第二十六冊『ビンテイジ』~好きこそ ものの 自由なり~

イケメンから遠く離れて

みなさんは、いつまで親の買ってきてくれた服を着ておられただろうか?

恥ずかしいからいちいち申告しないだろうが、とくに男はかなり長じるまで“親セレクト”のままじゃないだろうか。そもそも野郎なんて、女子との初デートのときまで、服のことなんか気にしたこともないだろう。

いっぽう女性は、物心ついたときにはもう、おしゃれに目覚めていて、ダサい男子を見下すのだ。……まあ、これらはぼくの偏見に満ちた思い込みなので、あまりツッコんで考えるのはよそう。

自分のことを言えば、まるで服に頓着しない。高校まで親セレクトの服。いまでもブナンな格好をしておけば、問題ないと思っている。

服にこだわらない理由はカンタンだ。よく言うでしょう……「ただしイケメンにかぎる」と。どんな服を着ようが、イケメンでなければ、カッコよくはならない。イケメンでないぼくは、服で底上げしてもたかが知れてるってわけだ。号泣。神も仏もいない。

もちろんこの年になると、さすがに人間のカッコよさとか可愛さが、見た目だけじゃないと理解できる。

だが、いっぽうで見た目という評価基準が、「ないわけじゃない」ことも知っている。

つまり、見た目はすべてじゃないが、省略できない評価項目のひとつではあるのだと思う。

なぜなら、目が見えるかぎり、ひとの外見は“先験的”に与えられる情報だからだ。

言い換えれば視覚情報というのは、意思と関係なく脳に届いてしまうということだ。「カッコよさ(可愛さ)に、見た目なんてカンケーない」なんて言うひとは、たいがいが<視覚の先験性>に無自覚なだけだ。

それに、外見をまったく考慮しないという言い方には、「内面を評価すべきだ」という、また別の差別意識が隠蔽されているに過ぎない、ともいえる。

なお、これがいわゆる「ルッキズム(外見至上主義)」とは全く違う話であることは、強調しておきたい。ぼくが言いたいのは、見た目って無視はできないよね、というだけのことだ。だがまあ、このへんにしておこう。

話を戻すと、肉体以外の要因としては、やはり「服」こそが見た目を決定づける最大の要因であると思う。

身長・体重などの“本体”のスタイル要素がいちばんなのは当然として、ヘアスタイルやメイクもそうした外部要因ではあろうが、占める面積的に服の比率はきわだって大きいといえるだろう。ひとは、この事実から容易には逃げられない。

そう考えて人生振り返ってみると、イケメンでないから(しつこい)服に冷淡だったぼくでも、なんだかんだで服にまつわるエピソードや黒歴史は、けっこうあることに気づいた。

高校まで過ごした田舎では、服を買える場所自体がそもそも限られていた。近所には、むろん“おしゃ服”屋はない。

A○KIとか郊外型のスーツ量販店ばかりだ。ただそういうところでも、多少は若向けの服を扱っていたりするわけで、ぼくがはじめて“意思をもって”服を買ったのはそうした店のひとつだった。

今ならネットでいくらでも選べるから、田舎暮らしも快適になったものである。とにかく、まわりのレベルも似たようなものだったから、それで特に問題はなかったわけだ。

しかし、大学生になると周囲にあきらかな「ファッション強者」が現れた。

彼らは田舎出のオタクを、立ち姿だけで瞬殺できる、選ばれし特権階級であった(今だとスクールカースト上位っていうんですかね)。虚勢を張って、そういう人々と渡り合うためには、“かわのふく”より防御力のある装備がどうしても必要だった。

意を決して「古着屋」に挑戦したのは、そういう時期のことだ。

新品でなく古着だったのはわけがある。普段はスーツだったオシャレイケメン先輩が、ある日「古着屋で買っちゃった」といって、龍の刺繍が入ったスカジャンを着てきて、これがカルチャーショックを受けるほどカッコよかったからだ。やはりオシャレ達人は、古着なのか!と。

はじめて入ったのは原宿の古着屋。なんで原宿だったかというと、オシャレなひとは、渋谷か原宿に行くものだ、と田舎モノはかたく信じているからだ。自分で書いていて悲しくなるが、続けよう。

もう30年以上前のことだが、よく覚えている。竹下通りにあったその店は、びっくりするくらい薄暗い店内に、ところ狭しと古着が並んでいた。まるで陳列の法則性がわからなかった。でも、この倉庫みたいなのが、たぶんオシャレなんだと思った。

そもそも「服を買いに行く服がない」レベルのぼくだったが、超慣れたふうをよそおい、慎重に吟味した数着の古着を、息も絶え絶えになんとかゲットしたのであった。えらい安くて感動したものだ。

ちなみに驚くべきことに、このとき買ったLeeのコーデュロイのパンツは今も現役だったりする。先輩に見せたら「おまえ……それはないだろ」と手で顔をおおってディスられたのも、いい思い出だ。ああ、あのころのオレよ、オマエはがんばっていたぞ。

