本屋の本音のあのねのね 第十七冊『フラワーオブライフ』 ~花の命は短くて~

「flower of life」は“花の盛り”くらいを意味する、英語の慣用句である。転じて、人生のもっとも華やかな時期、生涯の最盛期、をさすコトバでもある。
ふしぎなもので、英語でも日本語でも、花が咲いている期間を人生にたとえる。
たとえば、作家・林芙美子が好んで使った詩句「花の命は短くて 苦しきことのみ多かれど 風も吹くなり 雲も光るなり」。これはもう少し長い詩の一部なのだが、この部分だけを、よく色紙なんかに書いていたそうだ(この詩句のリズム、まさに神ってる)。
あと、あの、セー○ームーンにもですね、「花の命は短いけれど 命短し恋せよ乙女 可憐な花に姿を変えて おいたをする子は許さないっ!」という、なんかいろいろ混ざった決めゼリフがありましてですね。……オッサンキモいとかゆわないでー。とにかくこれ、あんがい良くないすか、マジメな話。ちなみに「命短し恋せよ乙女」はよく聞くフレーズだが、出典は前世紀に流行した歌謡曲「ゴンドラの唄」の歌詞だそうな。……こういう“うますぎる”フレーズ見ると、なんか日本人って、この半世紀くらいで、日本語使うのいっきにヘタクソになったんじゃないか、って思っちゃいますね。

じつは、「花」を――正確には「咲きほこるそのさま」をどう思うか、という問いは、ぼくにはけっこう重い。それはいわば“感性のリトマス試験紙”だ。
きれい、とか、うつくしい、とかいう答えは、もちろんナシだ……というより、そういう答えで終わるひとに、ぼくは単に興味がない。プリンを食べて、「甘い」としかいえないようなものだ。その甘さと、チョコレートの甘さは、同じではないのに。ならば、プリンの甘さを伝えるのに、コトバをつくすべきではないか。このコラムで何度もピックアップしてるコトバ「おもしろい」とおなじことだ。きれい・うつくしい・甘い・おもしろい、どれも多義的なコトバであり、じつはなにかを言っているようでいて、なにも言っていないに等しい。ぼくは、こういうコトバで済まそうとする場面では、いつもそう思う。
もし、たったひとことの「甘い」がゆるされることがあるとすれば、そのひとことに、万感の思いがつまっているとき、くらいなものだ。たとえば――病床で死に瀕している子供が、親がもってきてくれた思い出のプリンを、やせ細った手でなんとか口に入れたときのように。ここで「このプリンはいいバニラエッセンスを使っていて、甘みも適度にひかえめだね」などというのは(そのコトバにかれらだけが共有している思い出があるのでもないかぎり)よほどのヒネクレモノだけだろう。「甘くて、おいしいね」だけでいいじゃないか。
(なお、ここで「しょっぱい」と答えるひとは、舌が狂っているので病院に行ったほうがいい。それは、個性でも、表現の自由でもない。ただ、病んでいるだけだ)
さて、とにかく、つまり、もっともシンプルなコトバが、もっとも雄弁である……そういう場面は、いくらでもある。ぼくは、なにも、あらゆることを複雑に、持って回ったような言い方で表現すべきだといいたいのではない。ただコトバは、使われかたによって、コトバ以上のことを表現しうるし、また逆に、どんな美辞麗句もジャイアンの歌のほうがマシにしか聞こえないことだってある。
ひとことカンタンにいえば「意味は、文脈が決める」ということだ。
flower of lifeという慣用句にも、たぶん、そういう、意味以上の意味がある。花の盛りは、一瞬。このコトバに込められているのは、生命の若さとその輝きへの憧憬、だけではない。それが失われること、そのはかなさへの諦念、無常観だ。うつくしさが頂点に達したのであれば……あとは落ちるだけ。
「花」に、その満開に咲くすがたに、ただポジティブなうつくしさだけしか読み取れない、なんてほうがむしろ、ぼくにはヘンに思える。そこに、たとえば、「醜悪さ」を見てとるひとだっているのだ(半村良の伝奇SF「妖星伝」を読まれたし)。
さて、今回ご紹介したいマンガは、この慣用句をタイトルとする「フラワー・オブ・ライフ」(よしながふみ 新書館/白泉社)だ。タイトルからして、一筋縄ではいかないことが見て取れる。

