本屋の本音のあのねのね 第十五冊『九龍ジェネリックロマンス』~九龍に恋した男女は紫煙をまとう~

サイバーパンクと九龍城砦

ぼくは人が密集している<都市>に、小さいころから、異様に惹かれた。
たぶん反動である。なにせ、ぼくはド田舎の出だから、見わたすかぎりの田んぼの中、人間は自分しかいない、という風景が日常だったのだ。今でこそ、そんな風景が、宝石のように貴重だったとわかるが、子供のころはぜったいこんなところは早く出て、東京さ行くだ、と思っていたわけだ。そして、そういう過疎った田舎へのコンプレックスからか、ぼくは中学生にあがったころ、SFの一ジャンルである<サイバーパンク>に傾倒した。
ただしくは――このサイバーパンクが描き出す<都市>に、ひどくハマってしまった。
サイバーパンクは、ビジュアルだけをいえば、退廃的な近未来を舞台にしている。よく、映画「ブレードランナー」の映像が例にあげられるが、あの、酸性雨が降りしきる、汚れて、猥雑で、下層民でごったがえす、“疑似”アジア的(「ふたつでジューブンですヨー」とか「強力わかもと」に象徴される)な都市が、サイバーパンクの典型的な舞台である。田舎のガキには、そんなエネルギッシュな街が眩しく映ったわけだ。
残念ながらジャンルとしてのサイバーパンクは、そうしたビジュアル面や、電脳空間という画期的なアイディアを、単なる「活劇の道具」として消費し尽くされて、ムーブメントとしての力を急速に失ってしまったが、それはこのコラムとは関係ないことだろう。……なんか悲しい気分になってきたので意味なく“ふたつで充分オジサン”の写真でも貼っておこう。あー、なごむ。

出典:映画『ブレードランナー』© Warner Bros. Entertainment Inc.

とにかく、サイバーパンクが描いた<都市>は、それまでのSFが描いていたような、清潔で機能的な未来都市では、断じてなかった。
映画「2001年宇宙の旅」(1968年)冒頭、優雅なウィンナ・ワルツ「青き美しきドナウ」をBGMに映し出された、まっ白で無菌室のような宇宙ステーションのラウンジ。たとえばあれが当時イメージされたSF的未来だったわけだ。しかし、80年代末に生まれたサイバーパンクは、そんなバラ色の未来など、もう信じることはできない世代のSFだった。だから、そこに描かれる<都市>は、どこまでも汚れ、ぐちゃぐちゃで、混乱と熱気がうずまく、異様な活力にみちた空間となったわけだ。
ここはマンガのコラムだからあまり掘り下げないが、このサイバーパンクの切り開いたイメージ・世界観は、のちのあらゆる表現物(マンガ、小説、映画、音楽etc.)に影響をあたえたといって過言ではない。
さて、こうしたサイバーパンク的な<都市>には、あきらかにモデルがあった。
それはおそらく、1920~30年代の上海であり、返還前の香港であり、そして――「九龍城砦」(くーろん・じょうさい)だ。
これをしめす比較的あからさまな例は、サイバーパンク作品の代表的映画「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」だろう。原作と異なり、映画では、舞台がどこの街と明示されていない。そのかわりここではちょっとオーバーなくらい強調された“アジアの都市”が描かれている。これがアジアのどぎついディフォルメであること、モデルが「九龍城砦」や香港であることは明白だ。
サイバーパンクの<都市>にあこがれたぼくにとって、「九龍城砦」こそは、なによりも想像力をかきたてられる、特別な場所だった。

東洋の魔窟

「九龍城砦」は、人類史上、もっともカオスで、もっとも猥雑で、もっともエキサイティングな建築物である。日本では「九龍城」だけでも通るだろう。正式名称は「九龍寨城」というが、まあどちらでもいい。“東洋の魔窟”などともいわれた。
それは香港郊外・九龍城地区に1960年代ごろから現れた、わずか東西126m×213m・面積2.7ヘクタール(東京ドームが4.7haだから約半分)という極端にせまい面積につめこまれた500(!)をこえる不法建築の集合体であり、ひとことでいえば要は「スラム」である。だが、無計画な増築につぐ増築、ツギハギにつぐツギハギの果てに、もはやひとつの「街」――いや、ある意味では独自の法をもった「国」――と化したのである。最盛期には人口5万人をかぞえたという。その人口密度は当時世界一といわれ、畳一畳に人3人がいた計算になる(もちろんこれは数字のトリック。敷地面積で計算したから。実際は、違法すぎる高層化で、密度はタテに分散する。延床面積で計算すれば、もうちょいありえる数字になる。それでもとんでもない密度にかわりはないのだが)。
下の空中写真をごらんいただきたい。狂ってるでしょ?


