本屋の本音のあのねのね 第一冊〜我が青春の「来訪者」〜

いまや国民的漫画家となった荒木飛呂彦だが、ぼくのようなアラフォーの中には、そのことにモヤッとする人がいるかもしれない。
なぜなら、ぼくたちが出会ったころの荒木飛呂彦は、ジャンプの後ろのほうに掲載されていた印象が強いからだ。当時のジャンプは人気順に掲載されていたらしいから、後ろのほうに載っていたというのは、そういうことだろう。

それが今では、国立の美術館で個展を開催する(存命の漫画家として史上初だとか)ほどの大人気作家なのだから、時代が追いついた、ということか。先日はジョジョのスピンオフ作品「岸辺露伴は動かない」が実写ドラマ化して、これも評判がよかった。
でも、本音をいえば「ジョジョは二部異論は認めない」とか思っているぼくのようなめんどくさい古参ファンにとっては、つまり、この荒木飛呂彦上げの風潮に、ちょっとだけモヤッとするわけです。

以上、ケムールだけに、最初はモヤッとする話から。
……あ、こういうのいらないんですか。すいません……
では、あらためまして、このコラムではコミック専門店の店員が、独断でえらんだオススメマンガをご紹介します。どうぞよろしくおねがいします。

そういうわけで、1回目は、敬愛する荒木飛呂彦先生の作品でいこうと思う。ただし、「ジョジョの奇妙な冒険」ではない。別に奇をてらっているわけじゃなく、ぼくにとって荒木飛呂彦といえば、まず“これ”だ。

単行本にしてわずか2冊、全17話。その後30年以上にわたって続くジョジョにくらべれば短命に終わったそのマンガは、コアなファンには必読の作品だが、もっとひろく読まれるべきだ。
その名も「バオー来訪者」。これが、今回ご紹介したいマンガだ。

……失礼、信者の作法にしたがって言い直そう。

バオー来訪者! これがッ! 今回ご紹介したい マンガだッッ!

出典:バオー来訪者 ©荒木飛呂彦・集英社

「おもしろい」という感覚はひとによって違う。だから、万人におもしろいマンガ、というのは存在しないはずである。
しかし、ぼくはどんな状況でも、どんな相手にでも、常に自信を持って「これはおもしろい」と薦められるマンガが、3つある。
「バオー来訪者」はそのうちのひとつだ(残り2つについては、機会があれば)。

とりあえず、「バオー来訪者」はこんなストーリーだ。

……秘密研究機関ドレスは、超人的な力を宿主にあたえる「寄生虫バオー」を開発し、橋沢育朗(はしざわ いくろう)を実験体として、その脳に寄生させる。育朗は研究所に送られることになるが、その輸送中の列車には、同じくドレスに拉致されたスミレがいた。スミレは予知能力をもつ超能力者で、やはり研究所に送られるところだったが、能力で危険を察知し、育朗と脱走する。

ふたりは逃亡の旅を続ける中で、ドレスの追手にいくども襲われるが、育朗はバオーによる「武装現象」を発現し、驚異的な力で追手をつぎつぎと退けていく。ふたりはおたがいの孤独ややさしさを理解し合い、深い信頼とつながりを得る。
しかし、ついに追手にスミレが捕らえられてしまう。人質となったスミレを奪還すべく、育朗/バオーは単身研究所に乗り込んでゆく。しかし研究所には、バオーを抹殺すべく、最強の超能力者ウォーケンが待ち構えていた……

だいたいこんな感じ。物語の筋立て自体はとてもシンプルだから、一度読めばわからないところはおそらくない。つまり、ここがバオーの、替えのきかない魅力ではない。
ただ、あらためて見ると、まったく無駄のない構成だ。老獪ですらある。
だから「バオー」について考えるとき、ぼくはいつも、荒木飛呂彦がこれを24歳で描いた、という事実に打ちのめされる。

24歳といえば、若造である。半人前である。そんな年齢で、彼はこれを描いた。
むしろ、若さが描かせたマンガなのだと思う。「バオー」には、どこかそういうところがある。「ぼくがおもしろいと考える最強のマンガ」を描きたい、という若気の至りにあふれている。