よしながふみ先生とその作品

作者・よしながふみ先生は、なんというか、すっかりポピュラーになってしまわれたので、あんまり取り上げるつもりはなかった。それに、よしながふみ、という人気マンガ家の、ぼくはあまりいい読者とはいえない。そこそこ読んでいるとは思うが、けっして網羅的ではないからだ。ぼくより、よしながふみに詳しい人間などいくらでもいるだろう。
だが、この「フラワー・オブ・ライフ」の読者としては、別だ。
ぼくは、このマンガだけは紹介せずに死ねない。なので、やらせていただくことに決めた。
「フラワー・オブ・ライフ」は単行本だと全4巻。2003~2007年にかけて「月間ウィングス」誌(新書館)にて連載、完結。現在は白泉社のコミック文庫で入手できる。
ところで……
よしながふみ先生ってなに描いているマンガ家?と聞かれれば、おそらくこの2022年においては、大半の日本人にとって、「きのうなに食べた?」「大奥」の作者、といえば通るだろう。
このふたつの作品は、実写化で一気に全国区となった。そしてたぶん世間的には「おしゃれマンガ」の扱いだろう。某書評雑誌とか好きそうですな……などと思ったら、そのものズバリ、このふたつを特集してる号があって、苦笑。まあ、とにかく正直、ぼくのようなマンガ実写化に恐怖心を抱くプロパー読者にとっては、こういうかたちでのブレイクには、複雑な思いもあった。だって、どちらのマンガも、そんな余計なブースターなど不要としか思えないから。
でも、「きのうなに食べた?」の実写ドラマは、びっくりするくらいできがよかったそうで、まずは一安心(何目線だ)。「ゆるキャン△」もそうだったが、実写化の肝は、九割九分、主役のキャスティングで決まる。「きのうなに食べた?」は、主役ふたりがバッチシだった時点で、勝ち確だったのだろう。あと、今回調べて初めて知ったが、なんとこのドラマ、ぼくの地元で撮影されてた! 登場する商店街も、ぼくがふだん使っているところでビックリ(新小岩ルミエール商店街)。へー、ドラマ見てみようかな……あっそんな目で見ないでー
「大奥」は、説明不要の大河SFマンガだ。三代家光から幕末まで、疫病で男性が激減したことで“男女逆転”した江戸時代を描いている。これもTVや映画でなんども実写化された。またこのマンガは、ジェンダーSF・ファンタジー作品に与えられるSF賞「ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア賞」(現在は「アザーワイズ賞」に改名)を日本人で初めて受賞した。ティプトリー信者のぼくとしても納得の受賞だ(だから何目線だ)。
つまり、要は、どっちもすばらしいマンガなんである。
ただ、ぼくの私見だが、よしながふみ、というマンガ家の本質は、ぼくはこの代表2作品よりはむしろ、今回ご紹介する「フラワー・オブ・ライフ」と、「愛がなくても喰っていけます。」のふたつにより強く出ている気がする。
後者は「YながFみ(31)」というどこかで聞いたようなマンガ家が主人公の、グルメエッセイ・ノンフィクション?作品。ちなみにぼくは、この「愛がなくても~」にドハマりしすぎたあまり、登場する店の大半に実際に行った。いっておくが、シャレにならないくらいどこも美味い。とくに感動したのは、四ツ谷の「北島亭」。むろん、他の店もみな、同様にすばらしかった。正直、グルメ情報に踊らされる大衆をバカにしてたが、ぼくもバカの仲間入りだ。よしながふ……いや「YながFみ」の食にかける異常なこだわりに、完敗だった。ああ、人間は、おいしいものを食べることができれば、それですべてOKなんだな。
あと、よしながふみはゲイを主題としている漫画家だ、というひともいるだろうが、それはまったく否定しない。むしろそのとおりだと思う。だがここではあくまで本質の話なので、ゲイ作品を除外しているわけではない(そういう作品もぼくは読むし、ふつうに好きだ。「ジェラールとジャック」とか超好き)。