城内には政府の権限がいきとどかず、無法地帯と化した。
そのいきさつは、こうだ。――1899年に英国が香港を99年間租借したさいに、この九龍城砦だけは中国領としてのこされた。つまり「飛び地のなかの飛び地」となってしまった=中国の官憲が入りにくいわけだ。そして事実上、九龍城砦から中国の官憲は姿を消した。その結果、このスラム建築に国家権力はおよばず、逆に犯罪者たちや行き場のない浮浪の民がどんどん流入していったのである。
ただし、内部なりの秩序はかなり高度に維持されており、学校や幼稚園に病院もあった。あと「無資格の歯医者」がやたら多かった、という逸話がある。香港で歯科医になるにはかなりめんどうな資格(英国領だから)が必要なのだが、九龍城砦内で開業するなら、無免許で可能だったからだ。ただ無免許といっても中国の有資格者なので、かなり腕のいい歯科医が、九龍城砦にはそろっていたとか。わくわくですねー。
しかし、1993~94年にかけて、中国政府によって解体され、跡地はただの公園となった。
<九龍>は、失われてしまった――
以後、本稿でつかう<九龍>とは、ここだけの造語だ。リアルな「九龍城砦」という建造物や「九龍半島」という土地だけを指すものでなく、サイバーパンクの世界観や、それらすべてを包括して、ひとびとに共有されているエキゾチックなイメージの総体をしめすコトバ、そうご理解いただきたい。
そして、この<九龍>を舞台にしたマンガが、今回ご紹介する「九龍ジェネリックロマンス」(眉月じゅん 集英社)である。

<九龍>が舞台ならおもしろくなるに決まってる

「九龍ジェネリックロマンス」は、2022年現在も週刊ヤングジャンプにて連載中(2019年~)。つい先日、最新7巻が発売されたばかりだ。いろんなマンガ賞にノミネートされたりしてて、帯ではグイグイそのことをアピールしているが、気にしなくていい。
作者・眉月じゅん先生は、前作「恋は雨上がりのように」がアニメ化するほどのヒットとなったが、実は寡作であられる。「恋雨」含めて連載はわずか2作のみ。他は読み切りの短編だけ(主だった短編は「さよならデイジー 眉月じゅん初期短編集」にまとめられている)。
つまり、とりあえずヒットは出したけれど、まだ評価は定まっていない、これからのマンガ家……のはずだけど、なんかすでに巨匠のフンイキすら感じるのはぼくだけだろうか。思うにたぶんそれは、特徴的な「絵柄」のせいではないか。眉月じゅん先生の“レトロフューチャー”とでもいうべき「絵・ヂカラ」は、熟練のベテランの風格すら感じる。
さて、ともかく、そんな眉月センセイ待望の連載第3作がこの「九龍ジェネリックロマンス」となる。
最初、タイトル(とかんたんな説明文)だけで、<九龍>好きのぼくは、超期待した。
<九龍>を舞台にした、アラサーの恋愛ものなんて、過去にも類がない。それに、<九龍>の住人である、ということは、すなわち、もうそれだけで、キャラクターの魅力が保証されるようなものじゃないか! いいかえれば、まっとうな社会の枠組みから外れ、それぞれが裏の事情を隠している、そんな一癖あるキャラクターばかりということだから、おもしろくならないわけがない。しかも「恋雨」で眉月センセイが示した繊細な感情描写がそこに加わったら、傑作まちがいナシ。そう思っていた。
しかし、いざ読み始めてみたら、なんかヘンテコな八面体ダイス?みたいなやつが空に浮いていて、この物語世界は、この「ジェネリックテラ」(略称ジェネテラ。下の画像)という疑似世界を作ろうとしている近未来らしく、要するに完全な虚構の<九龍>が舞台であるらしい。

つまりこのマンガは現代の話ではない。リアリティあふれる現代ロマンスを期待していたぼくは、正直、ちょっと、かなり、ガッカリしたことを告白しておきたい。
だが、読み進めていくにつれて、そんなガッカリ感は吹き飛んでしまった。むしろ、じわじわ、まったく予期しないマンガとなっていく。これは……このマンガは、どこへ向かっているのだろう?
とりあえず、あらすじをご紹介しよう。そして、すみやかに終わらせたい。というのも、結論を先回りしてしまうが……このマンガの読みどころは、「ストーリー」ではない気がするからだ。
ぼくはこのマンガを、たとえばこんなふうにご紹介するのは、なんか、気がひける。「九龍城砦を舞台に、不器用なアラサー男女がくりひろげるラブロマンス。SF的な謎が錯綜し、わたしとはなにかを探し求めていくサスペンス」……みたいな。実際、ぼくの見たかぎり、書評やレビューはどれもだいたいこんな感じだ。
もちろんこの紹介文はまちがってはいない。が、正しくもない。いや、いちばん大事な読みどころにまったく触れていない、という点では、わかりやすさを求める読者を誤読させるだけのトラップにしかみえない。
このマンガの読みどころは、きっと、わかりやすいようでいて、わかりにくい。これについては後で掘り下げてご説明する。まずは表面的にストーリーを追ってみよう。

