本屋の本音のあのねのね 第十八冊『ARIA』 ~恥ずかしいマンガ紹介、禁止!~

ぼくの通っていた高校は、長嶋茂雄ロックバンドBUMP OF CHICKENの出身校なのだが、べつになんの恩恵もない。まあこういう自己紹介のときに、使えるくらいだ。
長嶋さんは全年代に通用するネタとして超便利である。さすが国民栄誉賞。たしか卒業式に祝辞をいただいて、うっかり感動してしまった記憶がある。ただ、なんちゅうか、あまりに偉大すぎて、親近感はまったくない。歴史上の偉人、というだけの他人だ。そもそもぼくはマリーンズファンです。
しかし、BUMPについては、かなりニアミスしている。ぼくからみて4歳下の後輩で、ギリギリ同じ時に校舎にいたことはないけれど、この程度のニアミスなら、まあ同じ時間と場所を共にした、と言ってもさしつかえあるまい。ぼくが卒業した年にかれらは入学したのだし、ぼくの歩いた廊下、ぼくの使ったトイレ、ぼくのあれやこれやの思い出がある写真部の暗室や、天文気象部の天文ドーム……にはたぶん入ったことないだろうけど、とにかくそういうところに、かれらもたしかに立ったはずだ。
で、ほとんど同じ時間・同じ場所にいた、ぼくとかれらは、いま、なんて遠いところにいるのだろう、とよく考える。それはかれらが、押しも押されぬ人気ロックバンドで、ぼくがモブである、という意味ではない。いや、結果としてはそうなのだが、ぼくがいいたいのは、結果のことだけじゃない。
「進行方向」を、かれらはいつ決めたのだろう。きっと、高校時代前後であったはずだ。それはBUMPの経歴から推察できる。高校生というタイミングで、一生かけてなにかをやろうと決め、それに挑戦する。それは、ぼくには、まったく理解できない衝動だ。
早すぎるだろう。自分の可能性を、無限に信じ、無限に期待せずにはいられないからこそ、そんな年齢で“決め打ち”は順目として早すぎるじゃないか。テンパイ即リーも悪くはないが、やはりもっと高い手まで粘りたいものだろう。
でも――そんな早くに決め打てるほどの“なにか”に出会ったとしたら?
今回ご紹介するマンガ「ARIA」(天野こずえ マッグガーデン)は、主人公がある職業に見習いで飛び込んでいくところからはじまる。
設定によれば、主人公は15あるいは16才でその道をえらんだ、とある。
つまり、だいたい中学3年~高校1年ということだ。
ぼくは、この「ARIA」という作品に、四〇超えてからハマったのだが、その理由のひとつは、この若さゆえの“決め打ち”への興味だ。つまり人生航路のゆく道を、もうどちらかといえば「振り返る」ことのほうがおおくなったぼくには、ちょっとまぶしくみえるのである。ぼくも、BUMPやこの主人公のように、“あの時点”で覚悟をきめていたら、違った人生航路をたどっていたんだろうか。それはわからないし、今の航路に後悔もないが、若いころにもっと突っ走ってみてもおもしろかったような気はしている。
ただ、それだけなら、よくあるマンガだ。そもそも、おおくのマンガは、進路になやむ若人のすがたを描いていたりするのだから。でも、この「ARIA」は、ぶっとんでいる。
なにしろ、主人公が決めた進路は、ちょっとガンバって行けるところじゃない。地球からテラフォーミングされた火星まで(!)単身で(!!)移住するのである。上京してひとりぐらし、なんてレベルじゃない。スタートラインに立つだけで、7000万キロの旅が必要なのだ!
高校一年生が、いくらなにかにあこがれたといっても、ひとりで星間旅行までするか? むろん、火星までの旅行が、ハワイ旅行程度のハードルでしかない未来なんだ、といえばそれまでだ。マンガなんだからヤボなことはいいっこなし、といえばもっとそれまでだ。
だが、このマンガの描き方からすれば、人類の基本的なモノの感じ方は、現代となんら変わらない設定なのはあきらかだ(いちおう物語内時間はA.D.2301~3年となっている)。なので、地球-火星間の距離は、やはり、いちおう女子高生をひるませる程度には遠いはずなのである。
であればこそ、この主人公の、とほうもない行動力には、シンプルな感動がある。この「ARIA」の規格外の主人公については、あとで触れることにしよう。まずは書誌的なご紹介。