「バオー」をジョジョの習作とみるひともいるだろう。そういう意図が荒木飛呂彦にあったとは思えないが、だとしても、ジョジョでさらに深化するさまざまな表現は、たしかに「バオー」のいたるところにその萌芽を見ることができる。
だが、「バオー」はあんまり深読みしなくていい、と、ぼくは思う。
先のことなんか考えて描いてない。これで燃え尽きるなら自分はそこまでだ、だからここでは出し尽くしてしまうんだ、という決意をむしろ感じる。最初の数ページを読んで、これは自らのおもしろさを固く信じている者の描いているマンガだと感じられないなら、どうかしている。
とにかく24歳が描いた物語なのだ。読むほうも、勢いだけで読んだほうが、まちがえない気がする。

ところで、若さとは、なんだろうか。「振り向かないことさ」という高等古典はさておき、「バオー」にあふれている若さとは、ごく単純にいって、「ぶっ飛んだ演出」だと思う。
たとえば「バオー」は、その1ページ目から、演出が爆発している。
なにせ、バル!バル!とか謎の唸り声とともに、バオーが飛んでくる――これだけで1ページまるまる使っちゃうのだ。その先制パンチに、くらくらするしかない。

冒頭に掲示された「そいつに触れることは 死を意味する!」という魅力的な惹句ももちろんすばらしいが、余計な前置きなしに、かっこいいポージングで(飛んでくるバオーの中二感あふれるポーズ!)、説明抜きでバル!っと飛んでくる、このグイグイ押しまくってくる音と動きの勢いには、荒木飛呂彦の魅力が凝縮している。

出典:バオー来訪者 ©荒木飛呂彦・集英社

「音」と「動き」そのものを、マンガでは描けない。
アニメや映画が得意とするこの二つの要素を、マンでどう演出するかという問題に、荒木飛呂彦は画期的な答えを出した。
それがみなさんご存知、「バル!バル!」「ゴゴゴゴゴ」「バァァアーーン」だ。

たとえば何かが爆発したとき、背景に「ドカーン!」という文字を描くことは、あたりまえの手法だろう。もちろんこれは、日本語の豊かなオノマトペをマンガ表現に落とし込んだ、先人たちのマンガ技術の偉大な成果であるから、あたりまえ、というのは失礼にあたるかもしれない。
だが、ともあれ荒木飛呂彦は、こうした日本のマンガが育んできた音表現のお約束にとらわれることなく、イメージが伝わりさえすれば、一見意味をなさない文字の羅列ですら、「よし」としてしまった(その到達点がジョジョの「メメタァ」「クニオ」だろう)

この国では、表現すら、お約束の中に収まっていないと叩かれてしまう。
だから、かつては荒木飛呂彦の作品は、変わりもの扱いだった。
「バオー」のころはもちろん、その前後のゴージャス・アイリンやビーティーのころもそうだったし、たぶんジョジョ2部までの荒木飛呂彦が無理解にさらされてきた、というのは、おおむね客観的に事実だろうとぼくは思う。そしてそれは、単にマンガ家として人気がないから、というレベルより、たぶんもう少し深刻な理由があったのだ。
なぜなら、そのころ、彼のやろうとしていたことは、「常識」や「多数派」や「みずからの正義を疑わないひとびと」には、少々刺激が過ぎたからだ。

しかし荒木飛呂彦は、「おもしろそうだ」と思うならば、ひるむことなく描きつづけてきた。その自由さは、まちがいなく、他のマンガ家、あるいはマンガに限らず表現一般に関わるものすべてに、「ここまで自由でいいんだ」という勇気を与えただろう。表現の自由さとおもしろさを拡張したといっていい演出、これこそが荒木飛呂彦の歴史に残る業績だと思う。

そしてぼくが荒木飛呂彦をこころから敬愛し尊敬するのは、自分の感性を信じ抜く、というその姿勢だ。SNSでバズったマンガも、○○が選ぶ人気ベストテンも、まあなんとなく見てしまうけれど、「自分」にとってほんとうにおもしろいことを、まったく保証はしない。
そのことを、荒木飛呂彦は、今から30年以上も前にぼくたちに体を張って教えてくれていた。それを作品というかたちにしたのが「バオー」なのだ。おれの「おもしろい」を読め!どうだ、おどろいたか!
そんな気持ちのいい意気込みが「バオー」には満ちている。

出典:バオー来訪者 ©荒木飛呂彦・集英社

「バオー」はセリフもいい。
たとえばストーリー終盤、瀕死の重傷を負ったスミレを抱きかかえながら、バオー/育朗が心で叫ぶセリフがある。

――誰に誓った? 自分に誓った この少女を助けると自分に誓った! 望みは捨てない!

