坂上秋成「誘惑とファシズムの彼方」|特別寄稿「#たばこのことば」

愛煙家の方々がけむりを通して見えたもの・考えたことを綴る特別寄稿です。今回の愛煙家は、坂上秋成氏(作家)です。

誘惑とファシズムの彼方

 禁煙を始めて二年と三ヶ月が経った。
 私は今も毎日、煙草を吸いたいという欲望に駆られている。
 ラーメンの汁を豪快にすすって店を出た後。
 もつ焼き屋で隣の席から“マイルドセブン”の懐かしい匂いが漂ってきた際。
 スランプで原稿が書けず、気分転換に入ったバーで濃いめの白州ハイボールを飲んでいる時。
 舌と喉のあいだあたりにもぞもぞとした違和感が生まれ、ああこれは脳がニコチンの美味さを覚えているんだなと判る。
 誘惑はいつもそばにある。

 止めようと決めた理由はこの上なく単純で、当時のパートナーから止めなければ別れると、半ば脅迫めいた口調で宣告されたからだ。
 結局それを呑むことになったが、私にはずっと前、それこそ二十代の頃から禁煙という言葉に強い抵抗があった。いやもっとはっきり言ってしまえば、煙草を吸うななどと他人に平然と言う人間はクソだし、それを簡単に受け入れてしまうやつはもっとクソだと思っていた。
 いわゆる「禁煙ファシズム」に対する反発の気持ちが、ずっと胸にくすぶっていた。
 「禁煙ファシズム」というのは御大層な名前をしているが、結局のところは単に喫煙者に対するイジメである。たまたま煙草を吸わない非喫煙者が、ある日突然、それまでは日常の一部として臭いも存在も受け入れていたはずなのに、たまたま煙草を吸っているだけの喫煙者をまるで背教者か反社会的勢力のように扱い、その尊厳をぐっしゃぐっしゃと踏みにじっていく。イジメ以外の何物でもない。
 世間の風潮が切り替わるスイッチがなんだったのか、いまだに私は分からない。Google検索でもかければそれらしい回答を得られるのかもしれないが、とにかく「禁煙ファシズム」がうっすらと始まった時期――感覚的には15年ほど前だ――に感じたのは、昨日まで寛容だったはずの世界が、いきなり井戸の底が抜けてしまったかのように、黒ずんだ悪意を喫煙者たちにぶつけるようになったという不条理な事態だった。
 その手のひら返しは極めて滑稽でありながら、同時に、このまま進んでいったら煙草を吸っているというだけで殴られたり石を投げられたり、あるいは『デビルマン』よろしく集団に囲まれて槍で突き殺されるのではないかという恐怖をリアルに与えてくるものだった。
 いつになればおさまるのかと私は考えていた。2010年以降、つまりSNS時代における「攻撃」は瞬間的な破壊力と殺傷力こそ高いものの、持続力には乏しい。誰かを攻撃し炎上させるために集まってきた連中は、飽きればすぐに飛び去って行くイナゴのようなものだ。それと同様、「禁煙ファシズム」もまた、長期にわたるものではなく程々に収束していくのだろうと想像していた。
 現実は違った。
「禁煙ファシズム」の威力は年月を経るほどに強く厳しくなった。

 私は疲れていた。
 パートナーに止めるよう言われるはるか前から、私は煙草という文化に疲れ切っていたのだ。
 酒席で煙草を口にできなくなる日がくるなど、ほんの少し前、2000年代の初頭には予想してすらいなかった。もともと私はニコチンへの依存度が高く、ヘビースモーカーな上にチェーンスモーカーだった。仕事で会議や打ち合わせを行う際、煙草を吸うためだけに何度も離席した。申し訳なさも後ろめたさもこれでもう仕事を振ってもらえなくなるかもしれないという不安もあったが、それ以上に、喫煙への欲望を我慢してストレスを感じながら良質な議論をしようと迫ってくる連中は異常だという思いの方が強かった。
――異常。
 煙草を吸う人間に対する唐突な風向きの変化を表すにはちょうどいい単語だ。特定の誰かが暴力を振るってくるわけではない。喫煙者に対する迫害は、もっと陰湿に、姑息に、行われる。たとえばそれは、何十年も設置されていた駅の喫煙所を撤去し、路上に動物園の檻のような狭いスペースを代わりに用意するというかたちで。中に詰め込まれた喫煙者たちは見世物の猿のようであり、同時に、そこは国家や自治体の持つ権力が可視化される場所でもある。通りがかる人々は檻の中の猿たちと決して目を合わせようとはせず、ただ煙草を吸う人間に対する侮蔑の視線をちらりと投げかけて去っていく。
 異常だ。