AQUAからARIAへ

「ARIA」はもとは「AQUA」というタイトルで連載されていたマンガである。だが版元の変更にともない、タイトルが変わった、という経緯がある。
くわしくいえば、まず「ARIA」の前身である「AQUA」はエニックス(当時)刊行の「月刊ステンシル」に2001年から連載していた。が、オトナの事情で2002年にマッグガーデン刊行の「月刊コミックブレイド」に移籍し、その際に同じ設定のままタイトルを改名して「ARIA」になった。「ARIA」は2008年に完結。単行本AQUAは全2巻、ARIAは全12巻。このふたつをまとめた「完全版」も刊行され、こちらは全7巻。
今回は「AQUA」も「ARIA」と同じ作品としてあつかうことにする。このふたつに、いっさい、改名による違いは感じられないからだ(経年による絵柄や技術の変化以外は)。
作者・天野こずえ先生は、おおくの短編と、連載作「浪漫倶楽部」「クレセントノイズ」をへて、この「ARIA」が連載第三作。じつはぼくと一歳ちがいと知っておどろいた。作品からは、もっとすごく年下のように感じていたのだ。それくらい、天野先生のマンガは、世間ずれしていない感じがする(オレが汚れちまっただけさ……)。マジメな話、この天野作品の“陰のなさ”については、けっこうダマされました、はい。
「ARIA」は天野先生の出世作となり、3期におよぶTVアニメシリーズや、複数の劇場版がある。ゲーム化やラジオ、関連書籍も数多く、すべてを網羅はしないが、「ARIA」自体をより深く知りたいと思う方にオススメなのは、6号発行された企画本「月刊ウンディーネ」。これは作中に登場する架空の雑誌を再現したもので、広告なども入った芸の細かい作りとなっている。作者が監修してはいるが、ガチ勢がつくった同人誌みたいで、原作をすべて読了した読者にとってはさまざまな謎解きがあって、とてもたのしい。
「ARIA」完結後の天野先生は、一転してリアル寄りのダイビングマンガ「あまんちゅ!」を連載。ただし根本のモチーフには「ARIA」に強く通じるものがある。こちらも2021年で完結。舞台の伊豆とはコラボ企画がおおく、コンテンツ・ツーリズムの成功例のひとつといえる。
天野先生は現在、最新作「Colori Colore Creare」をWEBマガジン「MAGCOMI」にて連載中。なにやら「ARIA」の世界と関係あるっぽい感じである。

ヒーリングという名の「毒」

「ARIA」の舞台は、テラフォーミングされてアクアと呼ばれるようになった火星。
そこに再建された「ネオ=ヴェネツィア」の街で、かわいい女の子たちが、ゴンドラを漕ぐ観光案内人「ウンディーネ」として働きながら、ステキ探しにいそしむ……というマンガである。
なんかこう書くと、あたまカラッポで読むマンガみたいだし、おそらくおおくの人々にとっては、そういうカテゴリのマンガとみなされている気がする。だが、ぼくはようやくわかったのだが、この「ARIA」はそんな中身のないマンガではない。むしろ、そうみえてしまうことが、おそろしいマンガなんだとわかってきた。そこで、そのおそろしさを、すこし掘り下げてみたい。
さて、まず、この「ARIA」のキャッチコピーとして「未来系ヒーリングコミック」という表現がよく使われる。上の写真の帯にも、このテキストがある(ぼくは本の帯を、基本的には取っておくたちです)。
ちなみに奥付によれば、これは初回限定版1巻の初版本。ぼくは初版にはこだわらないが、初版ということはリアルタイムに買った、ということであり、ちょっとおどろいた。へー、2002年、つまり今から二〇年前に、ぼくは「ARIA」を、出たらすぐ買う程度には気にしてたんだなあ。じつは、本格的にこのマンガにのめりこんだのは、すでに述べたように、ここ数年で、買うだけ買ったあとは“積ん読”だったわけだ。
閑話休題。
さて、ぼくの見聞きしたかぎり、このキャッチにイチャモンをつけるひとは聞いたことがない。「ARIA」はうたがいなく「ヒーリング=癒やし系」のマンガであり、だれもそれに疑問をもっていないように思われる。ぼくも、全面的に同感である。
ただ、(ARIAにかぎらず)ヒーリングを掲げているマンガは、弱い心にとって、猛毒でもある、とも思っている。ヒーリング、などというオサレワードをつかうから、誤解をまねくんである。おもうに、癒やし/ココロのおくすり、などなど言い方はいろいろあるだろうが、そもそも薬とは、毒の別名だ(あるいは逆。毒とは、薬の別名だ、と)。
毒は薬にもなる、という言い方があるが、これも語弊がある。まるで、毒がわるいもので、薬がいいもの、みたいじゃないか。だが、正しくは、毒と薬はおなじものでしかない。それが、ある症状に効くなら薬と呼ばれるだけのことだ。副作用があっても、だ。
このたとえでいえば、「ARIA」というマンガは、毒であり薬である。では、その薬効は(あるいは副作用は)なにか。
ずばりそれは、弱い心にとって、強烈な現実逃避先として機能することだ――と、とりあえずいっておきたい。麻薬、ドラッグとまったく同じだ。快楽は、身体や精神に、悪ければ悪いほど、強烈であるが、この意味で「ARIA」の効用(毒性)はきわめて強い、とぼくは思う。
なんだかおそろしいマンガみたいだが、じっさい、おそろしい。一歩まちがえば、「ARIA」というマンガは、内向きの逃避にしか読めないのだ。だがそれはこの毒ないし薬の用法をまちがっているがゆえの誤解なのだ。そんな誤解を、ぼくとしては、全力で解きたいと思う。
ではさっそく、「ARIA」というマンガがどういうお話なのか、かるくご紹介してみよう。

