本屋の本音のあのねのね 第十二冊 ~「恋は光」刹那的な出会いは時間を超越し得るのか?~

誰でも一度くらいは、「マンガの結末に納得いかない」と思ったことがあるだろう。

たかがマンガ、されどマンガ。やはり納得いかないと、物申したくなるものである。

たとえば、予想と真逆だったり、唐突すぎたり、必然性が感じられなかったり……あげればキリがない。

一読者としては、マンガをどう終わらせるかは、作家の自由(専権事項)だと思ってきた。だから、納得いかなくても、ガマンしてきた。別にそのマンガは、ぼくの所有物ってわけではないし。

マンガは誰のものか?という問いは、いろいろな切り口で答えられる。たとえば、商品としてのマンガは、ほとんどが版元(出版社)に帰属するだろう。

だが、作品の製作者という点に重きをおけば、作家のものだ、とだっていえる。目的・存在意義、という側面からは、読者のもの、という言い方だって、まちがいじゃないだろう。

そういう前提で、マンガの結末は、誰が決めるのか?と考えてみる。ごく自然に考えれば「作者でしょ?」だろう。

だが、オトナになってしまったぼくらは、そんな単純じゃない、って思ってしまう。

そこには、商品としての売上をあげるために、編集者の考え、掲載誌の方向性、といった外圧があるんじゃないか。そういう疑いは当然浮かぶ。

だが、そうした忖度をふまえても、やはり、マンガをどう終わらせるか、ということを決めるもっとも決定的な意思は、なんだかんだで、作者自身にある、とぼくは思う。

それを示す例として、車田正美先生による「男坂」のラストが象徴的だ。このマンガは半ば打ち切り的に終わったのだが、そのことに車田先生は当然納得しておらず、なんとラストシーンに「未完」とデカデカ描いてしまったのだ。

すごすぎる(この伝説的ラストのインパクトはさすがに大きく、なんと21世紀になってから「男坂」は再開した)。

©集英社

つまり、作者が決めた終わらせ方は、おおむねその意志に沿って原稿に描かれる。それを止めることは、(あくまでも原則では)できない、と考えていいのだと思う。

描きたくないマンガ家に、ムリヤリ描かせることは、暴力的な手段でないかぎり、できないからだ。端的にいえば、「できない」と「やるべきでない」はちがう、ということだ。

たとえば掲載誌のイメージを壊すようなラストは、「できない」のではなく「やるべきでない」というだけのことだ。

では、結末に、読者は介在できないのか? ここまでの理屈でいえば、できない、ということになる(読者の介在そのものをあらかじめ組み込んだ、インタラクティブな作品は別。たとえばPBMとか)。

むろん、作者へなんらかの強いメッセージを送り、それによって作品づくりに介在できる可能性は残る。好きなキャラクター宛のバレンタインに、1tのチョコを贈れば、さすがに作者も、そのキャラクターを無為にあつかうことはしにくい……んじゃないかなー。

でも、それは別種の暴力であるから、やっぱり、良い子はマネしちゃダメなやつだ。

まあ、とにかく、どんなに読者が納得しようがしまいが、ラストのページを実際に描くのはマンガ家であって、それがすべてだ。

それをあとからどうこうはできない。いちおうそんなふうに了解しておきたい。

で、それをふまえて、ぼくが今回ご紹介したい作品「恋は光」(秋★枝 集英社)は、ぼくがこの二十年くらいで読んだマンガのなかで、もっとも「結末に納得できなかったマンガ」である。

恋は光

©集英社

……と書くと誤解されそうだが、ぼくはこのマンガを批判するつもりは微塵もない。むしろ、まったく逆だ。

このマンガのストーリー運びや伏線は明快で、結末にケチをつけられるところは、まったくない。むしろマンガとして、この「恋は光」には好感しかない。

作者「秋★枝」先生の最高傑作だと、ぼくは思っている。つまりぼくは、このマンガがとても好きだ。

じゃあ、おまえはいったい、なにに納得できないんだ?ということなのだが、つまり、こういうことだ。

このラブコメマンガには、ふたりのヒロインがいる。

主人公の青年は、ラストで、そのうちひとりを選ぶ。

そのひとりを選ぶのは、話の流れ上、まったく不自然ではない。むしろ、その結末にむけて、物語はきちんと進んでいる。

なのに……ぼくは、自分の、あらゆる感性・悟性から、もうひとりのヒロインが選ばれるべきだ、選ばない主人公は絶対おかしい、と思わざるをえないのだ!

