本屋の本音のあのねのね 第十一冊  ~2人の天才の運命的な出会い「G戦場ヘヴンズドア」~

「日本橋ヨヲコ」という漫画家に、いつ、どこで、どうやって“出会う”のか、というのは、マンガ読みにとって、けっこう重大な問題だと思う。

この、ハンパなく唯一無二な漫画家とのファースト・コンタクトは、あなたのマンガ読みとしての人生を左右するだろう。この漫画家に出会うと、それくらいのインパクトがあり、皆きっと避けられない。

日本橋ヨヲコの漫画との出会い

日本橋ヨヲコに出会う前と後では、マンガにたいする考え方が、いや、それどころか、あなたという人間そのものが、別モノになっているかもしれない。オーバーかもしれないが、ぼくはそう思う。

もしあなたが、このコラムを読むまで日本橋ヨヲコのことをしらなかったのだとしたら、この先を読む前に、よく覚悟してほしい。

日本橋ヨヲコとの出会いが、あなたを変えてしまうことは、保証できる。ただし、それがあなたを生きやすくしてくれるとはかぎらないことは、お断りしておく。

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©小学館

上の画像は、処女単行本巻末の自己紹介だ。細かくて読みにくいかもしれないが、これが1998年の日本橋ヨヲコだ。

彼女がどんなひとなのか、ふわっとでもお感じいただけるだろうか。ここにはのちに、彼女が表現するものの、原石のようなテキストがびっしり書かれている。

さて、唐突に断言してしまうが、そもそも、日本橋ヨヲコに出会っている時点で、そのひとは、この世の中において、きっと少数派だ。

なぜなら、彼女のマンガが多数派になる日は、たぶんこないからだ(売れない、という意味じゃない)。そしてその理由は、日本橋ヨヲコのマンガは、つねに少数の側にたって描かれているからだ。

最近は「少女ファイト」で売れてしまったし、原画展が開かれるなど画業も評価されていて、日本橋ヨヲコという漫画家はもうメジャー作家のくくりな気がするが、やはり作品を読めば、彼女の“核”はすこしも変わっていないことがわかる。

だから、日本橋ヨヲコを読んでいるあなたは、自分が少数派であることを、うたがわなくていい。やった!

……と、ここでうっかりよろこんでしまったひとは、おおいに自己批判すべきかもしれない。

自分がマイナーだといわれて快感があるとしたら、それはただのひねくれ者か、ルサンチマンを抱えたテロリスト予備軍か、自分を特別だと思いたいだけのヲタクか、とにかく自意識過剰なだけな可能性が高いからだ。

ほんとに少数派であるひとは、たぶん、自分が少数派であることすら気がつかない、そういうひとなんじゃないか。

多数派になりたくてなれないだけの少数派、つまり他人の目を気にしすぎるひとは、たぶん日本橋ヨヲコを最後までわからないだろうから、ムリに読まなくていいかもです。

とにかく、ほんとうに日本橋ヨヲコが好きなひとは、きっと、世界になんらかの「疎外感」を感じているひとなのだと思う。

日本橋ヨヲコのマンガは、多数派のひとがいうところの「おまえのこと、みんながバカだって言ってるよ」の「みんな」では断じてないひとのために、描かれている。

だれからも愛されるみんなの人気者、だれにでも明るく話せて、快活さをふりまいているようなナイスガイは、日本橋ヨヲコを必要としない。

もちろん、ファッションとして日本橋ヨヲコ好きを“擬態”することはできる。またそういうエセサブカル野郎はいくらでもいるだろう。

まあ、そんなのは別にクソよりどうでもいいことだが、ぼくは日本橋ヨヲコ好きなどとわざわざ自称するのは、ぼくはオナニー野郎ですと全世界に向けて絶叫するくらい恥ずかしいことだと思う。

ところで、ぼくは、日本橋ヨヲコが好きだ。

……

……ああ、恥ずかしい。

こんなカッコつけちゃう自分も恥ずかしいし、えらそうに自分は日本橋ヨヲコ読みとしてちゃんとしてるってアピってるのも恥ずかしい。そうだ、ちくしょう、ぼくはリッパなオナニー野郎だ。