ネオ・ヴェネツィアという舞台装置

すでに述べたように、「ARIA」の舞台は、惑星アクア(火星)に再建された、ネオ・ヴェネツィアの街だ。
ただし再建とはいっても、もうほとんど完全なコピーである。そんなことがありえるのか、という疑問は、このマンガを読む上では無意味である。もちろん、技術的にはありえないことだし、コスト的にも不可能だろう。だが、そんなツッコミはヤボである。それはこのマンガを読む「条件」であり、ただ受け入れればいい。
オリジナルのヴェネツィアは、イタリア北部にある<水上都市>である。街には無数の運河が走り、その水路をゴンドラ、すなわち細長い手漕ぎボートが行き来する。世界にはさまざまな都市国家があるが、ヴェネツィアは共和国として12、13世紀頃には政治・経済・文化で繁栄を極め、ナポレオンの侵略によってその千年を超える歴史を終えるまで、世界史上もっとも長くつづいた共和国であった。1987年、世界遺産に登録されるが、近年では地盤沈下による水没の危機に瀕している(「ARIA」では、実際に水没してしまったことになっている)。
さてこのヴェネツィアの魅力は、とにかくそのヴィジュアルだ。島に街が乗っているというより、街そのものが海に浮かんでいるという、ファンタジーに登場しそうな街である。このヴィジュアルをそのままに、「ARIA」は描いている。市内の地名もほぼすべてそのまま。ナポレオンが「世界で一番美しい広場」と称したサンマルコ広場や、総督宮殿、主要な教会、島をS字にはしる大運河(カナル・グランデ)まで、すべて完コピだ。だが、「ARIA」は歴史マンガではないので、あくまでもこれらの歴史ある建物や名所は、モチーフとしてあつかわれる。
生のヴェネツィアを舞台にせず、わざわざ火星のコピー都市として描きなおした理由は、共和国千年の歴史をうまく無化し、「背景」としてのヴェネツィアのヴィジュアル“だけ”が欲しかったからだろうと思う。そしてそうするだけの魅力が、ヴェネツィアにはあるといえる。
都市を、そのものとしてではなく、モチーフとして活用する、という例は、本コラム既出の「九龍ジェネリックロマンス」における九龍城砦でもみられた。が、こういうのはうまくやらないと、表層的な薄っぺらい描写になってしまうだけに、描き手の技量がとわれるところだ。その点「ARIA」は、あくまでフィクションとしてのヴェネツィアを描いてますよ、と素直にぶっちゃけているので、文句のつけようがない。それどころか、薄く描きますよー、というエクスキューズとして、歴史を排除したのだろう。
一見、SF的設定にみえるアクアの設定も、じっさいは穴だらけだ。惑星上の気温をコントロールする設定や、本来地球の三分の一である重力を1Gにする設定も、科学的根拠はまったくないエセ科学的なファンタジー設定だ。だが、そこも問題ではない。ネオ・ヴェネツィアそしてアクアは「舞台装置」なのであって、その科学的整合性は問われていない。こういうマンガをみとめないひとはいそうだが、フィクションの楽しみ方として、ゆるーく許してしまっていいんじゃないかと思う。
なにより、「ARIA」のフィクション設定として、まず第一に挙げなければならないのは、このネオ・ヴェネツィアに存在する「ウンディーネ」と呼ばれる女性限定の観光案内職であろう。ゴンドラに客を乗せて街を案内するアイドル的な存在、とされている。女子アナみたいなものだろうか。ジェンダー論者が眉をひそめそうな設定だが、それは表面的に読んでしまうからだ。この設定は、キャラクターを描く上での、枠、とみるべきだとぼくは思う。
ウンディーネは「手袋」の数で、三段階の階級に分けられている。「両手袋(ペア)」「片手袋(シングル)」「手袋なし(プリマ)」である。操舵の技術が未熟だと、マメができてしまうので、手袋がふたつ必要で、少し上達したら片手だけでよくなり、熟練すると不要になることから、こういう職階になっている。職階を上がるためには、昇格試験をパスしないといけない。そしてプリマになれるウンディーネは一握りだ。
この「ARIA」というマンガは、主人公・水無灯里(みずなし・あかり)が、見習いウンディーネから一人前(プリマ)になる物語である。
めざす、じゃなくて、なる、である。先に断言してしまう。なぜなら、「ARIA」というマンガの真骨頂は、灯里がプリマになった「あと」にこそあるからなのだが、それは後で。