えーーー、もう、これで好きにならないって、この男、狂ってるよ!

ぼくが今回、「恋は光」をオススメするのは、だから、納得できない同盟を立ち上げて……じゃない、もとい、なんとか自分でも納得したいのだ。

このありえない結末を。いや、ちがうな。納得はきっとできないんだけど、一読者の、このマンガを好きであるがゆえの叫びを、聞いていただきたいからなのだ。

とにかくお付き合いくださいませ。

「恋は光」の作者「秋★枝」

©集英社

「恋は光」は、2013~2017年に「月刊ウルトラジャンプ」で連載。単行本は全7巻で完結している。

ウルジャン関連だと、この「恋は光」の習作といえなくもない「恋愛視角化現象」をこれの前に連載している(全2巻完結)。

作者の「秋★枝」先生は、東方project系の同人作家として人気を博しており、ごく自然に商業デビュー。恋愛マンガに定評があり、いつしかついた二つ名が“恋愛マスター”。

ご本人は相当に照れておられるようだが、ぼくは秋★枝先生の恋愛マンガは、ちょっと他の作家では描けない独自の世界観があって、マスターの称号は伊達ではないと思っている。

リアリティ重視のオトナのラブストーリーとちがって、すこしファンタジーというか、理想というか、そういうものが混じった恋愛ものを得意にしていると思う。

なお、秋と枝のあいだの「★」は、中を塗ってないとダメ。☆はまちがい。

ところで、ぼくがこのマンガをコラムの題材に選んだのは、打ち合わせメールの記録によれば、2021年9月のこと(このコラムは、候補のマンガを、いくつか先に出しておくスタイルです)。

なんでこんなことを書くのかというと、2021年「12月」に、なんとこのマンガの実写映画化が発表されたのだ……! こりゃマイッタ!

今回、「恋は光」を書く順番になって、「まあ、ラブコメについては、そのうちなにか選ぶつもりだったけど、「君に届け」みたいなメガヒット作は好きだけど避けたいし、秋★枝先生好きだし、いかにもこのコラムっぽいセレクトじゃないか、さすがオレ」と、自画自賛してたのが、もうカンペキに瓦解した。

書き始める前のルーティンとして、とりあえず「作品名+感想」とかでググってみたら、最初に出てきたのが「映画化」。

ん?んん?

実はショックで書くのやめようかと思ったくらいだ。

現時点で、情報としては、配役くらいしかわからない。残念ながら、ぼくはそのうちのひとりもしらない。

なお、ぼくはゲーノー人に極度にうといので、別に配役の方々に思うところはない。ふつうにかっこいいとか、かわいいとか思う。

ためしにちょっと調べてみる。おおお、人生ではじめて主体的にナントカ坂の人を調べたぞ、なるほど、どうやらすごい人が出演なさるのだな……マズイ、まるでこの映画化発表に便乗して書くみたいに思われるじゃないか。

このコラムは、業界唯一の“逆張り”コラムであることが存在意義なのにー(必死)。

断言するが、ぼくは映画化のことはまったく知らなかった。

だから、それが今回、「恋は光」を紹介する理由では、ない。このタイミングなのも偶然だ。

この紹介には、いっさい、プロモ―ションの意図はない。ただ、作品としての普遍性においてのみご紹介する。

恋をしている女性が光って見える

©集英社

気を取りなおして、まずは簡単に、登場人物とあらすじをご紹介。

主人公の大学生・西条(さいじょう。男)は、「恋をしている女性が、光って見える」という特殊能力を持っている。

そのせいで、過去に人間関係でかなりのトラブルを起こしており、やや人間不信である。極度のマジメ。のちに、かなりゆがんだ家庭環境で育ったことがわかり、かれの人間形成も強くその影響下にあったことがわかる。

