのはその時だった。

 見覚えのない男だった。それに、切っちゃだめというのが何を意味しているのか、瞬時には理解できなかった。電話のことなのか、エアコンのことなのか、麻雀牌のことなのか、そもそもこの、場末の雀荘に似つかわしくない高そうなスーツの男は誰なのか、と矢継ぎ早に浮かんでくる疑問符が鈍い頭で処理できず、私が数秒の間ぽかんと立ち尽くしていると、スーツ男は目尻をほんの少し下げて、自分のポケットからまだ新品のセブンスターを出して、銀紙が折り重なった上部を私に見やすいようにこちらに向け、今度はもう片側の銀紙が手前になるように向きを変えて見せてくれた。

「こっちが”人”、こっちが”入る”。人を切るのは無粋な感じがするだろ」

 長い指先を使って丁寧に説明され、ようやく理解できた。銀紙で包まれ、上から中心部を紙で止められたソフト・パックは、横から見てその銀紙の折り込まれ方が、「人」の字に見える側と「入る」の字に見える側とがある。意識したことがなかったが、先ほど私がお客に渡したハイライトを見てみると、確かに「人」の字に見える側が丁寧に破かれていた。スーツ男はまだ透明フィルムが巻かれていた自分のセブンスターを開封し、「入る」の側を切って、トントンと一本目を出して口に咥えてから、こっちだよ、と私に見せてくる。

「あれ、サカモトさんじゃないですかぁ」

 突然、別の卓で麻雀を打っていた巨乳の女性スタッフが、いつもより2オクターブほど高いはしゃぐような声を出した。スーツ男はさらに目尻を下げて、巨乳の先輩スタッフの方を向いたので、私はとりあえず近くの席のお客の空になったグラスをいくつか回収しながら、スーツと巨乳の会話を気にしていた。どうやらサカモトというスーツ男は、学生だった数年前までこの雀荘でスタッフとして働いていて、その後もお客として稀に訪れることがあったのだが、ここ二年ほどは仕事で海外に駐在していたために顔を見せることもなかったのだということはわかった。ついでに、巨乳の先輩スタッフが、サカモトさんに結構な好意を寄せていることもよくわかった。田舎のヤンキー風の喋り方が板についている彼女が、あんな猫撫で声で喋るのを私はその時初めて聞いた。

 巨乳が大きな声で名前を言ったので、一帯でゲーム中だったお客たちが一斉にスーツ男の方を見て、長い常連客などは久しぶりだなとか、わからなかったよ老けたななんて話しかけている。先ほど、私がハイライトを出した初老の客が、なんだやっぱりサカモッちゃんだったのか、なんて言って、手元の麻雀牌を触りながらスーツ男と私を交互に見ながら大きな声で話しだした。

「それ昔から言うよなぁ君は。勝負師は、”人”の方を切って”入る”を残すっていう人もいるよ。雀荘なんだからそっちの理屈でもいいし、そんなに気にしないでいいよ」

 手元のハイライトの銀紙を全く気にならないと言う様子でちらっと見ながら煙草を抜き取り、店のロゴの入った電子ライターで火をつけたお客は、私に向かって親指と人差し指で輪を作って、OKという意味なのか片目をウインクした。初老のウインクはそれほど見たいとは思わないものの、客が私が叱られたと思って気を遣ってくれているのはわかったし、雀卓の下の初老客の鞄を見ると、ブリーフケースの蓋が中途半端に開いて、脇からなぜかアーガイル柄の靴下が見えているので、この客は煙草の開け方どころか、ハイライトと言ってマルボロが出てこようが、煙草の中にお茶っぱが入っていようが、あまり気にならないタイプだと思って暖かい気分になった。だらしない性格の私は、神経質でお札の向きやコーヒーメーカーの汚れにいちいちうるさい店のマネージャーと付き合うくらいなら、この初老の客と結婚する、くらいに思ったかもしれない。

