本屋の本音のあのねのね 第十四冊『ヤサシイワタシ』~出会いと別れのゼロサムストーリー~

あなたの人生を決めてしまったマンガは何ですか?

小学一年生のとき、ぼくは人生を決定づける、ある哲学を会得した。それは「正のできごとと、負のできごとは、かならず、プラマイゼロになる」というものだ。
もちろん当時は、こんなはっきりした文章ではなかった。「いいことが起きたら、やなことが同じ回数だけ起きる」くらいのものだった。ぼくは心の中で、いつもいつも、いいこととイヤなことを数えるクセがついた。どうしてこんなことを考えついたのかは、おぼえていない。もちろん子供のたわごとだろう。でも6歳のぼくには、今は見えない、なにかが見えていたのかもしれない。
とにかく、この哲学は、その後、人生のあらゆる場面で、常にぼくのメンタルを決めてきた。
死んでも悔いがないくらいの幸せを享受しているときは、もうまちがいなく、遠からずこの幸せは失われ、ほんとうに死ぬくらいのひどいことが起きて、プラマイゼロになる、と考えた。
もう本気で死のうと思ったときでも、生きてさえいれば、きっと、死ななくてよかったと心底思えるような楽しいことが起きて、プラマイゼロになる、と考えた。
四〇年経った今だって、そうだ。
仮に、この一時間以内にいいことが1回あったら、次の一時間で悪いことが1回、反動として起きる。逆もまたしかり、だ。悪いことが1回起きても、どうせいいことが1回起きる。
このプラマイを、人生全体で考えたとき、ちゃんときれいにプラマイになるのか、といえば、もちろんそうではないことは、もうわかっている。死ぬまでに、大きくプラスを蓄積できたまま死んだひともいるし、マイナスを抱えたまま死ぬひともいる。たぶん大半のひとびとにとって、人生の勝ち負けにおける勝ちとは、このプラスが残ったままで死ぬことなのだろう。
だがぼくは、やっぱり、「人生の帳尻」というのは、プラマイゼロ、つまり最終的にはゼロサムで推移していく、というのが、正直な実感である。
以上のよくわからない哲学なるものが、証明もできない、意味のない、単なる“さとりモドキ”、妄言にすぎない、なんてことは承知している。だが、これは正しいとかまちがってるとか、そういうものではない。ぼくが、そう思って生きてきた、というだけのことだ。
サイコロを十回振ったら、1が連続で出るかもしれないが(つっても確率は6の十乗、3億6千万分の1)、1億回振ったら、おおむねその出目は、ちゃんと1~6まで均等になっていく(6分の1、つまり約16.7%に“収束”していく)。ぼくは、人生のプラマイも、けっこうこういうもんだと思っている。人間一人の人生の長さくらいでは、収束に必要な回数はこなせないかもだが、まあ、悪いことはいつまでもつづかないし、逆もまたしかり、だ。いいこと・悪いことは、フィフティ・フィフティに収束していく……
さて、今回ご紹介する作品「ヤサシイワタシ」(ひぐちアサ 講談社)は、ぼくがハタチくらいのときに読んだマンガだが、そのときも、いまも、このマンガに感じる印象は変わらない。つまり、このマンガは、ぼくのここまで述べてきた“謎人生哲学”の「コミカライズ」としか思えないのだ。つまりこのマンガの原作は、ぼくだ。……すいません、調子乗りました。
とにかく、それくらいこのマンガには、とんでもないマイナスと、それを相殺するプラスの、プラマイゼロが描かれている。生きていると、つらいことがある。そして、たぶんいいこともある。なんども、なんども、ある。ゼロサムだ。理由なんかどうでもいいよ、でも大丈夫だって。生きてさえ、いれば。

 