 おそらく、2024年現在も煙草を吸い続けているという人の中には、一度くらい禁煙を試みたことがある方も数多く存在するだろう。場合によっては、「禁煙ファシズム」に屈したという悔しさと共に。そして大抵の場合、人間は禁煙に失敗する。紙タバコを捨てて加熱式タバコに持ち替えることはできても、完全にニコチンの供給を断つことはきわめて難しい。
 ここにもまたくっきりと、喫煙者に対するイジメの構図を見て取ることができる。
 ――多くの人が考えているよりずっと、禁煙は困難なものなのだ。
 非喫煙者たちは簡単に口にする。健康にも悪いし早く煙草止めれば、と。あまりにも気軽な調子で。
 その人たちは何も知らない。ニコチンがどれほど依存性の強いものなのかも、止めようとした際にどれほど苦しい思いをすることになるのかも、何も。
 種類にかかわらず、依存症からの回復が困難なものであるということはほとんどの人が認識している事実だろう。アルコール依存症や薬物依存症で苦しむ人間の姿はしばしばテレビ画面に映し出される。容易に関係を断つことはできない魔物として、依存症は扱われている。
 ところが、これが煙草になるとどういうわけか世間は、あたかも「本気で止めようと思えば止められるはずだ」という不気味な信仰心、無根拠な精神論を平気で押し付けてくる。そうした際に喫煙者=依存症の患者がどれほど傷つくかなど、彼らは考えてすらいない。
 そして恐ろしいことに、これほど煙草は止めて当たり前という空気が広まっている他方、禁煙治療は驚くほど発展していない。もちろん、何十年も前に比べれば禁煙外来がある分マシだと考えることもできるだろう。しかし禁煙外来で治療を受けた患者のうち、1年後も禁煙を続けている人の割合は30~40%程度だ。2年、3年と調査を続ければこの数値はさらに減少していくだろう。決して多い数とは言えない。
 煙草を止めるべきという風潮がまん延しているのなら、もっと容易に禁煙できる手段が開発されてしかるべきだ。だが現実には、根性論とパッチとガム、それに飲み薬に頼りつつカウンセリングを受けるくらいしか方法がない。加えて言えばこのうち最も成功率の高い飲み薬=バレニクリン(商品名はチャンピックス)は、2021年に製造元であるファイザーが発がん性物質の混入を理由に自主回収し、それ以降出荷されていない。禁煙を望む人にとっては一層厳しい状況になっているわけだ。
 もちろん、どの方法を選択しても、成功する人間はいる。他方で、どの方法を試しても止めることができずにつらい思いをしている人もいる。
 つまるところ、禁煙を迫る人間たちのほとんどは、煙草を吸う人間が多様であるという現実をまったく理解できていないのだ。
 頑張れば止められる、禁煙外来に行けば大丈夫……ロクに知識もないままそのように思い込み、どうしても止められない人々に努力が足りないだの真剣になっていないだのと罵声を浴びせる。これがイジメでなくてなんだというのか。