「仲良しの部活ならいいけど、雀荘なんて場所だからこそ、せめて煙草開ける時くらいは人を大切にしようって思いたいじゃない」

 スーツのサカモトさんは眉を少しだけ困ったように動かして、笑いながらそう言った。スーツにチーフなんか挿しているいけ好かない男だと思ったが、その一言に痺れて私は、その日のバイトが終わるまで、サカモトさんの座った卓にばかり気を取られていた。スーツのジャケットを脱いでハンガーにかけた彼のシャツからは、当時流行していたブルガリ・プールオムの香りがほのかに漂っていて、私は香水臭い男なんて全然興味がなかったのに、その匂いは異様に刺激的に思えた。

 客として久しぶりに遊びに来ただけだったサカモトさんは、夜遅くにお客の人数が減って、ゲーム中の雀卓も少なくなってからはゲームには加わらず、卓掃と呼ばれるバイトの仕事を手伝ってくれた。客のいなくなった全自動の麻雀卓を回しながら客の手垢や加齢臭や怨念のついた麻雀牌を消毒液のついた布巾でゴシゴシ拭いていく。全ての灰皿を台所に持っていき、新しい灰皿をセットして小さいテーブル四つを綺麗に吹いて椅子にも汚れや忘れ物がないかチェックし、麻雀牌をワンセット、東や中という文字の入った字牌だけ表にして並べて、卓の上に置いておく。この途中に他の卓でゲーム中のお客に飲み物や煙草を頼まれたり、場合によっては下の松屋で牛焼肉弁当買ってきてなんて頼まれたりするので、スタッフが少ない時にはまだ新人の私はパニック気味になる。

「いいよ、ゆっくり拭いてて」

 そう言って黙々と灰皿交換やグラスの回収などをしてくれるサカモトさんは優しく、私はすっかり巨乳先輩に共感していた。お客の多くはくたびれた中年だし、スタッフは一日雀荘で働いて休日は一日パチンコにいるロン毛のお兄さんや、同じくロン毛でこちらはバイト明けで駅までの徒歩3分の距離を必ず缶ビールを飲みながら帰っている酔っ払い、ピンサロと兼業しているという噂のあった唇の分厚いお姉さんや、声優の追っかけを続けている例の巨乳や、同棲しながら二人で働いている関西人カップルなど、若い私の胸をときめかせる要素は極めて希薄で、家庭教師先がもう一軒増えたらとっととやめようと思っていたバイト先だったのに、急にときめきでメモリアルな夜がやってくるなんて思わなかった。大学帰りで、いい加減なTシャツに穴の空いたデニムのショートパンツなんて穿いていたことを後悔した。

 すでに自分のシフトの終了時刻である深夜0時を過ぎた帰りがけ、私はなんとなくロッカーやキッチンでウロウロと時間を潰して、一体、サカモトさんは駐在期間を終えてまたしばしば店に顔を出すつもりなのか、あるいは本当に一回たまたま顔を店に寄っただけなのか、結婚はしているのか、どこに住んでいるのか、今日はそろそろ帰るのか、と思案していた。というか、バイト終わりなら送ろうか、とか、可愛いね今度遊びに行かない、とか、せめて、電話番号聞いていいかな、とか言われないかしらと露骨に誘われ待ちをしていた。私は麻雀がそれほど好きなわけでもなく、毎日雀荘なんて通ってくる人種を心底見下しながら、かといってお洒落なカフェでバイトするような女子大生にも距離を感じ、結局掃き溜めのような場所でしか生の手触りを感じられない、平たく言えば自分の人生もっと面白いはずなのにと感じている青臭い学生だった。雀荘なんて場所は無情に違いないけど、せめて煙草の紙の願掛けだけでも人を信じたいといった彼が、私の運命の人であるような、そんな淡い期待は私のささくれだった重たい心を一瞬軽くした。そう思ってしまう軽薄さだけでなく、こういった陳腐な詩的表現もまた文学系のちょっとイタイ学生だった当時の私をよく表している。