2×3の理想的な関係

「ARIA」の登場人物は非常に多いが、メインキャラクターは、6人。
この6人は、3つの別々の水先案内会社に所属していて、師匠と弟子、というペアがみっつあることになる。
まず、主人公の灯里(シングル)と、その先輩であるアリシア・フローレンス。「ARIAカンパニー」所属。
灯里のアクアでの最初の友人にして老舗「姫屋」の跡取り娘である藍華・S・グランチェスタ(シングル)と、その先輩晃・E・フェラーリ。「姫屋」所属。
そして年は後輩だが天才的な操舵術をもつアリス・キャロル(ペア)と、その先輩アテナ・グローリィ。「オレンジぷらねっと」所属。
アリシア、晃、アテナの三人は、「水の三大妖精」とよばれる、ウンディーネ業界でもレジェンド扱いのプリマで、ネオ・ヴェネツィアで知らぬものはない。
灯里の所属する「ARIAカンパニー」は、ウンディーネ業界の伝説的人物「グランマ」によって創設され、現在の従業員はアリシアと灯里の二名だけながら、存在感のある会社である。「姫屋」「オレンジぷらねっと」は水先案内会社の二大巨頭で、業界トップを争っている。
ごらんのとおり、とっても“図式的”な人間関係だといえる。
そして、ぼくは気付いてしまいました。これってつまり、「マリア様がみてる(以下マリみて)」ではありませんか。ご存知の方には首肯いただけるだろう。
「マリみて」は、女子高を舞台にした、ソフト百合作品である。この作品の“フォーマット”は、あまりによくできていたので、以後の作品におおきな影響を与えた。
それは、舞台となる女子高・リリアン女学院における慣習で、先輩が後輩にロザリオを授与することで、「姉妹(スール)」の契りをむすぶ、という設定である。つまり、高校生活の三年間で、三世代の姉妹ができるわけだ。特に、紅・白・黄の三色の薔薇にみたてた、三人の生徒会役員がおり、そのそれぞれは「薔薇様」と呼ばれ、「つぼみ」と呼ばれる後輩を選ぶ。たとえば、紅薔薇様の妹は、紅薔薇のつぼみ、と称される。なんじゃそりゃ、と思うひともいるだろうが、「マリみて」は少女をターゲットにしたコバルト文庫の小説なので、多少は夢想的な設定もありなんである。
さて、もちろん、「ARIA」が「マリみて」をパクったわけではない。ただ、おもしろいことに、このふたつの作品には、類似点がおおい。
たとえば水の三大妖精と三薔薇様、その弟子たちという組み合わせが、ぴったりおなじである。主人公たちの性格付けも、ボケとツッコミと不思議系、とやはり一致。あと「ARIA」は、A.D.2301~3年の「三年間」の物語である。「ARIA」はどちらかといえば社会人(職業モノ)マンガなのだが、あたかも高校三年間のお話のように、先輩の卒業、そして主人公たちが最上級生になって一人立ち、という形式をみごとに踏襲している。
だからどうした、という話なのだが、つまり「ARIA」も「マリみて」も、縦(先輩と後輩)と横(同じ見習いの同僚)の人間関係が物語の肝であり、この二作品がおおくの支持をあつめたのも、この、いわば「理想の人間関係」に対してなのだ。縦2×横3の組み合わせは、それくらいよくできているフォーマットだと思う。
そして、このどちらにもいえるが、強固で理想的な関係だからこそ、逆にいえば、それが永遠でなく、いつかはかたちを変えてしまうことへの、畏れが秘められている。そして、この関係が失われるところまで描ききったところに、「ARIA」がただの“ぬるま湯”のような微温的なヒーリングマンガで終わらない理由がある。
たとえば、灯里たちの上の世代であるアリシアたちの代では、すでにその関係は終わっており、彼女たちはもうその変化を乗り越えている。そのことをアリシアが「あの頃は楽しかったじゃなくて」「あの頃も 楽しかった…よね」と表現している。
というところで、ストーリーや設定についてもご紹介していこう。