よしながふみマンガの二本柱

さて、あえて図式的にいえば、よしながふみ作品には、ふたつのラインがある。
「食」を軸にしたラインと、「性愛」を軸にしたラインである。
こういう決めつけはキライだけど、わかりやすくするために今回はガマン。そして、前者の系譜に属するのが「きのうなに食べた?」「愛がなくても喰っていけます。」。後者に属するのが「大奥」「フラワー・オブ・ライフ」、そしてゲイを扱う作品群だといえる。もちろん、前者の中に後者の要素が混じっていたりもして、明確に分けられるものでもない。まあ便宜上の分類、くらいでご理解ください。
こうしてみると、よしながふみ先生は、おそらく、きわめてひとの欲望というものに強く固執するお人なんだと思う。
だって、マンガのテーマが、食うか、ヤルか、とはじつにストレートじゃないか。これはディスってるわけでも、からかっているわけでもない。全力で真剣な、称賛のコトバだ。
でもって、まったく下品じゃない。
たぶんそれは、そもそも、食うか・ヤルか、は人間を描くうえで、ぜったいに外せないものだからだ。そしてそれを土台として、キャラクターを描いているからだ。土台にウソがないから、その上に構築される人間像にも、ウソっぽさがない。
大半のマンガは、こういうところをデフォルメしたり、省略している。たとえば男子高校生が、エロいことを考えない学生生活を描いてみたりする。そんなわけないのに!
だから極論、どんなに絵やセリフがリアリティを極めようとしていても、食うか・ヤルかがないお話は、フィクションだ。もちろん、よしながふみのマンガだってフィクションだが、キャラクターたちの行為にたいしてぼくらが感じる共感の度合いは、ただのつくりもののそれではない。
彼女のどのマンガについてもいえるが、こうしたよしながふみ流の人間描写は、ちょっとゾッとするくらい、痛い。ぼくたちが、個人的なものとしてぜったいに隠しておきたいような、いわば秘中のホンネを、麻酔無しでえぐり出してくるようなところがある。このことはあとで詳解したいと思う。
では、なにはともあれ、まずはあらすじをご紹介していこう。

「フラワー・オブ・ライフ」あらすじ

花園春太郎(はなぞの・はるたろう)は、白血病にかかって入院していたが、姉のさくらから骨髄移植をうけて病を克服。一年一ヶ月遅れで高校に入学する。クラスは1-D。担任は、見た目やふるまいがオカマっぽい女性教師・斎藤滋(さいとう・しげる)。
初日の自己紹介で、白血病が理由でみんなよりひとつ年上だ、とぶっちゃけた春太郎は、クラス一同をドン引かせてしまうが、持ち前の社交性と、滋やクラス委員の山根のフォローもあって、すぐにクラスに馴染んでいく。
特に前の席の三国翔太(みくに・しょうた)とはすぐ打ち解ける。三国は小柄でふっくらした体格と穏やかな性格で、どこかぬいぐるみを思わせ、春太郎の庇護欲を刺激する。
そして、三国と仲のいい真島海(まじま・かい)も紹介される。真島はクラスでもあきらかに浮いているオタク。ただ、見た目はまったくオタクらしくない(細マッチョで背が高いメガネ男子)。
春太郎と真島の初対面は、最悪だった。聞き手が目に入らないかのように自分の言いたいオタトークだけ話しつづける真島に、春太郎は胸ぐらをつかんで激怒したのだ。その空気のよめなさを、その後も何度も罵る春太郎に、三国は「そんなことない」という。
――かつて、同じ中学だった三国と真島は、オタク友達だった。が、より周囲に遠慮のない(=つまりパンピーがキモいとみなすような)オタクだった真島は、いやがらせを受けていた(本人はまるで無頓着だったが)。そんな真島といっしょにいたら、自分もイジメられると恐れた三国は、真島と距離を置く。
しかし真島はそんな三国を責めもせず、自分からひとりになったのだった。
高校でクラスが一緒になったことをきっかけに、また友達付き合いができるようになった三国は、当時のおのれの臆病さを恥じ、また真島の侠気(おとこぎ)を春太郎にわかってもらおうとする。
三国はくりかえす。真島は「空気読めなくないです」と。

こうして心機一転、高校生活をはじめた春太郎は、「漫画研究会」に入るつもりであった。それは、白血病が完治したとはいえ、まだ病み上がりなので運動部に入るのは避けたいというのと、白血病の治療中、無菌室でできたことは、ひたすらマンガの絵を描くことだけだったからでもあった。
なお漫研は、真島が部長・部員は三国だけ・顧問は滋、という、クラスでいるのと変わらないメンツ、というオチ。
当初、漫研の活動はマンガを読むことで、描くことではなかった。
だが、春太郎はマンガが描けると思って漫研に入ったので、他の二人に描こうと誘いをかける。そして、実際に春太郎が描いてみせた絵は、シロウトとは思えないレベルの高いもので、三国と真島を驚かせるのだった。