あらすじ

――舞台は、近未来の「九龍城砦」。その上空には、「ジェネリック地球(テラ)」とよばれる人工物(詳細不明)が建造途中の姿で浮かんでいる。
物語の主人公は、九龍城砦の不動産屋・旺来地産公司で働く、鯨井令子(くじらい・れいこ)」32歳。彼女は、先輩の工藤 発(くどう・はじめ)」34歳に振り回される毎日を送っている。旺来地産公司は本社が日本で、九龍城砦の店舗は支店。従業員は、出向で送り込まれてきた令子、工藤、そして支店長の三人のみである。
鯨井は、ズボラで調子ばかりいい工藤に、悪態をつきつつも、時折ハッとさせられるような、本質をつくコトバを放つ工藤を、それなりにリスペクトしている。ふたりは、単なる同僚、という以上にはいい関係を築いていて、ふとしたことで鯨井は自分が工藤のことを好きだと気がつく。
だが鯨井は、この半年から一年くらい以前の記憶がない。どうして記憶を失ったのか、なぜ今、こうして普通に生活しているのか、といったことは、いっさいわからない。友人である女性・小黒(シャオヘイ)もふつうに接してくれるが、周囲が令子の記憶喪失を知っているのかいないのかもわからない。すべてあたりまえのように描かれていた、令子のありふれた日常が、突然、あきらかに不自然なものとして、令子には(もちろん読者にも)感じられるようになる。
そして、その記憶のないときに、どうやら自分とまったく同じ姿の、もうひとりの鯨井令子が存在していたことを知る(この存在を、便宜上「鯨井B」と呼称する。記憶を失っている、マンガ上は冒頭から描かれてきた鯨井令子のほうを「鯨井A」とする)。
記憶を失っているAは、どうやら、このBの生活を「そのまま引き継いで」いるらしい。たとえば同じ部屋に住み、同じ会社に通勤している、といったように。
そして、さらに不可解なことに、工藤いきつけの喫茶店「金魚茶館」のウェイター、タオ・グエンのコトバから、工藤と自分(正しくはB)は過去に交際していて、しかも婚約していた、らしいことがわかる。その証拠となる写真も、鯨井Aは工藤のデスクから発見する。
工藤のことを好きだと自覚したAは、しかしその思いも、なにかBから引き継がされたものなのでは、と苦悩する。
それにそもそも、工藤はこの半年、いっさいそんなことを令子には話してこなかったのだ。あきらかにおかしい。なにかを隠しているのは明白であった。
自分の失われた記憶と、鯨井Bとの関係を調べ始める鯨井A。ひょんなことから友人となった楊明(ヨウメイ)にも相談しながら、鯨井Bを知っているらしい金魚茶館のグエンに会おうとしてみるが、辞めて消息不明になっており、手がかりがとだえてしまう。
そんな折、<九龍>にちょっとした騒ぎがおきる。
巨大企業・蛇沼グループの一事業である「蛇沼総合メディカル中心」が、城内に店舗を開くことになったのだ。巨大な看板やメディア宣伝で、<九龍>のいたるところで話題となる。蛇沼グループは、美容・健康の他にもあらゆる分野に進出している巨大製薬企業で、民間でありながら国家事業の「ジェネリックテラ」開発にも一枚噛んでいる。
蛇沼グループの代表取締役・蛇沼みゆきは、メディアにもひんぱんに登場する会社の顔であり、タレント的な人気者である。みゆきは蛇沼グループの支配者の養子であるが、養父に憎しみを抱いている。だがそれを隠して、忠実にグループのためにジェネテラ開発などの事業を拡大している。みゆきは、社への忠誠の証として、全身に蛇の刺青・スプリットタンという“蛇”になぞらえた特徴的な容姿をしている。なお、半陰陽である。
旺来地産公司がメディカル中心の物件を世話した縁で、無料診断の優待券をもらっていたため、令子はみゆきの美容カウンセリングを受けることになる。
みゆきは、令子のカルテを見るや、不気味に笑う。カルテに添付されたデータファイルには「Zr02-H 適合者カルテ」という、意味深なファイル名が……。みゆきは、令子の顔のシワについて触診すると、「あなたのシワには“歴史”がない」「顔のシワには人生が反映するものだが、あなたのシワはただの“溝”だ」と告げる。つまり、一年前後の記憶のない令子(=鯨井A)は、そのころに生まれただけの、鯨井Bの「クローン」ではないか、と示唆されるのだ。ただ最後にみゆきは「今 貴女が此処に存在している。この事実が何よりも素晴らしい」と意味ありげなことをいう。
……ここまでで、まだ2巻までのあらすじだが、ストーリーの時系列に沿ったご紹介はここまでにしよう。なぜなら、ここからは、物語は「直線状」に進まないからだ。
鯨井Bと工藤の過去の話がさしはさまれたり、エピソード間のつながりも希薄で、ぶつ切りに事件は起きるが、ひとつの事件は次のエピソードにつながっていかないのだ。
ただ、全体として、これらの個別のエピソードは、いくつかの「謎」を浮かび上がらせてくる。あらすじ代わりに、以下それをまとめてみよう。

