本屋の本音のあのねのね 第十冊 ~世界平和の設計図「ヨルムンガンド」~

このコラムもついに十回をかぞえることになりました。ここまでこれたのも、読者のみなさまのはげましのおかげ……と、書けたらよかったのだが、ハッキリ言って、そういうことはなかった。OMG。

「このコラムを読んだら、彼女ができました」「読むたびに運気が上がり、なにをやってもうまくいくようになりました」みたいな、ハートウォーミングな感想を期待していたのだが……まだまだ精進が足りない。

ただ、もともと、読者のみなさまを置き去りにするくらいのことを書かないなら、職業ライターでもない門外漢のぼくが書く意味なんてない、とも思う。

だから誰にもエンリョせず、書きたいように書かせていただいたし、それでいいのかなー、と思っている。

夭折したSF作家・伊藤計劃氏が生前のブログで、こんなことを書いておられた。このコラムを書くとき、ぼくはこの一節を念仏のように唱えている。

「たとえ見方が個人的主観に凝り固まっていても、「おれはこいつが好きなんだ!」というほとばしる熱い想いを、ある程度はみなにわかるようにきちんと説明できている文章は、大体上の単語(引用注:浅い/深い)を使っていません。

つまり主観性とか客観性とかはあまり映画評のおもしろさに関係ないようです。「これぐらいわからねー奴は駄目な奴に決まってる」ぐらいのゴーマンさを備えているくらいのほうが面白いのです(以下略)」
(2008年8月4日「信用してはならない映画評の書き手の見分け方」より)

要するに、全方位に対して当たりさわりのない、否定のコトバがひとつもない玉虫色のコラムなんかより、ゴーマンであることを恐れず、好きをバカみたいに、ただし自分のコトバで、思い切り表明するほうが、ぼくにとっては、おもしろい。

そうすることは、敵を生んだり、他者とのあつれきを生むかもしれないが、それはもう、しかたない。ぼくは、正解のある問いを解いているわけではないし、だれかに自分の正しさを保証してもらいたいわけでもない。

ただ、おもしろいと思うマンガを、バカみたいにご紹介していきたいだけだ。

そしてゆくゆくは「このコラムのおかげで、10kgやせました」「読めば読むほど、アレが大きくなって、持続力も増しました」みたいなハッピーな声が聞けるまで、がんばります。

ヨルムンガンド_表紙

さて、そんなわけで、区切りの十回目にふさわしいタイトルをご紹介したい。

さっそくだが、一話目を読んだとき「ああ、これは自分の好きなタイプのマンガじゃないな」と見切ってしまったマンガが、あとで読んだら、自分のオールタイムベストに入る大傑作だったとわかる……そんなくやしい経験はないだろうか?

ぼくはめったにそういう読みまちがいはしない。一話目で、いや極論すればヒトコマ目で、そのマンガが自分の好みかどうかわかる。

しかし、そんなぼくがこの二十年間で、唯一、そういう大ハズシをしてしまったマンガがある。

それが今回ご紹介する「ヨルムンガンド」(高橋慶太郎 小学館)だ。

ストーリー性の強いミリタリーマンガとしては、2000年代でこれを越えるマンガは、ひとつもないといっていい。……と、エラそうなことを書いたものの、ぼくはこのマンガを連載第一回目で読んだとき、いまでもよくおぼえているんだけれど、こう思ったのだ。

「なんか読みにくいなー、このマンガ。おもしろくなーい」

ああ。もう死にたい。バカすぎる。

このマンガのスゴさ・おもしろさに、初見で気づけなかった自分のド三流っぷりを、ぼくは今でもつねに肝に銘じている。

どんなにエラそうなことをぬかしても、しょせんぼくは「ヨルムンガンド」を見抜けない程度のダメ男なのだ、と。

……ちがうか。

むしろ、このマンガがなにか“ふつうじゃない”ことには、ちゃんと気づいてはいたのだと思う。いちおう“読みにくい”というかたちで、感性のアンテナは正常に反応できていたのだから。