そんなある日、春太郎たち三人は、滋と数学教師・小柳修一(妻子あり)が不倫関係にあることを知る(校内で、コトをいたそうとしていたところに出くわした)。ただ、特に深刻な話にはならず、あっさりと小柳も滋も不倫をみとめ、春太郎はあきれるばかりであった。
滋も小柳も先生としては面倒見もよく、あきらかに「いい先生」であるのだが……
もともとこの高校の生徒だった滋は、女子として見られなかった自分を、ひとりの女の子として見てくれた小柳に、とにかく弱い。小柳は、妻とはうまくいってないようだが、息子は愛していて、離婚する気はない。それでも惚れた弱みで、いうがままになってしまっていた滋だが、最近は倦怠感を感じていた……

その後もさまざまな事件が起き、春太郎と三国はさらに仲良くなっていく(お泊まり会したり、「ハル君」「翔太」って名前で呼び合うようになったりしてる)。とくに、お泊まり会のときに、三国は春太郎の秘密をひとつ知ることになる。
それは春太郎が、白血病の放射線治療のため、一生子供がつくれないからだになっている、ということだった。ひそかにそのことを三国に告げた春太郎の父は、三国に「できたらハル太と一生友達でいてやってほしいんだよ」と頼み込む。三国はそのことを自分の胸にしまいつつ、春太郎との友情をあらためて誓うのだった(といっても子供のことは春太郎はまったく周囲に隠していないのであるが)。

そんなふうに、あっというまに日々はすぎ、一学期の期末テストがちかづいてくる。
春太郎や三国、そして仲のいいクラスメートたちは、勉強会を開いて乗り切ることに成功するのだが、いっぽうで真島だけは、勉強もせず、別のことに没頭していた。
それは、ひょんな偶然から、他クラスの女子・武田隅子(たけだ・すみこ)が、ひそかに趣味で描いているマンガを手に入れたのがきっかけだった。
その名も「ルイジアナにひな菊咲いて」。18世紀アメリカを舞台にしたラブロマンスだが、偽装した化学や数学のノートに、鉛筆描きのままで描かれたものだ。偶然それを手に入れた真島は、そのおもしろさと画力が卓越していることをみとめ、それをおのれの野望(金とコミケのチケット)のために、利用することを思いつく。
真島は「ルイジアナ~」を、春太郎や他のクラスメートに回覧させる。全員がおもしろさを称賛するなか、真島はそのマンガをさらに売れるようプロデュースするから、自分にしたがえと隅子を説き伏せる(ちなみにそのとき、ふだん前髪で顔をかくしていて、あだ名が“貞子”である隅子が、じつは美少女であることがわかり(ベタなお約束)、一同は愕然とする)。

だが結果として、原型をとどめないまでに改変されたそれ(舞台を現代にした「オフィスの中でつかまえて」)は、大失敗に終わる。春太郎いわく「もとのお話の方が面白かった」。なお、隅子もそんなこんなで漫研に入部する。
このときはそれで終わったのだが、その後、二学期になって、文化祭の出し物にこの「ルイジアナ~」をやろうということになる。
話の流れで、隅子のクラスである1-Aとの合同企画となり、配役として、当初は主役を春太郎がやることになった。だが、本人のモチベーションの低さと、絶望的にヘタな演技力、そして漫研の原稿とのかねあいで、お流れに。
ビジュアル的に最適なのは、真島。もちろん、すんなり引き受けはしないが、いくばくかの出演料と、“プライスレス”な報酬を条件に、引き受けることに。
ヒロインは隅子。サブキャラとして滋も出演。衣装は、春太郎の姉・さくらが担当。
いっぽう、マンガにとりくむ春太郎と三国。三国のネームをマンガとして完成させたい、という春太郎の提案に三国も賛同し、ふたりは必死で原稿を仕上げる。
そして、ついに文化祭当日。異様に演技のうまい真島と、原作者にして女優魂を目覚めさせた隅子の名演で、劇は大成功をおさめる。
ちなみに“プライスレス”な報酬とは、脚本にない罵倒のせりふ「この雌豚!」を、劇中で実際に使っていいというもの。観衆(男子学生)に大ウケであった。

