Tokyoシネマパラダイス
日本でいちばん<映画館>数の多い街は新宿なんだそうだ。若いころぼくのベースキャンプは新宿だったので、そのころ<映画館>に困ることはなかった。
なにせコマ劇前広場に立てば、周囲はすべて<映画館>なのだから!目をつぶって歩いたって、<映画館>にぶち当たるわけだ。
今ではそんなコマ劇場もなくなってしまった(2008年閉館)。広場周りの映画館もそれに合わせて次々と閉館した。それは寂しいことだが、コマ劇の跡地にどでかいシネコンができたので、帳尻は合ったって感じか。あの小ギレイさは歌舞伎町らしくないとは思うが。
とにかく今も昔も新宿において、映画を観るというアクションコストは、ゼロに近いくらい低い。それはイナカ出のぼくには夢のようなことだった。かつてはバスと電車を一時間乗り継がないと<映画館>の前に立つことさえできなかったのだ。
つまり、メトロポリス東京は<映画館>の都市でもある。新宿にかぎらず、池袋、有楽町、渋谷、錦糸町、品川、上野……。また、東中野・阿佐ヶ谷・下北沢など、サブカル色の強い街にはミニシアターも多い。映画館総数だと、もちろん全国ぶっちぎりの一位。
思えば、うれしはずかし初デートは渋谷の映画館だった。このときのことは黒歴史なので語らない。ぐああ。思い出すだけで死にたい。いや、死ぬべきだ。死のう。ぐああ。
そういえば「人生初の映画館」も渋谷だったなあ。母の実家が中目黒で、盆暮れ正月には帰省で上京するのだが、渋谷まで1キロもないので歩いて渋谷に遊びにいくのが常だった。そして、ある年のある日、ぼくは生まれて初めて<映画館>で映画を観ることになったのだった。
道玄坂の渋谷東宝(現・TOHOシネマズ渋谷)。あれを、あの経験を、死ぬまで――忘れることはないだろう。日付までは覚えてないが、年はわかる。1983年だ。それが観た映画の公開年だからだ。
「スターウォーズ ジェダイの復讐」(邦題はいま「ジェダイの帰還」に変わっている)。SWサーガのエピソード6。これがぼくの<映画館>初体験だ。
しかも……立ち見!
実はこのときぼくは、ep.4も5も観ていなかった。ep.4のテレビ初公開が86年だから、まちがいない。三部作の三作目を一も二も観ていないのに観たわけだ。
だが、この映画体験は、ひかえめに言ってぼくの人生を決めた。
立ち見?いや、まったく気にならなかった。あの、スクリーンに向かって下っていく階段の、ほぼいちばん上、スクリーン正面から右手の薄暗い壁側通路。立ちっぱなしで、前の兄ちゃんの頭がジャマで、まわりに気を遣いながら首を伸ばさないとスクリーンがよく見えないような位置であった。
だが、あそこは、ぼくの生涯最高の特等席だったと断言できる。
ま、観たのがスターウォーズだったから、そう思うのかもしれないけど(今にして思えば、人生初映画がSWって恵まれてたなー)。とにかく、ぼくはこのときのショックと感動があまりに大きすぎて、アニメ・マンガ・ゲームの世界で一生生きていこうと齢七歳にして決意したわけだ。
今、マンガ専門店をやっているのも、そしてたぶん、このコラムを書いているのも、この日の<映画館>からつながっている道なのである。
さて、そんな今回のご紹介マンガはもちろん、映画にまつわる作品だ。
そのマンガ「木根さんの1人でキネマ」(アサイ 白泉社。以下「木根さん」)は、“ぼくにとって最高”の「映画マンガ」である。なぜ最高なのか、これからご紹介したい。
(一巻をご覧になれば、理由はソッコーおわかりになる……後述)
シ・ネ・マンガ
「木根さんの1人でキネマ」は、2014年「ヤングアニマル」(白泉社)に掲載後、ウェブサイト「ヤングアニマルDensi」を経て「マンガPark」に移籍、現在も連載中である。つまり9年やっているのだが、同系統のマンガとしては現役最年長?じゃなかろうか。コミックスは現在9巻まで刊行している。
作者・アサイ先生は、2007年にWEBで作品を発表後、双葉社の雑誌「コミックハイ!」で「みんなミュージカル!」「ニャン時ニャン分 編集にゃん!」を連載。その後、白泉社に活動の場を移し、「俺はナニを間違えた!?」を連載、そして上記のとおり「木根さん」を描きはじめて今にいたる。
「ゆるキャン」が2015年だから、それより早い。まだ趣味系マンガの多様化時代は黎明期といったころだ。グルメマンガがミョーに売れちゃうことに、業界も作家もボチボチ気づきはじめていて、おそろしい勢いで「○○メシ」「○○ごはん」なタイトルが増殖し、棚を侵食していた時期だ。かつ、「ゆるキャン」をはじめとするいくつかの成功例を経て、趣味系の素材を“読みものマンガ”に加工する技術というか、フォーマットみたいなものが確立しはじめたのもこの時期だろう。