あのころアフタヌーンはすごかった

「ヤサシイワタシ」が「月刊アフタヌーン」(講談社)に連載されたのは、2001年1月号~2002年2月号のことだ。つまり二〇年前。同じ二〇年でも、80年代からゼロ年代への変化は劇的に感じるが、ゼロ年代から現在までの二〇年はあんま変わんないなー、と「ヤサシイワタシ」を読み返すと、思う。よく「失われた十年」というが、マンガ業界は十年どころか二〇年失っている気がする。それくらいこのマンガの力は、いまなお強い。
単行本としては、二巻完結。その後「ひぐちアサ 初期傑作選」に収録されている。
90年代~ゼロ年代のアフタヌーンは青年誌の王様だった、と思う。別にいまが弱いなんてことはないが、やはりこのころのアフタヌーンは、黒バス風にいえば“キセキの世代”だった。ぼくはちょうど大学に行ったり行かなかったり留年したり卒業したりしてたころだが、このころのマンガの話題は、たしかにアフタヌーンを中心に回っていた。
「ああっ女神さまっ」「寄生獣」「ディスコミュニケーション」「無限の住人」「ヨコハマ買い出し紀行」……今見ると、ちょっと信じられないようなラインナップでびびる。ジャンプ黄金期もそうだが、アフタヌーン全盛期が大学時代にまるまるカブっていたことも、ぼくは神に感謝している。アフタヌーン誌がなければ、マンガの世界は今とはまるでちがったものになっていたにちがいない。それくらい、アフタヌーンが世に放った作品群は、野心的で、攻めまくっていた。そんな時代のアフタヌーンに、ひぐちアサ先生は「ヤサシイワタシ」を連載したわけだ。
「ヤサシイワタシ」は、キレっキレのアフタヌーン連載陣のなかですらも、当時、かなり議論を呼んだ。もちろん、いま発表されたとしても物議を醸しだすであろうが、当時のマンガカルチャーのあり方・水準からすれば、ひぐちアサ先生の作風は、異能、とすらいえるものだったと思う(ちなみに現代の水準を知りたければ、「タコピーの原罪」(タイザン5 集英社)を読んでおけば、それが答えだと思う)。
細かいところはあとで順に触れるとして、まずこのマンガのあらすじをたどってみよう。「ヤサシイワタシ」は、難解な心理描写が、複雑にからみあっていく物語なので、途中、何度か区切りながら、じりじりとご紹介していきたいと思う。
ちなみに下の画像は、2巻の単行本カバーをはずすと、本の表・裏表紙に描かれている、登場人物紹介。じつはお恥ずかしい話、今回はじめて、こんなものが隠されていたことをしりました。二〇年くらい、カバーを外さなかったんですねー。

「ヤサシイワタシ」前半のあらすじ

主人公は、都内の私大に通う大学二年生・芹生弘隆(セリウ・ヒロタカ)。芹生はかつて全国レベルのテニス選手だったが、ケガで引退し、失意の日々を送っていた。それが思うところあって、一か月前から大学の写真サークルに所属している。
ある日、彼がサークルに入る前に東南アジアへ旅行にいっていた、年上の三年部員・唐須弥恵(カラス・ヤエ)が帰国した。弥恵は、その奔放な性格と、男遍歴から、学内でもしられたトラブルメイカーであった。
帰国早々、暗室を水びたしにするなど、さっそく騒ぎをおこした弥恵は、部会でつるしあげられる。だが、芹生は「できる人が できない人に できるハズって言うのは マズイんじゃないですか」と助け船を出す。そうした芹生の、他人のふるまいにたいする、どこか挫折を経験した者特有の気づかいに好感をもった弥恵は、芹生にアプローチをかけ、ふたりは付き合うことになる(速攻で性的関係になる)。ふたりの関係は、弥恵がふれまわったことで、またたくまに周知のものとなる。
そんなとき、弥恵が過去に深く入れ込んでいた元カレ・新城があらわれる。弥恵の旅行も、そもそもは新城との失恋旅行であった。新城の存在は、芹生と弥恵の関係に、ちいさな亀裂を入れる。
あとさき考えない弥恵の行動にふりまわされながら、芹生はさまざまな弥恵の奇行の裏に、新城の影をみせつけられる。そしてちょっとずつ、ふたりはすれちがっていく。なんとか亀裂を埋めようと、たがいに歩み寄ろうとするが、芹生は弥恵に、新城から逃げるのをやめ、いちど彼への思いをちゃんと清算すべきだと告げる。
季節は過ぎ、秋が冬になった。ふたりは距離をとるようになった。弥恵はますます、周囲の迷惑をかえりみない、自己中心的な行動ばかりして、精神的に不安定になっていく。
そしてそんな折、弥恵と新城がつきあっていたとき、新城がDVをしていたことを芹生は新城本人から聞く。それは弥恵の、どこかゆがんだ愛情の希求がまねいた、おたがいに傷つけあうような関係であった。が、同時にそういうかたちにしかならないような、やむをえないものでもあった。
サークル員で弥恵の同期である弓為(ユミナリ)は、弥恵の数少ない理解者であり、新城と弥恵がつきあっていた頃も相談に乗っていた。彼女は芹生に、DVによる関係性に一定の理解をしめしたうえで、ふたりが別れたことについて「私はあの人(注:新城)が よく離れたと思ったよ」と新城を擁護する。そして、弥恵と芹生がまたちがった関係でうまくいくことを望むのだった。