そんな西条が唯一こころを許せるのは、小学校からずっとそばにいて、かれとふつうに会話できる女性・北代(きたしろ)だけである。

北代はとても要領がよく、コミュニケーションに長け、容姿も人並み以上という女性だが、実は幼少期から、西条が好きであった。だがそのことは、ふたりの関係が変わってしまうことを恐れて、ずっと隠している。

北代だけが、西条のことをずっと「センセ」というあだ名で呼ぶ。

物語は、西条が北代に、この「光」の話をするところからはじまる。

©集英社

ある日、西条が大学の講義で隣り合わせた女性・東雲(しののめ)に、興味を持つ。

彼女が手にしている恋愛小説を、なぜ読んでいるのかたずねると、彼女はいう。

「恋というものを知りたくて」。

西条は、この東雲と、恋をしてみたいと思いはじめる。

東雲は、学内でも変わり者としてしられていて、かなり浮世離れした感じの女性であった。

そんな相手だけに、コミュニケーションのきっかけがない。しかも西条は、そもそも極度の“コミュ障”である。

北代の仲介で、ふたりは会うことになるが、東雲は携帯電話も持たないライフスタイルであった。

そこで思いついたのが、なんと「交換日記」。

このなんともアナクロなやりとりは、当初、西条と東雲のふたりのあいだだけでおこなう予定だった。

しかし、西条と北代、東雲が会っているところへ、他人の男を略奪することに快感をおぼえる女性・宿木(やどりぎ)が偶然あらわれた。

いっけんぱっとしない西条なのに、東雲や北代がなぜかかまっているのを見て、宿木はかれをふたりから奪ってやることを考え、興奮する。そこで、交換日記に自分も混ぜるように割り込んでくる。

やむをえないので、北代も参加することに。

西条が宿木の強引な申し出を拒めなかったのは、なんと宿木から、例の「光」が発せられ、それは西条に向いていたからであった。

光を信じるなら、宿木は西条に恋をしていることになる……

こうして、男一人と女三人による、交換日記がはじまった。そして、その交流をとおして、四人の人間関係がさまざまに揺れ動いていく。

そしてその過程で、「光」の正体はなんなのか、西条は悩みつづけていく。

「光」は、ほんとうに、恋をしていることの証なのだろうか?

交換日記がはじまって以降、しばらく四人の大学生活のさまざまなイベントと、それぞれの交流が深まっていく様子が描かれていく。

その過程で、西条は「光」の光り方に翻弄されていく。物語は、この「光」の正体を探っていくなかで、人を好きになるということがなにか、を考えていくという、ある意味でちょっと哲学的な命題を掘り下げていくことになる。

光らない恋

©集英社

たとえば西条は最初、東雲が自分に向かって“光らない”ということから、イコール・フラれた、と理解し、落ち込む。

その後、自分に向かって光っている宿木とおためしで付き合ってみることになるのだが、それは西条にとって、「光」の正体が気になるからでもあった。ただ、この関係はすぐ終わり、ふたりは別れることになる。

光っているからといって、どうも自分のことを、ほんとうに好きであるように思えなかったからだ。

またその光るタイミングも、なにが契機なのか、よくわからない。たとえば宿木は話題によって、光ったり光らなかったりするのだ。

また、光に翻弄されるのは、西条だけではない。

北代は、比較的冒頭から、西条が好きであることを東雲に表明している。

外から見れば、小中高とずっと一緒にいるふたりは、付き合っているようにしか見えないわけで、そのことを東雲が問いただしたところ、北代は答える。

「私はセンセイ 西条が好きだよ」「でも もうフラれてるから 大丈夫」。

ずっと西条・センセが好きであったのに、例の「光」は、北代から西条には向かって光っていないのだ。

誰か光っている人はいないのか、と問うた北代に、西条は「皆無なり」と答えたからだ。それはつまり、北代の思いは、まったく西条に届いていないことを意味している。

なんという……キツイ展開だろう(このことを東雲は「胸を抉られる」と表現しているが、まさにそんな感じだ)。

つまり、「恋は光」というマンガは、安直な、好き好きビームの応酬バトルではない。相手を光らせれば勝ちという恋愛ゲームでもない。感情が「可視化」されて、わかりやすくなっているわけでもない。