そんなころ、まだ「映画」を素材にしようとするマンガは少なく、「木根さん」は一足先にこの素材にチャレンジしたパイオニアといえる。
もちろん、これより前に映画マンガがなかったわけではない。特に、2004~2007年の「テレキネシス」(作画・芳崎せいむ、原作・東周斎雅楽 小学館)は映画マンガの一里塚だとぼくは思っていて、取り上げる映画のセンス、上質な解説、そして映画をからめた人間ドラマの巧みさ、どれをとってもこれを超えるマンガはなかなか出てこないだろう。
ここでは、2010年台後半の趣味系マンガの隆盛という文脈で登場したものを、一応かっこつきで「映画マンガ」と呼んでおくことにする。「シネマンガ」という造語も考えたが、なんか調べたら同名のお笑い芸人がいたのでやめた。
とにかく、そんな「木根さん」に続くように「映画マンガ」は一気に増えた。今回、ちょっと調べてみたら下記のとおり、2017年がひとつの節目になっていた。へー、この年なんかあったのかなあ。調べたかぎりではわからず。偶然と片付けるにはちょっと不自然に同時多発している気はするが、ここでは掘り下げない。
うちの店に並んでいるやつだけでも、2016年「私と彼女のお泊まり映画」、2017年「映画大好きポンポさん」、2017年「邦画プレゼン女子高生 邦キチ!映子さん」、2017年「怒りのロードショー」、2017年「シネマこんぷれっくす!」、2018年「おやすみシェヘラザード」、2019年「シネマごはん」、最近だと2022年「R15+じゃだめですか?」……とかこんな感じ。けっこうあるでしょ?
映画を「撮る」マンガだと、「海が走るエンドロール」が今は注目作か(あんまり騒いでほしくなかったけど、結局賞レースに巻き込まれてしまったなー。こういうマンガは、ほっといても読者の力だけで評価されるんだから、ソッとしておいても……というのは本屋のエゴか)。「映像研には手を出すな!」もギリ含まれるかも。部活・サークルモノまで含めれば、「撮る」系のマンガはごまんとある。かつ「撮られる=演技」まで広げれば、もう切りがない。変わりダネでは「映写技師」をとりあげた2019年「映写室のわかばさん」という傑作もある。
そしていまや「映画マンガ」は、一ジャンルとして確固たる地位を築きあげた感がある。趣味系マンガのなかでも映画マンガは、マンガ読みとたぶん相性がいいのだろう。
そして、これら並みいる良作たちのなかで、「木根さん」はベスト・オブ・ベストだとぼくは思っている。内容をさっそくご案内していこう。
出典:木根さんの1人でキネマ ©アサイ・白泉社
1人じゃないキネマ
主人公・木根真知子(きね・まちこ)は、三(バキューン!)歳のアラサーOL。
会社では、仕事のできる美人上司として部下たちから尊敬の目で見られている……のだが、素顔の木根さんは、「1人でキネマ」という映画ブログをテレホーダイ時代から書きつづけている、正直かなり終わった映画廃人であった。
「1人でキネマ」は、ある登場人物の評を借りれば「(褒めるときは)ドアの鍵壊れてんの?ってくらい開けっ広げ」だが、けなすときは容赦ない。本人いわく「クソ映画には怨嗟の言葉を極上の映画には女神のキスを」。このブログは開設時に7つのルールが提示されており(16本目 ファイト・クラブ)ご覧のように、とにかくめんどくさい。
出典:木根さんの1人でキネマ ©アサイ・白泉社
そういうブログをやっているくらいだから、木根さんのめんどくささもハンパない。
この木根さんのキャラクター造形があまりに秀逸なので、このマンガは成功しているのだとぼくは思う。
木根さんは、少なくともぼくにとっては<理想の映画マニア>である。その映画観やセリフに、いっさい不愉快なところがない。他の「映画マンガ」だと、たいがいハッキリ言って、どこかしらイラッとさせられる(笑)。この“しっくり感”がまさにこのマンガの生命線であろう。
そんな木根さんの相棒役となるのが、映画にたいして興味のない佐藤香澄(さとう・かすみ)。元は既婚で姓も水城だったが夫の浮気で離婚。そのドタバタに一役買った木根さんの家に転がりこみ、そのまま同居人となる(2本目 バッド・ボーイズ2バッド)。
元夫に復縁をせまられたら何度もぐらっときてしまうなど、とにかくちょろい。その都度、木根さんに“信じられないアホを見る”顔で呆れられる。このマンガで最も“過激”な絵面なので連発でどうぞ(作者・アサイ先生の恋愛観?が出ていて、ぼくは大好き)。ゲンドウを許しちゃうサトーさん、そういうとこだぞ!