終わりなき日常と日常の終わり

コミックス全十二巻のうち、おおむね十巻までは、単話エピソードの日常系マンガ、である。基本的には、ネオ・ヴェネツィアの季節ごとの風物や、ウンディーネとしてのさまざまな経験が描かれていく。なので、十巻まではあまり大きなストーリーの流れ、というものはない。
ただ、この日常の描写で徹底しているのは、古いアニメの言い方を借りれば「よかった探し」の視点だ。
主人公の灯里はもちろんのこと、藍華にせよ、アリスにせよ、さまざまな場面でそれを示す。
たとえば……
藍華の師である三大妖精のひとり、「姫屋」のエースウンディーネ“真紅の薔薇”晃の過去話(Navigation51「クローバー」)。
――才能にあふれたふたりの親友がプリマに駆け上がったあとも、晃はシングルのままだった。晃は自分が、凡庸であることを痛感していた。花壇にこしかけ懊悩していた晃は、それがクローバーの花壇ときづき、幸運の四つ葉をさがすが、見つからない。
しかし、まだ幼かった藍華がそこにあらわれ、三つ葉のクローバーに一片の「薔薇のはなびら」を足し、これで四つ葉になった、ないものは付け足せばいい、と笑いかける。
ふだんは鬼教官である晃だが、じつは過去に、藍華に心を救われていたのだ。晃のプリマとしての通り名は、この薔薇のはなびらに由来している。ただ、このできごとは藍華本人はすっかり忘れているのだが。
最近読んだ“メイク”を題材とする話題のマンガ「ブレス」(園山ゆきの 講談社)のなかに、無名の主人公に追われる立場の大物メイクアーティストが「恐ろしいのは 才能がある奴じゃない 才能がないとわかったうえで あがいてくる奴だ」という印象的なシーンがあったが、まさにこれだ。手持ちのリソースだけで勝負しなければいけないことが人生にはいくらでもあって、それをポジティブにうけとめるか、ビハインドと感じるか、で、そこからの動き方は変わる。藍華のわたした小さな薔薇のはなびらは、ひとりの人間の人生をおおきく変えたのだ。