謎が謎を呼びまくる

ここからは7巻までにみえてくる、主だった謎を箇条書きしてみる。泣きたくなるくらいヤヤコシイので、覚悟してください。

1:出てくるキャラクターに、おおむねクローン存在がいる。
グエンにも、鯨井Bのような、いわばクローン存在がいることがわかる(みゆきも、グエンも、そのクローン存在がなんであるのかわかっているらしい。「謎2」参照)。同様に、小黒にもクローン存在がいて、しかもこちらは性別がちがう。ほかにも<九龍>の住人たちには、クローン存在がいる(「謎7」参照)。
ちなみに、全身整形したという楊明は、整形前と後、というふたつの姿があるが、それはクローンではないから、前後は同一人物だといえる(つまり、クローン存在と疑われる令子(鯨井A)とは、存在のしかたがちがう)。

2:これらクローン存在のことを、みゆきたちは「ジルコニアン」と呼んでいる。
ジルコニアは人工ダイアモンドのこと。つまり“模造品”である。そしてその名を冠した「ジルコニアン」なる存在の計画が、ジェネテラ計画と並行して進められていたことが示唆されている。ジルコニアン計画は、みゆきと、その協力者が進めているらしい(6巻)。
令子(鯨井A)などの記憶喪失である人間たちは、それらの計画の推進者たちによって、監視、もしくはひそかに管理されている“模造品”なのだろうか? 令子のカルテのファイル名にある「Zr02-H 適合者」のZrはジルコニアンの略称と推察され、適合者ということは令子が「なんらかの投薬や実験の被検体」である可能性を示唆している。
ジルコニアンは、ふつうの生体クローンとは別物らしい。そして、どうやらジェネテラは、「記憶」を外部保存するシステム、らしい。そうした記憶を再生している仮想の人物が、ジルコニアン?

3:令子の「ホクロ」についての言及。
ホクロは、クローンに遺伝しない(ホクロの生成は完全な偶然によるので、クローンと本体の間で同じ位置にホクロができることは確率的にありえない)。なのに、かつての令子(鯨井B)のホクロが、クローンの可能性が示唆された現在の令子(鯨井A)の同じ位置にも、あるのである(=「鯨井B」と「A」が、じつは同一人物である可能性 or 鯨井AはBのクローンではない、が示唆されている)。
ただし、鯨井Bは、どうやら、蛇沼グループの実験になんらかのかたちでかかわり、実験あるいは治療のための投薬で、死んだことが示唆されている。つまり、物理的な意味で、鯨井AとBが同一人物である、ということは、どうもなさそうだ。

4:この<九龍>には、以前の記憶のない人間が存在し、しかもそのかれらには<九龍>は以前の姿のままで見えている。
1994年の解体後に再度よみがえった「第二・九龍寨城」もまた、この物語世界では二度目の解体をされていて、現在は存在しないことになっている。そして、マンガ中ではなんどか、令子らが目視・体感している<九龍>と、崩壊した<九龍>が、二重写しで描かれる場面がある(下記画像参照。このふたつの見開きは、左→右の順の、連続したページである)。つまり、令子(鯨井A)が見えている/生きている<九龍>は、現実には存在していない。
さらには、この幻想の<九龍>(これを仮に、「第三」と呼ぶとして)の時間軸は、おそらく現在と比べて「3年前」の時間が流れていることが示唆されている。3年前とは、第二九龍寨城が取り壊された年である。つまり、取り壊される寸前の状態が再現されているのが、令子(鯨井A)の存在している「第三」の<九龍>なのではないか。
といっても、それだとたとえば「九龍城砦にはエレベーターが二基しかない」という、初代の有名な逸話が、「第二」の再現である「第三」の<九龍>でも適用されているのは、説明がつかない。第二でもこの逸話が引き継がれていたのなら、いちおう説明がつくが……(そこまでいくと、ただの“こじつけ”かも)。


5:<九龍>が見えている人々(の一部)は、その不可思議な空間の中でしか、存在できない。
ちょっとした買い物のために<九龍>を出ようとした(九龍城砦は香港に隣接している)令子を、グエンが必死に止めたことで、それは示される。ただ、同行していた楊明は、ふつうに出ることができた。また、偶然そこに居合わせた香港から来たピザ屋は、楊明やグエンは視認できたが、同じ場にいた令子を認識できなかった。
このことから、外部の人間(の一部)は、現在の<九龍>限定で存在をゆるされている令子や、<九龍>を見ることができない。ピザ屋には<九龍>が瓦礫の山に見えている。
楊明は、すでに述べたとおり、整形しているだけで自己同一性は保たれている=本体のままであるから、<九龍>を出られる。そんな彼女が、幻影の<九龍>を見ることができる理由は、まだハッキリしない。みゆきやグエンも、同様の存在=本体のままでありながら、<九龍>を見ることができる。その条件は、まだあきらかではない。

