本屋の本音のあのねのね 第十六冊『3月のライオン昭和異聞 灼熱の時代』 ~このマンガに、イヤなヤツはひとりもいないぜ そうだろう?~

昭和は<物語>のような時代だった――。こういうククり方は、ドえらく雑だとは思う。しかもふだんから「“時代”とか総括するやつに、ろくなやつはいない」と吹聴しているぼくとしては、まさにブーメランだ。それに、物語などと冗談でも思えないような泥沼の日々だろうと、その時を生きるものにとっては、すべからくかけがえのないものにちがいない。
だが、昭和から平成、令和にいたるまで、元号を三つまたいで生きてみると、なんだかんだで、やっぱり「昭和」だけは、別格で物語的だ、と思う。
まず、「昭和」は、長い。なんと実は、世界史上もっとも長い期間つづいた元号なんだそうだ(60年以上続いた元号は、64年の昭和以外は、清の康熙(61年)と乾隆(60年)のふたつだけ)。具体的には、1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。つまりは昭和天皇が御在位なさっておられた期間である。ただ、ここでお話したい「昭和」とは、たんなる時間の区切り、という以上の意味があるとご理解いただきたい。
たとえば、ここでいう「昭和」を――「戦争」、と読み替えるひともいるかもしれない。
わが国でこういうときにつかう「戦争」とは、「太平洋戦争」のことだ。
第二次世界大戦の一局面である太平洋戦争は、教科書的にいえば1941年にはじまり1945年に終わった。これは、昭和16年~20年にあたる。語弊を承知でいえば、昭和という時代は、いわば戦争という大事件を軸にした<物語>である。
欧米列強を後追いする黎明期があり、アジア進出の拡大期があり、そして太平洋戦争の開戦、真珠湾の圧勝劇から、アメリカの圧倒的な国力のまえに転がるように負けていき、最後には原爆という“最終決戦兵器”をくらっての敗戦……
ここまでを前編とすれば、後編のタイトルは「復活」あるいは「再生」だろうか。すべてを失った日本は、焼け野原から立ち上がり、その後、三〇年あまりで世界第二位の経済大国になった。さまざまな悪しき副産物(公害とか)を生みながらも、日本は突っ走った。
この、いわゆる「戦後」と称される時期、日本はエネルギーに満ち満ちていた。
ぼくら(昭和後半生まれ)の、親の世代だ。
さて、今回の本コラムは、「3月のライオン昭和異聞 灼熱の時代」(西川秀明 白泉社 以下「灼熱の時代」)をご紹介したいと思う。
タイトルがしめしているように、このマンガはまさに「昭和」という時代に<物語>性を読みとっている。
表面上、このマンガは「将棋マンガ」だ。もちろんそれに異論はない。だが、ぼくはこのマンガにこめられたほんとうのねらいは、もう少し重層的である気がする。ただ勝った負けただけの将棋マンガではなく、「昭和」棋界を描くことで、昭和に満ちていたあの熱量=灼熱……たぶん今この現代では失われてしまっているもの……を、マンガという方法をつかって、再現することを狙っているのではないのか。登場人物たちもどこか「あの棋士がモデルでは?」と思わせるように描かれていたり、コミックスの巻末ではそうそうたる名棋士たちによる「昭和棋界のエピソード」を存分に語ってもらったり、と、ただの勝負事、ただの知的競技を描くだけのマンガではないという姿勢は明白である。おおげさにいえば、「歴史観」のあるマンガだ、と思う。
さっそくだが、「灼熱の時代」について、そしてそれが描く「昭和」という<物語>について、ご紹介させていただきたい。