芹生は、弥恵のおちいっている危なっかしい状況から、彼女をすこしでもいいほうへ向けようと、弥恵に正面から向きあって話す決意をする。しかし、そこで芹生は弥恵に、彼女のもっとも痛いところをつくようなコトバを放ってしまう。弥恵が、他者からの承認を異常なまでに求め、それゆえに自分自身のほんとうの気持ちとむきあおうとしていない、と。
それは芹生の心からのコトバであったが、弥恵には逆効果でしかなかった。弥恵は芹生に絶縁を言い放つ。

そして半年がすぎた。夏の盛りに、とうとつに弥恵から芹生に電話がかかってきた。ふたりは海へむかう。
離れていたあいだ、弥恵は変わっていなかった。就活もうまくいかず、それどころかあやしげなバイトや薬をキメながらのセックスなどその暴走はひどくなっていて、さらに自分を見失っているかのようだった。社会の不条理さに、あまりに不器用にしか対応できていないのはあきらかだった。
芹生は、そんな弥恵にたいして、彼なりの、真剣で心からのコトバで、いう。「あんたが 力 全部 いい方へ使ってるとこ 見たいですよ」「いいことを いいって言っちゃって やり始めるしか ないです」。ふたりは、そうして別れた。
年末、平凡な学生生活をすごしていた芹生に、衝撃的なしらせが入る。
弥恵が死んだというのだ。自殺であった。

リアルすぎる死、なぜ?

唐突だが、ここでいったんあらすじを止める。
ヒロインが自殺する、というのは、それなりにショッキングなイベントだが、死はそれだけではショッキングではない。もし、そう感じられるとすれば、それは単にマンガ経験値の不足にすぎないと、あえて言ってしまうことにする。ちょっとエラそうに聞こえるかもだが、人の死をマンガが描くことに、現代のぼくらは、じゅうぶん慣らされていると、ぼくは思う。
だが、それでも「ヤサシイワタシ」における弥恵の死は、やっぱりショッキングだというべきだ。それは、弥恵の死にいたる過程が、その死の理由が、はっきりしないからだ。そしてそのモヤモヤした感じは、あまりにリアルで、ちょっと気持ちわるいくらいだ。
弥恵の葬式で、死因はどうやら電気コードによる首吊りらしい、という話がでるし、ちゃんと遺書もあって、そこにはいろいろうまくいかないことへの怨みつらみが綴られていたりもする。つまり一見、彼女の死には、ひととおり、説明がついているようにみえる。
だが、彼女を知る芹生、あるいは弓為、そしてサークルのメンバーたちは、彼女の死を、そんなカンタンに100%把握できたなどとは思えない。
それは弥恵が、常日頃から、死んでやると口ではいいながらも、それはコトバだけのことだったからだ。じっさいにこうして死んでしまったが、ある意味で、この死は事故のようなもので、ほんとうに死ぬつもりがあったのかは疑問だ、そんなふうにも思えてしまう。いずれ、ほんとうのところは、だれにもわからない……
……と、まあ、こういうモヤモヤした感じは、とてもリアルだ。死に、明確な理由が、明らかな説明が、ある、とはかぎらない。いや、むしろ、ふつうはわからないものだ。愛する者の胸で、「思い残すことはない!さらば!グフッ」とかキッチリ死ねるのは、マンガの中でだけだ。あれ?「ヤサシイワタシ」もマンガだったな……そう、まさに、ショッキングなのは、これだ。
なんで、せっかくマンガなのに、こんなリアルに弥恵は死ぬんだ?
それまでのマンガがいわば「寸止め」してきたリアリティ描写を、ひぐちアサ先生はリミットなしに描き切った。おそらくそれは、いずれ描かれるであろう「おおきなプラス」のためだ。それを描くために、「おおきなマイナス」を描かなければならなかったのだ。たぶんそういうことだろう。
じつは読者には、薄々、弥恵の待つ未来が予感されていたのだと、ぼくは思う。マンガ的にそういうふうに、弥恵は容赦なく描かれていた。ぼくにはそうとしか読めない。
つまり「ヤサシイワタシ」が、ちょっと(鼻につくくらい、とあえていってしまうが)あまりに巧みすぎる構成・描写で描いたのは、弥恵に待つ悲劇の予感、死への助走感覚だ。オタクタームいうところの「死亡フラグ」というやつだ。
もう、このコマなんか、ぼくはぞっとせずにはいられなかった。