だが、それを隠そうという気にはならない。というか、その意味がない。ぼくが多少、から回ったことを書いたくらいで、彼女のマンガは揺るぎもしまい。

その証拠に、今回ご紹介する作品のなかで、奇しくも日本橋ヨヲコは、あるキャラクターにこう言わせている。

「多少絵が変わったところで私のマンガは変わんないよ。安心して失敗するといいよ」。

主人公があるプロ漫画家のもとにアシスタント(という名の修行)に行ったとき、絵のヘタクソな主人公に、そのプロ漫画家が言い放つセリフだ。

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©小学館

これはキャラクターの口を借りてはいるが、日本橋ヨヲコ自身が言ったのと同じだ。

絵が、変わったくらいで、そのマンガ(の意味?価値?)は変わらない。すごいことを言っている。「私のマンガ」――どれほどの修羅場をくぐれば、そう言い切れるようになるのだろう?(純粋に読者でいたいなら、その先は知らないほうがいい気がする)絵でハッタリをきかせるだけの、イラスト紙芝居みたいなマンガしか描けない漫画家がいたとしたら、このセリフを魂に刻みつけるべきだ。

そろそろ、みなさまにもわかっていただけただろうか、日本橋ヨヲコは、こういう作家だ。ぼくは彼女を、彼女の描いたマンガを、信用している。

日本橋ヨヲコの作品

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日本橋ヨヲコのマンガはいろいろあるが、今回は「G戦場ヘヴンズドア」(小学館以下省略時は「G戦」)をご紹介したい。

現在連載中の長編「少女ファイト」とどっちにするか迷った。が、まあどっちを選んでも、言いたいことは同じだから、無問題だ。どの作品でも同じことを描いている、ってわけじゃなくて、要するに日本橋ヨヲコ作品は、どの作品も「日本橋ヨヲコ作品」としかいえない、ということだ。

「G戦場ヘヴンズドア」は単行本全3巻。1巻にまとまった豪華版や、日本橋ヨヲコ画業二〇周年を記念した「完全版」というバージョンもある。

2022年現在、新刊でいちばん容易に手に入るのは「完全版」だろう。体裁はいろいろちがうが、中身は基本的に同じだ。日本橋ヨヲコにとっては「プラスチック解体高校」「極東学園天国」についで連載三作目にあたる。

「月刊IKKI」に2000~2003年に連載。これは創刊号からの連載であった。IKKIは小学館の雑誌の中でも、明確にマイナー志向・サブカル志向の強い月刊誌だったから、「G戦」掲載には合っていたといえる(IKKIは現在は休刊)。

といっても、最後に決まった創刊レギュラーだったそうで、そういうところが“らしい”気がする。あと単行本でも紹介されているが、NHK-FMでラジオドラマ化されたことがある。

オタクATMをあてにしたアニメ化とはまったくちがったベクトルのメディア化というのも“らしい”。お金のニオイがまるでしない。

タイトルは、バッハのクラシック曲「G線上のアリア」のモジリ。線上→戦場と読み替えて、GはGペンのGにかけている。1巻巻末のインタビューによれば「Gペンの戦場で戦った者だけが見える聖域」という意味だそうだ。つまり、遊びはあるが、マンガ自体と切り離せないような必然性はなく、タイトル自体にはさほど深い意味はない。語感優先、というところだろう。

ちなみに「G線上のアリア」は、いちおうマンガの中である脇役キャラが演奏するが、読めば分かるとおり、単にタイトルコールとしての意味しかない。

突然だが、ぼくは10冊以内で完結するマンガを偏愛している。それは物語の「長さ」として、最初から終わりまでのストーリーを決めて描けるのが、それくらいが限界だと思うからだ。

巻数はただの目安だが(一冊あたりのページ数だって色々だし)、つまり「プロット」で勝負にきている作品は、それくらいの長さできれいに完結するものなのだと思う。

で、「G戦場ヘヴンズドア」は、バシッと3冊。

一見少ない。が、その密度の濃さたるや、尋常ではない。手抜きのコマ、手抜きのセリフが、ひとつもない。読むのにいっときも休めるところがない。

今回、このコラムを書くために、当然「G戦」を読み返したわけだが、正直キツかった。シェフが、その技術のすべてを注ぎ込んで作り上げたフルコースは、一度食べたら、同じ日には食べないだろう。それと同じだ。

一回読み通したら、もう、ふつうなら、半年くらいは再読しないものを、数日おきに読み直すのだから、これはキツイ。毎日フルコースを食ってる気分だ。それくらい「G戦」を読むのは消耗する。内容がむずかしいのではなく(むしろわかりやすい)、熱量を受け止めるのにエネルギーが必要なのだ。

「G戦」にかぎらず、日本橋ヨヲコ作品はどれも、とても“押し出し”が強い、といっていい。こっちのペースに関係なく、グイグイくるというのか。読んでくれ、という圧がスゴイ。3冊だからといって、ナメてかかってはいけない。

ストーリー展開

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「G戦場ヘヴンズドア」のストーリーをご紹介しよう。

ただ、あらためて文章にしてみると、やっぱり、マンガでしか表現できないものというのはあるんだなあ、とわかった。あらすじではとてもじゃないが「G戦」を正しくお伝えできない。まあ、そんなのは最初からあきらかなので、ひらきなおってご紹介します(1、2巻は詳細に、3巻は途中までで)。