アリスのエピソードも、ほんとうに秀逸だと思う。
ぼくがやられたと思ったのは「自分ルール」の話(Navigation42「自分ルール」)。
――アリスは、ミドルスクールからの下校ルートで、たとえば「ひとつの小石を蹴りつづけて、ケンケンで帰る」といった感じの「自分ルール」をみずからに課す。
もうこの設定だけで、ぼくは天野先生に「どこでぼくの秘密を調べたんですか」と聞きたいくらいだ。なぜなら、ぼくは四〇を超えた今でも毎日、じつは「自分ルール」を課しているからだ。たとえば、秋葉原の中央通りを横断するとき、白い線を踏まない。もう十年守っている自分ルールだ。ウソのようなホントの話だ。もし踏んだら、自分の店が潰れる、という願をかけている(笑)。
それはどうでもいい話なのだが、しかし、じっさいに自分ルールをマジで実行しているぼくだからこそ、わかることもある。つまり、意味があろうがなかろうが、「制約」はなにがしかの力を生むものなのだ。
そして、アリスはある日の「自分ルール」として、「影だけを踏んで帰る」ことにする。
しかし、途中でどうしても影がない。そこへ、居合わせた彼女の師・アテナが、自分が歩くことで影をつくり、アリスに助け船を出す。そんなアテナにアリスは手出し無用と断る。「正義の味方気取りですか」。するとアテナは「私は アリスちゃんの味方気取りなの」という。
たぶんアテナは、だれもがバカにするような小さなことでも、命を代償にするくらいの大きなことでも、おなじように「アリスの味方」をするのだ。それくらい、そのセリフはアテナにとって当たり前だった。
自分ルールなんて、当人以外にはまったく無意味な枷でしかない。だが、その枷のおかげで、アリスは彼女の味方を知ることになる。

……と、まあこんな感じで、ほぼすべてのエピソードで、登場人物たちは、日常のちいさなできごとの中にポジティブ要素を見いだし、読者は彼女たちのステキ探しに癒やされるのだ……と、これだけだったら、話はラクなのである……が。
とにかくこのマンガは、ほんとに油断ならないのである。さらっと上っ面だけみたら、ただ灯里が「ステキんぐ」センサーを暴発させ、なんでもかんでも素敵素敵とはしゃいでいるだけにみえてしまうが、もちろんそうではない。
物語が後半にさしかかるにつれて、終わりなき日常のようだったストーリーが、なんとなく示唆されてきた終わりに向けて、加速的に変化していく……

終わりを乗り越えるためのメンタルハック

「AQUA」や、はじめのころの「ARIA」は、架空の街ネオ・ヴェネツィアを舞台にした、日常系マンガにすぎなかった。それはたぶん、まちがいない。
だが、どのあたりからだろうか(もしかすると最初からなのかもしれないが)、ぼくの読みだと十一巻からだが、この「ARIA」というマンガは、いずれやってくる「終わり」に向けた、カウントダウンが描かれていくようになる。
たぶん、ぼくが「ARIA」をただのヒーリングコミックなどと呼びたくない理由は、ここにこそある。「ARIA」は、短絡的な、ご都合主義な、ただ現実においてルサンチマンを抱えた作者あるいは読者が、現実逃避先として、見たくも聞きたくもない凡庸でクソみたいな現実から目をそむけるための、アジール(避難所)のようなマンガでは、決してない。
むしろ、まったく逆だ。
一見、あらゆる描写がご都合主義であるかのようにみえる「ARIA」というマンガは、じつは、変化と、それに立ち向かうすべを、かなりシビアに描いている。
巻がすすむにつれて、別れの予感、終わりの予感が、じりじりと増してくる。あらゆる楽しさ、かけがえのない時間がじきに失われてしまうことへの畏れは、もう避けられそうにない。ピーターパンのように、永遠にそれが終わってほしくない、と願っても、時は容赦なく流れ、変わらないでほしいとどんなに望んでも、それは絶対に終わってしまう。
灯里、藍華、アリスの3人の合同練習。灯里とアリシアの、おたがいを深いところで求めあう関係。水の三大妖精を師とするがゆえの、これ以上望むべくもない恵まれた環境。伝説の大妖精が創設したARIAカンパニーという、まるでここが世界の中心であるかのような、極上の舞台。これらが光り輝くものであればあるほど、終わりは哀しく、それが失われてしまう喪失感は大きなものとなる。
「ARIA」が始まった当時、これらはまだ描かれてはいなかった。それはそうだ、片手袋の3人の関係も、先輩たちとの日々も、さらに遠い過去の先人たちの思いも、連載が進むにつれて明らかになり、また体験が積み重なっていった末に、生まれたものだからだ。
つまり「ARIA」には、まっとうな“時間の経過”がある。何十年も小学生をくりかえす「ドラえもん時空」ではない。
それは、物語上の理由からではないのかもしれない。単に、連載がつづいていくにつれて、なんらかの変化がどうしても必要に思われ、つまり作劇上のテクニックとしての「変化」にすぎないのかもしれない。というより、最初はおそらく、そういうものだったのだろうとぼくは思う。天野先生自身、最初「ARIA」は単行本一冊くらい、というつもりで描き始めたのだと証言しているのだから(7巻あとがき)。
だが、物語がすすみ、キャラクター(とその時間を共有する読者)が経験値をためてレベルアップし、ひとつずつ季節を重ねていくと、避けようのない「変化」が物語の基調を犯しはじめていく。
いちおう、最初から「五話=単行本一冊」で「一季節」というペースで描かれている(2巻あとがき)ので、時間が流れることは意識されているのだが、キャラクターたちの成長や周囲の変化が「不可逆」に蓄積していく、というのは、ドラえもん時空ではありえないわけである。のんびりまったりの日常系マンガとしてもありえない。そこには、人生上のシリアスな事件が、出会いや別れが、容赦なく襲いかかってくる。