ここがこの「恋は光」というマンガの肝だ。感情を単純に記号化したのではない。むしろ「光」は、物語にカオスを呼び込んでいる。

たとえば、北代は、西条が好きである(と当人は思っている)のに“光らない”という事実を前に、己の思いに嫌でも向き合わなければならない。自分はほんとうにかれが好きなのか? 

もし自分がほんとうにかれが好きであるなら、「光」の正体は、恋のサインではない、ことを意味する。いや、そうであってくれなければ、自分の思いはウソということになってしまう……

人を好きであるとは、実のところ、どういうことなのか。そんな一見自明のことに思えるようなことに、真剣に向き合うことを強制する装置として、「光」は機能している。見事なギミックだと、ぼくは思う。

そして物語は、この設定を、たくみに逆手にとった展開をみせるのだ。そのことは後述するとして、先にヒロインが複数いるマンガについて、簡単に整理しておきたい。

ダブルヒロインの選択

©集英社

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ダブルヒロインで、ふたりのあいだを主人公が揺れる。

こんなお話は、腐るほどある。なにを今さら……という方もおられよう。

ええ、わかります。相当数ラブコメマンガを愛読してきて、“ダブルヒロイン(ヒーロー)選択問題”(長いので、以下DH問題)など、とっくにクリア済みのミッションだと、ぼく自身思っていた。

この年になって、この問題に悩まされようとは、うれしいおどろきです。

軽くサンプルをさらってみると……古くは「ウイングマン」の、みくちゃん・あおいさん問題。

「きまぐれオレンジロード」の、ひかるちゃん・まどかさん問題。マンガではないが「Re:ゼロから始まる異世界生活」の、エミリア・レム問題。

ゲームだと「ドラゴンクエストV」のフローラ・ビアンカ問題。アニメだと、有名なのは「マクロス」シリーズですかね。

ミンメイ・未紗問題、ランカ・シェリル問題などなど。片方は妹の可能性があるという秀逸な設定の「おねがいツインズ」ってのもあった。

当然ながら、男女を入れ替えてもこの選択問題はある(「タッチ」とかそうですよね)し、近年では三人が全員同じ性別、というケースもあるが、割愛。

なお、もう最初から勝負はついてる、的なマルチヒロイン(ダブルでなくマルチ。ふたりより多いケース)ものは除外。

近年、ハーレムモノが全盛だが、たいてい「最初に会った女の子がド本命」と決まっている。こういった作品では、DH問題は発生しない。

どんなにハーレム状態になっても、本命は常にひとりだからだ。オーソドックスなマルチヒロインものの例だと最近なら「彼女、お借りします」とか。

誰も選ばない(選べない)のも除外。

まあ物語の都合上、あえて選ばせないケースがあるのはやむをえないが、DH問題の本質は「選ぶことと、“選ばない”こと」にこそあるので、結論がなんらかのかたちで出ていない場合、そこにDH問題は発生しない。

男の下半身は、基本的に来る者拒まずだとぼくは思うが、それでもひとり選ばなければならない。

このジャンルの極北は、やはり「魔法先生ネギま!」だろう。

純然たるラブコメマンガではないが、バトルだったりビルドゥングスロマンだったり、さまざまなジャンルを組み合わせ、そのどれにおいても限界を追求したエンタメ作品だ。

このマンガは、マルチヒロインものの革命児だと思う。

このマンガは主人公の子供先生・ネギが、クラスの生徒のなかのひとりと、最終的に結婚することが示唆されるのだが、ほぼ全生徒がネギのことが好きで、なんと総勢31人(!)もいるのだ。