2人の出会い

……大人気漫画家・坂井大蔵を父親にもつ高校生・堺田町蔵(さかいだ・まちぞう)は、家族よりマンガに没頭してきた父を憎んでいた。その反発で、小説を書いたり、父の愛人(じつは後に違うことが判明する)を寝取ったり、いろいろと屈折したおイタを重ねている。

そんな町蔵は、高校二年で転校するのだが、その新しいクラスで、終生の相棒となる、長谷川鉄男(はせがわ・てつお)に出会う。鉄男は、一見おとなしく、荒れている町蔵とはまったく接点がなさそうな、目立たないタイプの少年である。

かれはとある理由でかつてマンガを描いていたが、最近は筆を断っていた。しかし、高額な賞金がでる漫画賞をみつけ、金がどうしても必要な鉄男は、ふたたびマンガを描き始める。

ある日、そんな鉄男が教室で描いていたマンガを、町蔵がバカにし、原稿を破ってしまう。すると、鉄男を盲目的に愛しているエキセントリックな幼なじみ・菅原久美子があらわれ、町蔵を襲う。鉄男が止めなければ、あやうく町蔵は男性機能に甚大なダメージを受けるところであった。

しかしそれで収まらない久美子は、鉄男を侮辱したことへの報復に、「いちばん大事にしているものを出せ」という。やむなく町蔵は、ひそかに書いていた小説を、衆目の前にさらす。久美子はそれを「鉄男の好きにしな」と鉄男にわたす。

その小説を読んだ鉄男は、握手のように右手を差し出して、いう。「坂井大蔵のにおいがする」「なんだろう、すごくいい」「こんなものを破くなんてできないよ」。

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©小学館

町蔵の小説を読んだ鉄男は、それを原作にマンガを描きたい、と町蔵をさそう。ためしにそれまで鉄男が描いていたマンガを読ませてもらった町蔵は、技術は高いが、その無難な内容に失望する。

しかし、ひょんなことから、鉄男が小学生のころに描いていたマンガを読み、その背筋の凍るような圧倒的内容に驚愕する。かつてこれだけ描けたのに、なぜ、今の鉄男が描いたマンガは、上っ面だけのものになっているのか……

町蔵は、中途半端な原稿を漫画賞に出そうとする鉄男を止め、どうしてこんなものを描いているのかたずねる。すると鉄男はいう。「作れないんだ、ストーリーが」「もう言いたいことがないんだ」「オレは、からっぽだから堺田君にひかれたんだよ」と。町蔵は悟る。「ああ、こいつもか」「誰にも、期待してないんだな」。鉄男にふかく共感した町蔵は、戦友としてともにマンガを描くことを告げる。

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©小学館

<原作>と<作画>という役割分担で、おたがいを補い合えることを悟ったふたりは、急ピッチで原稿を進めていく。

漫画賞への挑戦

そんなとき、かれらの前に、鉄男の父・阿久田鉄人(あくた・てつひと)があらわれる。かつて、マンガにとり憑かれて、妻と別れるにいたった過去をもつかれは、坂田大蔵の連載する雑誌・少年ファイトの編集長を一度は左遷されたが、返り咲いたのだった。

父を、家族を取り戻したかった鉄男は、小学生のとき、その思いをマンガにたくして、阿久田に送ろうとしたが、そのことは母親を絶望させてしまった。鉄男がマンガを捨て去ったのはそのときからだった。つまり、マンガに家族を壊された点で、町蔵と鉄男は、よく似た境遇であった。

その後、病に倒れた母親の治療費捻出もかねて、漫画賞にチャレンジすることを決めた鉄男であったが、マンガという手段をえらんだのは、それしか父とのつながりを見いだせなかったからでもあった。しかも、この漫画賞を主催するのは、偶然ながら、ほかならぬ阿久田が編集長をつとめる少年ファイトなのだ。

鉄男がマンガを再開した理由を知り、そして父親との因縁も知った町蔵は、「今なら書けないものはない」というくらい筆がのって、ネームを仕上げていく。そしてついに原稿が完成する。それを父の担当編集に手渡したそのとき、阿久田がその場にぐうぜん居合わせる。

阿久田は、町蔵が坂井大蔵の息子であると察し、マンガの世界で生きるということはどういうことか、容赦ないコトバで宣告する。

「君にこれから必要なのは絶望と焦燥感」「何も知らずに生きていけたらこんなに楽なことはないのに」「それでも来るか、君はこっちに」。

そのコトバは町蔵に、それまでの荒れた生活を捨て、マンガの道に生きることを決意させる。そして、ふたりの合作でしあげたマンガのペンネームを、あえて鉄男の本名そのままの「長谷川鉄男」にし、漫画賞の選考でそれを目にするであろう阿久田に、無言のメッセージを送る。

