本屋の本音のあのねのね 第二十冊『バーナード嬢曰く。』 ~たったひとつの冴えた書評マンガはこれだ~

本気のコトバ

健康・健全な方はムリに読まなくてもいいこのマンガコラムもついに20回目です。いつマンガ風紀委員の検閲の憂き目にあうか、とヒヤヒヤしながら、生き恥をさらしつづけて20回。これだけ続けられれば、もういつ終わってもかまわないんじゃ……いやいや、そんなこと言っちゃイカン。まだまだご紹介したいマンガはあるのです!

それにしても、ひとに自分がおもしろいと思うマンガを伝えようとすることは、カンタンなようでいて難しい。本当にいい勉強をさせてもらっている。あと何より「〆切」というやつを体感できるのが貴重な経験だ。

よくマンガ家がネタで〆切の恐怖を取り上げるが、なるほどマジでこんなに恐ろしいものなのかとよくわかった。もう二度と破りません(号泣)。

ちなみにもし、ガマンの限界に達したケムール編集部様から「次で最後ってことでオナシャス」といわれたら、最後に“ブッ込む”マンガは、一応決めてある(特攻の拓じゃないよ)。それまでがんばります。

さて、そう気合を入れなおしたところでさっそくご期待を裏切るのだが、はっきりいってこのコラムは読者のことを実はあんまり考えていない(!)。いや、正確にいえば読者の“読みたい”ことをムリに書こうとはしていない。読みやすさや読者ウケとか、そんなにガンバって配慮していない。

だが、矛盾しているようだけれど読んでほしいとは思っている。そのためになにが効果的か考えた。で、結論はカンタンに出た。それは、本気で書くというだけのことだ。カッコつけてるつもりはなくて、書くテクニックがないからイキオイで押しきっちゃえ、というだけだが。まあでも結局、本気のコトバがいちばんひとを動かすのも確かなことだろう。

とにかく自分で信じてないことは書かないし、自分が納得できないことも書かない。でも多分、それはぼくが職業ライターでないから可能なことで、別にライター業界から干されてもまったくどうでもいいからできることだろう(そういう場をいただいていることに、心から感謝)。プロならば書きたいことだけ書いていればいい、なんてことはありえないからだ。

もちろん、業界人のひとりとして忖度は……ある(笑)。たとえば、ホントはキライなマンガはけっこうあるし、徹底的に叩きたいマンガもある。だが、そんなことを書いたらギョーカイのひとに消されてしまうので書かない。書いたことにウソはないが、意図して書かないことはあるということだ。

でも――本当は、書くべきなのかもしれない。

この場が“批評”の場であれば、そうすべきなんだろう。ただ、ここは「ケムール」。一服の休憩がてら記事を楽しんでもらうエンタメ空間だ。どんなにひとが集まるからといって、ディ○ニーランドで選挙演説などした日には白い目でみられるだけだ。

……なんてことをウダウダこねくり回していたら、あるマンガのことしか考えられなくなった。

それは「バーナード嬢曰く。」(施川ユウキ 一迅社)。このコラムのキリ番にふさわしいマンガだろう。

なぜなら、このマンガは“書評マンガ”だからだ。

理想的なパロディマンガ

正直、ぼくがこのコラムでお伝えしたいことのほとんどはこのマンガのなかで語られているといっていい。しかも、もっと数段“上”の表現で。

当たり前だ、施川先生のような本物のプロとぼくのようなド素人を同格にできるなどと思うほど、ぼくは身の程を知らないわけじゃない。もちろん、100%同じではないけれど、中身というよりは、その“姿勢”に強く共感する。

もう有名な作品であるし、わざわざご紹介するまでもない気はしたが、ネットのレビューをながめていたらびっくりするくらいピンとこなかったので、自分なりに書かせていただこうと思う。

このマンガが「読書家あるある」を書いているのはたしかだし、自称<読書家>である読者の気持ちいいところを刺激するのもたしかだろう。実際、一応本にかかわる仕事をしているぼくの場合、このマンガの「あるある」にかなりあてはまる(後述)から自尊心がくすぐられるというか、自己承認欲求が満たされるというか、そういうのはあった。