スピンオフマンガの原典

羽海野チカ先生による「3月のライオン」は、ひかえめにいっても今世紀のマンガ史にのこる傑作だと思うが、「灼熱の時代」はそのスピンオフマンガである。
「3月のライオン」はアニメ化や実写映画化までした大ヒットマンガであるから、ご存じの方もおおいだろう。
だが、そのスピンオフ「灼熱の時代」はどうか。映画をみたひとびとはしっているんだろうか。きっと大半がしらないんじゃないか。ぼくは我慢ならない。断固として、なんとかおおくの方々に読んでもらいたい。ぼくはこのマンガが好きなひととは、きっと気が合うだろうと思う。
「3月のライオン昭和異聞 灼熱の時代」は、白泉社の青年誌「ヤングアニマル」にて、2015年9号から2020年7号まで連載、完結。コミックスは10巻。ちなみに原典の「3月のライオン」は現在も同誌にて連載中である。
「灼熱の時代」の作者・西川秀明先生は、1980年代から商業マンガ家として活動しておられるベテランだ。成年コミックからゲームコミカライズまで、その仕事にはかなり振れ幅があるが、その経験値はあきらかに「灼熱の時代」に活きているように思う。
さて、本編でなく、スピンオフをとりあげる、というのは、今回にかぎれば、とても容易な決断だった。この「灼熱の時代」は、まさにマンガにおける“本歌取り”の傑作であり、本編と同程度の評価をうけるべき作品だと思うからだ。
びっくりしたのは、なんとこのマンガ、ウィキペディアで独立したページがない!
「3月のライオン」本編のページの一項目としてのあつかいなのだ。ゆるしがたい。こーゆーのをみると、ウィキって便利だけど丸々信じちゃダメだな、って思います。
さて、まずはじめに、原典「3月のライオン」は、将棋マンガである。
当たり前だろうって? じつはそうでもない。このコラムを読んでこられた読者様ならおわかりかもしれないが、ぼくはこういった“ジャンル”の決めつけに対しては、いかなる予断もゆるさない質からだ。
そんなぼくですら、「3月のライオン」を将棋マンガと断定することに異論はない。それくらい、このマンガは、将棋というゲームの本質に迫っている。
それは作者・羽海野チカというマンガ家が、マンガを極めようと、全身全霊をかけているからだ(あとがきマンガでさらされる、そのズタボロの姿!マンガを描くとは、かくも消耗するものなのか)。将棋も、マンガも、同じことだ。なにかを極めようとするなら、なにかを失う覚悟がいる。一線をこえるためには、血反吐を吐かないとならない。いまだ人類の歴史において、一芸を極めた者たちで、そういった道をたどらなかったためしは、おそらく、ない。
とにかく「3月のライオン」は、将棋というゲームを、あるいはある個人がなにかの芸の道を極めんとして生きるとはどういうことかを、必死に描き出そうとしているマンガだ。そこに、思春期の懊悩・孤独・恋愛などをくわえ、将棋を中心軸とした群像劇としている。小細工などまったくない。真正面からマンガという表現方法とがっぷり四つに組んだ、まさに王道をゆく横綱マンガである。

不自然だらけのスピンオフ

さて、このような“不動の本編”たる「3月のライオン」があって、とくにテコ入れも必要には思えないのに、なぜ、わざわざ「灼熱の時代」は描かれたのだろう?
商売上の理由? 正直、まったくそうは思えない。このスピンオフが、単純なカネの匂いがするという理由ではじめられた感じはまるでしない。
まず、すでに売れている原典のスピンオフを作るなら、原典をうまく利用=踏み台にするものだろう。つまり、本編読者の反応はわかっているのだから(どのキャラが人気か、どういう性格・特徴が人気か etc.)、本編読者が望むツボを、容易に狙うことができる。
たとえば、キャラクター人気を利用して、原典と関係ないジャンル、たとえばグルメ系とくっつけてみるとか(例:「幼女戦記」「とんがり帽子のアトリエ」)。あるいは、原典ファンがあんまり感情移入してなさそうな端役を、見た目女子ウケしそうだからあえて主役にしてみたり(例:「軍靴のバルツァー」とかそんな感じ?)。あとよくあるのは「学園モノ」化とか。かの超絶ヒット作「鬼滅の刃」ですら、学園化してしまった(これはおもしろかった)。そういや学園化といえば、なんかガ○ダムも学園化するんですって。世も末だと思うのは、ぼくがオールドタイプだからでしょうか。
まあとにかく、つまり、こうしたスピンオフは、原典のキャラクターや設定を、たとえば「記号化」したジャンル/意図的なピックアップによって、無制限に拡張し、読者に徹底的におもねるために作られる、と相場は決まっているのだ。
それが、悪いことだ、とは思わない(いいことだ、ともいわないけど)。読者にとって、そのマンガが売れるかどうかはどうでもいいことだが、作者と版元にとってはそういうわけにはいかないからだ。だから、美学に反していようとなんだろうと、売れそうなら、それは実行される。スピンオフの企画が、えてして少々あざとい匂いがするのは、そういう興行面からの理由があるとは理解しておいていいだろう。ぼくは、こうした姿勢を、すなおに支持する。芸事というのは、客によろこんでもらえてナンボ、だからだ。
ちなみに、スピンオフには“実写化”“アニメ化”と似たところがあって、とかく「原作クラッシャー」になることがしばしばあり、原典の熱心なファンをやきもきさせる。思うに、これには構造的な理由がある。そもそも実写やスピンオフは、原作が生まれるにいたったモチベーション・動機からつくられるわけではなく、ぶっちゃけ便乗商法の一種だからだ。できあがったものが、原典のマインドとかけ離れていれば、そりゃ怒るというものだ。弊害があるとすればそれくらいだろうか。
さて、以上の観点からみた「灼熱の時代」はどうか。
ズバリ、もはやこちらがビックリするくらい、まるで原典を踏み台にしていない。スピンオフとして、これは一見致命的である。だが、このマンガにかんしては、これが唯一の正解だとぼくは思う。ところで踏み台にしていないとはどういうことか。