漫画賞に応募したあとも、町蔵と鉄男は次作に取り組み始める。そんなマンガ漬けの日々のなかで、町蔵と鉄男は絆をふかめていく。しかし、ある日、久美子がとつぜん失踪する。久美子は以前から、ストレスが頂点になると奇行に走るのだ。

鉄男に献身的に尽くす久美子であったが、鉄男のかかえる闇はふかく、それを癒せるのは、町蔵とともにマンガをつくるときだけであると察した久美子は、無力感を感じ、失踪するにいたったのだ。町蔵や鉄男たちが総出で彼女をさがしまわり、ついに久美子を発見する。

久美子はかつて、バレーボールの有力選手だったが、ケガで選手生命を断たれ、絶望のあまり、手首を切って自殺しかけたことがある。そんなどん底の彼女に、なにも変わらず接してくれたのが鉄男だった。鉄男を守っているような久美子だが、実は鉄男に、過剰なまでに依存し、かつ救われていたのだった。だから、鉄男に必要とされないことは、久美子にとっては、ストレスなのだ。

そんな久美子をむかえにきた鉄男は、なにも聞かず、ただふだんどおりに「今日のごはん何?」と言って、彼女の手を取るのだった。

その帰路、町蔵は久美子に、今とりくんでいるマンガのネームを読んでもらう。久美子は、鉄男と自分をひきはなす町蔵とそのマンガに複雑な思いがあったが、そのネームを読むや、涙をながす。

じつは、町蔵にインスピレーションを与えているのは、そんな久美子であった。彼女をモデルに書いたネームは、彼女が「なんでわかるの」というくらい、彼女のことを理解して書かれていたのだった。町蔵、鉄男、そして久美子の関係に、なにか変化がおきようとしていた。

父との関係

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漫画賞は佳作であった。望んだ結果ではなかったものの、一定の成果をあげたといえた。後日、その授賞式が行われ、ふたりは出席する。

審査委員長の坂井大蔵が、順に受賞者へトロフィーを手渡していく。それまでマンガを描いているのを父親に隠していた町蔵は、そこですべてバレてしまうことに腰が引けていた。が、一方でこの結果を、多少なりとも認めてもらえるのでは、と期待もしていた。

しかし壇上で、大蔵は思いもよらぬ行動に出る。なんと、町蔵には目もくれず、鉄男を見るやいなや、万感の思いをこめたように抱きしめて、「よかった」とつぶやいたのだ。状況が理解できない町蔵。

――じつはかつて、マンガに悩み、筆を折ろうとしていた大蔵は、川にマンガを流して捨てている少年に出会っていた。それは、父親に送ろうとしていたマンガを、母に拒絶された鉄男であった。

鉄男の描いたマンガをみた大蔵は、そのおそろしいまでに「完璧すぎる」「自分のエゴを一切排除した作品」に不気味さを感じる。その狂気ともいえる自制は、ただ父親に、認めてもらいたいというだけの、ささやかでありふれた願いの産物であった。

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だが、そんな作品を描かねばならないまでに追いつめられた少年に、大蔵はなにをしてやれるかと自問し、そして、マンガを描きつづけよう、と誓う。つまり、鉄男は大蔵にとって、マンガを描く根源的なモチベーションのもとであったのだ。ゆえに、少年が今、ふたたびマンガに戻ってきてくれたことに「よかった」と漏らしたのである――

そんなハプニングのあと、ファイト編集長・阿久田が登壇し、受賞者たちに驚愕の事実を告げる。「順位は、厳正なる抽選(クジ)で決めた」「現時点での君たちの実力なんて、クジで決めても大差がないということだ」。そして、一か月以内に、単行本一冊分のネームを持ってこい、その中から一人を本誌で連載させる、と。しかも、原作を書いた町蔵も、今回は「マンガ」を描け、と指示される。

受賞者たちみなは、それぞれの思いをいだきながら、この課題に取り組んでいくことになる。

だが町蔵は、父の眼中に自分がなかったことにショックをうけ、ひとり会場をあとにしていた。そんな傷心のかれに、父の担当編集が、大蔵のモチベーションのもとである、かつての鉄男が描いたというマンガを、手渡す(実は、大蔵自身が町蔵に読ませるため、ひそかにそれを託した)。