6:工藤は“事情を知っている”側で、自死した令子は自分が殺したと言っている。
冒頭からずっと、記憶のない令子に、それまでとかわらない接し方をしている工藤だが、実はその記憶喪失の理由について、事情を把握しているようである。そして、あきらかにその行動には、自殺したかつての婚約者・鯨井Bへの思いが垣間見える。
なぜ工藤が自殺した(と記述されている)彼女を殺した、と自供しているのか? なぜ事情をおそらくはある程度把握しているのに、そのことを鯨井Aにかくしたまま、一年近くにわたって、同じ職場で机を並べていたのか?
工藤は、<九龍>がまぼろしであることも、そこに記憶のない令子がいることも、すべてわかったうえで、現状の<九龍>での生活をえらんでいるらしい。工藤もまた、「謎5」でいうところの、本体のままで幻影の<九龍>を見たり、そこにあるものに触れることのできる存在である。どういう条件を満たしているからそうなのか、は不明。

7:ジルコニアンは、<九龍>内で、本体と同居できない。
ある住人をサンプルとしておこなわれた実験によれば、本体が<九龍>に侵入した瞬間、そのクローン(ジルコニアン)はぱっと消失してしまった。この実験をおこなったのは、みゆき(と同席したグエン)なので、かれらは、この現象のことを、この時点では把握していない=この事象の原因は、蛇沼グループとは関係ない、別の何者がが引き起こしたものであることが推察される。

8:「“第三”九龍城砦」は、ジェネテラが気脈を乱して出現した幻?
6~7巻にかけての新たな登場人物であり、ジルコニアン計画の共同推進者と目される、みゆきの協力者・ユウロンは、「“第三”九龍城砦」がジェネテラの影響下で生まれた幻影的な空間である、と推察している。このまぼろしの<九龍>を視認できる者と、できない者がいることは「謎5」で述べたとおり。

……とりあえず、ざっと主だった8つの謎を列挙してみたが、ホンネをいえば……
からまりすぎだろ! 謎! 書いてて、こんがらがった!
さて、こんがらがりついでに、爆弾発言をぶっこませていただくが、正直にいって、ぼくは、このマンガの、ここまでバラまかれてきたさまざまな謎について、あんまり興味がない。
なぜなら、もういちど書くが、このマンガの魅力は、ストーリー、言い換えればこれらの「謎の解明」にはない、と思えてならないからだ。すくなくともそれが第一義ではない。こうやって、あらすじを書いてみると、ますますその思いを強くする。
あらすじでは、どうしても「謎」に言及せざるをえない。だが、このマンガを実際に読んでみると、ぼくは「謎」にあまり集中できなかった。たとえばこのマンガをテキスト化すると、「謎」のことばかり書くしかないのだが、このマンガは、実際には、「謎」以外のもので、埋め尽くされている、というほうがこのマンガの姿を正しく伝えているように思える。
ぼくはこのコラムで「九龍ジェネリックロマンス」に興味をもってもらいたいわけだが、それはこのマンガを“わかりやすく説明すること”ではない。わかりにくかろうと、ぼくが心から感じたことを、お伝えしたい。だから、ありきたりなレビューが、これらの謎の解明や、その構造について、どんなに持ち上げて書こうと、ぼくの考えをご紹介させていただきたい。
で、このマンガのおもしろいところは、ガツガツと謎が提示され、しかもそれはさっぱりわかりやすくなく、7巻も経過しているのにほとんどなにも判明していないにもかかわらず、マンガとしてこの作品は、冒頭からずっと、あることを伝えようとしていることが、うっすらと感じられる、ということだ。
なんといえばいいのか……描きたいのはまったくべつのものなのだが、マンガの“てい”を成してないと連載できないから、やむなく「マンガを擬態」してる……とでもいうのか。
ぼくがこの「九龍ジェネリックロマンス」というマンガに感じるのは、そういう印象である。
もちろん、表面的には、このマンガは、折り重なる無数の謎を追って進行している。7巻までの内容からは、端的に、次のように推察することができるだろう。
――ジェネテラの存在によって、なんらかの作用があり、「“第三”九龍城砦」が現出した。それはジェネテラ計画の、いわば副産物であり、本来見込まれていた現象ではなかった。ゆえに、ジェネテラ計画、あるいはジルコニアン計画の推進者たちは、この幻想の<九龍>に入り、さまざまな調査を行っている。鯨井Bは、上記計画の過程で、ハプニング的に死んでしまっており、その真相を知る工藤は、Bとなんらかの“連続性”があるAに、固執している。また、ジェネテラ計画、そしてジルコニアン計画は、蛇沼グループの総帥であるみゆきの義父が、死んだ息子をよみがえらせるために進められていたが、義父に恨みをもつみゆきは、その計画を逆手に取って、義父への復讐をもくろんでいる。ただ、令子(鯨井A)だけは、ただのクローンではない、特異な存在であるようだ。物語は、おそらく、この鯨井Aの特異性によって、関係者たちの予想をこえた事態に進んでいく……
――と、まあ、こんな感じだろうか。
これだけでもじゅうぶんおもしろいのだけれど、やはり正直にいえば、次々と提示されていく謎も、その回答も、どこか場当たり感が否めない。謎の解明も、乱暴な言い方をしてしまえば、はっきりいって“ついで”に思える。むしろそれを、抜群の「絵・ヂカラ」と表現技術で、力技で読者に納得させてしまえるのだから、眉月センセイ(とご担当の編集様)のマンガ力たるや、化け物だと思う。
極端な見方だろうって? かもしれない。
まあ、なにせまだ連載中だ。これから、鮮やかに謎が解かれていったら、ぼくの意見もコロッと変わるかもしれない。
ただ、とにかく最新巻(7巻)時点では、ぼくのこのマンガへのスナオな印象は、「不必要にわかりにくく、不必要に思わせぶりな描写が多すぎる」だ。
だからといって、ぼくはこのマンガをディスっているわけではない。むしろ、このマンガのすばらしさを、ぜひ明らかにしたい。
そのためには、謎とか、ロマンスとか、このマンガがマンガを擬態するためにまとっている外皮をはがし、生々しい本体をさらけだしたいと思う。「わかりやすい」読みに逃げなければ、そのことはわかっていただけるはずだ。
じゃあ、いったいこのマンガは、なにを描いているというのか……
だれが読んでも、こたえは明白だろう。もちろん、それは<九龍>だ。