ただ、その反応をきちんと言語化できなかった。単に当時のぼくは、未熟だったのだろう。

とにかく、ぼくはそこで「ヨルムンガンド」をそれ以上読まないと決めて、その後長くこの作品に触れることはなかった。

それを再チャレンジする気になったのは、ぼくが好きな作家がこの「ヨルムンガンド」を激賞していたからだ。

ぼくはその作家を1000%信用しているので、すぐに全巻買って(こういうところ、ぼくは良いマンガ読みだと思う)、かるーい気持ちで、読みはじめた。

そして、5時間後に後悔した。ぼくは、こんなマンガを十年ちかくも読まずにおいたというのか。

ぼくの持っている1巻は第28刷。2012年9月とあるから、連載終了後に増刷された版ということだ。まさか、見逃すにしたって、ここまでのモノを見逃すというのは、マンガ屋として、書店員として、失格だ。

いつの日か、この作品をちゃんとご紹介しなければ、とずっと思っていた。今回、この機会に、ぜひリターンマッチをさせていただきたい。

書誌的な情報を、さっさとすませておこう。

「ヨルムンガンド」は、「月刊サンデーGX」2006年5月号から連載開始。2012年2月号で終了。連載期間は約6年となる。単行本は全11巻完結。

作者・高橋慶太郎氏はこの「ヨルムンガンド」が初の連載完結作だ(この前に未完の連載や読み切りがいくつかある)。

こんなすごいものを最初から描ききってしまっては、もう漫画家として、このあとやることないんじゃない?とすら思う。

全11巻の構成だが、全体の八割くらいまでは、ひとりひとりのメインキャラクターを順に掘り下げるエピソードに費やされる。“ヨルムンガンド”という単語が最初に本編に登場してくるのは、なんと第9巻(55話「NEW WORLD phase.2」)。

つまり“ヨルムンガンド”なるものをめぐるストーリーがほんとうに始まるのは、全巻の約八割を経過したところからなのである。

ヨルムンガンドとは、北欧神話に登場する、蛇の化物のことだ。別名・世界蛇。世界をぐるりと一周して自分の尾っぽを咥えられるくらいに巨大であることから、そう呼ばれる。

コミックスのイントロダクションとして、扉には次のようなモノローグがかかげられている。

五つの陸を食らい尽くし
三つの海を飲み干しても
空だけはどうすることもできない。
翼も手も足もないこの身では。
我は世界蛇。
我が名はヨルムンガンド。

そもそもタイトルが「ヨルムンガンド」なんだから、そりゃ最初からヨルムンガンド(と名付けられたなにか)を描こうとしてるのは当然なのだが、それがなんなのか、この文だけではわからない。

しかも、相当に話が進んでからでないと、ヨルムンガンドのヨの字も出てこない。ただ、ヨの字が実はなんなのかが明かされたとたん、この文章の意味も、バッと暗幕を取り払ったようにわかるようになっている。

伏線という名の、後付けのコジツケとはちがう。

なんというか、完成までの「設計図」がちゃんとあるマンガ、である。おもいつきで、どんどん増築していくのも、それはそれでおもしろいが(ワ○ピとか○ンピとかワン○とか)、手品の種を明かされるオドロキは、やはり格別だ。

ぼくが第一話で挫折した“読みにくさ”のひとつの原因は、この「設計図」にもあるのだと思う。

そもそも、作者・高橋慶太郎先生の描き方というか、セリフや絵は、独特でちょっとふつうじゃない。これは、慣れてしまえば、もうめくるめく快感になるので、全貌があきらかになるまで、がんばって読むことを強くオススメする。