でも、この「バーナード嬢曰く。」に注ぎ込まれたマンガ家・施川ユウキ先生の技と情熱は、そんな薄っぺらいオタク自慢みたいなものにとどまるものではないはずだ。

そもそも、このマンガのどこをどう読めば<読書家>なんて言い方が無邪気にできるっていうんだ……!そういう自意識過剰さが耐えられないくらいカッコワルイってことを、このマンガは暴露しているんじゃないのか。読書家ネタなんてただの自虐だ、つまり皮肉なんだ。

施川先生のそのポップな絵柄からは想像しにくいけれど、かなり強烈に表現されている反骨精神、すなわち「くそくらえ」という静かな叫びがわからないなんてことがあるのか。

このマンガに秘められた、強い言い方をすれば自称<読書家>のかたがたに向けた批判精神には甘さなどないようにぼくには思えてならない。しかも巧みなことに、その重苦しい厳しさは達人級の笑いで描きなおされ、一見してまったくわからないくらいに希釈されている。「パロディ」という手法のまさにかくあるべき、という理想的な使い方だと思う。

そして、この「笑い」のなかにはけっして楽な道のりではなかったであろう施川先生の歩まれたマンガ家人生のホンモノの強さと、したたかさを感じずにはいられない。

……はっ、いけない、あまりに好きすぎて話を急ぎすぎました。落ち着こう。ひっひっふー。落ち着いて、まずはこのマンガの書誌的な情報などからご紹介しよう。

出典:バーナード嬢曰く。 ©施川ユウキ・一迅社

略して「ド嬢」というマンガ

「バーナード嬢曰く。」は、2011~12年にデジタルコミック誌「電撃コミック ジャパン」(アスキー・メディアワークス)に連載され、その後読み切りをはさんで、2014年から「月間ComicREX」(一迅社)に移籍。現在も連載中である。他誌だと、内容的に「SFマガジン」(早川書房)とのコラボ企画が多い感じ。そのへんはあとでも触れたい。

単行本は6巻まで出ている。すでにかるく触れたように、このマンガは「書評マンガ」なのだが、相当数の文芸レーベルをあつかっている。なので、中表紙(表紙をめくって最初のページ)のデザインを、さまざまな実在の本のレーベルを彷彿とさせる、凝ったデザインにしている。

たとえば、1巻・新潮文庫、2巻・ハヤカワ文庫SF、3巻・サンリオSF文庫……といった感じ。

下の画像は、ぼく所蔵のサンリオSF文庫の中表紙と、3巻の中表紙をならべたもの。

作者・施川ユウキ先生は、この「バーナード嬢曰く。」でおそらく広く一般にも認知されることになったが、マンガの比較的コアな読者にとっては、独特の作風で以前から知られていたマンガ家といっていいと思う。

デビューは1999年だから、もう20年以上活躍されている。なお手前味噌ではあるが、じつは施川先生の初サイン会はぼくらの店でやらせていただいたのだ。

代表作としては、この「バーナード嬢曰く。」の前年にはじまった「鬱ごはん」、そして個人的には施川作品の最高傑作はこれだと思っている終末論的SFマンガ「オンノジ」

あとは最初のメジャー作品といえるシュールギャグマンガ「サナギさん」あたりだろうか。といっても作品数は多く、どの作品にもそれぞれの熱心なファンがつくような感じだ。

好きなひとはとことん好き。でも、まったく目もくれないひともいる。そういうマンガを描かれていると思う。それはつまり、最大公約数を狙ったマンガを描かない、ということだろう。むしろ逆で、最小公約数を突き詰めていくようなイメージだろうか。もう好感しかない。

「バーナード嬢曰く。」は「ド嬢」と略してよばれるので、このコラムでもときおりこれを使うことにする。この省略のしかたは、海外文学の古い翻訳でしばしば見たような記憶がある。