町蔵は「鉄男がここまで自分を殺した原稿なんて見たことがない」と泣きながらそれを読む。父を突き動かしていたものの片鱗を、たしかに町蔵も感じたのであった。

だが、結局のところ、家を出ていく母親を止めもせず、父がマンガを描きつづけていた理由は、鉄男のためであった。そこに町蔵という要素はないのだ。それを知ってしまって、どこか裏切られたような気分になってしまう。

しかも、町蔵の創作の源泉である久美子も、結局は鉄男のために動いている……

町蔵は呻吟する。「俺の欲しかったものは、すべて鉄男が持ってたんだな」と。

もうマンガを描くしかない、と悟った町蔵は、授賞式で会った他の受賞者のひとり・猪熊に連絡をとる。「頼むマンガの描き方教えてくれ」。

猪熊は、かれがかつてアシをしていたプロ漫画家・町田都(まちだ・みやこ)の仕事場に、町蔵をつれていく。ここで泊まり込みでアシスタントをし、マンガの修行をさせようというのだ。

イチから学び始めた町蔵は、すべてを持つ鉄男に、もうマンガで勝つしかない、と思い詰めていく。一度はともに汚れてやる、と約束した相手なのに。しかし、そんなかれに、猪熊は告げる。

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すれ違う2人

一方、もう先が長くない母親に、マンガを描いていることを告げられない鉄男。学校の進路希望でも、医大に進むといいだして、周囲がざわつく。

そんな鉄男に、町蔵は殴りかかってしまう。町蔵をマンガの世界に引き込んだのは鉄男であり、もう町蔵も戻れないところまできていた。それを見捨てるというのか。

殴られた鉄男は、うわごとのように「ごめんなさい」とくりかえす。異様な光景に、みな言葉を失う。それは鉄男がかつて、マンガを描いたことで母を追い詰め、病に倒れさせてしまった、というトラウマのあらわれだった。鉄男は、自分はマンガを選んではいけない、と思っているのだ。

気まずさを乗り越えるように、町蔵は修行をつづける。そして、他の受賞者たちにも会って、それそれの背負うものを知ることで、じょじょにマンガとの向き合い方を固めていった。

しかし、そんなとき、鉄男の母が亡くなってしまう。

葬儀を済ませた鉄男は、町蔵に「さよなら」と別れを告げる。

そして、狂気を感じさせるような取り組みで、原稿を描きはじめるのだった。

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いよいよ、阿久田の出した課題の〆切がきて、その結果が発表された。町蔵(と猪熊)は結局原稿を仕上げられなかったが、吹っ切れたような風情であった。

連載を手にしたのは、鉄男。

そしてサプライズで、町蔵もまた、読み切りを描くよういわれる。ただ、そこで差し出されたネームは、かつて一読した久美子に涙を流させたネームであり、それがなぜか阿久田の手にわたっていたのだった。そのネームを他人に見せたのは、久美子と、修行先の町田都と、もうひとりだけ……

阿久田は総評として、告げる。

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町蔵は、父の愛人と思っていた裕美子が、実はかつて父をこえる人気を誇った漫画家・石波修高であったことを知る。彼女が、町蔵のネームを、ひそかに阿久田に推薦していたのだ。町蔵は、彼女の、そして父の想いを知り、マンガに、ゆっくりと、だがまっすぐ取り組んでいく。

いっぽう、鉄男の連載は、またたく間に大ヒットとなる。だがその連載は、さらに鉄男を追い詰めていくことになる。

そして、ついに鉄男は限界をむかえ、おのれの手首を切ってしまう。連載継続の危機、そして漫画家としての危機……

鉄男が助けをもとめたのは、町蔵だった。

「さかいだくんたすけて」。

……

あらすじはここまで。

ここから先は、もう文章で書けるようなものじゃないです。

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G戦場ヘヴンズドアを読んで

「G戦」を読み終わったとき、ぼくは毎回、これはいったい、なんについてのマンガだったのだろう、と考えてしまう。

たとえば……

「G戦」を“漫画家マンガ”に分類することに、ぼくははげしい抵抗感をおぼえる。

このコラムを書く前に、いちおう軽くネットをさらっているが、そこにも「バク○ンと似てる」などという、キサマ日本橋ヨヲコを読む気があるのか!な感想がゴロゴロしていた。もちろん、ふたりの主人公が協力してマンガを描き、プロを目指すという見た目は似ていると思う。だが、「G戦」はただの“業界モノ”マンガではない。プロの漫画家や編集者が登場し、マンガを描く過程がリアルに描かれていても、ちがう。