まずはオープニングからみていこう。

ヨルムンガンド_オープニング

出典:ヨルムンガンド ©高橋慶太郎・小学館

「僕は 武器商人と 旅をした」

「ヨルムンガンド」というマンガは、この決まり文句から始まる。なんと美しく、なんと無駄のないオープニングだろう。

“武器商人”そして“旅”。

このふたつの単語だけで、読者の想像力ははげしくかきたてられるはずだ。

まず、これからはじまる物語の舞台が、そこらに転がっている平凡な日常の世界でないことが、戦場という鉄火場を渡りあるく“武器商人”という単語で示唆される。

武器商人、という設定をえらんだ時点で、このマンガの「勝ち」は決まった、とすらいえる。

兵士、傭兵、ゲリラの登場するマンガは数あれど、武器商人のマンガなどめったにない。

しかも“死の商人”などといわれるような、昼と夜なら夜の側に属する、商人のカテゴリでもとくに秘密めいた職業だ。それだけで、物語の予感しかしないではないか。

そして、旅、という単語のミスマッチ。

旅といえば、ふつうは、観光とか自分探しとかセンチメンタルジャーニーとか、とにかくそういうロマンめいたニュアンスだろう。

しかし、よりにもよって、武器商人との旅なのだ。その旅は、どう考えても世界まるごとグルメツアーとかでなく、血まみれ道中弾丸ツアーになるとしか思えない。この世でもっとも、旅路の道連れとしたくない、それが武器商人であろう。

たった一センテンスだけで、これくらいのことは考えさせてくれる。まさに、コピーライトとして完璧だ。

語り手である「僕」の名は、主人公のひとり「ヨナ(本名ジョナサン・マル)」。

過酷な過去をもつ少年兵だ。かれは子供とは思えない武器の使い手だが、両親を戦争で殺され、武器をはげしく憎んでもいる。

教育を受けていないので、3より大きい数を数えられなかったりするが、心根は純粋で、やさしい少年である。

そして「武器商人」とは、もうひとりの主人公「ココ・ヘクマティアル」。

若く美しい娘であるが、その身上はただものではない。海運王フロイド・ヘクマティアルの実子にして、武器商社HCLIの欧州・アフリカ担当。

物心ついたときには戦場にいて、天才的なウェポンディーラーの才覚を持ち、なにを考えているか読めない、ミステリアスな女性である。「フフーフ」という、へんな笑い方をするのが特徴(このへんが“高橋節”である)。慣れていただくために、連発でごらんいただきたい。

ヨルムンガンド_フフーフ1

ヨルムンガンド_フフーフ2

ヨルムンガンド_フフーフ3

出典:ヨルムンガンド ©高橋慶太郎・小学館

「ヨルムンガンド」は、武器商人であるココと、ヨナを含む彼女の護衛団たちの物語である。

さっそくストーリーについて、ご紹介したい……したい……のだが、ここでマンガ紹介コラムとしては、実は今回、ちょっとやりにくいところがある。

というのも、この作品は、上に述べたように“ヨルムンガンド”とはなにか、が明かされてからが肝なのだが、それをここで明かすのは避けておきたいからだ。ぜひ、実際に読んで、おどろいて欲しい。

ただ、ギリギリネタバレ回避で書くと、その秘密はなんと、第一話ですでに明かされている。これくらいは書いていいかなーと思うので、書いちゃう。問題のシーンはここだ。「なぜ武器を売るのか」とヨナに問われたココは、こう答える。

ヨルムンガンド_武器商人

出典:ヨルムンガンド ©高橋慶太郎・小学館

このセリフの意味するところは、のちにあきらかとなる。

さて、物語は、最終的にはココのいう「世界平和」という目的にむかっていくのだが、そういう話になるのは、すでに触れたように最後の最後だ。

それまでは、彼女とその仲間たちは、武器を売るために世界中を旅してまわる。その途中、それぞれのキャラクターの過去やトラウマが、順番にエピソードとして描かれていく。

ココの「私兵」であるかれらは、それぞれがなんらかの戦闘技術のスペシャリストである。

軍人からマフィアまで、その出自は多彩だが、共通するのは、みながココに心酔し(少なくとも雇い主として信頼し)、仲間をとても大事に考えている、ということだ。

メンバーのひとりが、「実は家族にはうそをついて、今の仕事のことを隠している」とココにうちあけたとき、「私の仕事は つまるところ悪である」「誇るバカがどこにいる?」とあっさり認め、そしてココはあざやかに、こう告げる。