さて、今回ご紹介するマンガは、この「古着」がテーマだ。

そのマンガは「ビンテイジ」(赤堀君 講談社)。

この一、二年に始まったマンガに限定すれば、今、個人的に、いちばん気になっているマンガである。

ファッションマンガは見た目がすべてか

「ビンテイジ」は、「古着」をめぐる、若者たちの青春群像劇だ。

そして、当然ながら「古着」という、あきらかに主張のある服のカテゴリを取り上げることには狙いがある。

古着を含む「ファッション」を扱うマンガには、それがどんな切り口のものであろうと、おおむね共通する主題があると思う。すでに述べたように、服が「見た目」に深く関わるのだとすれば、ファッションマンガとは「見た目」についての、なんらかの態度を示すジャンルなのだということだ。それがストレートに<美醜>であることもあれば、もっと入り組んだ・ねじれた情念であることもあるだろう。

とにかく、この「見た目」問題に、ほとんどのファッションマンガは囚われているのだと、ぼくは思っている。そして、その多くがイケメンで(だからしつこい)ぼくは個人的には違和感がある。

たとえば、服のデザイナー志望の少年がなんだかんだで才能があってヒロインにすんごい服をデザインしちゃうぜ、みたいな話にはもう哀しみしかない。

だって、要するに、あんたが言いたいのは「つまりイケメンにかぎる」ってことなんだろ?そういうの、もう許してくれよ……と思う。ダサい主人公が、ファッション指南でカッコよくなる(可愛くなる)的なのだって、同じことだ。

そのカッコよさ・可愛さってのは、“本体ありき”の話なんだろ?と。もういっそ、究極の解決法は美容整形だ、といってくれたほうがマシだ(笑)。

だが、このマンガは違う。スカッとする答えをくれる。

ぼくが「ビンテイジ」に強く共感したのは、このマンガはあきらかにファッションマンガでありながら、古着というファッションカテゴリの特性を利用することで、この「見た目」問題=“イケメンしばり”の無限迷宮から抜け出せるような答えを出していることにある。

ぼくはその答えに、とても感動した。今回、「ビンテイジ」をご紹介することを通じて、少しでもそれをお伝えできればと思う。

VintageとAntique

「ビンテイジ」は講談社の月刊誌「good!アフタヌーン」2021年9号から掲載され、現在も連載中である。コミックスは3巻まで刊行。つまり、まだそんなに長くやっているわけではないのだが、最初の数話を読めば、これがただならぬマンガであることはおのずとわかるだろう。

作者の赤堀君(あかぼりくん)先生はこの「ビンテイジ」の他に、「ガカバッカ」、デビュー作の「ドーナツ父さん」、「ぐりこカミングスーン」などを連載。個人的にはどれも“引っかかる”マンガばかりだが、「ビンテイジ」で投球フォームが固まった、という感じがする。

タイトルの「ビンテイジ」は、英語表記だとVintage。一般的には「ビンテージ」と書くほうが多いかもしれない。ビンテージワイン、とかいいますよね。ウィキで調べてみたら、そもそもこのコトバ自体が、ラテン語で「ぶどうを収穫する」という意味からきているのだとか。それが当たり年のワインのことをビンテージワインと呼ぶようになり、さらに転じて「ある特定の年につくられた良いもの」を指すようになったそうな。古着はもちろん、車やギターやバイオリンなど、さまざまな対象に今では用いられている。

似たようなコトバに「アンティーク」というのもあるが、こっちは特定の年というわけでなく、古いもの全般に適用されるらしい。つまり、ビンテイジ/ビンテージは、ピンポイントに特定の年の逸品を指すコトバというところが違う。

さて、マンガ「ビンテイジ」は、古着の骨董的価値についてのマンガではない。もちろん、高額な古着も登場はするが(そしてその扱われ方こそがポイントなのだが)、そういった「金銭的な価値」については重要視しない。

もちろん、良いものには相応の値段がつく。それは古着が商品である以上、避けられないことだ。ただ「ビンテイジ」というマンガは、価値は価値でも、金額でない、もっと別の価値について描いているのだといえる。

それはなんなのだろうか。ここからのご紹介でお伝えしたい。

ちなみに「一話がすばらしいマンガにハズレ無し」とぼくは思っているが、まさに「ビンテイジ」はそれだ。一話目だけは詳細に、あとはまとめてご紹介する。

出典:ビンテイジ ©赤堀君・講談社

第一話はマンガのバロメーター

主人公・春夏冬榮司(あきなし・えいじ。以下エイジ)は平凡な大学生(童貞)。

服装には無頓着で、これといった秀でた要素もなく、トーク下手で、女性にもモテず、ダラダラと無為な日々を送っていた。友人である江口操(えぐち・みさお。以下グッチ)と、在学中の童貞卒業をめざして、さまざまな合コンに特攻しては玉砕しつづけている。

エイジはちょうど一年前、父親であった春夏冬敏(あきなし・びん)を亡くしており、一周忌に実家に帰ることに。そこでエイジは、父の遺品である、膨大な古着のコレクションを処分することになる。「エイジに頼む」。それが父の遺言であったからだ。