日本橋ヨヲコ自身も、「G戦」はマンガ家になるプロセスを描いているようにみえるが、マンガを描きたい・マンガ家になりたい、というひとにはむいてないマンガだ(そういう目的なら「サルまん」を読め、と言ってる)、あくまでも「G戦」では「戦友モノ」を描きたかった、とインタビューで述べておられる。また、べつのところでは「町蔵と鉄男(というキャラクター)を描きたかった」とも言っておられる。これらを額面どおりに受け取るかどうかは別として、とにかく、単純な“漫画家マンガ”ではないだろう。

たぶん、なにかのジャンルにカテゴライズすることは、ちょっとちがうんだと思う。わかりやすくレッテルを貼るのは、かならずしも悪いことじゃないが、大事なことを見えにくくしてしまうこともあるんじゃないか。「G戦」は、漫画家マンガでも、青春サイコーマンガでも、サブカル風味バディマンガでも、どれでもない気がする。

では、なんなんだ、と問われると……うまく言語化できないのだが……ぼくなりの答えは、いちおう、こうだ。

「G戦」は、ゼロをイチにすること、その「価値」についてのマンガだ。

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なんだかわかりにくいから、このことを考える補助線として、「架空の傑作」のことを考えてみたい。
「架空の傑作」とは、漫画家・小説家・役者・音楽家・画家などのクリエイティブ職をあつかうマンガで、作中によく出てくる「なんだか現物はわからないけど、とにかくそれを見た者に、とてつもない感動を与える傑作」なる架空の作中作(あるいは同意の成果物)のことだ。

たとえば、「ガラスの仮面」の「紅天女」。作中作としては、マンガ史上もっとも有名だろう。演劇史に名を残す傑作とされている。だが、もちろん、リアルではだれも最後まで見たものはいない(……と思ったら、最近はいろいろなかたちで現実化されているそーな。オペラとか。まあ現実化しているが再現できたわけじゃない、ってことで)。

あるいは音楽系のマンガだと、演者の「すごいパフォーマンス」が目白押しだ。たとえば「のだめカンタービレ」では、主人公・のだめが(めったに見せないが)ここぞという物語の決定的な場面で、卓越したピアノを弾く。これがなければ、のだめはただの奇人変人でしかない。他にも、バンド、バイオリニスト、そして歌……とても挙げきれない。だがもちろん、どれにしても、実際の演奏じゃないから、なにがどうすごいのかは、わからない。

絵(を含む美術系)は、ことさらに“なんかすごい”描写がめだつ気がする。やはり、マンガもカテゴリとしては“絵ジャンル”のひとつだから、親和性が高いのであろうか。他ならぬ日本橋ヨヲコの「極東学園天国」では、主人公のひとりが、部屋ひとつをまるまるキャンバスに見立てて描く絵が、学園の存続を左右するほどの「すごい絵」とされる。だが、それはハッキリとは描かれない。なんかすごい、とだけ、キャラクターによって語られるのみだ。

つまり、「架空の傑作」は、なにがすごいのかは、ハッキリしないことがおおい。いや、大半がよくわからない、といってもいい。

そのいっぽうで、こうした作中作を、実際にかたちにしてしまうこともある。
作中作を実作するケースは、媒体を問わず、いろいろ挙げられるが、アニメにちょっと多めかなー、という気がする。

たとえばアニメ制作を題材にしたアニメ「SHIROBAKO」では作中作「えくそだすっ!」「第三飛行少女隊」を丸々一話作ってしまったし、「げんしけん」では作中キャラがどハマりしている「くじびきアンバランス」という架空アニメを実作してしまった。ただ、こうした作中作は、よくも悪くも、悪ノリの一歩手前であって、ファンには楽しいサービスだが、内容については冷静に、すこし割り引いてみなければならないだろう。

だが、なかには、本編そのものと深くかかわる、作品そのものに同化しているような作中作もある。

たとえば、アニメ「響け!ユーフォニアム」(およびそのスピンオフ映画「リズと青い鳥」)では、じっさいに架空の音楽が、ちゃんと作曲・演奏され、視聴者はなんだかよくわからない架空の音楽でなく、楽曲のリアルな現物を聴くことができる。高校吹奏楽部を舞台にするこの作品はじつに凝っていて、「上手/下手」な描写を、ちゃんと「上手/下手な演奏」をすることで表現する。ある場面では、うまい演奏と超うまい演奏を区別するため、うまいほうはリアル大学生に、超うまい演奏はプロの奏者にさせたりもしたとか。その良し悪しは、ぼくのような音楽のシロウトですら、聞けば、いちおうどちらが優れているか、わかるくらいには差がある。

メジャーどころでひとつ挙げておきたいのが、映画「魔女の宅急便」。

劇中で、主人公の魔女キキが、魔女の力を失って、失意の底にあったとき、友人ウルスラの描いた「絵」をみて、感動し、乱れていたメンタルを癒やす場面がある。

あたりまえだが「その絵を見たキキは、なんともいえない感動をおぼえ、心が軽くなるのを感じた」とか、そんな描写に「逃げる」ことは、映画ではゆるされない。「その絵」を、そのものズバリを、実際に表現しないといけない。そして「その絵」は、キキ、そして視聴者たちがそれを見て、ちゃんと感動し、メンタルが癒やされるようなものでなければならない。おそろしいハードルの高さだ。で、ここでいっさい逃げないのが、おれたちのパヤオ監督である!