たとえば、原典「3月のライオン」の登場人物で、「灼熱の時代」に登場するのは、主人公・神宮寺崇徳(じんぐうじ・たかのり)と、その盟友・柳原朔太郎(やなぎはら・さくたろう)だけである。他に完全なモブでひとり(がんちゃん)。オープニングで、いちおう、「3月のライオン」の主人公・桐山零が顔出しなしのブラインド出演しているが、それはファンサービス程度のもので、物語上の役割を与えられてはいない。つまり、桐山クンが、たとえば新聞記者Aといれかわっても、このマンガはまったく問題なく成立する。
つまり、「灼熱の時代」というマンガは、桐山クンという魅力的なキャラクターを踏み台にしたスピンオフではない。もちろん、桐山クンがいて、その彼に神宮寺がかかわり、だからこそこのマンガは生まれたわけだが、ここではそういう話ではない。作劇上の必然性の有無を問題にしている。
だから、正直いって、「灼熱の時代」の登場には、不自然さを感じずにはいられなかった。へー、3月のライオンのスピンオフかー、おもしろそうだなー……って、え?主役、神宮寺会長?しかも現役時代の話?意味ワカンネー! ぼくはマジで失笑すらしたものだ。いくらなんでも、それは“狙いすぎ”だろう、と。
そもそも、原典「3月のライオン」には、その時点で、そんなにキャラクターを掘り下げる必要性を感じなかった。というより、「3月のライオン」はむしろもう、本編自体がスピンオフの集合体といってもいいくらいなのだ。巻がすすみ、桐山クンたちは、つぎつぎと新たな棋士と対戦していく。そうして、どんどんキャラが増え、かつ掘り下げられて、なんかスピンオフだらけみたいになっている。もちろん羽海野チカ先生は、巧みにメインキャラたちも深化させているので、なんというか、キャラクター描写はカンペキのペキ、足りないところってまるで見当たらないのである。
さらに、「灼熱の時代」のいちばんの不自然さは、主人公だ。
なぜ、“かれ”なのか?
神宮寺崇徳――日本将棋連盟会長であり、第16世名人。豪傑、というべき人物で、ちょっとぶっ飛んだ変人であるが、しばしば細やかな気配りもみせ、器のおおきさを感じさせる。……と、いうのが原典「3月のライオン」で描かれる神宮寺のすがただ。たしかに本編で神宮寺崇徳は、クセがつよく、奥行きがありそうに描かれてはいる。
が、しかし、どうみても完全なモブである。魅力的であるとは思う。ただ、それだけだ。このどこに、その後マンガ十巻もついやして、その激動の半生を描かれるべき理由があるというのだろう? なんというか、どこに“引っかかる”ところがあったのだろう?
本編におけるそのキャラクターにまつわる逸話やセリフかなにかに、作者か、編集者かだれかが「ピン」ときたから、神宮寺は主役に大抜擢されたのか?
いちおう、本編ではキワモノ変人キャラ扱いの神宮寺を、あるキャラクターが擁護するシーンがある。「言っとくが強かったんだぞ?ちょいと昔から変わってたが 一応これでも7期名人をつとめてたんだぞ」(3月のライオン・第三巻chapter.23「くる年」)。あえていえば、引っかかるのはここくらいだろうか。でもこれって、ふつうはスルーするていどのコマでしかないし。