灯里の最初のゴンドラが引退し、新しいゴンドラに乗り換える話。Navigation36「ゴンドラ」。
藍華の髪型が、ロングからショートに変わった話。Navigation31「春の女神」。
そして――灯里たち三人が、<一人前(プリマ)>ウンディーネになった話(ま、ネタバレってほどじゃないでしょ)。
成長や変化はいいことなのに、それにはどこか“さみしさ”がともなう、という描き方はじつに巧みだと思う。そして、その変化の負の側面を、どう受け止めるか、というところまで「ARIA」は描いている。
ぼくは、「ARIA」は、ある種の“メンタルハック”を教えてくれるマンガに思えることがある。○○ハック、という言い方は、たとえば“ライフハック”というふうに使うらしい。ライフハックとは、日常生活や仕事の効率をあげるための、ちょっとしたテクニック、くらいの意味だ。ようするに、「ライフ」を「ハック」する、ということ。ハック(hack)とはハッキングという表現でよく聞く、あれだ。
「ARIA」はとにかく、ありとあらゆるネガティブなシチュエーションを、ポジティブに変換するというメンタルハックを描いている。
たとえば、ぼくがいちばん鮮やかだと思ったのは、Navigation41「パリーナ」というエピソード。
パリーナとは、ゴンドラをつなぐ水面に立った柱のことで、特に特定の家や会社をしめすものは、特徴的な色や模様で塗られて「彩色パリーナ」と呼ばれる。つまり、ARIAカンパニーの表札・兼・看板のようなものだ。
それが侵食でこわれかけているので、新しい彩色パリーナを、灯里がつくることになる。
完成した彩色パリーナをみながら、灯里とアリシアは思いを馳せる。
元からあったパリーナは、アリシアすらよく知らない初期メンバーが作ったものだと明かされる。もういない先輩たち、そして残りつづけるパリーナを見て、アリシアは、自分もいつかその先輩たちのようにこの会社から去り、灯里が自分の知らないだれかと過ごす未来がくるだろうと予言する。
そのコトバに、灯里は「ちょっと怖い」と漏らすが、アリシアは大丈夫と応える。
「だってこの彩色パリーナは これからもずっと ARIAカンパニーと共に ここに在り続けるんですもの」「これは灯里ちゃんが ARIAカンパニーに確かにいた日々の証 ずっとずっと変わらない 今の灯里ちゃんそのものよ」
そして、この<別れ>についてのメンタルハックは、こんなシーンである。

まったくもって、灯里の“つよつよ”メンタルには感心させられる。彼女の示した考え方こそが、メンタルハック、というものだ。
もちろん、それを引き出したアリシアのメンタルも相当なものだ。
「ARIA」というマンガは、どんなシチュエーションもハックして、ポジティブ変換してしまうのである。