出典:木根さんの1人でキネマ ©アサイ・白泉社
メインのふたり以外にも、けっこう登場人物は多い。
まず、高校時代の親友である、3人の女性・キョーコ、ネネ、トッシーも、準レギュラーとして頻繁に登場する。
木根さんは映画廃人であることを周囲に隠し、いわゆるカンペキな「擬態」を高校時代に身につけた。だが、オトナになってからこの3人との友情のために、かつての同級生たちに「擬態」していたことを告白するのであった(10本目 タイタニック)。
ただこのとき、実は3人とも「擬態」していたことが発覚。なかでもキョーコはかなりのオタクで、BL本買い漁ったり、コミケで同人誌を売ったりしていたことが判明し、木根さんにアニメを観るきっかけを与えたりする(第拾七本目 新世紀エヴァンゲリオン)。ちなみに3人とも既婚者。子どもあり。
あとは7巻からの準レギュラー「モジャラ」は、映画「ゴジラ」シリーズを介した幼馴染にして腐れ縁(37本目 前・後編 ゴジラ)。
木根さんにとってこのマンガでは初の純粋な映画ファンとしての同世代の友だちである。ただし、親友の座を奪われたとスネる佐藤さんに、家庭内裁判まで起こされた(42本目 裁判映画)。
……と、ご覧のように、木根さんは“1人で”キネマしてるつもりなのだが、けっこう“みんなで”キネマになってるのはご愛嬌。まあ、マンガの構成上、木根さんと佐藤さんだけで話を作るのはむずかしいから登場人物を増やす必要があるのはわかる。
だが、たとえば、孤独な自分にも受け入れてくれる仲間ができました的なマンガとして「木根さん」を読むのは、見当違いもはなはだしい。
というより、「木根さん」というマンガはもちろん、そんなことは一言たりとも言ってない。
それどころか、多分逆なのだ。
孤独のキネマ
わざわざ“1人で”キネマと題しているくらいだ、そこには“みんな”を是とする社会への、疑いのまなざしがあるとぼくは思う。大げさだろうか。
昨今、ひとりでなにか趣味することを「ぼっち・ざ・○○」とかいうそうな。だが、この木根さんは、その4年も前から「ぼっち・ざ・キネマ」してたわけである。しかも、本家ぼっちの場合、ぼっちは克服すべき欠点であるが、「木根さん」はちがう。
極論すれば、人がどこまでいっても最終的には行き当たらざるをえない孤独を、受け止めることなしに、自らの「おもしろい」を語ることはできないのだ、と。そこまで「木根さん」というマンガは言っている――ように、思えてならない。
この水準で、孤独をあつかっている名作といえば「孤独のグルメ」が浮かぶ。スタイルとしての“ひとりメシ”ばかり注目されているが、あのマンガもまた「ひとが逢着せざるをえない孤独」についてのマンガに他ならない。ごはんにせよ、映画にせよ、結局、それに直に触れ向き合うのは、孤独な自分以外ではない、ということだ。
「木根さん」は一見、映画ネタのコメディマンガで、実際毎話必ず笑わせてくれる。それは確かなのだが、その笑いで隠蔽されているのは、作者・アサイ先生の確固たる価値意識だ、とぼくは思う。そこに“みんな”の声は必要ない。木根さんは、そんなアサイ先生の代弁者として、このマンガのいたるところで、たとえば次のように語る。
出典:木根さんの1人でキネマ ©アサイ・白泉社
ただ映画をおもしろいと熱く語るだけでもパワーがいるし、それをマンガにするというのは大変なことだ。だから、どの「映画マンガ」もその熱量を好ましいと思う。前回のコラムでも触れたが、ただ「好き」をダダ漏れに描いている、もうそれだけでけっこうぼくは満足である。
ただ、好きはいいけど「キライ」って言っちゃダメ、という現代のSNS文化特有の空気感には(そういうのがあるのは、どう考えてもまちがいない)疑問がある。
否定と批判は違うんじゃないのか。否定は相手を滅する覚悟がいるが、批判は立場のちがいが必ず生み出す程度のものにすぎない。批判のない、だれも傷つかない、無限にお互いを承認しあうだけの、いわゆる「やさしい世界」は不気味で異様なものだとぼくは思う。