ヨルムンガンド_仲間はずれ

ヨルムンガンド_仲間はずれ2

出典:ヨルムンガンド ©高橋慶太郎・小学館

「だが一つ。仲間だけは誇れ。忘れるな」

武器商人のコトバだからこそ、このコトバはとても響く。

「仲間」というコトバは、現代、ことさらに持ち上げられている気がする。ぼくは、ハッキリいってとても胡散臭いと思っている。

マイルドヤンキーが口にする“ダチ”くらい、嘘くさい。最高の仲間、一生モノの仲間、信じあえる仲間、助け合える仲間……仲間、仲間、と連呼すればするほど、薄っぺらい。こういうふうに思うぼくも実は、真の仲間、ってものにあこがれているんだろうけれど、そんなニセモノはごめんだ。

ココの「仲間」というコトバに真実味を感じるのは、たぶん、それが生死のかかった考え方だからだ。

あるいは、「仲間以外に、そもそも価値あるものがない世界」で生きているからだ。むろんココは、だれでも仲間にするわけではない。なんらかの基準があって、仲間を選んでいる。

だから、ココの配下になったということは、その基準テストに合格していることになる。たとえば護衛なんだから、戦闘員として必要な水準はあるだろう。

しかし、それだけで、命を預ける仲間になれるかはわからない。

なにが必要なのかは、説明しにくいのだが、ココのセリフからわかるのは、そこに「正義」なんてものは必要ない、ということだ。むりやり言語化するなら、「ともに生き延びること」なのかな、と思う。

ヨルムンガンド_正義

出典:ヨルムンガンド ©高橋慶太郎・小学館

ココとヨナ以外のキャラクターについても、紹介しよう。

とても長くなるが、「ヨルムンガンド」は、とくに前半から中盤までは、ほぼかれらの物語なので、かれらの紹介はすなわち、物語のあらすじでもある。なので、念入りに書いてみる。

ココの護衛チームは、新人のヨナが入った時点で、9人。

もっとも古株の「レーム」は、元デルタ。「デルタフォース」は米陸軍の特殊部隊の中でも最精鋭の対テロ部隊であり、アニメや映画などでもいろいろ描かれているから、ご存知の方もおおいだろう。

つまりその戦闘能力は超一流で、ココを狙う暗殺者には「バケモノ級」とまで称される。

名目上、ココの護衛をするPMC(民間軍事会社。オーナーがココ)の社長であり、チームのリーダー的ポジションのオッサン。

ココの複雑なメンタリティを、しっかり受け止められるだけの度量をそなえ、劇中でも何度か、ココのちょっとした逡巡や弱さを指摘し、立ち直らせる場面がある。同じ相手と結婚・離婚をくりかえしている。喫煙家。

「バルメ」は副リーダー格の女性で、元FRDF(フィンランド国防軍緊急展開部隊)のエリート。

ココにとっては「そばにいた時間は 親よりも長く」「姉、教師、それ以上の何か」とまで言わしめる、レーム以上に別格のポジション。ココのことを、全面的に認め、愛し、崇拝する。

彼女も戦闘能力、とくにナイフ技術については超一流で、劇中バルメに挑んださまざまなキャラはすべて敗れ去っている。

フィンランドの名門軍人一家に生まれ、エリートコースを邁進していたが、作戦中に自分の部隊をある男に全滅させられてしまい、そのショックで失意の底にあったとき、ココにスカウトされる。

この男への復讐をはたすエピソードが、序盤~中盤のハイライトである。爆乳。

「ワイリ」は、ココ以外で唯一、CIAのブラックリストに名前が乗っている男である。それくらいの危険人物とみなされているわけだ。

爆発物のスペシャリストで、その腕はもはや芸術。暗殺、とくに爆殺で狙われやすいココの護衛をしているうち、一流の爆弾魔の腕を超えてしまい、敵がやってきたやりかたを「そのまんま返し」して、返り討ちにしてしまう域に達している。