戦中の新聞みたいに、文字数に制限がある記事で、文字数節約のための省略(ガダルカナル島→ガ島)のためというのもあるみたい。どういう“文章作法”なのか正確に知りたくて調べたのだが、まったくひっかからない(このコラムをお読みの方で、ご存じの方がおられましたら、ぜひinfo@comiczin.jpまでご一報を!)。

ルーティンマンガ

「ド嬢」はストーリーマンガではない。ルーティンマンガの一種、である。

ルーティンマンガというのは、ぼくの造語だ。言い方は「水戸黄門式」でも「こち亀式」でもなんでもいいと思うが、一般名詞化したいのでコトバをつくってみた。

とにかく、基本的に「一話完結」で、毎話テーマがあり、それをめぐって登場人物たちが動き回り、オチがつく。4コママンガ形式とリズムは似ているが、コマの形や数に制約がないぶん物語性が高い。……というマンガをとりあえず“ルーティンマンガ”と呼んでおく。

で、このマンガでは、ほぼ毎話で本を一冊取り上げ、それにまつわるキャラクターたちのエピソードを描くルーティンマンガである。

ストーリーマンガのような物語的連続性はないので、あらすじ紹介もない(楽だー)。なので、このマンガの紹介をするイコール、キャラクター紹介、あとはいくつかのエピソードのピックアップという感じでいく。

まず、登場キャラクターは限定的で、基本は4人の高校生しかいない。

この4人は主に高校の図書室で、そのとき読んでいる本をネタにああでもないこうでもないと読書トークをするのだが、題材となった本の本来の主題を「引数」にしてオチがつくことが多い。その本のことを知っていたり、読んだことがあれば、おもわずニヤリとしてしまうような、正統派の「あるある」話である。たとえば……



出典:バーナード嬢曰く。 ©施川ユウキ・一迅社

清涼院流水の「コズミック」は本格ミステリファンなら確実に本を壁に叩きつけるような(笑)小説なので、この描写はもうおかしくてたまらない。いやー、はじめてアレを見たときのなんともいえない“新時代感”は今でも思い出せる。アレが許容される世界線と、アレが否定される世界線があったら、じぶんは死んでも後者だなーとか思ったっけ。


出典:バーナード嬢曰く。 ©施川ユウキ・一迅社

ダレンシャンの映画についても、まあ普通になかったことにしたくなる映画なので、やはりこうなる。こういう「共犯感覚」で読者にエンタメを提供するのが、「ド嬢」のおもな手法だといえる。

そしていっぽう、それと同じくらい、その主題をギャグマンガ的に「誤読」して、「いや、そうはならんやろ」というオチにしてしまうこともおおい。

たとえば、ぼくがいちばん爆笑してしまったのはこんなエピソードだ。

出典:バーナード嬢曰く。 ©施川ユウキ・一迅社

「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」。村上春樹を読んだことがあれば、あの結論をまったく出そうとしない独特の話法にツッコミを入れたことがあるだろう。だから、オマエはなにがいいたいんだ!と。ノーベル文学賞にいちばん近い存命の日本人も、町田さわ子にかかっては形無し、といったところか。

マジメなハルキストからすれば、ふざけるなというところかもしれないが、まさにそういう<読書家>たちを「ド嬢」はからかいつくしているのだ。ファッションとしてしか村上春樹を読めないようなハルキストなど、一網打尽にしてしまえばいいんだ。

さて、ともかく「ド嬢」がこういった枠組みの中で繰り広げられるルーティンマンガであるとお伝えしたところで、順番が前後してしまったが、キャラクターたちについてもご紹介しょう。

バーナード・ショー、関係ない

主人公・町田さわ子は、作家バーナード・ショーになぞらえ、自らを「バーナード嬢」と称する女子高生。

このマンガの主題のほとんどすべてをひとりで表現しているといっていい、強烈な個性の持ち主だ。なにしろ<読書家>というものに、並々ならぬ憧れを抱いているため、じぶんをそう見せようと滑稽きわまる行動や発言をためらわないのだ。