結局、この違和感への、筋のとおる答えは、みつからなかった。
「3月のライオン」にはたくさんの登場人物がいて、その中から神宮寺崇徳がえらばれた理由は、「信じられないような飛躍」という仮説しか立てられない。
他のキャラなら、まだわかるのだ。たとえば、準主役級のキャラクターでいえば、「島田八段の奨励会時代」とかのほうが、まだしもアリな気がする。島田には結婚を約束していた女性がいたが、彼女と別れ、将棋をえらんだ、という設定があって、このへんやればアツいだろう。あるいは、プライベートまで掘り下げられたキャラでいえば、スミス(三角)なんか意外と人気出そう。スミスの「対局当日朝のルーティーン」は、かれの軽快な生き方をあざやかに切り取った、「3月のライオン」屈指の名シーンだ、とぼくは思っている(朝食にコンビーフとかトマトかぶりつきながら詰将棋とかオシャレすぎる)。こんな例ならいくらでも出せる。単独のエピソードでちゃんと描かれたこういうキャラがいくらでもいるのだから、その中から選ぶべきではなかったのだろうか? 好き嫌いじゃなく、商売的にもそのほうが売れるんじゃないか……?
そんなゲスの勘ぐりを、「灼熱の時代」は、すさまじいほどの作品の勢い・パワーで、あっさりと吹き飛ばしてくれる。
なぜ、神宮寺崇徳が主人公なのか、に理由はないのかもしれない。ぼくたちは、ただ、その奇跡のような飛躍によって、激アツなマンガが生まれたことを感謝するだけでいいのだろう。
ひとつだけ、理由をひねりだすとすれば、それは神宮寺は「昭和」の棋士だった、ということだ。むろん神宮寺は昭和のあとの平成でも棋士であったのだろうが、その全盛期はやはり昭和である。つまりこのマンガが、「昭和」を描こうとしているなら、神宮寺が主人公にピックアップされたことにも、なんとなく納得がいく、気がする。
作者様あるいは担当編集さんにインタビューでもすれば聞けるかなあ。いつか機会があれば、徹底的にうかがってみたい。


さて、「灼熱の時代」のあらすじをご紹介しよう。
このマンガは、たとえば前回の「九龍ジェネリックロマンス」や前々回の「ヤサシイワタシ」のややこしさを100とすれば、あらすじの難易度は、1か2か、というくらい、わかりやすい(ああ、気が楽だ)。
ひとことでいえば、「神宮寺が名人に挑戦し、一度は完敗するが、大復活をとげ、ついに雪辱を果たして、名人位を獲得する」……というおはなし。これで、八割くらいは説明終わり。あと二割は、神宮寺を支える人々のエピソード。
とてもシンプルだが、油断してはいけない。読むのに、かなりの気合が必要だからだ。テキストにすればスッキリしているが、そのド迫力の絵柄や、登場人物たちのまさに“灼熱”の激闘は、カロリー大爆発である。ノックダウンされないよう、ご注意。
とりあえず、全10巻のうち、半分までは細かく、そこから先はダイジェストです。

あらすじ

三年前、飛ぶ鳥を落とす勢いで順位戦を駆け上がり、最速で名人に挑戦した神宮寺崇徳(八段)は、しかし惨敗する。大口をたたき、傍若無人にふるまったからこそ、その負け方はみじめであった。そこから落ちるところまで落ち、泥沼のどん底ですさんだ生活を送っていた。ときに1966年(昭和44年)、夏。
そんなかれは、ついに復活を賭けた大一番、玉将への挑戦者リーグまであとひとつ、という対局にのぞむ。相手は、強者・丸藤八段。その復活を、盟友・柳原朔太郎(六段)は待ち望んでいたが、開始時間がせまっても、神宮寺のあらわれる気配はない。周囲がざわつく中、遅刻して神宮寺はあらわれた。その豪快で、ひとを食ったような態度に、丸藤八段は激怒する。
戦いは、丸藤八段優位に進む。が、突如神宮寺は、かつてのかれの棋風であった烈火のごとき攻めの将棋ではなく、「泥沼」に相手をひきずりこむような、まるで別人のような将棋を指しはじめる。――神宮寺のあらたな棋風「泥沼流」であった。