クールな爆破にこだわる。比較的おだやかな物腰なのに、レームにそのおそるべき経歴を聞かされ、ヨナですらおそれをなす(そのさいに使われた「ワイリヤバい」というセリフは、いっときネットで流行した)。

デルタ時代のレームとはある作戦を共にした仲で、チームの古株のひとりである。

「トージョ」は、本名・東條秋彦。日本人。元自衛官であるが、ただの自衛官ではない。公式には存在自体が隠匿されている、東南アジアの諜報組織「SR班」の出身である。だがSR班のやり方にイヤ気がさして辞職。

その後、ココの兄であるキャスパー・ヘクマティアルにスカウトされて、さらにそこからココの元へ移籍してくる。その経歴からか、交渉の際にはココの代理をつとめることがおおい。

「ルツ」は、元警察の対テロ部隊におり、狙撃のスペシャリスト。

ヨナがいないときはチームのイジラレ役であり、明るくひょうきんで、ちょっとマヌケなところもある。「レームのおっさんなら もっとうまくやる」と謙遜するが、その腕前は一級品。

ただ、近距離戦闘はニガテとしている。また、なぜか戦闘中に「尻」を撃たれる、という謎のジンクスがあり、劇中何度も尻を負傷している。

「マオ」は、元砲兵。メンバーの中では唯一の既婚者・子持ち。上で述べた「仲間だけは誇れ」といわれたのは、かれである。

家庭持ちという経歴からか、メンバーのなかでも図抜けて常識人。少銃火器がおおめの現場なので、なかなかその腕を披露する場はないが、あるエピソードでは、航空機の後部ハッチから、眼下の標的に正確に対地砲撃を成功させ、ココに「腕は錆びついてないな!」と称賛される。

「ウゴ」はメンバー内でもいっぷう変わった、元マフィアという経歴をもつ。

ドラッグで弟を亡くした過去があり、ドラッグを嫌っている。みずからの属するファミリーが、ドラッグを扱っているのを内心で嫌悪しており、そのことを見抜いたココに、ファミリー壊滅の際にひとりだけ殺されず、スカウトされる。

卓越したドライビング技術をもっており、ココの送迎や、そのさいのボディーガードをつとめる。社用車(?)として供与される車に愛情をそそぐが、なんだかんだ事件で車を失い、そのたびに手がつけられないくらい凹む。

「アール」は見た目イケメンの、元イタリア陸軍情報担当少尉。猖獗をきわめたボスニアでの情報収集活動中、CIAのジョージ・ブラック課長にさそわれ、かれのもとで諜報の世界に足を踏み入れる。

その後、物語中盤~後半、CIAの秘匿作戦「オペレーション・アンダーシャフト」の存在があきらかになるが、それは影響力の巨大すぎるココを籠絡する目的で仕組まれたもので、アールはそのために送り込まれたCIAのスパイであることがわかる。

だが、ココと行動をともにするなかで、アールはココのことを、単なる調略対象としてではなく、それ以上の存在とみるにいたる。

ココとヨナを除いた主要メンバーは、以上。

かれらは、ココに付き従って世界を旅するなかで、それぞれの過去やしがらみに直面することになる。そしてそれを、乗り越えたり、自分の胸中でそれなりに消化したり、とにかくなんとかしていく。

特に、バルメと、アールのエピソードが、物語の前半と中盤の核となるメインエピソードとなっている。このふたつのうち、バルメ編のラストがぼくは好きなのでご紹介。

かつてアフリカの作戦で部下を皆殺しにされたバルメが、仇である男を追って、勝手にチームを離れるのだが、最後には宿願をとげる(ちなみにこのとき、バルメをひとりで行かせないため、ヨナがこっそり後をつけて、バルメを助けるのだ!なんという胸熱!)。