たとえば序盤(3冊目。このマンガは話数を~冊目とあらわす)で、このマンガの代名詞といってもいいくらいの爆弾発言がある。ちなみに下記画像は1巻表紙だが、作中にもこれとほぼ同じコマがある。こっちのほうが映えるのでこっちにした。

出典:バーナード嬢曰く。 ©施川ユウキ・一迅社

ダイジェストだったり、名言集だったりにちょくちょく顔を出すような作品にたいして(ここではショーペンハウエルの「読書について」。上の表紙だと、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」になってる)彼女はてらいもなく言い放つのだ……「私の中ではすでに読破したっぽいフンイキになっている!!」と!一度も見たことないのに!!!(笑)

ど、読書の意義とは???とか、根源的だがバカバカしい疑問すらうかぶ。手段が目的になるとは、まさにこういうことだ。知ったかぶる、なんてカワイイ話ですらない。

かっこよく知的な<読書家>キャラになれるなら、もはや本になにが書いてあるかすら、どうでもいいことになっているからだ。

笑いすぎて苦しい。

だが、町田さわ子が読書家ぶるために駆使するさまざまな「盲点」は、一見ぶっとんでいるけれど、じつは<読書家>を自認するような人間の自意識過剰な滑稽さをむき出しにする(=相対化する)ような、一周まわって鋭い批評的な視点になったりする……こともあるのだ(当人はまったくその自覚はないが)。

じつはこのマンガでいちばん「健全」で安定した自我を有しているように描かれているキャラクターは、よく読めば彼女であることがわかる。彼女以外の3人は、まさに<読書家>として描かれ、豊かな読書空間の中に過不足なく収まるように描かれているのだが、町田さわ子だけがその空間に収まらない。

彼女だけが<読書家>という自意識世界の「外」の住人なのだ。

町田さわ子は、他の3人の読書量にかなわないし、それどころかそもそも「読書」をほんとうに必要としているのかどうかすらあやしい。ある程度本読みとしての自覚がある人間なら苦しみから救われたいからとか、さびしさを紛らわせたいとか、とにかくなんらかの「モチベーション」に駆られて本を手にすることを知っている。

だが、町田さわ子だけはちがう……ちがうのだ!!ただ<読書家>ぶりたいだけなんだ!!すごい!!ただのバカだ!!(ホメ言葉です)

「ド嬢」はすばらしいことに、たとえば町田さわ子が徐々に<読書家>として成長していく姿を描く、などといったつまらないことはしない。最新6巻あたりだと、なんだかんだで本に触れる機会がおおくなっているから、本の話題にはあまり困らなくなってくるが。かわりにヘンな百合風味が増してくるのはご愛嬌か。

いちおう申し上げておけば、この「ド嬢」を百合マンガとして読むことはアリだと思うけれど、そうとしか読めないのだとしたら、それは春樹キャラのマネをする町田さわ子より、絶望的に滑稽なことだとぼくは思う。

出典:バーナード嬢曰く。 ©施川ユウキ・一迅社

さて、こんな町田さわ子の奇行にド正論(上の画像参照!)でぶつかるのが、いわゆる典型的な<読書家>のモデルとして描かれている神林しおりだ。

神林という名字がすでにしめすように、彼女はヘビーなSFファンである(読書家が神林ときけば、フツウはSF作家・神林長平のことである)。

おそらく、「ド嬢」を本質的にマンガとして完成させたキャラクターは神林だ。それは、神林の読書傾向が全体の基調を決定づけたからだ。

しかし、よりにもよってSFファンとは……!