場所が主役のマンガ

マンガのなかには、「場所」が主役、としかいえないような作品が、おもしろいことに、けっこうたくさんある。旅行系マンガはいうまでもないし、グルメ系でも場所がクローズアップされることがおおい。ただ、とりあえずここでは、そうした「情報系」のマンガは除外して、あくまでも物語のなかで、場所が主役になるケースを考えてみる。
ふつう主役といえば、人間だ。あるいは擬人化されたなにか、だ。当然ながらぼくたちは、そのマンガのキャラクターに感情移入することで、物語を自分のことのように感じる。そしてそこで直面するさまざまな苦難にくるしみ、のりこえ、達成感をえたりする。
だから感情移入の対象は、ぼくらが人間である以上、人間・もしくは人間を模したなにか、だ。仮にそのマンガの主人公が猫だとしても、その猫は、人間が理解できるように“翻訳”された考え方をしたり、行動する。「腹が減ったなあ」「あの大きな三毛は手強いから、逃げよう」「なんて美味いサンマなんだ」みたいに、じっさいの猫の思考をトレースするのではなく、翻訳結果を描くわけだ。
だが、表現者たちは、人間(or擬人対象)しか表現したくない、わけではない。当然ながら、べつのものにもエロスを感じ、それを表現したいと思ったりする。
そうした人間以外の表現対象として、たとえば「場所」というものがあげられよう。ぼくたちは、「場所」にも感情移入するからだ。具体例をあげれば、たとえば“あの夏の海”とか、“二十年ぶりの故郷”とか、こういう感じに。
なお、お気づきかもしれないが、「場所」への感情移入は、ほぼイコール「思い出=記憶」への感情移入でもある。その場所がはらんだ・積み重ねてきた物語の層の厚さに、それにかかわった人々に、感情移入するのだ。これはたぶん、「九龍ジェネリックロマンス」を読むうえで、ポイントになるところだと思うので、強調しておきたい。
さて、「九龍ジェネリックロマンス」は、まさにこの、場所への感情移入を主題としているマンガだ。
……と、さらっと断定してしまったが、ぼくはこのことが言えれば、もう他のことは些事だと思っている。<九龍>への感情が強く描かれているマンガ。このことは、はじめからなんども強調されていた。
たとえば、その感情のことを「恋」と工藤は(あるいは回想の中の鯨井Bは)いう。


現実でも、そしてこの物語世界でも、失われてしまった<九龍>を、「なつかしく」思う。その気持ちを表現するには「恋」というコトバがふさわしい、という。
<九龍>に恋してしまったのは、いったいだれだろう?
令子か。工藤か。幻想の<九龍>を“幻視”している、クローン=ジルコニアンたちか。
いや――「ぼく」か。
ただしくは読者/作者というべきか。たぶん、謎はいつか解かれ、あれこれと仕込まれたネタにも説明がつけられるだろう。それはまちがいない。だが、謎が解かれたことによるカタルシスが、このマンガの主題ではない、気がする。
次々と波のように押し寄せてくる謎のかずかずに、いちおうの答えがひとつひとつ出されていく過程で、その根底にはずっと、<九龍>への「恋心」が思われつづいている。
わかりやすくいえば、まず<九龍>を描きたい、という思いが先行してあって、そのほかのことは後から付いてきたのだ。だから、どうしても「歪み」みたいなものが生まれてしまっていて、それがぼくの感じる違和感の正体なのだと思う。