 さて、さすが若さの他には取り立てて何のウリもないけれど若さだけは溢れんばかりに持っていた大学生のワタクシ。ウロウロと期待を込めてナンパ待ちすること七分ほど、運よくスーツ男ことサカモトさんに送るよ、と言われることに成功、駅前の立体駐車場に停めてあったBMWに乗せてもらい、礼儀正しく自宅まで送り届けてもらった。彼が一本咥え、車のシガーライターで火をつけたセブンスターを横から奪い、窓を開けて吸った。男の煙草の味がした。私もセブンスターにしようかな、なんて言ったような気がする。

 それからどうなったか。彼は礼儀正しくて、特に家に上がることなく電話番号と携帯のメールアドレスを交換してその日は帰り、仕事の合間にくれるメールにウキウキと返信するのが日課となること数日。今度の週末に改めて会おうよと言われて舞い上がり、プライベート・レーベルのワンピなんて買って、首元にはパールをつけて、ブヒブヒ言いながら待ち合わせ場所である喫茶店に入ってみたところ、スーツ姿も煙草の持論も車も運転も清潔感があってとてもかっこよかった彼が座っている。スケスケのブラウスにトゲトゲのベルトとトンガリ靴、ジャラジャラのジュエリーにゴツゴツの指輪をつけて。胸元にはファーのストール。私をやさぐれた日常と場末の雀荘から引っ張り出してくれるかもしれなかった人は、デビュー当時の及川光博を2段階安くした感じでそこにいた。

 運命の人ではなかった。偽物のミッチーだった。私はその日一日だけ、スケスケの花柄を着た男とみなとみらいを歩くという稀有な体験をしただけで、自分の日常に戻って行った。煙草もセブンスターには替えず、その後も長らくバージニア・スリムを吸っていた。ただ、今でもソフト・パックの煙草を見ると、あの夜、ちょっとした期待に胸を弾ませながら、車内で吸ったセブンスターの味と、目尻の下がった彼の笑顔を思い出す。あれからセブンスターやマイセンのソフト・パックを吸っている知人は何人も見てきたが、つい「人」の字を切っていないか横目でチェックする癖も、未だ抜けないままだ。

 


鈴木涼美(すずき・すずみ)

1983年、東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業、東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。大学在学中にAV女優としてデビューし、東京大学大学院修士課程修了後、日本経済新聞社に勤務。東京本社地方部都庁担当、総務省記者クラブ、整理部などに所属。著書に『JJとその時代~女のコは雑誌に何を夢見たのか~』(光文社)、『ニッポンのおじさん』(KADOKAWA)、『8㎝ヒールのニュースショー』(扶桑社)など。小説『ギフテッド』『グレイスレス』(ともに文藝春秋)にて芥川賞候補。
Twitter:@Suzumixxx

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Kemur PICK UP:鈴木涼美さんのライター

愛煙家には欠かせないライター。Zippoやデュポンなど愛好家が多くいるアイテムですが、原稿が煮詰まったときのために机の横に灰皿を置いているという鈴木さんは、使い切りライター派。「ライターはバッグの中ですぐ見当たらなくなるので、派手なやつを選んで買います。写真はパチンコ屋のと沖縄のとコンビニのです!」とのこと。
(文・編集部)

次回の#たばこのことば

▶つぎの愛煙家は、須田慎一郎 氏(経済ジャーナリスト)

須田慎一郎(すだ・しんいちろう)
経済ジャーナリスト。1961年、東京生まれ。「夕刊フジ」「週刊ポスト」「週刊新潮」などで執筆活動を続けるかたわら、テレビ朝日「ビートたけしのTVタックル」、読売テレビ「そこまで言って委員会NP」、文化放送「須田慎一郎のこんなことだった!!誰にもわかる経済学」、YouTubeチャンネル・ニコニコチャンネル「闇鍋ジャーナル(仮)」他、多方面で活躍中。
また、平成19年から24年まで、内閣府、多重債務者対策本部有識者会議委員を務める。政界、官界、財界での豊富な人脈を基に、数々のスクープを連発している。

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