なお、罵倒されつづけた(劇は六回公演)隅子も、ついにキレて、やはり脚本にない「このふにゃチン野郎がああ!」と絶叫し、男子学生に想定外の好評を博することになる。
こうして文化祭も無事に終了。A組D組合同の打ち上げがひらかれ、春太郎や三国たちも、部誌に載せたマンガが好評で、隅子にもほめられ、有頂天であった。
しかし、帰宅した春太郎は、困惑する。ひとり家で待つ姉のさくらが激怒しているのだ。
さくらは、劇やマンガに没頭する春太郎が、自分をないがしろにしているように感じていた。ややひきこもりぎみであるさくらは、そういう扱われかたをされることに、異常にいらだち、春太郎を責める。春太郎は思わず「死ね このくそばばあ!」と怒鳴ってしまう。
しかしすぐ、自分が病気を治してたった半年で、もうそんなコトバを口にできてしまうことに、深く自己嫌悪するのだった。
一方、打ち上げに参加しなかった真島は、小柳の誘いに滋が困っているのに遭遇し、それを助けることになる(礼にメシをおごらせるつもりで)
ふたりで食事しながら、滋は小柳との関係に悩んでいることを吐露する。真島は、そんな滋にひとこと「要するに 今の小柳は お前にとって 萌えが無くなったと言う訳だ」と、オタクならではの切り口で一刀両断する。
そして、担任教師の痴話話などさっさと切り上げたい真島は、なんと滋にキスする。

滋はとうぜん、激しく動揺するが、真島は平然としたものだった。「あんなに男に簡単に食い物にされるような女なら きっとどこまでもしゃぶり尽くせるぞ 夢中にさせて貢がせるか」「恐喝のタネにする方が 手っ取り早いか」などと、鬼畜きわまることを考えていたくらいであった。
その後、さまざまな日常の事件があったりしつつ、時は流れて、二学期も終わる。
1Dの仲良しメンツたちは、クリスマス会をやることになった。会場はまたもや春太郎の家。各自それぞれに担当が割り振られる。ケーキ担当、ツリー担当、ビンゴの商品担当などなど。高校生ならではの、分不相応な背伸びで失敗したりもするが、結果としてすべてうまく運んで、会は盛況に終わる。
同じころ、真島が気になってしかたない滋は、クリスマスに小柳にさそわれ、行くかどうかを迷っていた。そこで滋はなんと、同じ日時に、真島も誘う。どっちをえらぶか、えらんだほうが好きな男、という、ベタベタなトレンディドラマ的シチュエーションを、みずから仕込んだわけである。

そして最初は小柳との待ち合わせ場所にいった滋だったが、小柳に子供からの電話がかかってくる。それに出て話す父親としての小柳の声を聞いて、いたたまれなくなり、滋は泣きながらその場を駆け去る。そして、大分約束の時間から遅れて、真島の待つところへゆく。もういないのでは、と思った滋だったが――真島はいた。まさに、トレンディドラマのヒロインばりに、ひとり盛り上がってしまう滋。
なお、真島が待っていたのは、単にラノベを買ったら帰りの電車賃がなくなってしまったから、であった……が、結局そのあと、ふたりは一夜を共にしてしまう。

そして年が明けて、新年。
外国で仕事をしている春太郎の母親が一時帰国したり、姉のさくらが引きこもりから一念発起してアルバイトに出るようになったり、春太郎のまわりでもすこしなにかが動き出し始めていた。
そして、春太郎は三国に「俺プロのマンガ家になりたい」といい、ふたりで作ったマンガを、同人誌即売会の出張編集部にもちこむことを決める。
そこでふたりのマンガを見ることになったのは、月刊ファインの編集者・高山勇吾
高山はキツイものの言い方をする人間で、ふたりのマンガを厳しいコトバでこきおろす。三国はカチンときて必死に言い返すが、高山に「マンガ家目指してんなら 口じゃなくてマンガで編集者負かしてみろってんだよ この頭でっかちのオタク小僧が!!」と一刀両断されてしまう。
ひどく落ち込む三国。だが春太郎はめげるどころか、むしろあれだけ揉めた人間がもう一度マンガを持ち込んできたほうが「覚えてもらえる」と強さをみせる。さらに、ふたりの原稿を読んだ隅子が、そのわかりにくさなどを指摘するが、それはどれも、高山が(言い方はキツイものだったが)指摘したところと同じだった。ふたりは、高山がただキツイだけの編集者でないことに気づき、原稿を描き直して、もういちど、持ち込みにチャレンジする。