ジェネリックなロマンス

とはいえ、作者・眉月じゅん先生は、謎について、どこまで考えているのだろう?
ある程度、最初から大枠が決まっている、と思われるのは、「ジェネリック」という単語を、タイトルにひそませていることから察せられる。これは物語をつらぬくキーワードだからだ。こういう“仕掛け”は、やりすぎると、読者の鼻につくだけのものになってしまうが、気が付かれないのはそれはそれで困ってしまう。さじ加減がムズカシイ。その点、このマンガは、ジェネリックという単語がはじめてキャラクターにシリアスに関わってきたのは、最新7巻(下画像)であるから、いい塩梅に「溜め」が利いているんじゃないでしょうか。
ジェネリック(generic)医薬品は、薬の世界でよく聞く単語だ。適当にウィキから引用してみると「先発医薬品(新薬)の独占的販売期間の終了後に発売される、先発医薬品と同じ有効成分で効能・効果、用法・用量が同一とされており、先発医薬品に比べて低価格な医薬品」なんだそうだ。
「九龍ジェネリックロマンス」には、ジェネリックな(=「後発的」な)存在が、いくつもいくつも、登場する。
特に最新7巻では、令子(鯨井A)のことを、みゆきが「あなたはつまり 後発的(ジェネリック)な存在だ」と宣言する(同時に、この令子は「ジルコニアン」ではない、と断言される)。



この場面は、令子の正体について、これまででもっとも踏み込んだ表現がなされたシーンであり、タイトルに含まれる「ジェネリック」という単語が、物語においても重要なピースの一つであることを示す、注目すべき発言だ。
令子が、グエンが、小黒が、あるいはジルコニアンという存在が、そして「ジェネテラ」が、なにより「九龍城砦」自体が、この「ジェネリック=後発的」というキーワードにしたがって、二重写しのダブった存在として、描かれている。
読む人によっては、この「ジェネリックという切り口」は、むしろ逆に「オリジナル」の意味を問いなおすような仕掛けにみえるかもしれない。それもアリだろう。
実際、作中においては、このことを「絶対の私」というコトバで追求しようとしている。つまり、仮にみずからが、なんらかの元存在のコピーでしかないとしても、感じている「私」の絶対性は揺らがない、とまあそういうことを述べているわけだ。
素朴なデカルト主義といえばそれまでだが、生の実感として、私自身の絶対同一性みたいなものは根強く実在するわけだから、令子が、あるいはみゆきが“絶対”にこだわるのも、わからなくはない。またおそらくは読者のおおくも、スナオにこれに同調し、「やっぱ、オレはオレだよなー」とか「私自身の感じたことが大事なんだよ」とか、そう思うのはおかしなことではない、むしろ自然なことだ。それもアリだろう。

だが、ぼくはそういう読みは、ちょっとしっくりこない。このマンガを読んで、もっともするどく刺さってきたのは、そこではなかった。むしろこういうことだ。
「なぜ、わざわざ、空想の<九龍>を描いたのだろう?……あれっ、もしかして、それが目的なのかしら」
わざわざ物語の題材に<九龍>をえらんだこと、それ自体がすでに、作品としてのメッセージであるように、ぼくには思える。
すぐれたマンガ家のインスピレーションというのは、たいていがそうしたものなのではないか。眉月センセイも、以前から「九龍城砦」を取り上げたいと思っていたそうだが、<九龍>を描くことで、隠しきれない恋心が、ぼくには全編にいきわたっているように感じられてならない。
ぼくが、サイバーパンク的な都市に、<九龍>にあこがれたように。

<九龍>に魅せられし者たち

でも、もう<九龍>はない。だから恋心だけが、つのる。
<九龍>の魅力にハマってしまったおおくの人間たちは、それを「再現」しようという、いっそ無謀を通り越してアッパレな道を選んだ。
たとえば、ちょっと前に、川崎に<九龍>をモチーフにした「ウェアハウス川崎」というゲームセンターがあって、その再現度はリアルすぎて狂気じみたレベルだった(惜しまれつつも三年前に閉店)。
あるいは、このコラムを読んでいる方なら、もちろん「クーロンズゲート」のことはご存知だろう。「クーロンズゲート」は初代プレイステーション屈指のカルトゲームとして知られる<九龍>を舞台にしたアドベンチャーゲームだ。ぼくらアラフォーのオタクが<九龍>と聞けば、百人中百人がこのゲームを思い浮かべるだろう。眉月センセイも、そもそも<九龍>に興味を持ったキッカケは、なんとこのゲームだったとか。
どうしてひとはこんなにも<九龍>にあこがれるのだろう? こういってはなんだが、ただの汚いスラムではないか。
思うに、<九龍>へのあこがれは、秘密をはらんだ闇へのあこがれである。理解できないことがこの世界にまだあることへの憧憬である。あの狭く暗い通路の奥、階段の底には、明るい陽の光の下の世界では想像することもゆるされないような、淫靡で、いかがわしいなにかが、ひそかに存在している……いいかえれば「説明のし切れなさ」とでもいおうか。こうした、語り切れない、ということを、のどから手がでるほどに渇望する人間は、みな、<九龍>に惹かれてしまうのではないか。
だから<九龍>は、さまざまな物語の舞台、あるいはそのモチーフとなった。語り得ぬものへの恋心を、なんとかかたちにしたいがために。
「九龍ジェネリックロマンス」は、きっと、そのひとつだ。
謎の解決ではない。謎の未解決こそが、心の底では望まれているのではないのか。その不安定さや、暗さに、すなわち圧倒的な闇の力が、ひとを<九龍>に惹きつける。眉月センセイも、その引力に惹かれたひとのひとりだ。ぼくも、そうだ。川崎に狂ったゲーセン作ったひとも、ゲームの中で取り憑かれたように<九龍>を再現しようとしたひとも。
たぶん、真の<九龍>を描くのは、おそろしすぎるのだ。ぼくはそう思っている。だから、本能的に、空想化して“かわした”のだ。正面切って描いたら、手に負えない気がしたから。その根底では<九龍>に心をわしづかみにされながらも、あえて無数の謎をちりばめて、カモフラージュしているのだ。
「記号化」された<九龍>を都合よく組み合わせただけの架空都市には、もうウンザリさせられるだけだが、「九龍ジェネリックロマンス」というマンガは、そんなチャチなものではない。鋭敏で繊細な感性の持ち主(眉月センセイ)の手によって、<九龍>の本質に迫っている……
ぼくたちは、もしかすると、とんでもないマンガの誕生に立ち会っているのかもしれない。<九龍>を、「なつかしさ」という切り口で鮮やかに照らし出した時点で、それは決定づけられていたのではないだろうか。
こんなマンガ、ぼくは読んだことがないです。