本来、勝手な離隊は責められるべき行為で、きびしい処分があってもおかしくない。

しかし、戻ってきたバルメに対するココのコメントが、ちょっとふつうじゃない。

ふだんはバルメと呼ぶココが、「ヴェルマー少佐、私が思うのは1つだ」と敬称で呼び、そして告げる。

ヨルムンガンド_バルメ

出典:ヨルムンガンド ©高橋慶太郎・小学館

「あなたは 一人も置き去りにしなかったのだ」

初めて出会ったころをのぞけば、ココがバルメに、このようなていねいな言葉遣いをしたことは、このシーン以外では一度もない。

この場面の前で、ココは冗談めかして「今回の件ってさ、テロ実行、テロ教唆、支援」「我らは尋常ならざる悪になりつつあるな」という。

そう、ふつうの世界観なら、そうだ。

だが、ココは「尊敬します 少佐」というのだ。バルメの過去を知り、バルメという人間のことをよくわかっているからこその賛辞だ。戦場における絆の意味を知るからこそ、このセリフを口にできたのだ。

バルメは部下たちの復讐のため仇を殺害したのだから、これはあきらかに私刑である。だが、それを、平和な世界の法で裁くことはむずかしい。

おそらく、戦場には、あるいは死と隣り合わせの日常を生きる者たちには、別の法律が適用されるのだろう。

平和な世界の法など、クソにしか思えないようなリアルがあって、ミリタリージャンルである「ヨルムンガンド」は、そっち側にこそ、ひとのむきだしの本質が表れているのだ、と言いたいわけだ。このシーンは、そういう描写なのである。

なお、こういう、ちょっと“気の利いた”やりとりをして、ミリタリージャンルの魅力というひともいる(その圧倒的成功例が「ブラック・ラグーン」であろう)。それはまったく否定しない。

おそらく、もともとミリタリージャンルはつねに、演出過剰になってしまうものなのだ。なぜなら、そもそも軍隊という場自体が、演出をもとめるからだ。部下を死地に赴かせるためには、過剰な演出でもしないとならない。冷静な、ごもっともな正論など、誰が聞きたいものか。

「諸君、私は戦争が好きだ」とか「帝国軍人は、死ぬ。だが帝国は永遠である。ゆえに帝国軍人は永遠である」とか、こういった言い回しは、単なるドラマチックな演出でなく、部下を“正気でなくさせる”ために、死の恐怖をごまかすために、用いられるテクニックだ。

だから、軍における演説や命令は、とても“修辞的”で、リズミカルな表現になる。音楽と同じだ(そういえば、軍隊において、軍楽も重要な士気向上の手段だ)。

ミリタリージャンルは、こういうものを描くジャンルであるから、どうしたって同じようなことにはなる。それは「ヨルムンガンド」も同様だ。

ただ、こうした演出のテクニカルな面だけを見るような読み方は、たぶん片手落ちなんだろうと思う。

同じような意味で、銃や兵器が登場し、ガンアクションがあるだけで、ミリタリージャンルというのも、だいぶ短絡的な見方だろう。

「ヨルムンガンド」の魅力を、ガンアクションだとかいうひとは、木を見て森を見ず、だと思う。

そこで、ミリタリージャンルという、ちょっと“主張の強い”ジャンルについて、ここで補足的に考えておきたい。

まず、ミリタリージャンルは、数ある創作ジャンルのなかでも特に、「うそでないこと」を描くことに固執するジャンルである。

いいかえると、偽善やキレイゴトを憎み、“死と引き換えにできるもの”は「なにか」を、ぎりぎりまで追求するジャンルである。

そういう価値観を表現するために、ミリタリージャンルは選ばれる、といいかえてもいい。

ミリタリー作品では、ウソかホントかを量る天秤の片方には、つねに「命」が乗っている。

つまり、ものごとの判断基準が、基本的に「命の重さとつりあうかどうか」で決まるわけだ。

そんな重大な判断など、ひとの一生で、そう何度もあるわけないのだが、しかしミリタリー作品においては「コカコーラ?orペプシ?」程度の選択ですら、このクラスの判断となる。

もちろんこれは冗談だが、しかしミリタリー作品においては、ペプシを選んだらマジで殺されてしまうくらいのことは、おうおうにしてある。

それが不条理だ、と感じるのは、ふつうな世界の理屈にすぎない。そういうふつうの世界の理屈の矛盾を、あるいは“無意味感・無力感”を強調し、ふだんは隠されている世界の“すっぴんの素顔”をあばきたてるのが、ミリタリージャンルの機能のひとつだろう。