ウソつけ!とツッコミいれたくなるくらい、まるで上向いているようにみえない。
これは生きている弥恵を芹生が見る、ほとんど最後のシーンだ。このとき芹生は、べつに達成感にあふれていたり、弥恵を立ち直らせることができたと確信していたりはしない。言うべきことは言ったが、あとは本人の問題だ、というくらいだ。
この、どこか「さびしさ」みたいなものすら感じる、逆光の弥恵は、おそろしい。表情は影になってよくわからない。そして、そのコトバは空虚にカラ回っていて、すこしも真実味がない。
そしてこのわずか2ページ後、弥恵の死が告げられるのだ。
「ヤサシイワタシ」の前半は、頭から終わりまで、弥恵の死を示唆する、あくまでもはっきりとではなく、どこかヤキモキしたくなるような、じれったい悲劇の予感に満ちている。
徐々に高まっていく、死への予感……それがピークに達するのが、再会した芹生と弥恵が、海で語りあうこのシーンだ。
おそらく、ここは、なにひとつ嘘のないコトバだけが許されるような時間だった(こういう時間、だれしも経験があるだろう?)。美しく、切ないが、滑稽でもある。まちがえないように、しかし相手に自分の思いを伝えたいと痛切に思いすぎるあまり、わかりやすいコトバなのに、わかりにくい言い方になってしまう、切ない滑稽さ。
それほどまでに、ほんとうをぶつけ合ったというのに、ふたりは、なにひとつ、わかりあえない。いったいなぜ?

「正しさ」はひとを救えない?

弥恵と芹生は、まさに若さあふれるケンカの末、別れることになった。それは自意識の衝突であり、自分の正しさが相手を屈服させるまで終わらないものであり、つまりは「正しさ」の問題なのであった。そして時を経て、ふたりが再会しても、それはくりかえされた。
だれにだって、こういう季節はあっただろう。すくなくとも、ぼくには「あ、これぼくの黒歴史調べて描いたんですか?」と聞きたくなるようなシーンばっかりだ。サークルの中で女を取り合ってみたり、なんとか寝たいから遅くまで粘って「あ、終電なくなっちゃった」とかいってみたり(死にたい)。自分なりの「正しさ」がみえてきて、それを死守することが自分を守ることと同一だと思いこむのだって、そういう黒歴史のひとつだ。そして、相手がまちがっていると確信したら、おのれの「正しさ」でそれを修正できる……
じつは今回、いつものようにネットの感想をググってみて、ひとつだけ、諸手をあげて賛成したい意見があった。それは「セリウはヤエのことを思いながらもよく見ると実は一度もありのままのヤエを肯定していない」という指摘だ。前半にかぎれば、そのとおりだ。
これがわかっているのと、わかっていないのとでは、このマンガの読み方は、おおきく変わってくる、とすらいえる。“よく見ると実は一度も”というのがミソだ。
芹生は、けっこう必死にいろいろと語るし、弥恵を(純朴な少年らしく)好きだから、なんとかしたいとホンキで思っている。でも、よく見ると、たしかに……なのだ。どこをどう読んでも、たしかに、弥恵の、弥恵自身のあり方そのものを、芹生がまるっとそのまま飲み込んで受け入れたことは、一度もない。

海辺での、ヒリヒリするようなコトバのやり取りのなかでも、芹生は自分の(もちろん心からのコトバではあるのだが)正論しか、実は口にしていない。弥恵の、病的なおかしさ、それは周囲のだれもが察しているのだが、彼女と付き合うということは、そのおかしさを、いちいちおかしいと言っていては成立しない。だが若い芹生は、そのおかしさを受け入れるわけではなく、どこまでも正しい道を示そうとする。
芹生はべつに弥恵の死の、直接的な原因ではない。だが、芹生はいろいろと後悔する。それはなぜかといえば、薄々、かれ本人も気づいてしまったのだ。
かれの“正しさ”は、まったく弥恵を救わなかった、と。
人の目なんか気にしてないで、じぶんのやりたいことやりなよ。それはまったくまちがいなく正しいのだが、正しいからといって、それをそのまま伝えて、だからなんだというのか。おまえはまちがっていて、オレは正しい。そんなことを証明するのか。
世界が、正しさだけで回っているわけでは、まったくない、という厳然たる現実。
くしくも弥恵の死は、そのことを芹生に、きびしく突きつけることになってしまったわけだ。もちろん、芹生はひどく落ち込むことになる。
物語は、弥恵の死までを前半とすると、その死を芹生がうけとめて、かれの<世界観>が変わっていく過程を描くのが後半となる。
あらすじに戻ることにしよう。