「みんなの好き」じゃなくて「1人のキライ」こそが、ものごとの本質をつくことだってあるんじゃないか。
木根さんが「1人でキネマ」で書いていること、そしてこのマンガで描かれているのは、世界は「みんなの好き」だけでできているわけじゃないってことだ。そういうものもあるだろうけど、好きだけじゃなくて「1人のキライ」、まあそこまでいわなくても好きじゃないものだってあるじゃないか、ということに思える。
それは悪いことじゃないし、不快でもないはずなのだ。木根さんはこのことを、皮肉タップリにこう言ってくれる。じつに痛快だ。
出典:木根さんの1人でキネマ ©アサイ・白泉社
サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ
このマンガは木根さんが毎回、なにがしかの映画(もしくは映画ネタ)をとりあげて、映画狂の木根さんと、映画に冷めている佐藤さんの、それにまつわる掛け合いを描くルーティンマンガだ。
各話は「○本目」とナンバリングされていて、9巻末時点で46本目(前後編回が3話あるので、話数としては49回)。出てくる映画は、一巻あたりで50本以上は軽く超える(名前だけも含めて)から、これまでにゆうに500本以上のタイトルが出てきていることになる。
各巻末には、その巻でとりあげた映画のタイトル一覧がある。5巻とか多すぎてページに収まらないので、表紙カバーを外した下に移動しており、表紙一面をタイトルが埋め尽くしているという異様な見た目になっている。とにかくすさまじい数である。
そんななかで、メインにとりあげられる映画は著名な娯楽作品が多い。
これには理由があって、そもそも、木根さんが映画にどハマリしたきっかけが「テレビの洋画劇場」であるからだ(1本目 ターミネーター3、25本目 レオンとディレクターズ・カット版)。
出典:木根さんの1人でキネマ ©アサイ・白泉社
かつてテレビは、<映画館>に行くことのできないイナカの子どもにとって、自宅を<映画館>化する魔法の箱であった。
「金曜ロードショー」「日曜洋画劇場」「ゴールデン洋画劇場」……毎日どこかの局で、映画はテレビに流れていた。夕食後、21時からの二時間枠、一日を締めくくる極上の時間。それを観終えたら、余韻を反芻しながらフロに入って寝る――日本がまだそういう生活リズムで動いていた時代のことだ。
木根さんは設定上そういう世代なので、単館系のアート映画とか「トリュフォー、ゴダール」みたいなのは、たしなみ程度なのである。
それより木根さんが熱烈に推すのは、The娯楽!なエンタメ映画たちだ。
一巻だけからタイトルを拾ってみても、「ターミネーター」「バッド・ボーイズ2バッド」「インディー・ジョーンズ」「スターウォーズ」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」……もうエンタメど真ん中!こういうエンタメ作品を木根さんは愛し、そのすばらしさを(主に佐藤さん相手に)説くのである。
ルーティンマンガなので、大きなストーリーの流れはとくにない。そしてとにかく、おびただしい数の映画が出てくるが、もちろん、その全部をここでご紹介はできない。なので、「木根さん」というマンガで、ぼくのココロを撃ち抜いたふたつのお題をピックアップしてご紹介したい。
ズバリ、「スターウォーズ」と「ジブリ」だ。
May the Cinema be with you!
さて、まずはやはり“コレ”からだろう。なんと、これまでの9巻までで、最多の三度もとりあげられている作品だ。それは――
出典:木根さんの1人でキネマ ©アサイ・白泉社
そう、「スターウォーズ」(以下SW)は、この「木根さん」で最も繰り返しネタになっている映画なのだ!