もうひとつ、いうまでもなく、ミリタリー作品では、人がかんたんに死ぬ。

あまりにかんたんに死にすぎるので、命はとてつもなく軽く描かれる。少なくとも、そう見える。

もちろん、ほんとうに命は軽いといおうとしているのではない。だが、死人の出ない戦場はない。

戦場を描く以上、ひとはかんたんに、かつ、必ず死ぬ。つまるところ、ミリタリー作品は、そうした「死の平等性」に忠実であるだけだ。人が死ぬ、という絶対的事実から目をそむけず、それに向き合うことから逃げないだけだ。

だから、ちょっと乱暴な言い方をすれば、そこで死は大したイベントではない。

少なくとも、ラブコメマンガで、主人公とその相手が、キスひとつするまでに、十巻くらい費やして、人生の一大事件みたいにあつかわれるのよりは、どう考えても軽い。十巻描いてチュー一回と、一コマで人があっさり死ぬのと、もちろん比べるのはナンセンスなのだが、ただ、ぼくたちは直感的に、現実は後者寄りだと感じるだろう。

もちろんぼくたちは、戦争や戦場における死など知らないはずだ。

ましてや、この、死の気配すら感じられないような現代日本において、死は、直視することすら困難な、おそろしい、どんなことをしても遠ざけておきたい、そういったイベントであるはずだ。

にもかかわらず、おそらく、真実はそうではない。死は、常に、われわれのまわりにある。そもそも、われわれは、かならず死ぬ。

弾丸や刃によらずとも、われわれは結局のところ、死ぬ。ただ、その避けられない確実な未来のことを、ふだん、考えないようにして生きているにすぎない。

それを、主に戦争を題材として、「ちゃんと死のことを考えようよ。みんな絶対に死ぬんだし」と促してくれるのが、ミリタリージャンルなのだと思う。

修辞的な演説も、銃や戦闘機や戦車も、ハデなガンアクションも、それを描くためのツールにすぎない。

「ヨルムンガンド」でも、おおくのキャラが死ぬ。その中には、だれとは書かないが、メインキャラのひとりも含まれる。

そのキャラは、ココとヨナを守って死ぬ。

その死は、そのほかのメンバーにとって、そして読者にとっても、重い。だが、描写としては、淡々としている。

泣き叫ぶものもおらず、お涙頂戴のシーンもない。いつ死んでもおかしくない、死と隣り合わせの日々のなかで、ココとその仲間たちは、死を過剰に恐れたりはしない。命を奪う道具を売っているのだから、死も商売道具のひとつみたいなものだからだ。

親しい者の死は、つらくて悲しい。それはココたちとて同じだ。だが、仰々しい葬式などない。

たとえば、上記のメインキャラのひとりが死んだとき、遠く離れたところでココの兄・キャスパーは、彼の護衛たちにそのことを業務連絡的に伝える。

すると、その護衛たちは、別チームの一兵卒でしかない、いわば無関係の他人の死なのに、口々にそのキャラの名に敬意を表し、献杯するのである。かれらもまた、いつ死んでもおかしくない世界で生きていて、明日にでも死ぬかもしれない。

だが、大切なものを守って死んだそのキャラの死を、プロフェッショナルとして称賛し、かれら自身もまた、どうせ死ぬなら、そんな最後でありたい、と考えたからこそ、親しいわけでもない相手に杯をかかげたのだ。

「ヨルムンガンド」がミリタリーマンガであるのはまちがいないが、その根拠は、ガンアクションがあるから、だけではけっしてない。

ぼくは、こういう「死」の受け止め方、つまり、いちいちビビったり怯えたりするんでなく、ちゃんと生きた結果としての死を、ただ受け入れるということが、ココたちの日常であり、そういう「うそのなさ」を描くところにこそ、ミリタリージャンルとしての面目があるのだと思う。