勝利したかれを、神宮寺の住むアパート「月光荘」の隣人である、シングルマザー・小谷香織とその娘・留美が祝福する。香織は昼は弁当屋・夜は水商売と、女手一つで娘をそだてているが、ひょんなことから神宮寺の身の回りの世話も焼いている。


アパートの管理人・高木健吉イクの夫婦は、神宮寺にいう。香織の想いはあきらかじゃないか。どうしてそれにこたえてやらないんだ、と。しかし神宮寺は、苦渋の表情をうかべてしぼり出す。「それ以上はいっちゃならねえ」「将棋だけが人生じゃない? ちげえよ 俺の人生が将棋なんだよ!」。


そう答えてはいるが、香織の身にしみるようないたわりや、留美の純粋さは、殺伐とした勝負の世界に生きる神宮寺の、生きる支えになっているのも事実だった。神宮寺は、おのれを絶望のどん底に叩き落した現名人・田中七郎への復讐心をすてられず、その一心でもがき苦しみ、泥沼流の棋風を会得し、ただその一念で生きていた。だが、香織のやさしさに、そのかたくなな心が、じょじょに変化していくのであった。


次の対戦は、美崎智彦八段。旧華族の出で、美しい将棋を信条とする。幼いころから体がよわく、兄弟が戦地におもむくなか、病床に臥せていた。そんなかれは、だれもが平等に戦える将棋に魅せられた。ゆえに美崎はことに勝負への執念がつよく、名人を倒すために研究会をたちあげるなど、まさに異能の棋士であった。
そして、名人の得意とする「振り飛車」に対し、「居飛車」でそれに立ち向かうために編み出された、いわば“美崎定跡”がくりだされる。当時の手としては斬新すぎるものであり、神宮寺も追い詰められていく。しかし、美崎の心臓がもたず、あと一手で神宮寺を倒すというところで力尽き、盤上に倒れ伏す。その手をしっかりとつかんで絶叫する神宮寺。「勝負は ここからだろうがぁ!?」
幸い美崎は一命をとりとめた。神宮寺の叱咤が功を奏し、気をつよく保てたから、というのは美崎だけがわかっていたことであった。この勝負は神宮寺の不戦勝となったが、再戦を誓うふたりであった。
……ここまでで、まだ一巻。ああああ、クソ熱い。このペースで10巻もつづくんですよ?もうこんなあらすじ読んでる場合じゃない(笑)と思うのだが、それはこのコラムの存在意義を失わせてしまうので、がんばって続けます!


ここで話はすこしさかのぼる――
名人・田中七郎は、かつて徴兵され、ガダルカナル攻略に従軍した。地獄のガ島(餓島)とよばれたその凄惨な戦場では、従軍兵士3万のうち、生きて帰れたのは1万。帰れなかった2万のうち、戦死はわずか5,000人。のこり15,000人は、傷病死か、餓死……!悲惨きわまる「ガ島」での経験は、捕虜として終戦をむかえ、身も心もぼろぼろになって帰国したかれを、将棋の鬼にした。
三年前、神宮寺の挑戦を、圧倒的な力でしりぞけた田中名人は、負けたら腹かっさばく、と大見得をきった神宮寺に、戦地から戻ったさいに手に入れた「錆びた銃剣(三八式歩兵銃)」をつきつけて、平然と迫ったのだ。「将棋の為なら 死ねるだろ……?」「死ねるだろうがあああ!」。


おびえ、這いつくばって命乞いする神宮寺。だれもが「神宮寺は終わった」と思った。
しかし、神宮寺は将棋を捨てなかった。
丸藤、美崎と強敵をつぎつぎと倒して、進みつづける神宮寺は、あるとき、慕っていた兄弟子・山南博史(やまなみ・ひろし)八段との対戦が決まる。
多才な山南は、あたらしい昭和のメディア・TVに出演し、棋士としての立場をたくみにアピールしながら、人気を博していた。だが、そのことが、将棋一本にすべてを賭けている神宮寺には、物足りなく映っていた。そんな山南は、弟弟子たる神宮寺が、かれを抜き去って、はるか高みに行ってしまうことを悟り、また恐れ、将棋から離れる口実にTV出演をダシにしていただけなのであった。
それを自覚し、妻・良子にも叱咤された山南は、“名刀・山南”と称せられた切れ味をとりもどし、神宮寺との戦いにのぞむ。試合は神宮寺の「泥沼流」の勝利であったが、双方力を出し切った好勝負となった。