すでにお話したとおり、ぼくにとっても「SW」は特別なので、激烈にうるさいほうだ。だが、この「木根さん」というマンガのSWの扱い方には全面同意である。今風に言えば、わかりみがすごい、というやつだ。
まず、スターウォーズをめぐって、その「信者」たちのめんどくささが“正しく”描かれている。“正しく”というのは、このSW信者とは、少なくとも3つの勢力に分かれていて、それを公平に描く努力をしている、ということだ。すなわち<旧><新><続>の各三部作それぞれに照応する、それぞれの視聴世代の言い分を描いているのだ。
いわゆる“リアタイ世代”の考えるSWとは、七~八〇年代のエンタメに奇跡のように現れたまさに神話であった。
だが、いったんこの<旧三部作>が終わって(つまりep.6が終わって)、ep.1で再開するまでの時間的溝はいくらなんでも長すぎた。この<新三部作>視聴世代と、リアタイ世代のあいだの「13年」という時間的な溝は、SWへの受け止め方を激しく別のものにしてしまったのだ。
しかも、さらにルーカスが「サーガは6部で完結」って言ってんのに、金のなる木をむざむざ失いたくない人たちによって謎の7部以降が作られたのだが、このいわゆる<続三部作>から見ているという超若い世代が現れ、混乱に拍車をかけた。フォースの力が青天井になって、もはや何でもアリになっている時点でもうこれはSWでは(以下略)。おっと、もちろんぼくの私見です、ハイ。あああ、ダメだ、手が止まらない。
さて、つまり「木根さん」があきらかにしているSW信者のめんどくささとは、主に「旧三部作をリアルタイムに観た」世代を起点にした、世代間ディスコミュニケーションに起因していることがわかる。
「SWどれから観るか」問題は、その最たるものであろう。
出典:木根さんの1人でキネマ ©アサイ・白泉社
まったくバカげたことを描いたものだ。4からに決まってるのに。
……まあつまり、ぼくもリアタイ世代で、ご覧のとおり、超めんどくさいわけだ。そもそもぼくは6から観てるわけで、えらそうにこんなこと書く資格はない。だが、ひとに勧めるなら、一億回聞かれて一億回「4から」だと答えるだろう。
もし、もっと段階的にSWが公開されていたら(たとえばワンピースやポケモンの映画みたく)、もっとこの世代間ギャップはマイルドなものになっていたかもしれない。でも、そうはならなかった。
そして、ついにそれは行き過ぎて、スターウォーズ・ハラスメントにまで発展してしまうのだ!……というか、このあたりのアサイ先生の「SWファンいじり」は、もう神業の域に達しているとぼくは思う(笑)。
出典:木根さんの1人でキネマ ©アサイ・白泉社
心当たりしかない。すいません。ほんとすいません。
……ふう。とにかく、ことほどかようにSW信者の行動は、ときに暴走してしまうわけだ。もちろん「木根さん」だって、パブリックに出版されるものだから、ある程度は配慮というか、そうしたハラスメントを断罪してみせているわけで、そうした暴走をからかいのタネにしている。
だが実のところ、そう見せているだけで、アサイ先生のホンネはたぶん、ちがう。
で、「木根さん」はそんな忖度に一発かましてくれるのである。
出典:木根さんの1人でキネマ ©アサイ・白泉社
あーあ、言っちゃった(笑)。でも、こっちがアサイ先生のホンネなんじゃないかなあ。
このSW完結回は、「木根さん」のなかでも、とくに多重構造になっている白眉中の白眉だ。どのへんがそうかというと、オッサン・オバサンのホンネを「老害」といった思考停止のコトバでごまかさず、一見「SWはみんなのものだよ」的なオブラートの裏に、さりげなく忍ばせているところだ。ただの懐古主義・思い出補正ではない、つまらないものはつまらないと、実は言っちゃってるのだ。
でも、世間様はそういうネガティブワードを徹底的にスポイルするから、見た目上は<新三部作>が好きでもいいんじゃね、とか日和ってるわけだ。ep.1「ファントム・メナス」が好きな息子を、リアタイ世代の父親が認めるように。
実はぼくも<新>はぜんぜんアリ派です。もちろん<旧>ありきの<新>なわけですが、前日譚としての<新>はカンペキだと思ってます。だから、このあたりはぜんぜん許せます。
ただ、「木根さん」なにげに<続>については、したたかに、どこでも認めてない(笑)。それどころかぶちかましてくれる。
出典:木根さんの1人でキネマ ©アサイ・白泉社