なぜ、<読書家>をSFファンに設定したのか。ここには、SFファンという人種の特異性が関係している。

おそらく、近現代以降の小説において時代精神とある程度並走し切ることのできたジャンル小説が唯一SFであった。主流文学も、ミステリも、ファンタジーも、マーケット的な衰退やジャンルとしての制約からの行き詰まりを避けられなかった。

しかし、SFというジャンルは、スペースオペラなどのエンタメから、ニューウェーブの社会科学、ネット社会を描くサイバーパンクまで、継続的に成果を上げつづけてこられたただ一つのジャンル小説である。

……というのは雑な総括だが、SFファンの「めんどくささ」を説明するために、とりあえずこういう図式的なまとめでガマンいただきたい。

つまり、こうしたSFの成果に自らの<読書家>としてのプライドと自信がくすぐられてしまっちゃうわけだ。「わかってる」自分、「わかってない」非SF読者、という構図ができあがってしまうゆえんである。

SFファンが「めんどくさい」のは、好きなものにたいするこだわりが限度を超えているから、ではない。それをいうなら同じことがミステリファンにも、野球ファンにも、アイドルファンにも当てはまるではないか。

これらのファンにも“行き過ぎた”こだわりはあって、それは笑いの種になるものだが、「めんどくさい」という形容詞はあまり聞かない。SFファンだけが、妙にそうレッテル貼りされるのだ。こだわりの強い趣味を愛好する例として、プロレスファンがとりあげられる回があるのだが(55冊目)、そこにこんなシーンまであるくらいだ。


出典:バーナード嬢曰く。 ©施川ユウキ・一迅社

あくまでもSFファンの「めんどくささ」は、SFというジャンル小説の特異性に起因している。それはプロレスやミステリーにはないものなのだ。だからこそ、この「ド嬢」で、神林というキャラクターを生み、しかも“一線を超えた”ガチンコSFトークをさせることをえらんだ作者・施川先生の無謀ともおもえる勇気には、心底、敬意を払いたい。

なにせ「SFとはなにか?」という究極の問いがあって、これに“真に”答えられるSFファンはほとんどいないほどなのだが、「ド嬢」の中でこのSF定義問題をネタにした回がある(3冊目「SFって?」)のだ。

出典:バーナード嬢曰く。 ©施川ユウキ・一迅社

もちろん、ここでも答えはない。答えがない、もしくは定義が定められない、という事実そのものがその問いの“答え方”にヒントを与えているのだといえるが、まあこのコラムでこのことは掘り下げないことにしたい。

とにかく、神林をSFファンに設定したことで、この「ド嬢」というマンガはよく使われる“名著礼賛マンガ”などではなくなっている(これ、コピーライトとして100%まちがってると思う)。

SFというジャンルは、たしかにある程度の「教養」、いいかえれば読む技術を必要とするジャンルだが、それは「名著」などという肩書きを、カビの生えた権威付けを、断固、拒否するために必要な訓練だ。礼賛?いや、それどころか徹底的にバカにし、そのエラそうな居住まいを嘲笑するのだSFは、そして「ド嬢」というマンガは。

こういう感じは、マンガ全般にもちょっと当てはまるかもしれない。

「しょせん、コドモの読むものでしょ」「もうオトナなんだから、“そんなくだらないもの”読むのを止めなさい」。SFも、マンガも、こういう正しさ・常識をふりかざす連中の無理解に晒されつづけてきた。だからこそ、それが好きであることは、イヤでも「権威との戦い」を宿命づけられる。

名著だって?ちがう、その本が良いかどうかは自分が決めることなんだ。ナントカ賞を取ったからでも、みんなが読んでるからでもない。わたしが好きなものを、あんなにも侮辱したオトナたちが、これはいいなどといってくるものをどうして信じられるだろう?

そう叫ぶのにふさわしいからこそ、神林はSFファンとして描かれたのだ。ぼくはそう思う。

たとえばこんなシーン――神林は、今ハマっている本が「ドグラ・マグラ」(夢野久作。三大奇書のひとつに数えられる)だというのが恥ずかしい、という町田さわ子に全身全霊で叫ぶのだ。

出典:バーナード嬢曰く。 ©施川ユウキ・一迅社

「てゆーか他人からどう見られるかとか意識して読書すんな!!」。名著であるかどうかなんてどうでもいい。まあ、町田さわ子にとっては「他人からどう見られるか」こそがすべてだったりするところが、この「ド嬢」の巧みな仕掛けなのだが。