名人を倒すための激闘はつづくが、香織と留美につきあって銭湯にいったりと、神宮寺の日常には、ふたりとの穏やかな時間の占める比率がどんどん増していった。そんななか、近所の祭りに、三人で遊びにいくことに。
大混雑する境内で、ぐうぜん朔太郎と出会う。神宮寺と香織の自然なすがたをみた朔太郎は「徳ちゃん(神宮寺)達がさ……夫婦に見えちゃって」と思わず言ってしまう。必死でそれを否定する神宮寺。だが、気を利かせて、留美は朔太郎と別行動をとる。香織とふたりきりになった神宮寺は、手をつないで、祭りのひとごみを寄り添い歩くのだった。



そんなとき、祭りの片隅で「大道詰将棋」がおこなわれているのに出くわす。それは路上賭博の一種で、客に出題した詰将棋を解かせ、解ければタバコなどの景品を渡し、まちがったら“授業料”を頂戴する、というものだ。神宮寺は、不用意にそんな大道詰将棋をバカにした発言をしてしまい、流れで勝負を強いられることになってしまう。しかし、A級棋士の神宮寺の敵ではなく、またたく間に詰将棋を解いてしまう。だがそれでヤクザくずれの連中がひきさがるわけはなく、神宮寺を帰さぬかまえである。
そこへ、関西で名のしれた元・真剣師(賭け将棋を生業とする者。極道の世界と関係が深い)花山勝利(はなやま・かつとし)八段があらわれ、場を収めてくれる。


もとは闇の世界で生きていた花山は、恩人のおかげで日の当たる世界に出ることになった特異な過去をもつ唯一のプロ棋士であった。そんなかれは、泥沼に一度沈み、そこから這い上がった神宮寺に好感をもったようであった。香織のことも“べっぴんさん”と持ち上げつつ、神宮寺を打倒名人をめざすライバルと認めるのだった。
そして運命のように、ふたりはすぐに、聖竜戦で相まみえることとなる。
聖竜戦は順位戦ではないため、その勝敗は名人への挑戦権とは関係がない。そこで神宮寺は、花山との戦いを仮想名人戦として、ある戦法を試そうとしていた。現在の棋界で、「振り飛車」を使うのは、名人と花山くらいだからである。
神宮寺が「振り飛車」対策にたどりついた答えは――泥沼流「居飛車穴熊」
当時邪道とされていた戦法であった。しかし、神宮寺は柔軟な発想でそれをとりいれ、ついに花山の「振り飛車」を倒すのである。これは名人戦にむけた、おおきな収穫となった。神宮寺は、さらにかれの泥沼流「居飛車穴熊」略して「どろいび」を磨き上げる決意を固めるのであった。
花山は、その「どろいび」が名人戦をめぐる戦いの、いやそれどころか棋界にあらわれた革命的な新戦法であると見抜き、神宮寺のもとに、かれの舎弟であった真剣師・小山直毅(こやま・なおき)を送り込む。小山もまた「振り飛車」使いであり、神宮寺が「どろいび」の研究のため、強い練習相手を切望していることを見越したのだ。もちろん小山は「どろいび」の情報収集をし、それを花山に逐一報告する役目を負っていた。
そんな花山の意図をしりつつも、神宮寺は朔太郎とともに小山と練習を重ね、そしてついに「どろいび」が完成する一手が見いだされる。
そのおそるべき一手「5七銀」――朔太郎は、戦慄する。それは古き昭和の将棋界を破壊し、名人“田中一強”時代どころか、「振り飛車」戦法そのものを葬り去るかもしれない、と。


と、ここまででちょうど半分の5巻が終わりです。残りは加速してご紹介。
……「どろいび」を会得した神宮寺は、快進撃をつづけるが、そんなかれに、超売れっ子作家である岩崎富子(いわさき・とみこ)が注目する。このあと、岩崎は「月光荘」にわざわざ居を移し、神宮寺に密着取材していく。見た目は若いが、実はアラフォー。そして月光荘にともに暮らす大家の高木夫妻や、香織、留美とともに、まるで家族のようになって、神宮寺と香織たちを見守っていく。