「ヤサシイワタシ」後半のあらすじ

芹生は弥恵の葬式に、サークルのメンバーたちと参列する。
弥恵の父親が、新城にあまりに似ていること、弥恵が強烈なファザコンであったらしいことなど、弥恵の原点がかいまみえる式であった。
式から帰った芹生のアパートに、いとこの中学二年生・西村澄緒(ニシムラ・スミオ)が前触れなく来訪する。彼女は、東京の高校を受けたくて、下見にきた、という。どこかおかしな態度をいぶかしむ芹生だが、なりゆきということで、在京中は澄緒をじぶんのアパートに泊めることにする。
葬式からしばらくして、遺品をとどけに、芹生と弓為のふたりは弥恵の実家をおとずれる。妹の侑依にとおされた仏壇のある部屋には、壁一面に、引き伸ばされた弥恵の写真が飾られていた。それは異様なまでに巨大で、父親がしたものだという。
侑依はふたりに語る。姉・弥恵は父に愛されたかった、父はうまく娘を愛せなかった、その結果がこれだ、と。でも、部屋一面の弥恵の写真がなにを意味するのかを考えれば、父を責められるはずもなかった――と。
その帰りの道すがら、芹生にむかって、弓為は弥恵について思っていたことを、吐き出す。「――アタシ ホッとしてんのよ」「もっと イタイ目に遭わないかな――って」「正直 あの子が成功してるとこなんて見たくなくて」。

いっぽう、澄緒は学校の下見ではなく、ひそかに父の会社に来ていた。じつは、父親が外に女をつくっていることを察しており、それを確かめにきたのであった。
だが、じっさいに会社の同僚に父を呼び出してもらうと、その連絡先は澄緒の家ではなかった。会社に伝えている住所から、すでにちがうのだ。しかも、電話に出た父のうしろで、明らかに別の家族が「パパ」とよぶ声が聞こえ、それを隠すように電話は一方的に切られてしまう。
澄緒は理解してしまった。――つまり、父親の本来の家族は別にあって、自分と母こそが、許されざる側なのだ、と。

芹生は、澄緒とその母(つまり芹生の叔母)とは、ふつうに付き合ってきたが、父親が別の家庭をもともと持っていることを、薄々察していた(父親は今井姓を名乗り、澄緒たちは西村姓を使っているのだから)。澄緒がそれを探るために上京してきたことも。
真実を知ってヤケになって、体を売ってでも金を稼いで一人で生きようとする澄緒を、芹生は冷静にさとす。「おっこちて見せるのも 手だろうけど」「落ちたまま終わることって 普通に 誰にでもあると思うよ」。そして澄緒のことを引き受ける気はない、と冷めた口調で告げる。
その突き放すような芹生の態度に、一度は家を飛び出した澄緒だったが、けっきょく行くあてもなく、ふたたび戻ってくる。頭が冷えて、おちついた澄緒。
少女は、その幼い純粋さと、おそらくは環境からくる敏い感性で、みずからのおかれた辛い現状と、弥恵の死にうちのめされている芹生の心情をかさねあわせる。そして、自分にも、芹生にも、なぐさめになるかもしれない、そんな自分の考えを語る。

澄緒の、真剣で優しいコトバは、芹生の重い口をひらかせる。芹生は、弥恵の死を、かれなりにコトバにしようとする。
芹生は、ぽつり、ぽつりとコトバを探すように語りはじめた。マジメにやっていることが大事だと思っていたこと、しかしテニスでの挫折で「やらない」んじゃなくて「やれない」という状態があるのを知ったこと。そして、弥恵のこと。
「オレは みんなが あの人(注:弥恵)を許容してくれたらと思ってたけど それはムリだろうとも思ってた」「だから 何もしなかった」「それはオレの中の限界だったんだけど 人のも そこだと決めてて……」「本当に あの人の側にも立ててれば ムリだとは 思わないよね」。

いつだって、やっと立ってる。だから「スミオちゃんにつかまられたら」「立ってられなくなっちゃうんだよ」。芹生は、そう自分の弱さを告白する。
澄緒はその芹生のコトバに、なにかをつかんだ様子であった。そして家に帰ることを決める。「ちゃんと帰るよ どこにも悪者はいないって」「わたしのいるトコは安全だって 見せてあげる」「わたしが安心させるから」「いっしょに帰ろう」。
大晦日の夜はしずかにふけていく。

最終話:大きなマイナスはなにで埋まるのか?