ARIAの「ご都合主義」をどう考えるか

ぼくはここまで述べてきた「ARIA」という作品に、かなりズブズブにとらわれてしまった読者のひとりだ。
それはもともと、このマンガを読むはるか以前から、それこそ小学生くらいから、ヴェネツィアという都市に(九龍城砦と同程度に)あこがれがあったからでもあるが、作者・天野こずえ先生の強烈な妄想力に負けたからでもある。
つまり、こんなに「ご都合主義」むきだしのマンガも、そうそうあるものではない。ただし、ふつう、ご都合主義というコトバは、批判的に用いられるものだが、このマンガにかぎっては、そうではない。
作者(ひいては読者)の「ご都合」を、ここまで押し通しきったマンガがあるか。
ふつう、そこまで都合のいい設定などしたら、逆にシラケてしまうんじゃないか、というレベルで描き切ったところが、豪腕である。
だって、三大妖精は親友、その弟子たちも親友とか都合よすぎだろう。そもそもネオ・ヴェネツィアやアクアの設定自体、超々ご都合主義の産物であるのはあきらかだ。
だが、そういうご都合主義を、貫き通せるマンガ家がどれだけいるか。
自分の妄想を、極め切って・描き切ったマンガ家がどれだけいるか。
ぼくは天野先生(と永野護)以外に知らない。
そして、そのあからさまなご都合主義は、そのまま読むと、ちょっと恥ずかしいレベルまでいってしまっているので、天野先生は巧みにそれをも回避する手を打っている。
つまりたぶん、藍華の「恥ずかしいセリフ、禁止!」という決まり文句は、じつは、ほんとうに恥ずかしいの極みであるセリフを灯里に言わせるためのエクスキューズなのだ。
言わせるために、禁止したのだ。
つまり、天野先生は、あきらかにそのまま表現したのでは、恥ずかしいだけとしか受け止められないようなゲロ甘なセリフを、読者が、恥ずかしくなく受け止められるよう、藍華にツッコませたのだ。なんと巧みな……
そしてこのツッコミは、灯里のステキんぐ発言にとどまらず、「ARIA」全体の「恥ずかしさ」へのツッコミでもあるわけだ。
これはまあ、照れ隠し、という側面も多少はあるかもだが。
ところで、ご都合主義、というと、ぼくには昨今の“異世界転生”系の作品群が連想される。当然、この手の転生マンガもまた、「ご都合主義を描きたい」という強烈な欲望から生まれているんだと思う。また同時に「そういうものを読みたい」という膨大な読者の存在が、その欲望を支えている。これ自体はおかしなことではない。
だが、あんまりだれもいわないので、小声で申し上げておけば、大半の(全部とはいわないが)転生マンガの満たす欲望は、ぶっちゃけかなーり短絡的だ。このことは、マンガ(あるいは創作全般)にかかわる者なら、ごくふつうに感じることだろう。良い悪いじゃないが、そういうものであることはスナオにみとめてしまっていいのだと思う。
先日、ある小説家の方とお話する機会があって、この懸念を思いきって聞いてみた。その方は、いわゆる転生系の大ヒット作(だれでも知ってるレベル)の作者で、以前はきわめてストイックともいえる文芸作品を手掛けておられた。そうしたら、さすが、ぼくのひ弱な懸念などズバッと切り捨てるように、こうおっしゃられた。
「転生系の作品であるなしにかかわらず、残るものは残り、消えていくものは消えていく。それだけのこと」。
うーん、さすが実作者のコトバは、重い。

さいごに

アリシアが引退を決め、ARIAカンパニーを灯里が継ぐことになってから、灯里がこんなことをいう。Navigation59「未来」。
「一緒に歩いている時は みんな同じ道を歩いているように感じます」
「だけど本当は違う」
「みんな それぞれ違う 自分だけの道を歩いているんです」
そして、もちろんメンタルハックするのだ。ここで灯里が救うのは、アリシアと、灯里自身だ。ふたりとも、おなじように、変わらない今を心のどこかで望んでいて、しかしそれを乗り越えようともするのだ。このシーンはマンガでぜひ実際に読んでください。
つまり「ARIA」というマンガは、灯里がプリマをめざす物語であったが、真の乗り越えるべき壁は、プリマになってから灯里のまえに立ちはだかるのだ。
それは、すばらしすぎる日々がつづけられなくなったとき、どうメンタルハックするか、という壁だ。みごとな構成……! ここで灯里がアリシアに語るセリフも、この次の最終回で語られるセリフも、ひとつも見逃せないです。
もちろん、すべて、恥ずかしいセリフです。
……あっ、禁止する藍華がいないから、タイヘンなことになってる!
どっとはらい。

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