もちろん、みごとな絵が登場するのだ。といっても、このウルスラの絵は、宮崎駿が描いたんじゃなくて、ある中学校の養護学級でつくられた版画をもとに、作画監督が仕上げたものだとか。だとしても、この版画をえらんだ宮崎駿(かスタッフのどなたか)の眼力は、一流というしかない。少しググったら、絵が怖い、とかアホな感想が出てきてウンザリしたのはさておき、まあなんだかんだでジブリすげー、ということだ。

なにがいいたいかというと……

つまり、マンガ(やアニメや小説)で、「すごいマンガ(アニメ・小説)」と、文字や絵で書くのはカンタンなことだが、それが実際、どう「すごい」のかは、「響け!ユーフォニアム」の楽曲や「魔女の宅急便」の絵のように実作として出されないかぎり、明らかにされない。

「すごいマンガ」と表現してしまうことは、逆に、すごくない、と感じることもゆるされない。すごいものはすごい、と押し付けられるだけだ。なにがすごいのかも、わからぬままに。

これは、最悪だ、とぼくは思う。

作者自身はそんな傑作を描けないけれど、自分のマンガの登場人物には「すごいマンガ」を描かせることができる。もちろん、そういうハッタリができるのが創作の利点ではある。

だが、このハッタリは、自分なりの価値判断ができる(あるいはそういう姿勢を大切にしている)ひとからすると、ウザい押し付けでしかない。あるいは京アニやジブリのように、実際に「すごい」ものをちゃんと作れるほうからすると、姑息な逃げでしかない。

すごい、すごい、と、語彙のなさを暴露するような、アホっぽい言い方もなんなので、ちょっとここでマジメに言い換えておこう。

要するに、「すごい」改め――「価値」の問題なのだ。

ぼくは、価値を、ひとに押し付けられるのが、全存在をかけてキライだ。京アニやジブリが誠実なだけでなく卓越しているのは、「価値をぼくに判断させてくれる」ような作品しか作らないからだ。かれらは「すごい」を押し付けない。すごくない、といわれることから逃げない。

「架空の傑作」は、いわば、“坑道のカナリア”だ。

つまり、その作品において、作者がどれくらい、「価値」にたいして誠実か・真剣かを、「存在しない価値の扱い方」というかたちで、あらわに示すリトマス試験紙だ。

もし、その作者が、価値に、そのかけがえのなさに、唯一性に、きわめて鈍感だとしたら、かれはきっと、その架空の傑作を、こんなふうに雑に扱うだろう――だれが見ても感動し、賞とかとりまくっちゃって、しかも、爆売れ。みたいな。

あっ、ちょっとあるマンガを思い出して、腹が立ってきちゃった。

そうでなく、価値に敏感であるなら、その架空の傑作は、きっと、「それ自身の評価を固定化する」ようないかなる評価も、拒むであろう。

さて、日本橋ヨヲコと「G戦」では、どうなんだろうか。

「G戦」には、この「架空の傑作」が、おびただしい数で登場する。

冒頭から、坂井大蔵の「俺達の挽歌」というマンガ(どうやらボクシング漫画らしい)が出てくる。このマンガは、鉄男や、一般読者を勇気づけ、そして最初このマンガを書店の店頭で足蹴にしていた(やめてー)町蔵すら、最終的に認めることになる。大蔵のマンガは、他にも「標準時死後線」など数タイトルが作中で登場するが、どうやら、どれも「架空の傑作」としていいレベルのようだ。

町蔵と鉄男が、タッグを組んでつくっていくマンガたちも、「架空の傑作」に近いものだろう。町蔵のネームを読んだ久美子は、涙をこらえきれなくなるくらいだ。また町蔵のネームには、裕美子(正体は大蔵に匹敵するマンガ家・石波修高)も激しく反応し、性的興奮すらおぼえてしまう。

だが、「G戦」でもっとも「架空の傑作」にふさわしいのは、鉄男が、父に向けて描き、母を倒れさせ、そして坂井大蔵をして「完璧」といわしめた、かれが川に流そうとしたマンガであろう。