そしてついに、神宮寺は順位戦全勝で「A級」に昇級する。
いよいよ、名人への挑戦まであと一歩というところまできたのである。絶望の敗北から、じつに七年での復帰であった。
A級棋士は、10人。すでにあらすじで登場した、丸藤八段・美崎八段(病気休業から復帰)・花山八段の三人にくわえ、角田八段(現将棋連盟会長)・斎藤八段・前田八段・鈴木八段、そして「元名人」本村雄造八段、A級最強といわれている黒田琢磨八段。そして神宮寺。
この総勢10人による、十ヶ月に及ぶリーグ戦を勝ち抜いた者が、名人への挑戦権を得るのである。
……ここからコミックス3巻分の激闘がくりひろげられますが、それはここでは伏せておきます。ぜひマンガを見てください。ハイライトは本村戦、そして黒田戦。どちらも、個性、というには極端すぎるキャラクター性である。特に本村は、実在の棋士である升田幸三・実力制第四代名人をあきらかにモデルにしており、名棋士へのリスペクトにみちた、痛快なエピソードとなっている。
だが、かれらを倒し、ついに名人戦をむかえる。名人戦は七番勝負。おたがいのすべてをぶつけあう、一進一退の攻防となる。勝負の行方は――?

「完全情報ゲーム」としての将棋

……というわけで、もちろん神宮寺は勝ち、名人位を奪取する。これはネタバレというほどのことはないだろう。神宮寺が名人になることは、本編でもすでにあきらかになっていることだからだ。
だが、マンガというのは、ほんとうにすごいなあ、と思う。結局、たんなる内容説明などでは、まったくそれを読んだことにならない、そんな表現方法だからだ。神宮寺が名人になる、という情報が重要なのではない。いかにしてなったか、が重要なのだ。あるいはなった後が重要なのだ。そのことを、「灼熱の時代」はちゃんと描いている。
勝負がつき、神宮寺は思う。「大願成就……俺の事を支えてくれた人達の熱い祝福……名人に成った俺は 其れに抱かれ 今は勝利の美酒に酔いしれて……うまうま 我が世の春を謳歌すりゃあよ…… ……ああ 大団円だぜ!!」「だけど…… いいや そうじゃねえ……」。そうじゃない。なにか「そうじゃない」というのだろう?
思うに、たぶん、「終わりじゃない」ということなのではないか。神宮寺にとっても、田中七郎にとっても、この名人戦の結果はひとつの区切りではあろうが、終わりなどではない。かつて、敗北した神宮寺に死を迫った田中であった。だからおのれが負けたら、死んでもいい、と考えたのだが、そして事実死のうとしたのだが、かれはそうしなかった。それは死が怖いから、ということももちろんだが、田中は、あるいは神宮寺は、棋士であった。死ぬより、やるべきことがある。
将棋は、ひとりではできない。“対”になる相手がいる。それがいるかぎり、棋士は盤を挟んで、指しつづけるしかないのだ。
将棋は「完全情報ゲーム」というのだそうだ。完全情報ゲームとは、おなじみウィキペディアによると「すべての意思決定点において、これまでにとられた行動や実現した状態に関する情報がすべて与えられているような展開型ゲームのこと」だ。ケムールでおなじみ麻雀やポーカーは、そうではない。運の要素があったり、プレイヤー全員が同じ情報を共有できないからだ。もちろんこれは優劣の話ではない。ただ、完全情報ゲームである将棋(やチェス)は、そのプレイのプロセスについての「決断責任」を、プレイヤーがすべて負う、そんな側面が強いとはいえる。
「灼熱の時代」でも、神宮寺のことをもっと知りたいと思った香織が、将棋の本を買って読むシーンがある。その本の冒頭にはこうある。「将棋は盤上において 全ての者が平等で対等である」と。それはすばらしいことであり、またある意味で容赦ない厳しさを秘めているともいえる。
曲解かもしれないが、だからこそ将棋の負けは、棋士にとって全人格・全能力の負けであり、だからこそ勝つことに固執するのだ。
だが一方で、こんなことも描かれている。対局に負けた神宮寺に、岩崎がいう。「将棋の駒が銃弾やったら とっくに死んどるで……」「これは勝負やろ 戦争やろ 負けたら意味ないやろ!?」「やるならば勝てっ 勝てぬのならやるなっ!!」と。しかし神宮寺は応える。「あの田中名人でさえ勝率は7割……3割は負けてる……」「まあどうやっても対局にゃ負けがついてまわる……」「またソイツとどう向き合って行くのかも プロの将棋だ……」と。
負けは、終わりではない。ぼくは将棋などド素人だが、この“感じ”は、ちょっとわかる気がする。