あと残るは最終話だけなのだが、あらすじとしては、シンプルだ。しかしこの最終話の特に後半は、すべてのページが、芹生や澄緒のこれまでこうむってきた「マイナス」を、ゼロサムにしていく超重量級の重さの描写の連続となる。
というわけで、あらすじに戻ろう。
サークルのメンバーで、初日の出を見に行くことになった。一行は車で山に向かう。おなじみのメンツに加えて、澄緒も一緒である。
山についてからは、温泉に入ったり、よもやま話に花を咲かせたり、車で仮眠したり、それぞれが夜明けを待つのだが、芹生はふと、散歩にでかけていく。それを見咎めた澄緒もくっついていき、夜の山道をふたり歩いていく。
前夜の話のつづきのように、ぽつぽつとふたりは語りあう。
――ここから10ページ超くらい、ふたりの交わす会話がつづく。ここだけは、マンガを読んでいただきたい。
ひとつだけ書くとすれば、澄緒がもしここにいなければ、芹生の「マイナス」が埋まることはなかった、ということだ。澄緒の提示した“答え”が、唯一絶対の正解なのかどうかは、ぼくにもわからない。ただ、ここで芹生が踏みとどまれたのは、澄緒のコトバがあったからだと思う。
澄緒がトイレに離れたあいだ、ひとりになった芹生は、弥恵の死をあらためて思う。

何度か示唆されているが、芹生は、じぶんも死んでかまわないと思っていたのであった。それが弥恵へのどんな思いからなのかは、明示されていない。べた惚れだったともみえないし、単に童貞を捨てた相手としての特別感なのかもしれない(これは笑うところではない!)。ただとにかく、弥恵の死は芹生にとって「全てをやめたくなる」くらいの重さはあったのだった。「もう やめてもいいのか」「まだ 耐えられるのか――……」と、芹生は自問する。
そして夜が明ける。
気がつけば寝入ってしまっていた澄緒を、芹生が起こす。
覚醒した澄緒は、開口一番、こう告げる。

奇妙な照れと落ち着きをおぼえながら、芹生は日の出をみつめる。そして、弥恵の自死の真意を、かれなりに考える。「死にたいのは 不安だからだけど」「不安なのは 願うからだろ」と。弥恵は、生きたくて、死んでしまったのではないか。

弥恵とともすごした、たしかな時間があって、今はもう彼女はいない。そのことをうけとめながら、芹生は願うのだった。みんな、やさしい自分であれ、と。

”まちがっても大丈夫”のススメ

さて、「ヤサシイワタシ」第二部のヒロインは、澄緒である。中学二年、つまり、登場人物の中で、もっともコドモである彼女は、コドモであるがゆえに、あらゆる行動が未熟で短絡的である。ただ、それはとても純粋で、健全なものとして描かれている。
弥恵の死を、どこか消化しきれないまま、モヤモヤをどうにもできないでいた芹生は、澄緒の登場で、自分だけではどうにもできない喪失感やみずからのいたらなさに、折り合いをつけるきっかけをもらうことになる。
「ヤサシイワタシ」が描くのは、ある個人が、人間として、ごく自然に、自己承認欲求を満たしたい、と思う姿だ。弥恵にせよ、澄緒にせよ、そのキャラクター性はちがえども、それぞれの立場で、自分を、自分の望むかたちで認めてほしい、と思っている。この点で、ふたりのヒロインは対である。
だが、弥恵がまちがいで、澄緒がただしい、という読み方は、はっきりいって「的外れ」だとぼくは思う。澄緒がただしい、というひとは、いいかえればうまくやれる側の人間たちは、弥恵の自己中っぷりに、いらだちをおぼえたりする。おおくの読者が、そういういらだちをおぼえてしまっていたようだから、このマンガの読まれ方は、自然、弥恵のメンタリティへの否定、もしくは見当外れの「共感」に終始するのであろう。
なんだろう、まるでそういうのはちがう気がする。そういうこっちゃない気がする。
弥恵のように、死にたい。そう思う人間は、すこし狂っているだろう。でも、ぼくは、正直なところ、そういう誘惑を感じてしまう。
世界を、人間を、なにも理解できないまま、とことんまで“まちがい切って”死ぬ……!
――それの、なにが悪い? と、ぼくはいいたい。
「願いって かなわなかったら ダメなのか?」
芹生が最後にたどりついた、弥恵へのコトバである。そうだ、なにを怖がることがあるというのか。まちがわない人間など、ひとりもいないのだ。願いがかなわないくらいがなんだ。すべての願いをかなえる人間だって、やっぱりひとりもいないのだ。
異様にまちがうことをおそれる(弥恵のような)ひとは、もうすこし世界や自分に、「やさしい自分」であってもいいんじゃないか、と思う。