ダブルどころの話じゃない。この人数だけでも異常である。

しかも、最後まで読んでも、誰が正ヒロインなのかは明かされず、たくみにわからせないような仕掛けが全編に張ってあるのだが、ひとり選んだことだけは、明言されている(それが誰かは、完結後、続編などで判明する)。

つまり、このマンガが容赦ないのは、きちんとひとり選ぶ=DH問題を発生・解決させているのだ。

あいまいに、誰が選ばれてもいいよね、みたいにウヤムヤにしない(ついでにいえば、その選ばれたひとりは、まさに天才的なセレクトだとぼくは思う)。ぬるいだけのハーレムものとはワケがちがう。ちゃんと葛藤がある。

つまりとにかく、DH問題の肝は、100:0でなく、51:49でヒロインを選ばざるをえない苦悩にこそあるのである。

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さて、場が温まってきたところで、本題にそろそろ入らせていただきたいと思う。

そう、この「恋は光」の最大の問題、そしてぼくが納得していないことこそ、
「北代さん選ばれない問題」
だ。

すでにご紹介したとおり、「北代さん」は、もちろん「恋は光」のダブルヒロインのひとりである。そして、最後に“選ばれない”側のヒロインである。

「恋は光」には、厳密には、3名のヒロインがいる(北代、東雲、宿木)。だからただしくはマルチヒロインである。だが、残念ながら、この3人のうちのひとり・宿木は、味のあるいいキャラクターではあるものの、かなり早い段階で、ヒロインにはならないだろうことが誰が読んでも明白なので、ヒロインからは除外して考えたい。つまり「恋は光」では、典型的なDH問題が発生したといえる。

そして最終的に、東雲が選ばれるわけだ。

ぼくが納得できないのは、ようするに、これだ。DH問題の答えがちがうじゃないか、ってことだ。

ぼくは、かつて、秋★枝先生にお会いする機会があったときに、「北代エンドのアナザー」を頼むから描いてください、とガチで懇願したことがある。冒頭でも書いたようにこういう行為は反則だと思うが、でも自分を止められなかった。

もちろん、最後には冗談にしてしまったのだが。

きっと、ぼくだけではなかったはずだ、北代エンドを望む声は。

いや、ぼくにいわせれば、秋★枝先生は、ちょっと北代というキャラクターを「魅力的に描きすぎてしまった」のだ。

いけない、キャラクターを魅力的に描くのを止めてください、秋★枝先生!

だって、西条の「おまえ、人を好きになったことないだろう」などという無神経な発言のあとで、こんなこという女の子なんですよ、北代さんは。

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満点ですって。こんな返しをしてくれる女の子なんて、もう、現実にいるわけないレベルですよ。

……北代さんの魅力を語るのはよしましょう、終わりがないので。

ぼくは今回、ひたすら北代さんの魅力だけ狂ったように書き連ねることも考えたのだが、それだとほんとうに狂ったと思われそうなので、やめた。

ちょっとマジメに書くが、たぶん、あるキャラクターの魅力は、そのキャラクター「造形」だけで生まれるものではない。

つまり、設定ばかり多くても、キャラの魅力が深まるわけではない。また、秀逸な設定があっても、やはりそれだけではダメだ。

見た目も大事だと思うが、見た目だけだと虚しさしかないだろう。セ○グラ。おっとそこまでにしておけ。

けっきょく、あるキャラクターの魅力が深まるのは、<物語>の中でだけ、なのだ。

そのキャラクターが、どんなふうに他人とかかわり、他人に感情をいだき、そして行動するか、そのなかにしか、魅力の源泉はないのだ。それはリアルな人間と、なんら変わることはない。

そして、北代さんの魅力は、西条=センセとの十年以上におよぶ、その関係性のすべて、その時間のすべてにあるのだと、ぼくは思う。

小中高大、合計で16年のうち、13年近くにいて、しかもセンセにとっては、このあいだ、他人とは北代しかいないくらいなわけだ。

家族以上、友達以上、であれば、その上はなんだというのだ。恋人とかそういう肩書はどうでもいい。長くいすぎたら、性的な関係になれない?