もちろん、1ページも、このマンガの実際の現物は、表現されていない。

ただ周囲がみな、こいつはすごい、と口々に言っているだけだ。この点で、作中作を実作している京アニやジブリより、日本橋ヨヲコは不誠実だ……といえるだろうか。

そんなことはない。あるわけがない。

「架空の傑作」を、真の傑作たらしめるために、日本橋ヨヲコはあらゆる手を惜しまない。鉄男のマンガをめぐる、さまざまな人間たちの、苦悩や挫折、希望や再生を、マンガ表現を尽くして、示そうとする。また、そのプロセスを追うことで、「架空の傑作」の見えない姿が、じょじょに浮かび上がってくる。
存在はしないものを、存在させる……つまり、ゼロを、イチにすること。

のちに、日本橋ヨヲコは次作「少女ファイト」のなかで、あるキャラクター(いっちゃうと、なんと鉄男と久美子の娘である!)に、マンガについて、こう語らせている。

「漫画はどんなに絵が上手くても、すでにある1を2にしかできない人はプロにはなれない」「どんなに絵が下手でも0を1にできる人だけが生き残る」

「G戦場ヘヴンズドア」というマンガは、いくつもいくつも、「架空の傑作」を登場させながら、けっしてその「価値」を、乱暴に、雑に、ぼくたちに押しつけることはしない。価値判断を読者にちゃんと預けてくれる。そのうえで、作者が届けたいその「価値」をわかってもらうために、必死で表現してくる。

日本橋ヨヲコのマンガを読めば、その必死さは、どなたにもわかっていただけるだろう。

そして、日本橋ヨヲコのおそろしいところは、この必死さの先まで、突き詰めようとしていることだ。

つまり、必死であれば、かならず伝わるのだろうか。そうではあるまい。そうでない、という残酷な現実を、オトナであれば誰しも経験しているだろう。だから、その必死さの先を、彼女もまた、追い求めたのだ。

そのことを「G戦」のなかで、はっきり描いているシーンがある。

町蔵が、かれなりに必死でやってはいても、どうしても満足のいくものができない。それに苦悩し、師事するプロ漫画家・町田都(まちだ・みやこ。ちなみに既作「プラスチック解体高校」の登場人物でもある)に、マンガに必要なものはなにか、と問うシーンがある。ここは、「G戦場ヘヴンズドア」の、かくされた裏クライマックスなんだと、ぼくは思っている。

G戦場ヘヴンズドア_17

©小学館

こう問われた都は、自然に、しかしありったけの揺るぎなさをこめて、こう答える。

G戦場ヘヴンズドア_18

©小学館

「人格だよ」。

マンガについて放たれた、もっともおそるべきセリフが、おそらくコレだ。必死さの先で、漫画家が試されるのは、「人格」だ、というのだから。

ぼくの知るかぎり、コレ以上に、逃げ場のないセリフはない。

これは、きっと、とっても残酷なセリフなのだ。あるいは、答えられないはずの問いに、反則技で答えを出すようなものなのだ。ぼくは、これはリッパな答えだと思う派だが、これが、実はなんの答えにもなってない、という解釈もゆるされるだろう。

たとえば、マンガ評論家・夏目房之介氏はこのセリフについて、

「技術や主題やメディアの力をとりあえず「越えた」レベルを想定すると、たしかに「人格」としかいいようがない要素が残るかもしれない」

と指摘している。なるほど、さすが夏目先生、冷静ですなー。ぼくのように、日本橋ヨヲコに思い入れがありすぎる読者でないから、このセリフ、つまり「人格」が、なんでも解決できる印籠のようなものじゃないことを、見抜いておられる。

たしかに、「人格だよ」といわれて、すべてわかったような気になっちゃうのも、どうかと思う。むずかしいところです。

いずれにしても、なにかを生み出そうとするのは、とってもタイヘンなことだ。

「G戦場ヘヴンズドア」は、ぼくにとって、その“産みの苦しみ”を、すなわち、ゼロをイチにすることを描いた、もっとも信用できるマンガなのである。

……

最後に

具体的にはとても書けないが、こういう仕事をしていると、金、もしくは自尊心を満足させることに終始しているようにしか思えない、そんなマンガを避けて通れない。ぼくは、それを世界に流布するのに加担している。そう思うと頭がぐちゃぐちゃになる。そういうとき、ぼくはもう必死で日本橋ヨヲコに逃げ込むことにしている。

本棚を乱暴にかきまわして、どの作品でもいいから日本橋ヨヲコのマンガをひっぱりだし、どのページでもいいからとにかく読む。オアシスに命からがら辿りついた旅人のように、命からがら読む。そしておおきく息をつく。

ああ――マンガは、まだ、大丈夫だ。

日本橋ヨヲコはいつでもそう思わせてくれる。

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