そして「おお振り」へ

ひぐちアサ先生は、「ヤサシイワタシ」の次に、2003年11月から、大ヒット作「おおきく振りかぶって」の連載を開始する。
「おお振り」は、「ヤサシイワタシ」のアンサーマンガといえる要素がおおい。
弥恵→三橋、芹生→阿部、という読み替えは、あまりに容易だ(三橋クンはちょっとコミュ障なピッチャー。阿部クンはクールで現実的なキャッチャー)。ぼくの勝手な想像だが、弥恵と芹生のふたりだと、「ヤサシイワタシ」のようなヘビーなストーリーしかみえなかったので、それではちょっとサミシイ、とか思って、ためしに高校生球児にしてみたら、弥恵の抱えていた闇や苦悩や迷いやもろもろが、びっくりするくらい、うまく処理できてしまったのが「おお振り」なんだと、ぼくは思う。
写真部じゃだめかー(笑)。よけい、自意識過剰をこじらせるだけなんでしょうね。わかります。ぼくも文化部出身です。とにかく、「ヤサシイワタシ」がスキなひとは、ぜったい「おお振り」も読むべきです。

最後に

「ヤサシイワタシ」をちゃんと“読み切る”ためには、おそらく、さまざまな「決めつけ」をうまく外していかなければならない。
そもそもこのマンガは、油断すると、すぐに、なにかわかりやすい「記号」にして済ませてしまいたくなる、そんな誘惑に満ち満ちたマンガだ。そこをぐっとこらえて、ちょっと自分の中で、反芻してみることを、強くおススメする。
つまり、なんの読解コストも払わず、このマンガを読むことはできない。そうしないと、なにが起きるのかというと、読者は……たぶん、「記号」に逃げてしまうのだ。せっかくこのマンガが、他にない唯一の表現で描いてくれたものを、わざわざ、どこかのだれかが記号化したものに収めて済まそうとするのは、もったいない。
もちろん、記号化しないで読むのは、えらくタイヘンだ。だが、逃げちゃダメだ。
ところで、記号化ってのはどういうことか。
ここでいう「記号化」は、端的にいえば、たとえば「読んだら鬱になる」とか「弥恵みたいな女はイライラする」とか「弥恵はADHDだ」とかそういう読み方のことだ。
いいかえれば、こういう読み方をすることで「わかった」ふうな気になることだ。
くりかえし強調するが、「ヤサシイワタシ」は、ほとんどの読者にとって、自分の精神的テリトリー内に収めることがむずかしい作品だろう。しかし、それを(安直に)収めようとすると、いっきに、せっかく作品が外してくれた記号化の呪いを、みずから再装備することになる。もったいないから、それだけはやめたほうがいい、とぼくは思う。

「ヤサシイワタシ」は、甘々ラブラブなラブコメではない。恋愛マンガではあるが、男女がくっついてハッピーエンド、みたいな話ではない。男女関係はリクツじゃない、みたいな話とも、ちょっとちがうだろう。ただとにかく、男女が出会い、別れ、そしてまた出会うマンガだ。
すべての出会いが、よろこびや善を生むわけではない。
ただ出会い、別れる。いいこともイヤなこともプラマイゼロになり、ともにすごした時間だけがたしかなものとして残る。それはたぶん、すばらしいことなのだ。

 

画像出典すべて:「ヤサシイワタシ」ひぐち アサ (講談社・アフタヌーンKC)

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