タバコと麻雀と男と女

最後になるが、なんと15回目にして、ついに、ケムールにふさわしい「タバコ」が重要な役割をはたすマンガをご紹介できる!
「九龍ジェネリックロマンス」に登場する喫煙シーンの数ときたら、これでもかというくらいに多い。こんなに喫煙シーンが多いマンガには、ついぞ最近出会ったことがない。うれしくなってしまうくらいだ。
主人公の令子は、鯨井A、Bともにかなりのスモーカーだし、工藤も同レベルのスモーカーである。グエンやユウロンも吸うキャラクターだ。
令子はキャスター、工藤はホープ、グエンはラッキーストライク、ユウロンは銘柄は不明だが加熱式タバコを吸っている。
銘柄が明示されているのは、さすが、である。なぜなら、キャラクターの性格付けと関連しているからだ。女性がキャスターというのはじつに“らしい”し、妙にこだわりの強そうな工藤がホープというのもわかる。男臭いグエンがラッキーストライクというのも、ガジェット好きそうなユウロンが加熱式というのも、カンペキなセレクトだといえる。
また、「演出」としての喫煙は、実に効果的に挿入される。なにせこのマンガは、令子の喫煙シーンから幕を開けるくらいなのだ。令子アップの喫煙コマから、一コマずつ、カメラが離れていく。二コマ、三コマと引き――そして見開きで大引きからタイトルロール。



映画的な演出、といってもいいかもしれない。喫煙しているあいだ、キャラクターはしずかにたたずみ、動きを止める。でも、カメラだけが動く……ヨーヨー・マあたりのBGMが聞こえてきそうだ。
また、令子と工藤のふたりは、しばしば、ふたりきりでタバコを吸う。職場の外階段や、屋上で。その時間は、ときに重要なふたりの語り合いの場である。
あと令子は、「タバコとスイカが合う」と主張する。ホントかどうかはわからない(笑)が、令子はスイカを食べたり、スイカジュースを飲みながら、タバコを吸う。このクセは、令子という女性を「同定」するもので、工藤にとっては、死んだ鯨井Bを思い起こさせるものでもある。AがB同様に、スイカとタバコを好むシーンは、するどく工藤の心に突き刺さるのだ。



どうしてこんなに、「スイカ&タバコ推し」なのかはわからないけれど、ここまで熱く語られてしまうと、試してみたくなる。ぼくもかなりのスモーカーだが、このマンガが完結したときには、かならず試してみようと決めている。


もひとつ、おまけ。
「九龍ジェネリックロマンス」は、「麻雀」シーンも多いマンガである(なんかケムールで紹介されるべき運命みたいですな)。
おもしろいのは、中国式であること。中国式の麻雀は、「麻将」ともいい、日本と用いる牌の種類は同じ。ただ、いろいろと微妙にルールが異なる。また、牌が大きい。あと、牌を捨てる「河(ホー)」が、日本ルールだと各プレイヤーの捨て牌は自分の前にならべて捨てるが、中国式ではランダムに中央のスペースに捨てる。
令子も、工藤も、やたらと「緑一色」を上がっている。工藤の名前が「発(はじめ)」であることに引っかけてのことだが、ありえねー。九蓮宝燈ですら一回だけ上がったことのあるぼくだが、緑一色はじつは一度もない(テンパったことが一度だけ)。
ポンポン役満上がるのは、マンガの中でだけだー!……あ、マンガか……

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