そんなわけがあるか。あってたまるか。そうであれば、幼なじみ系のラブストーリーは、すべてたわごとということになる。

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多くの幼なじみ系ヒロインと、北代がちがうところは、センセの側の事情にある。

センセにとって、北代は「世界への扉」そのものであった。無数にいる女性のひとり、ではない。

ただかわいくて、世話焼きな、なぜか部屋まできて朝起こしてくれるような男に都合のいいだけの幼なじみでもなかった。文字どおり、彼女しかいない、そんな世界の唯一存在だったのだ。

西条の家庭環境は物語後半・5巻で明かされるが、ひとことでいえばネグレクトに近い。

母親にひたすら無視されつづけ、母の愛とも無縁であった。そういう少年が、世界から疎外感を感じるのは当然であろう。

そんな西条を、センセと呼びつづけ、かれのそばに居つづけたのは、北代だけだった。北代は、西条を世界につなぎとめる、ほとんど唯一の人間だった。ただ仲がいい、なんてレベルじゃないのだ。

かれの壊れた世界を、そのすき間を、北代が埋めてくれたからこそ、かれは己を保つことができたといっても過言ではない。

のちに北代は、「報われたいからそうしてきたんじゃない」という。

センセも「償いのように付き合うのはちがうと思う」という。どちらも、おかしなコトバではないし、ウソでもないと思う。

ただ、ぼくは、ここでああだこうだと理屈をこねている場合じゃないだろう、ふたりが一緒にいた時間が答えなんじゃないのか、と思わざるをえない。

十年。文字にすれば、たった二文字。それは、3650日、87600時間、525万6000分のことだ。

そのあいだ、北代は、センセを男として好きだったわけだ。ちゃんと、性的に揺らいだりもしながら。

センセも、そういうことがなかったわけではない、と認めている。つまり、たとえば、ヴィジュアルがもうどうしてもダメ、とか、そういうこともないわけだ。

軽く「北代ちゃんがふびん」とか、そんな簡単に片付けてしまえるような、それは重さではないはずだ。

「ただそばにいただけで、なにもしていない」みたいな悔恨のコトバを北代が口にするが、ぼくにいわせれば、そばにいる「だけ」が、一番むずかしいことじゃないか。

ぼくは思う、自分以外の人間など、極論、ひとりいればいいじゃないか、と。一万人の他者も、ひとりっきりの他者も、同じことだ。

そばにいること。それは、存在することの、窮極の理由であり、意味だ。ぼくはそう思う。

なのに、一瞬の出逢い、一瞬の一目惚れが、その膨大な時間を覆してしまう、そんな不条理を、ぼく個人は、とてもじゃないが、受け入れられない。それが「恋」なら、ぼくは、恋など認めない。

……と、いうか、それをマンガで描いては救われない、と思っている。現実にはそういうことはもちろんありますけどね。

実はこのことに、「恋は光」がとても自覚的であることを示すシーンがある(こういうところが秋★枝先生らしい周到さだ。尊敬に値する)。

西条と東雲のふたりが付き合いだしてからのこと。

西条と北代の、ともに過ごした過去の時間を計り、東雲とその数字以上にともに過ごせば、引け目がなくなるのではないか……と西条にいわせるところだ(7巻・最終話)。

なんて理屈だろう。

もう、ホントにらしすぎて、思わず苦笑してしまうくらいだが、とにかく、北代の圧倒的な「時間の蓄積」という影響をなんとか消化しようと、センセと東雲のふたりのできたてカップルは、それなりに苦悩するわけである。