いやー、これ、よく描くのゆるしてもらえたよなー。
とにかく、ホンネを読み取らないと、この「木根さん」で三度にわたってSW回を行った真意が通じないことになるから要注意。比較的ロコツに、それが描かれているところもある。たとえばここ……
出典:木根さんの1人でキネマ ©アサイ・白泉社
ここまでぶっちゃけているのだ。アサイ先生は、木根さんは、本気だ。やはり13年は長すぎたのだ。世代間の溝は、もうとても埋まりそうにない。じゃあ、ムリに埋めなくていいんじゃない?……こんなこと書いていいんかな。ぼくも、シス化してるのか。
正直、はっきりした答えはぼくにもわからない。ただ、変に周囲に遠慮して、自分が感じた正直な印象をブレさせたくはないと思う。
「木根さん」に限定したハナシではないが、つまりは「映画マンガ」というやつは、端的に言って<創作への態度>をめぐるマンガなのだといっても過言ではない。
おもしろい・おもしろくない、という次元は当然として、それをどういう文脈でとらえるか、どういう受け止め方を「是」とし、そしてなにより、なにを「否」とするか。すなわち、是非についての価値観を問われるわけだ。
そうした価値観をめぐる闘争は、「木根さん」のほぼあらゆる回でブレーキの壊れた暴走列車並みの勢いで繰り広げられる。
そして、それを描いた秀逸なエピソードこそがこのSW回であり、そして次にご紹介する「ジブリ回」だ。
ジブリがいっぱいすぎる
ぼくはこの「木根さん」が、他の(あえてキツイ表現をするなら)“熱いだけ”の映画紹介マンガと一線を画しているところは、
「あえて、観ない」
という選択肢を示していることにあると思う。
そうした「示し」は、いくつかの複数の話数でみられる。ぼくはそのスタンスに全面的に同意する。
とくに、ぼくが心底感嘆し、もしかしたら四〇過ぎて、はじめてマンガで「学び」があった、とすら思ったのは、ずばり「ジブリ回」(第7本目「ジブリ映画」)だ。
この回で木根さんは、「ジブリ映画を見ろ」という国民的圧力・民族的強制力の前に、危機的状況におちいるのである!なんということか!もうこの回はとにかく爆笑しかない。映画ネタが過激になりがちなのはわかるが、これは元ネタがあまりにメジャーすぎて、だからこそパロディにしやすいのだろう。
さて、実は木根さん、ジブリ映画を完全な未見であった。そのことを口にしただけで、部下たちの反応はこれです。
出典:木根さんの1人でキネマ ©アサイ・白泉社
まあ、こうなりますよね。しかし木根さん、そう問い詰められても困ってしまう。なぜなら、とくに深い理由はないのからなのであった。
出典:木根さんの1人でキネマ ©アサイ・白泉社
わかる(笑)。
ぼくの前職時代のかなり年上の同僚に、「けっしてスターウォーズを観ない」といっていたひとがいた。そのひとになぜ観ないのか、と熱心に尋ねたらそのひとは「とにかく観ない」とだけキッパリ答えた。そのひとは音楽や映画に造詣が深く、まわりの同僚がマンガだアニメだゲームだと騒いでいた秋葉原で、大滝詠一の新譜が出たことを静かに称えるようなひとだった。つまり、自分のスタンスがあるひとだった。
木根さんも、つまりはそういうことなのだろう。多分、理由はないのだ。ただ、観ない。
ちなみにぼくはジブリ映画、というより宮崎駿映画をリスペクトしているが、ゲド戦記は死んでも観ない。ただ、これには明確な理由があるからちょっとちがうか。
とにかく、このジブリ回では、ジブリ未見の木根さんに、部下からはげしい詰問がなされたあげく……
出典:木根さんの1人でキネマ ©アサイ・白泉社
ついに「どのジブリ映画がいちばんおもしろいか」という、血で血を洗う議論に(なぜか無関係の飲み屋の店員や客までまきこんで)なってしまう。クラリス好きが真正ロリコンだ、という言い方など、もうオタクの基本教養なので笑う。この場面、ジブリ映画のセリフだけで成り立っているのも笑う。「ヤな奴」って……あっ、耳すまか。
で、結局その場を収めるために木根さんが用いた論法はこうだ。
出典:木根さんの1人でキネマ ©アサイ・白泉社
ラピュタの滅びの言葉「バルス」と同じポーズでこれを言わせているあたり、「人それぞれ」もすべてを無にする究極のひとことなのだろう。ただ、このひとことは多分、最終的な答えではない。阿鼻叫喚の地獄に収拾をつけるための「方便」にすぎない。
では結局木根さんのホンネはどこにあったのだろう?