バオー好きに一番人気のセリフといえば、たぶんこれだ。ぼくも、墓石に刻みたいくらい好きだ。
でもこのセリフは、「そこにしびれるあこがれる」「(前略)世界一ィィィィ」みたいな、ジョジョの著名なセリフにくらべれば、まあごく普通のありふれたことばだといえる。これがなぜ、そんなに人気があるのだろう。

おそらく荒木飛呂彦は、トリッキーなセリフや擬音が目立ってとりあげられるが、ちょっと誤解されているのだと思う。彼は、セリフにせよ、擬音にせよ、必然性がなければ無理に変わった表現をしているわけでなく、描きたいことに合わせた表現をえらんでいるにすぎない(その幅が規格外に広すぎるだけだ)。その結果が「ズキュゥウン」であることもあれば、シンプルなことばのときもある。

「バオー」では、その演出の過激さにくらべて、シンプルなセリフがえらばれていることが多いように思う。この誓いもそうだ。「バオー」の場合、そうせざるをえない理由があるから、こうなっている。
それは、寄生虫バオーは荒木飛呂彦の“擬態”した姿だからだ。

「え、だって虫じゃん、御大に失敬な」と思ったかた、まあ聞いてください。
これを発しているバオーは、おそらく、はっきりとした言語で思考してはいない。寄生虫にすぎないバオーは、そのかわり、生き物の「におい」からいろいろな感情を読み取り、それに対して本能的にいろいろなことを“考える”。
育朗の体を借りてさえ、バル、バル!という唸り声しかあげないバオーは、しかしこの物語の中でかなり頻繁に、好悪の情をしめす。いや、むしろ言語で会話できないからこそ、感情を描くしかない。一寸の虫にも五分の魂というが、この一寸の虫はおどろくほど豊かな感情をもち、そして荒木飛呂彦はその感情をストレートに描く。

虫の感情に、人間の打算やみにくさ、弱さはない。むろん、人間の理屈など通用しない。大嫌いなだけで“消してやる!”とか言う。事実、バオーに対抗するため、スミレを盾にしようとした悪漢は、「なぜおれは人質なんかとったのだろう? こいつに人質なんてお笑いだ……」「こんな仕事受けるんじゃなかった……」と後悔する(もちろん、悪漢はその直後、容赦なくバオーに殺されてしまう)。
バオーの感情は、どこか幼子のように純粋だ。たとえばバオーは、無抵抗に殺された親子の無念のにおいに、こう感じる。

出典:バオー来訪者 ©荒木飛呂彦・集英社

――「バオー」が泣けるとしたなら 彼は今 まちがいなく泣いていた!

なんていいやつ(虫?)だ。
この表現は、ただ泣くより、哀しみは深い。泣きたいのに泣けないのだ。涙を流す、という行為は、ストレス物質を出し切り、本体の精神の安定を保つ役割があるそうだが(似た描写がジョジョ二部にある)、そういう自浄作用もかなわない。バオーは、ただとにかく、哀しみを感じるしかできない。
その姿に、悲哀を感じずにはいられないであろう。

「バオー来訪者」には、全体的に、どこかそうした哀しみがただよっている。その理由のひとつは、こうしてバオーが感情は豊かなのに、それを人間的に感情表現できない(たとえば泣いたりできない)不自由さにある。そのアンバランスさ、あやうさが、どこか哀しく、破滅すら予感させる――
物語後半では、バオーと育朗が融合し、寄生者と宿主は一種の共闘関係となってゆく。くだんの「誓い」は、この融合がすすんだあたりで発せられているから、これはバオーの感情だけでなく、育朗の人間的な思いも混ざっているだろう。
とはいえ、やはりその思いの純粋さは疑いえない。最後の最後まで、バオー/育朗は哀しいまでにスミレを守ることしか考えていないのだ。

そんなバオー/育朗の「誓い」に、もしも、少しでも抵抗感をおぼえたとすれば、それはぼくらが大人だからかもしれない。
世俗にまみれたぼくらが「誓う」といえば、それはもういろいろかっこ悪い些事を気にするだろう。誓いを果たせなかったときの言い訳とか、誓いなんて現実には無意味だとか、いろいろ。でも、バオーは、よけいな御託など並べないのだ。