いっぽう、高山は高山で、春太郎と三国のマンガをじつはそれなりに評価していたものの、キツイ言い方をしすぎたことを後悔し、編集者としての自信を失いかけていた。だが、同僚のはげましと、ふたりが再チャレンジしてきてくれたことで救われる。高山はふたりを全面的にバックアップすることになる。
高山の、厳しくも的確なアドバイスを受けながら、ふたりはファインの新人賞にむけて、着々と原稿を仕上げていく。そのせいで期末テストはさんざんな結果だったが、もはやふたりにとって、そんなことは障害ではなかった。
しかし、春太郎たちの順調さに反して、姉のさくらは、職場の人間関係に苦しみ、仕事を結局辞めてしまう。春太郎は自分がプロのマンガ家になって姉を助けてあげられるから気にするな、という。それは春太郎なりの真剣な気持ちだったが、メンタルが落ち込みきっていたさくらには逆効果であった。
そしてある日、ヤケ酒で泥酔して帰ってきたさくらは、以前よりさらにマンガに没頭する春太郎がどうせ自分から離れていく、とヒステリーを起こす。春太郎は必死に、そんなことはない、となだめるが、ついにさくらは、ずっと家族で春太郎に隠してきた秘密を暴露してしまう。

つまり春太郎の白血病は、完治したわけではなかったのだ。骨髄移植を受けた患者の10%は、5年以内に再発して死ぬのだ。
ちょうど帰宅した父親も、その秘密をいえなかったことを詫びる。「そのたった一割の確率に 5年間も怯えて暮らさなきゃならないお前を 俺も見たくなかった!! 母ちゃんも見たくなかった!!」と。
その事実に呆然とする春太郎。「勉強しなきゃ……」と、部屋にもどった春太郎は、ぼんやりと英語の課題をやりはじめる。
めくった辞書のページには、ぐうぜん、こんな例文があった。

「He died in the flower of life.」彼は若い盛りに死んだ

春太郎の脳裏に、つぎつぎと、高校に入ってからのできごとが、スライドのように思い出されていく――


いっぽう、真島と滋の関係にも、嵐が起きていた。
じつは小柳の不倫が妻にバレてしまい、小柳は離婚、そして息子の親権も妻にとられてしまい、かれは消耗しきっていた。そんな小柳を、滋は見捨てられなかった。
真島の知らないところで、ふたりはよりを戻していたのだ。そのことを知ってしまった真島は、早口に滋を詰問する。「お前と小柳は今 別れてなければならない」。滋は、支離滅裂な弁明をし(しかし男女の間にはしばしば見られる矛盾でもある)、真島をつきはなす。
ドス黒い気持ちになった真島。

放課後の教室で、筆箱から、カッターナイフをとりだし、チキチキと刃を伸ばす真島。
そんなとき、背後に、春太郎があらわれた。「そんでどうすんの」「なに そんで先生の事刺すわけ? ふーん」。
春太郎は、真島に容赦ないコトバを告げる。
……お前はクラスのみんなを馬鹿にしていた、自分は特別な人間だって思ってた。「年上の女を手玉に取る、そこら辺のフツーの高校生とは違う 特別なオレ」と。でも、女に二股かけられて、キレて女を刺そうとする。だけど……
「それって お前の大ッ嫌いなフツーだぜ!? もともとお前はフツーなんだよ この世のどこにでも うんざりするほどいる キレやすいバカなフツーのクソガキなんだよ!!」
あふれかえるような、春太郎のコトバ。もちろん真島は、カッとなる……が、そこで春太郎は、顔をゆがめる。
フツーのなにがいけないんだ。