さて、とにかく「ヨルムンガンド」は、どこを掘り下げても「死」がつきまとう。

戦場を、飄々とわたりあるいているようなココだが、その本心は、「死」を憎み、恐れるものだ。実は武器を憎むヨナと似て、彼女は武器を憎悪している。

彼女はいう。「武器が嫌い。こんなズルい道具で脅された時の感情、思い出すだけで頭が割れそうになる」。

ココの遠大な野心は、そうした「死」を世界からなくしてしまいたい、というものだ。「世界平和」とはそういうことだ。

その野望実現のために、ココの護衛チーム以外に、実はキーマンがいる。

ドクター・マイアミ。本名・天田南。日本人の若い女性だ。天才的なエンジニアなのだが、本業はなんと、ドイツのおもちゃ会社勤務。

ただ、彼女の作るものは、かならず「軍事転用」されてしまうという、ロボット技術のスペシャリストだ。

ココ以上の奇人である。蝶をとても愛しており、その採集や保護のためなら、すべてを投げ打つ。

「私の研究応用して兵器作って 殺し合おうが何しようが そんな問題は 今に絶滅しそうな美しい蝶と比べたら……些末なものだよ。66億もいるんだから」「増えすぎだよ 人間」などと言ってしまうくらいだ。

このドクター・マイアミ=天田博士は、かなり幼いころのココと出会い、そこである「計画」を持ちかけられる。

そう、ココはなんとそのころから、「世界平和」にむけた野望をもっていて、しかも具体的な計画を考えていた、ということになる。その後、ココは武器商人として莫大な富を手にするが、その金はひそかにドクター・マイアミに流れ、その計画実現のため、使われるのだ。

「寝ても覚めても「計画」を思い 理論を考えろ」「私もそうする。かかる金はすべて私に言え、すべて出す」。

またもやネタバレギリギリ回避で書いちゃうが、この計画のことを、ココは“ヨルムンガンド”と名付けるのである。

物語の後半、メンバーたちのエピソードもおおむね描かれたあとで、いよいよココの“ヨルムンガンド”計画が明かされ、ストーリーは急転直下、計画実現に向けた動きを見せはじめることになる。

そして、ここからの展開が見事というしかないのは、この計画にただひとり反対するのが、ヨナである、というところだ。

ココと、まるでソウルメイトのように、根っこの部分を共有しているヨナが、計画のおそるべき内容に、拒絶を示すのだ。

この場面、そしてここからの展開には、建前と現実、理想とそれにともなう犠牲、人間の度し難いおろかさ、そういったものが幾重にもクロスして、ぼくたち読者にも突きつけられてくる。

武器商人との旅の終わりは、めでたしめでたし、ではない。だがぼくは、これまで読んだマンガの中で、こんなに“腑に落ちた”ことはなかった。

みなさまも、一度は逃げてしまったぼくのようにならず、ぜひ最後まで読んで、そしてたぶん、悩んでみてください。「世界平和」って、かんたんじゃないです。

最後に、ぜんぜん本編と関係ないことを。

「ヨルムンガンド」にはコミックスの巻末に、いわゆるおまけコーナーとして「ムンムンガンド」という短編が掲載されている。

こういうのはコミックス派には嬉しいおまけで、キャラクターの裏話とか、本編を補完するエピソードとか、いろいろなパターンがある。

で、特にぼくが好きなのが「麻雀」回。1mmも本編とは関係ない。それどころか、麻雀である必然性がまったくない。

なぜこれが描かれたのか、高橋慶太郎先生には徹底的に問い詰めたい。世界平和に麻雀が有効なのかもしれない。

このコラムが連載されている「ケムール」でも、「ケムール杯」という麻雀大会を開催するくらいだ。これもきっと世界平和のためだろう。

この麻雀回の最後は、チェキータ(レームの元奥さん)のロン上がりで終わる。

ヨルムンガンド_国士無双

出典:ヨルムンガンド ©高橋慶太郎・小学館

パイで牌を倒す、か……。

世界平和って、こういうことなのかな。あれっ、けっこうかんたんかも。

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