たぶん、このエクスキューズは、秋★枝先生の「迷い」なのだ。

彼女自身、あとがきでも告白しているように、結末についてはおおいに悩んだのだ。たぶん、北代エンドの可能性も、さまざまに探ったのだ。

その過程で、おそらく、ぼくと同様に、センセと北代のともに過ごした圧倒的な時間量という、一目惚れだけでは覆し得ない蓄積に、なんらかそれを撃破する理屈を見つけなければならなくなって、苦肉の策としてひねり出したものなのだ、とぼくは思っている。

まあ、でも、苦しいときの一日と、ふつうのときの一日は、重みがちがうから、北代の十年は、百年の価値があるんじゃないかな、とぼくは思うが。

このDH問題、つまり北代と東雲のどちらか、という選択は、51:49でなく、もしかしたら、けっきょく最後の最後まで、カンペキに50:50であったのかもしれない。

つまり、答えは出ていないのかもしれない。

これは、ちょっと薄々そうじゃないかなー、と何年も思ってきたことだ。

ぼくが、なぜ、ここまで「納得できない」と駄々をこねているのか、その理由は、北代と東雲の恋の戦いは、いまなお五分五分としか思えないからだ。

その五分の戦いにも、実は勝負を決める決定的瞬間はあった。

「北代トゥルーエンド」と「バッドエンド」の、決定的な選択肢が出たシーンは――たぶん、ここだ。6巻・#034。

分岐点

©集英社

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ぼくは、このシーンを、この二十年くらいで読んだラブコメマンガのなかで、もっともドラマティックな告白シーンだと思っている。

ひとこともコトバはなく、好きともいってないけれど、なんて鮮やかな“告白”なんだろう。

このシーンがどういう場面かというと……物語後半、西条以外に「光」を見ることのできる女子高生・大洲央(おおず・なかば)が登場する。

彼女は、西条たちの「光」解明に協力することになる。当初はSNS越しのやりとりだけだったが、ある程度おたがい信用できそうだとわかってくると、ついにリアルで対面することになる。

央との初会談はなごやかに終わり、その帰り際、その場にいた北代に、ふいに、むじゃきに、央はいうのだ。

「今まで見た誰よりも 北代さんが光ってて」「お二人とも すっごくお似合いだと思いました!!」

まったくの第三者から、つまり完全に客観的な立場から、こんなに光っている人を見たことがない、といわれる。

これはつまり、物語設定上、
「世界でもっともセンセを好きであるのは、北代だ」
といったようなものなのだ。

その衝撃の大きさは、次のシーンで、西条も北代も、おどろきで立ち尽くしていることから察せられる。

なにせ、北代が“光っていない”というのは、ふたりにとって、もう何年も“そういうこと”として暗黙に了解しあっていた、ふたりの関係の大前提だったのだから。

それが、あっさり、覆った……!

もし、これで北代の思いが届かないのなら、「光」になど、いったい、なんの意味があるだろう?

そんなものが見えることに、なんの意味があるだろう?

センセに、北代の光が見えなかったことは、まったくカンペキな伏線であったはずなのだ。

こんな見事な仕込みはない、というくらいの――
「恋は光」は、このシーンにむけて、すべてが描かれ、あらゆることが収斂していくように作られていた。それが、劇のクライマックスのように、鮮やかに明かされた……ここだ、ここでセンセは、気づかなければならない、そのための光じゃないか、そのために与えられた力ではないのか。

いや、己には光が見えず、第三者がそれを見ることができたからこそ、それは他の誰の光より、真なるものだということではないのか。

なぜならそこに余計な思い込みは存在せず、ただ客観的な事実だけがあるのだから。

「恋」だとか「愛」だとか、そうした定義の問題など、どうでもいいことは、実際に恋愛をしたことのある人間なら、誰でもわかることではないか。

誰かを好きになることは、まちがいなく、理屈ではない。

だが、このシーンは、まさに理屈を超えているだろう? とにかく、光っちゃってるんだから。

ぼくは、こんなに感動的な「告白」のシーンを、マンガで見たことはなかった。

そう、これは告白だ。このシーンのあと、北代はいちおうちゃんとコトバで、西条に好きと伝えるのだが、まあオマケのようなものだ(ちなみに、そこでも狂ったように北代はかわいい)。
決まった……! 勝負あった……!