なお、SF業界からのラブコールで神林は「SFマガジン」に登場したりする。あと、神林はSF映画についても当然語れるので、映画マンガの特典にも出演してスターウォーズについて語っている。

なお、いうまでもないが、スターウォーズは1~6で完結している。7以降は存在しない(オマエもうるさいwダレンシャンと同じでなかったことにしたいだけです)。

出典:バーナード嬢曰く。 ©施川ユウキ・一迅社

町田さわ子と神林だけでいくらでもご紹介したいシーンがあるが、あとふたりの登場キャラクターも見事な人物造形なので、いそいでご紹介を。

3人目は、4人の中で唯一の男性である遠藤。いい感じにひねくれた性格をしていて、読書スタイルももちろんひねくれている。特におもしろいのは、ベストセラーにむかう姿勢。こんなシーンが代表的だ。いやー、これは自分ですわー。


出典:バーナード嬢曰く。 ©施川ユウキ・一迅社

遠藤は、この文芸中心の「ド嬢」というマンガのなかでは比較的、変化球を投げてくる<読書家>だ。たとえば「ギネスブック」やサッカーの名監督であったオシム氏の著書など、ノンフィクション系の変わり種をくりだしてくる。

もちろん、直球もなげられる。たとえば遠藤が自ら「これは傑作かもしれない」と感じつつ、ある小説(「手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ」藤田祥平)の評価を迷うシーンがある。

出典:バーナード嬢曰く。 ©施川ユウキ・一迅社

これが、究極、このマンガ、ひいてはこのコラムでお伝えしたいことの真髄といってもいいかもしれない。

ぼくは自分の価値判断を、ぜったいに他人に預けたくない。どうして、この現代のなんだかSNS?だのインスタ?だのに耽溺する人々は、他人が良いと言っているだけのものをそのまま受け入れて、しかもヌケヌケとそれが正しいみたいなツラをしていられるのだろう?

自分の判断に自信がないからそれに精通した専門家の判断を参考にしたい、というのはわかる。でも、「好きなもの」だったらそういうわけにはいかないんじゃないのか……?

最後、4人目はミステリファンであり図書委員でもある長谷川スミカ。メガネのおさげ、というまさにテンプレな文学少女。……なのだが、ここまでのご紹介でも何度か登場していて、それをごらんいただければおわかりのようにさりげなく黒いところもある。

スミカは遠藤のことが好きなのだが、もちろんそれは隠している。なので、よくその心の中のモノローグだけが描かれる。4人の中ではもっとも一歩引いたところに立つタイプなので、ときおりものごとの本質をつくような、ハッとさせられるような一言を放つ。

たとえば、町田さわ子が珍しくある本(「熊嵐」吉村昭)をおもしろいと騒ぐ。それが案外、ほんとうにいいアピールになっていたので、ビブリオバトルに出てみては、とスミカが提案する。そのシミュレーションをするのだが、ぐだぐだに。このドタバタの最後、スミカは神林にこう漏らす。

出典:バーナード嬢曰く。 ©施川ユウキ・一迅社

こういう“見抜く”タイプの子って、いたよねー!

おもしろいって、ほんとに思ってる?

「ド嬢」は、ここまでご紹介したように、名著も<読書家>もからかいつくしたうえで、あくまでも自分の目・自分の価値観で本を選べ、本を楽しめといっている。

いわば「ド嬢」は、施川先生が、おのれの価値観一本で勝負に出たマンガだ。だから、たとえばあんまし世間的に評価されているとはいえない、芸能人・水嶋ヒロによる小説「KAGEROU」について熱く、あまりに熱く語ったりする。それは、自らの価値観に自信があるから、ではない。そんなエラそうなことを施川先生はいわない。

そうではなく、自分にウソはつけないんだよ、と。ただそれだけのことをさまざまなやり方・表現で示しているだけ、そんなふうにぼくは思う。

ほんとうに、ほんとうのほんとうに、自分がおもしろいと感じているかどうか、あなたはわかるだろうか?