……突然ですが、あと30ページくらい残ってるんですけど、あらすじは、ここまでにしておきます。
ここからの30ページはただの30ページではない。この30ページは、ぼくが「マンガ表現の可能性」に、ほとんど恐れすら抱いた30ページだ。そして、ほかのあらゆるマンガを「測るものさし」になっている演出のひとつでもある。
この「フラワー・オブ・ライフ」のエンディングを「超えているか/超えていないか」。
この「フラワー・オブ・ライフ」の演出を「超えているか/超えていないか」。
このマンガを読んで以降、何度こう思ったことか。
ぼくはこのコラムでつくづく思うが、テキストでどんなにあらすじを書いても、はっきりいって、「マンガという表現方法」でしか伝えられないことがあるんだって、思い知らされるばかりだ。「フラワー・オブ・ライフ」の、なにかコトバにするなら「余韻のうつくしい」終わり方は、そのなかでも格別だ。これに匹敵するものは、ぼくの人生で、映画でひとつ、小説でふたつ、しか思いつかない。
だまされたと思って、読んでください。コトバにならない、コトバにできない、そんな表現が最後に待っています。

「ふつう」であることの意味

まず、ひとつ実例をご紹介する。

よしながふみ作品には、ふと、なんの前触れもなく、するりと、なにげなく、こうしたシーンやセリフが差し挟まれる。お釣りをぴったり払えた、なんて、マンガにする価値すらないようなエピソードじゃないか。
でも、それはこのマンガのいたるところにある。
――女はけっこう気を遣って言いたいことも言わないのに、男は合わせてくれない、と愚痴り合ったり。「あたしは「マトリックス」つまんなかったけど つまんなかったとは言わなかったのに」。
――滋が、拗ねる春太郎にたいして「あんたが自己紹介で 自分が白血病だったて言った時から あんたは人間関係において そのヘビーな過去の分 みんなより強者の立場に立ったのよ」「あんたにそのつもりが無くても それはそうなったのよ」と喝破し、さらに「自分の言った事で 相手が多少気を遣うだろうなくらいの想像もできなかったとしたら あんたは馬鹿で子供で無神経だわ」ととどめを刺したり。
――借りた本に折り目を付けてしまって、几帳面な持ち主にきらわれるんじゃないかと悩み、死にたいとすら思ってみたり。
どれも、まるで派手さはない。一見、なんてことのないコマだ。
だが、いちど、読者を、はっと「立ち止まらせる」コマだ。それは、どこにでも、だれにでもある「ふつう」なんだけど、言語化したり、マンガ表現にしたりすると、なんかはじめて聞いたみたいな気になる、そんな“気付き”をくれる描写だ。
ぼくは、この「気付き」こそが、よしながふみ流なんだと思っている。
「フツー」を、狂おしく叫ぶ春太郎を見るまでもなく、ある程度オトナになれば、普通であることの難しさ、そしてかけがえのなさは、わかってくるものだ。だがそれは、時として、真島がそうであるように、そして誰もが少なからずそう思うように、特別な存在でありたい、と思うことの前に、つい忘れがちなことである。
いや、おそらくは、ほんとうは普通である自分を、ぼくらは必死に隠そうとしているのかもしれない。それを認めて、自分が普通以外のなにものでもないことから、目をそらしているだけなのかもしれない。
よしながふみは、それを、容赦なく掘り下げ、細やかに暴き立ててゆく。「フラワー・オブ・ライフ」という作品は、ちょっと「フツー」を“言い当てすぎ”だろうとすら思う。
借りた本のページに折り目をつけただけで、死にたい、とか思ってしまうような、そんな滑稽で、バカバカしく、でも本人にとってその苦しさはウソではない、そんな「フツー」を、このマンガは描きぬいている点で卓越している。
異世界に転生して、なんの苦労もなく特別になってしまうお話が流行しているが、ぼくにすればそれは、とんでもない「フツー」だ。春太郎も叫んでましたよね、「普通に普通の人間になりたくないと思いたい」と。
もし、普通である自分に、どうしてもガマンならなくて、どうしても特別になりたくてしかたないひとがいたら、いちど「フラワー・オブ・ライフ」を読んでみたらいいと思う。ぼくたちはみな、似たりよったりな、同じ人間でしかないってことを、似たりよったりな悩みをかかえ、似たりよったりなことに喜んでいるってことを、すなわち「フツー」であることを、気負わず受け入れる助けになるかもしれない。
そしてそれが、なにかのなぐさめになるんじゃないか、とぼくは思う。

さいごに

じつは今回、別のマンガ書こうとしてたのだが、世相を意識したというか、最近いろいろ起きたので、こっちにした。なんか、普通をとりもどさないといけない気がしたからだ。とはいっても何ができるでなし、だからみんな、おもろいマンガ読もうぜってことです。花の命は短くて 苦しきことのみ多かれど 風も吹くなり 雲も光るなり!

今週のプレゼント