チキンラーメンは酒のつまみにも最適です

このマンガにはいたるところに、物語当時(昭和40年代くらい)の日本の風物が、解説付きで登場する。
たとえば、第二話には「日清チキンラーメン」が出てくる。世界初の即席インスタントラーメンであることや、当時の値段(一袋30円!)、そしてやったことあるひとならわかる、お湯を注がず硬いままでバリバリ食べるやり方まで紹介される。他にも「名糖ホームランバー」「ボンタンアメ」「三ツ矢サイダー」など、もう昭和世代が泣いてよろこぶラインナップである。



これら昭和の風物は、もちろん、昭和生まれの読者にノスタルジーをかきたてるために、意図的に持ち込まれてきた小道具だ。だが、ただの懐古趣味ではない。このマンガは、昭和の「灼熱」を再現しようとしているのと同時に、こんなメッセージも発しているように思えてならない。
つまり、モノにあふれ、コンビニやネットで、いつでもどこでもなんでも手に入る現代って、じつは、「満足度、下がってね?」ということだ。
まあ、便利であることはたしかなのだが、1の努力で得られる対価は、1以上にならない、と言い方もまちがいではあるまい。1の努力で10の対価が得られる、という便利さだってもちろんあるが、ぼくは人間は良くも悪くも「慣れる」生き物だと思うので、そんな10もいずれは1になってしまう気がする。
カップラーメンが何十種類もコンビニに並び、24時間買える現代、その「豊かさ」を、ぼくたちはありがたいと思うべきなんだろうが、ほんのちょっとだけ、得ることは失うことでもある、という視点を忘れないでおきたいと、ぼくは思う。
なんというか、楽しむためには、適切量があるんだろう。ダイヤモンドの家に住んでいたら、ありがたみもないだろう。そういったバランス感覚のタガが外れてしまっていなかった時代が、ギリギリ「昭和」だったのかもしれない。

おわりに

「灼熱の時代」がスピンオフでありながら、原典をたんに踏み台にしただけのマンガではないことは、読めばどなたにもわかっていただけると思う。ベタな言い方をすれば、10巻におよぶ神宮寺の転落と再生の物語は、どこか「昭和」そのものに二重写しされる。昭和が<物語>的だ、というのは、その浮き沈みのダイナミズムにあるといってもいい。
「昭和か!」というツッコミがしめすように、昭和の価値観が、古さや、暑苦しさを意味するこの令和の世に、ぼくは正直、あんまりなじめていない。たぶんそれは、ぼくが昭和生まれだから、ということもあるだろうが、<物語>が「昭和」で終わってしまい、平成以降はダラダラ続くだけの、長すぎるエピローグでしかないと感じるからかもしれない。
だが、もちろん、ほんとうはまだ、なにも終わってはいない。「どろいび」が、古き昭和をぶっこわし、新しい昭和を開いたように、ぼくもこの泥沼のような停滞感のなかで、“新手”を見出したいと心から思う。
この「灼熱の時代」というマンガの読後感は、爽快そのものだ。
この昭和の<物語>には、老いたるもののノスタルジーなど、まったく感じられない。後ろ向きではない。登場人物たちは、ただかれらにとっての「今」を、必死に生きていて、それは現代にまでつづいていく。神宮寺ももちろん年をとり、名人位もうばわれたが、エネルギーにあふれている(香織とはちゃんと結婚してる)。宿敵・田中七郎にいたっては、生涯A級、還暦を過ぎてなお名人戦に挑戦した、と語られる(昭和の大棋士・大山康晴十五世名人のエピソードをモデルにしている)。なお原典「3月のライオン」では、かれの盟友・柳原朔太郎「棋匠」がいまだA級棋士として現役である。
かつて佐野元春はライブで客席に向けてこう叫んだ――「ここにイヤなヤツはひとりもいないぜ、そうだろう?」。いや、元春は今でも叫んでいるか。とにかくぼくは、「灼熱の時代」にも、おなじことを思う。
このマンガには、イヤなヤツはひとりもいない、と。

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