スミレをなににかえても助けたい。ヒーローがヒロインを守るのに、いっさいの理由はいらない。その強い思いをあらわすのに、「誓い」という言い方こそがふさわしい。
どうして、こんなにバオーの誓いは胸を打つのだろう?
それはたぶん、若き荒木飛呂彦の純粋さと、バオーの純粋さは、通じているからだ。ぼくたちは、たぶん、ここに共感し、胸打たれているのだ。寄生虫バオーは荒木飛呂彦の擬態、と書いたのは、こういう意味においてである(やっぱり怒られちゃうだろうか)。

出典:バオー来訪者 ©荒木飛呂彦・集英社

そして結局、生物にとって、究極の最終局面で大切なのは、「望みは捨てない!」ことだと、荒木飛呂彦/バオーは言っている。
ほんとうに、真に、追い詰められた経験のあるかたなら、このことばの重さがおわかりだろう。あきらめるな、とよく言うが、普通あきらめるほうが楽だ。なぜなら失敗や負けを受け入れさえすれば、もう苦しまなくてすむからだ。そんな、望んでも無駄だ、というくらいの絶望的な状況というのは、世界にはいくらでもある。

だが、どんなに苦しかろうと、無駄に思えようと、そして事実明らかに無駄だとしても、望みは捨てるな、ということらしい。
たとえば、ウォーケンとの最終決戦のさなか、バオー/育朗とスミレは崩壊する研究所の中を落下していく。もはや死は避けられそうにない。そのとき、バオー/育朗は、スミレを抱きかかえながら、ことばならぬことばで呼びかける。

――スミレ 大丈夫だ 心配ない!

ほれてまうやろー。
まったく大丈夫じゃないのに、そう口にすることが、望みを捨てない、ということだ。これも、修羅場を経験したかたなら、よく知るところのものだろう。結果が問題じゃないのだ。
ぼくは、40歳を越えて、やっとこれが、ほんとうにかっこいいセリフだ、ってことが理解できた。

出典:バオー来訪者 ©荒木飛呂彦・集英社

タイトルにも少し触れたい。
ふつう、タイトルは作品の顔だ。少なくとも、まったくその作品をしらない読者が最初に出会うのは、タイトルであることが多いはずだ。だからタイトルの印象は、作品への印象を左右してしまう。
「バオー来訪者」というタイトルは、その点、荒木節の真骨頂だといえる。
「来訪者」という単語をえらんだ荒木飛呂彦の“選語”のセンスは、半端ない。さらにいえば、「来訪者(である)バオー」でなく、倒置して「バオー(すなわち)来訪者」にしているのも、小憎い演出である。
物語の中で、この来訪者ということばは、育朗自身で一回(「脅威の来訪者となるだろう!」)、ウォーケンから1回(「ようこそ、来訪者!」)語られる。どちらもちょっと唐突な感のある使われ方だ。そもそも「来訪者」という単語自体、少し意味の強い単語だ。荒木飛呂彦はこのことばに、どんな思いをこめているのだろう。
おそらくそれは、ヒーローは立ち去るのみ、という、美学のようなものなのだと思う。
ネタバレをしない範囲でいうと、最終決戦において、バオー/育朗とウォーケンおよびドリスはほとんど刺し違えることになる。スミレといっしょに単純に脱出成功、とはならない(ただし希望は残る。それがまたすばらしい余韻を残した演出だ)。
ヒーローは来訪者であり、使命を果たしたら、しずかに退場するのだ。

それにしても、もし「バオー」がここ最近に出るとしたら、タイトルは「寄生虫に寄生されたけど美少女に好かれて最強の生物兵器になりました」にされてしまうんだろうか。そんな時代に発表されなくて、ほんとによかった……

出典:バオー来訪者 ©荒木飛呂彦・集英社

以上、「バオー来訪者」をオススメできたかわからないけれど、興味をもっていただけたなら、とてもうれしいです。
で、最後にびっくりのオチとして、なんとぼくがやっているコミック専門店「COMIC ZIN」では、「バオー来訪者」を常備していない!
あまりに好きすぎて、仕事で売るのが、なんかちょっとどうなんだろうとか、グズグズ思ってしまうのです。当店は、こういうめんどくさい店員がやっている書店です。
でも、今後はちゃんと常備します。

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