ぼくは、その答えを無理に出したいと思わない。ただSWにせよ、ジブリにせよ、木根さん(あるいはこのマンガ)のスタンスは一貫していてブレがない。そのことが答え以上に、雄弁に語っているように思う。
つまり、人それぞれ、と言っておきながらも<私>のおもしろさへの根拠のない自信はゆるがないのだ。そして、その傲慢ともいえる自信は、おそらく、「感性の自由」への無限の信頼に基づいている。
だから「1人でキネマ」なのだ。
感じることは、ぼくの、あなただけのものだからだ。
シェアとか、くそくらえだ!
娯楽のコモディティ化について
さて、ぼくは最初にこの「木根さん」が“最高”の映画マンガだとご紹介したが、そこで「ぼくにとっては」などと煮えきらないことを書いた。それには理由がある。
ズバリ「3本目 インディー・ジョーンズ」のためだ。
ちょっと……いくらなんでも……これは……ぼくのことを調べて描いたんでしょ?
この回は、木根さんが生まれて初めてひとりで映画館にいったときのエピソードである。
出典:木根さんの1人でキネマ ©アサイ・白泉社
立ち見ってところまで同じって……!決めゼリフまでそっくりって……!
ぼくはこれを読んだとき、もう、椅子から転げ落ちそうなくらいおどろいた。偶然とは思えないくらいの一致だからだ。あたりまえだが、ぼくのエピソードにはいっさい誇張はない、完全な実話だ。だからおどろいたのだ。40年後に、それがまんまマンガになっているとは、なんという偶然か。最高、というしかないじゃないか。
しかし、同時に、こうも思った。――これは、ほんとうに偶然なんだろうか?
なんといえばいいのか……偶然なんだけど、でもどこか、なるべくして、こうなっている気がする。
たとえば、ぼくと、作者・アサイ先生は、二歳しか年がちがわない、つまり同世代だ。自然、そのエンタメ経験も似てくるのは必定である。
もしかして、アサイ先生、ホントに「インディー・ジョーンズ 最後の聖戦」を立ち見で観たんじゃないか。だって、あまりに描写が具体的すぎるもの。だとしたら、スピルバーグとルーカスという違いこそあれ、ぼくらの映画との出会い方は、どちらも幸福で、人生的大事件で、今に繋がっているというわけだ。
何度も強調するが、ぼくはこのマンガに描かれている「映画観」にほぼ100%同意する。というか、あまりに同意しすぎて心配である。ぼくが同意するということは、世間では少数派ってことだからだ(笑)。
それは冗談としても、とにかく、この偶然の一致はおそらくだが、当時日本中のいろんな<映画館>できっと同じようにあった出来事なのかもしれない。そして、そんな共通経験が、近い「映画観」を育んだのかもしれない。だとしたら、おもしろい。
ただ、こうも思う。
たとえば、映画を観るコストが、「コマ劇前」より低いのが現代だ。スマホで、サブスクで、トイレのなかでも映画を観ることができる時代だ。
この“おそるべき豊かさ”を、なんの引っ掛かりも感じずに良しとすることが、ぼくには難しい。これは、ぼくにはシリアスな問題だ。なぜなら、こうした状況がもたらしつつあるのは、旧来の価値観の無効化だからだ。
つまり、「立ち見でスターウォーズを見た」ぼくの経験を、ただの「ムダなコスト」だと、そうみなすのがこの豊かさだと言って差し支えあるまい。そんな豊かさのなかに育ったひとびとに、ぼくの経験談はウザいことこの上ないだろう。
でも、ぼくはそれをちょっと受け入れ難い。結局、ラクに手に入ったものに、たいした喜びはないと思うからだ。
「サブスクで何万本もの映画を月500円で見放題!」って、映画にとって良いことなんだろうか……最近、ちょっと、けっこう疑問に感じている。
ぼくだって昔は、そういう未来を、便利で、掛け値なしにすばらしいものだって思っていた。たとえば、小型端末を持ち歩き、どこでも情報にアクセスできる……みたいな未来。