それはカンタンなようでいて、たぶんおそろしくむずかしい。

自分がどう感じているのか正確にわかるのか。かつそれを、正確に伝える(言語化)ことができるのか。自分にウソをつかない、というのは究極的な水準で問うならばたぶん、ブッダかキリストでもないかぎり不可能ごとなのだ。

ちなみに、ぼくがこの「ド嬢」のなかでもっともこの言語化が正確で、真実にせまった書評をひとつあげるとすれば迷わずコレだ。

出典:バーナード嬢曰く。 ©施川ユウキ・一迅社

「超面白いから!」

ああ、きっと、万言をついやしても、真実のひとことには到底及びはしないのだ。

だが、このキリ番の回にこの「ド嬢」を読んで再確認できた。ぼくはそれでも、このコラムをできるだけつづけていこうと思う。がんばってコトバを選び、マンガのおもしろさをお伝えしていこうと思う。

「沈黙は軽蔑の最も優れた表現である」(バーナード・ショー)。

稚拙でも、語らなければなにも変わりはしないからだ。

しかしてその正体はSF読書家

さて、今回はさんざん<読書家>を笑いものにしてきたぼくだが、お読みの方のなかには、うすうす勘付いたかたもおられるかもしれない……

そう……これは、いわゆるただの同族嫌悪なのだ!

今こそ明かすが、ぼくは、重度のSFファンです。え、もうバレてますか?

中学でウィリアム・ギブスンにハマって以降、高校までに御三家など読み尽くし、大学では華々しくSF研究会にデビュー。生活のほとんどをSF中心の文学談義に費やした。大学は神保町にあったので、授業にもいかず、古本屋街をさまよい歩く日々。

しかもバイト先も神保町の老舗古書店(ぼくの入ったSF研では、代々、先輩に目をつけられた一年生は、自動的にここに送り込まれる)。サンリオSFをもとめて東京中の古本屋をわたり歩き、ディックのほしいやつを揃えるまで5年くらいかけた。

品川駅の催事スペースで開かれていた古本市で、10年分くらいの古いSFマガジンが出ていたので、ぜんぶその場で買って(100冊以上になった)コインロッカーに分けて入れて、何日もかけて持って帰ったりした。

……ああ、自分でいうのもなんだが、ウザい。そんなあまりにベタな<読書家>人生、SF者なんである。だから、神林がくりだすSFネタに、あるいはSF者あるあるには、もう許してほしい、というくらい該当する。

出典:バーナード嬢曰く。 ©施川ユウキ・一迅社

おれだ……!!!


出典:バーナード嬢曰く。 ©施川ユウキ・一迅社

だから、おれだ……!!!もうやめてくれ……!

証拠写真をあげておくと、下の画像は我が聖典アーシュラ・K・ル=グウィンの「夜の言葉」。サンリオ文庫版が絶版になってながらく入手困難だったが、岩波同時代ライブラリーで復刻。ぼくはこれを高校生で買って人生が変わった。

その後、オトナになってからついにサンリオ版を手に入れて、今は神棚に飾っている。墓に入れてもらう一冊のうちのひとつだ。そうだよ!SFファンは、同じ本の装丁違いをやたら集めんだよ!

ディックなんか創元版とサンリオ版、全部ダブってるよ!サンリオ持ってる冊数が多いと、周囲からなんかすごい人扱いされるんだよ!神林、きみならわかってくれるだろ……!(キモい)

さて、最後になるが「ド嬢」で一番ウケたネタについて。

これ(下の画像)だった。この20年で、もっとも心から笑ったネタかもしれない。なにがおもしろいのかサッパリという方は、とにかくイーガン、特に「ディアスポラ」を読んでみてほしい。

1ページ目でたぶん笑う。わかんなすぎて。とりあえずすべてのイーガン読者をかってに代表して、施川先生に「よく言ってくださった」とお礼申し上げます(笑)。

出典:バーナード嬢曰く。 ©施川ユウキ・一迅社

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