とぼくは当時読んでいて思った、わけだが。

©集英社

なんで??????

ここからどういうわけか、東雲エンドに急激に事態は進んでいくのだ。

梯子を外されるとは、こういうことをいうんだなー

物語世界内で、設定上、最強にセンセを好きであることが示された、北代。

それが敗れるために、秋★枝先生が悩みながらも持ちだしたのは、「“恋”というものを知りたくて」という、このマンガのテーマだった。

これにより合致するエンディングは、北代でなく、東雲である、ということだ。くやしいが、筋が通った理由である。

さらに、西条たちのさまざまな検証をふまえて、東雲が次のような仮説を出す。

「光」には、<学習>によるものと、<本能>によるものの、二種類がある、というのだ。

北代の「光」が、センセには見えず、央には見えたのは、ふたりの見える光の属性が異なるから、なのだと。

もちろんそれが唯一絶対の正解だと明言されたわけでなく、この解釈なら、いろいろなモノゴトに矛盾なく説明がつくね、くらいのものだ。

いちおう、「恋は光」というマンガにおいては、この解釈を正解として読むことになる。

北代の光は、<学習>による恋の光。東雲や宿木は、<本能>による恋の光。西条が見ることができるのは本能の光だけで、逆に央は学習による光しか見えない。

西条が<本能>の光しか見えない理由は、幼少期のトラウマが原因ではないか、なんて仮説も出る。あるいは<学習>の光が見えないのは、その愛情を北代が与えていたから、という仮説も出る。

そうかもしれない。そうでないかもしれない。

ぼくは、「光」の解釈は、正解がなくていいと思っている。

事実、このマンガにおいて、これが絶対正解という結論は出ていない。

むろん、秋★枝先生は、意図的に、答えを出すことを回避したのだ。

それは、答えなどない、ということかもしれないし、答えがあるとしてもひとつじゃない、ということかもしれない。たぶん、そこは重要じゃない、ということだ。

とにかく、西条と東雲が付き合うことになるというその選択は、マンガのテーマ上避けられない、というのは、まあなんとかギリギリ、納得する。

だが、もし恋に<学習>と<本能>があるとして、「恋は光」というマンガのなかではそのどちらが上でも下でもない、としているなら、<本能>が選ばれたラストと同様、まったく50:50の意味で、<学習>のラストもなければ、ウソではないか。

ぼくが、執拗に、北代エンドを望むのは、だからである。実は「恋は光」というマンガは、厳密には、まだ終わっていないのだ。

北代エンドが描かれるまでは。それは、いつか描かれねばならない。

もしかすると……もしかして、実写映画が、「それ」なのか???

秋★枝先生お願いします!

©集英社

というわけで最後に、今の正直な気持ちを書きますと、実写映画が、北代エンドであることを示唆する根拠を、ぼくはもう、探さずにはいられないのです。

たとえば……役者の名前って、重要な順番にならぶものですよね?

でいうなら、見た感じ、センセ役の神尾楓珠さんの次に、名前があがっているのは、「北代役の西野七瀬さん」なのだ! これって、二番目に重要ってことですよね?

単純に、役者としての知名度順、ってこともあるんでしょうけど(大物俳優の紹介順が、主役より上、みたいなことがあるみたいに)……いーや、それだけなはずはない、この順番は、脚本上の重要度順に決まってる。

決まってるんだ!

もし、原作と同じ東雲エンドなら、紹介順もそうなってないとおかしい。おかしいんだ!

だから、実写映画は、北代アナザーなんだ。そうにちがいない(こういうのを認知バイアスってゆうんですな)。

お願いします、小林啓一カントク。ホントに……って、もう撮影終わってるんだよなー。

あれっ、プロモーションしないって書いたくせに、バリバリやっちゃってるし。

まあ、そんなことはどうでもいいんですよ、ぼくは北代アナザーさえ見られれば。
2022年公開予定!

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