それは、スマホで本当に実現してしまった。映画だって、思いついたらどこでも観られる。好きな時間でいつでも止めたり再開したりできる。「観る」という点でいえば、もう、これ以上は脳直結以外ないってくらいにローコストになった。そもそも、娯楽自体が増えた。映像メディアにかぎっても、You Tube、インスタ、TikTokまで溢れかえっている。何十万、何百万の動画を、タダでいくらでも見ることができる。
すばらしいことだ。
だが、今、こういう状況を、ぼくは「娯楽のコモディティ化」とでも呼びたくなっている。
「コモディティ化」とは、おなじみウィキによれば『製品やサービスについて、性能・品質・創造性・ブランド力などに大差がなくなり、顧客からみて「どの会社の製品やサービスも似たようなもの」に見えるようになった状況を意味するマーケティング用語』である。端的に「一般化」ということもある。
わかりやすい例だといわゆる「白物家電」だ。冷蔵庫がよく例に挙げられる。ハッキリいって、もう冷蔵庫など、どのメーカー・どの機種を買っても大差ない。容量がどうの、冷凍力がどうの、といくら付加価値を強調したところで、機能や形にはもうたいした違いなどないわけだ。こういう状況にまで行きついてしまった状態を、コモディティ化したという。
もちろん、映画やマンガがそうそうコモディティ化することはありえないだろう。冷蔵庫とはわけが違うのだから。
だが、ここまで過剰に見放題になった映画やマンガ、つまり処理しきれない情報はないのと同じなんじゃないか。あるいは、それだけ溢れかえってしまったら、もう観ても、そのうち区別つかなくなってくるんじゃないか。
こんな現代の状況のことを、「木根さん」のなかで皮肉めかして描いている回がある。さすが!(44本目 見たい映画がありすぎて見たい映画がない日)
出典:木根さんの1人でキネマ ©アサイ・白泉社
このオチには爆笑しつつも、ちょっと“してやったり”なところもあった。もちろんこの回は、先に述べた“おそるべき豊かさ”への皮肉だからだ。
なにを贅沢なことを、という批判はあるかもしれない。それは甘んじて受けたい。
世界には間違いなく娯楽どころではない現実があって、娯楽が溢れかえりすぎてむしろ価値が下がっているぜ、なんてタワゴトなど屁の突っ張りにもならないだろうから。恵まれたヒマ人の鼻持ちならない妄言にすぎない、と。
ただ……直視できないほどの辛い現実があったとして、それをどうにかできるのは、娯楽しかない、ということはあるだろうともぼくは思う。それこそが娯楽の力じゃないのか。
であるなら、娯楽のコモディティ化なんて、やっぱりあってはならない。
たとえば、1万本の映画をテキトーに観るより、一本の映画に魂をつかまれる経験をしたほうが、やっぱりいいと思う。
必要なら、「立ち見」をしてでも。
さいごに
マンガと、映画の関係は、深い。
いろいろな点からそう言えるが、ぼくは特に、手塚治虫先生の存在が大きいのだろうと思う。なぜなら、日本のマンガに映画的表現を持ち込んだのは、間違いなく手塚先生であるからだ。
その詳細はここで述べることではないが、手塚先生が「一年に365本は映画を見た」と語るくらい映画を観るひとであったのは、マンガと映画の関係を決定的に決めた一因であったと思う。
かつて手塚先生は「マンガからマンガを勉強するんじゃないよ。」とトキワ荘のメンバーに語った。もちろんそういって、かれらを映画に連れ回したそうな。これは、かたよった経験は、視野を、想像力を、狭めてしまうよ、という金言だ。ぼくは、マンガや映画に限らずこうありたいと思う。
もちろん、それは主戦場であるマンガを、そもそもたくさん読んだうえでのハナシだ。
そういえば、「日曜洋画劇場」の名解説者として50年にわたってお茶の間を楽しませてくれた淀川長治さんは、生涯現役を貫いたまま、惜しまれつつも2017年に亡くなったが、その生涯最後のコトバは「もっと映画を見なさい」であったという。
サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ……じゃなかったんだ。かっこよすぎる。
ぼくも、死の床で、「もっとマンガを読みなさい」と言ってからくたばろうっと。