 世間からの圧によって、今多くの喫煙者は、正常な判断をできないまま、どうにか禁煙しないとまずいという強迫観念に駆られているように見える。
 しかしよく考えてみてほしい。仮に禁煙に成功したとしても、その後に待っている人生が本当に望ましいものなのかどうかについて。
 禁煙するということは、自身の生活している環境、もっと言えば生きている世界を変える行為に他ならないのだ。
 さまざまなことが変わっていく。生活のパターン、他人と会話する時のリズム、友人関係……。しかもそれがいい方向にむかうという保証はない。禁煙をして、自然に喫煙者と溝ができてしまうというケースは決して少なくないはずだ。
 インターネットを見ても本を読んでも、煙草を止めるのはよいことだと書いてある。自由に使える時間が増える、無駄な出費がなくなる、病気のリスクが下がる、肌がきれいになる、目覚めがよくなる、などなど。こうしたメリットが記される他方、禁煙することのデメリットはほとんどの場合書かれていない。
 私の場合、一番大きな変化は食欲に現れた。「煙草を止めるとご飯が美味しくなる」というのはよく耳にする文句だが、私のケースだと、そのように素敵な表現を用いることは難しかった。「醤油ラーメンを食べている最中に食べていることを忘れ、ああ腹が減ったから塩ラーメンでも食べに行こうかな」と考えている、と言えば危険性が伝わるだろうか。私の食欲は病的なレベルで旺盛になり、1日4食が当たり前の生活になった。増加した体重は、12kgだ。禁煙から2年以上経った今、直後に比べればだいぶ落ち着いたが、それでも異常な食欲が襲ってくる日は決して少なくない。体重もなかなか落とせず、禁煙前より醜くなった自分を見ては憂鬱になるばかりだ。
 いわゆる「禁煙うつ」も酷かった。禁煙で鬱になるという現象についてはあまり正確な情報が出回っていないのでどれくらいの人が罹るものなのか分からないが、少なくとも私は明確に気分が落ち込み頭が回らず、仕事にも支障が出る有り様だった。ひょっとすると一生このままなのではないかという恐怖にとりつかれながら、情報を集め、トリプトファンの錠剤を買った。トリプトファンはセロトニンを合成してくれる必須アミノ酸で、「禁煙うつ」をこれで乗り切ったという書き込みを複数見て、賭けてみることにした。それが功を奏して、私の鬱は和らいでいった。それでも、元の状態に戻ったなと思えるまでには半年以上の時間が必要だった。
 食欲の増加、うつ症状。この2つはあくまで私に現れたデメリットに過ぎない。人によってはもっと多様で重いデメリットを抱え込むケースもあり得るだろう。

 メリットがなかったとは思わない。家に帰って、服や部屋がヤニ臭くないと気分がいい。歯にヤニがつかなくなったおかげで清潔に見える。レストランで食事をしている時にいちいち中座して喫煙所に行かなくて済むようになった……。
 だが、上述したデメリットを打ち消すほど、これらのメリットが大きなものだったかと訊かれれば、はなはだ疑問だと答える。人間関係にしても、上手くいかなくなった部分がある。やはり自分が禁煙してしまうと、喫煙者たちに囲まれている環境をつらく思ってしまう瞬間がおとずれるのだ。臭いし、煙たいし、自分もつい吸ってしまいそうになるから。何より、ついこのあいだまで“そちら側”だったのに、“こちら側”に来た途端、喫煙者たちを疎ましく思っている自分に気付いた時の、恥ずかしさと惨めな感覚はいつまでも残るものだろう。

 健康志向の世の中は喫煙者に煙草を止めるよう求めてくる。
 しかし禁煙を成功させるためのシステムはあまりにずさんだし、何より、止めた場合にもリスクがあるということをほとんどの人が認識していない。
 禁煙の過程で苦しんで仕事で大きなミスをしても、止めたあとでうつになって希死念慮に襲われても、誰も責任をとってはくれない。
 すべてが“自己責任”で片付けられてしまう世界だ。
 私は「禁煙ファシズム」の波に疲れ、パートナーからの強い言葉を受けたこともあって、止めることを選択した。けれど、それを誇りに思ったりはしない。むしろ自分が何か大きな力を前に屈したのだという無力感を覚えているくらいだ。
 だから、私は決して人に禁煙を勧めたりはしない。
 それに伴うデメリットがどのようなものかは人によるし、私は他人に対して責任をとることができないからだ。
 自分が吸わなくなった以上、私は全面喫煙可の焼き鳥屋にわざわざ行ったりはしないし、自宅で友人が煙草を吸いたいと言えばベランダに移動してもらったりもするだろう。けれど、それらは私という個人が禁煙状態を続けるための選択であって、誰かを非難したり、二度と煙草を吸わないよう忠告したいなどという欲望とは異なるものだ。
 煙草を止めるも続けるも個人の自由だ。社会がどれだけ圧力をかけてこようが関係ない。健康を盾にして、喫煙の権利を奪おうとするのは単なる暴力だ。それに付き合う道理はない。

 街を歩く。
 ふと煙草の香りが鼻に届く。
 私はそれを臭いなと思う。
 おそらくずっと、その臭いは懐かしく、時にうっとうしく、そして愛おしいままなのだろう。

 


坂上秋成(さかがみ・しゅうせい)

作家、1984年生。
主な作品に『ファルセットの時間』(筑摩書房)、『夜を聴く者』『惜日のアリス』(河出書房新社)、『紫ノ宮沙霧のビブリオセラピー』『モノクロの君に恋をする』(新潮文庫nex)、『ONE PIECE novel LAW』(集英社)、『Keyの軌跡』『TYPE-MOONの軌跡』(星海社)など。

Twitter:@ssakagami7776


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