出典:ビンテイジ ©赤堀君・講談社

とりあえず、目についたてきとうなデニムジーンズを、フリマアプリに登録し、すぐに買い手がつく。

その価格は「5,000円」

じつは父親・敏は、伝説的な古着バイヤーだったのだが、エイジはこのとき、そのことを全く知らなかった。

むしろエイジは、古着が趣味であった父が苦手であった。子どもにとって古着はただの古い服でしかないし、独特の匂いもあったため、そのことを小学生のときに周囲にバカにされていたからだ。その原因となった古着のことも、もちろん嫌悪の対象でしかなかった。処分していいなら、べつに二束三文でかまわないと思っていたのだ。

その5,000円で売ったデニムが、じつは古着コレクター垂涎の「S501XX 大戦モデル」で、市場では「120万」で取引されている、敏の宝物であったことなど、まったく知らずに……!

――という、衝撃的なオープニングで、このマンガは幕を開ける。

出典:ビンテイジ ©赤堀君・講談社

このありえない大安売りのことをエイジに教えたのが、このマンガのヒロイン・寒咲アヤメ(かんざき・あやめ)。映画「レオン」のマチルダに似ている。

ある日、エイジは大学の構内ですれちがった女の子から、父親とおなじ「匂い」を感じたのだが、それがアヤメであった。

その後、アヤメがバイトする原宿の古着屋「OCCULT PARTY」に、客としてエイジとグッチが偶然訪れ、そこで再開。エイジが感じた匂いは、古着の匂いだったのだ。そして、その場の話の流れのなかでエイジの“やらかし”が判明するのである。




出典:ビンテイジ ©赤堀君・講談社

アヤメは「たかがGパン」というエイジにカチンときて、そのデニムの価値を説明する。そしてその価値を知るエイジの父親へのリスペクトを欠き、父の宝物を捨て値で売ってしまったエイジのことを「バカ息子」と一刀両断する。

納得できないエイジは、アヤメに食い下がる。「確かに俺は服のことは分かんないさ だが別におしゃれになりたくないわけじゃない」「でもセンスもないし 拘る情熱も金かけるのも理解できない」「服なんて 必要最低限で構わない」……

そんなエイジに、アヤメは答えるのであった。


出典:ビンテイジ ©赤堀君・講談社

そのアヤメの言葉に動揺するエイジ。知ろうともしないで拒絶していたのは自分じゃないか、と。あらためて思い出してみると、父はいつだって古着にかける思いを息子に伝えようとしてくれていたのだ。エイジはおのれの愚かさを悔いる。

エイジは、父親の髪型を真似して、長髪を「三つ編み」にする。それは、父を理解しようとする決意表明であった。

そして大学でアヤメを探し出し、頭を下げる。「教えてくれ 古着のこと」。

教えるほど詳しくない、とはぐらかすアヤメであったが、最後に付け加える。「まぁでも 私は好きだよ その髪型」。

エイジのキャンパスライフは、このとき始まった――

出典:ビンテイジ ©赤堀君・講談社

マンガらしさとはなにか

……というところまでが、第一話。もう何度読んでもすばらしいです。120万のデニムを5,000円で売ってしまう、というインパクト。まったく記号的でない、魅力しかないヒロインと、そのみごとな登場シーン(後述)。エイジの父親にたいする複雑な思いと、「古着」の世界への一歩を踏み出す説得性。なんというか、ぼくの好みなのかもだけど、マンガはやはりマンガならではの表現を駆使していてほしい、と思う。

本題から外れるが、ここで少々この「マンガ表現」というやつについて触れておきたい。

思うに、Aがあり、Bがあり、Cがある、とテキストでスンナリ書くことができるのは、大抵つまんないマンガだ。言い換えればそれはマンガじゃなくて、小説の地の文やセリフを「絵に置き換えただけ」の表現に過ぎないからだ。

でも、絵とセリフとコマ割りの複合的な表現であるマンガには、その方法でしか表現できないニュアンスや演出があるのだとぼくは思う。このコラムで紹介してきたマンガは、じつはすべて、ホントーにテキストにしにくかったのだが、これこそ、これらの作品が、マンガらしいマンガだった証だろう。

この点で「ビンテイジ」も非常にマンガ的だ。

たとえば――エイジとアヤメが出会う場面。

もし、ただのテキスト置き換えマンガもどきなら、ふたりはなんか出会い、時間経過に沿って話が進むだけ、になるだろう。どんなに出会いの瞬間をドラマティックに、大げさに描いたところで、のっぺり単調なだけの、マンガもどきができるだけだ。

でも「ビンテイジ」は違う。アヤメとの出会いはなんと「3段階」に分かれているのだ。かつ、締めの一回を含めれば、一話中でアヤメとのシーンは4回あり、これはいわゆる<起承転結>のリズムに対応していて、そのリズムのよさとバランスは、ぼくにはとても気持ちよかった。

まずは物語冒頭、1ページ目。ここでしょっぱなに描かれるのは、ふたりが初めてすれ違った瞬間、その一瞬の出来事だ。

出典:ビンテイジ ©赤堀君・講談社

ここでは、この女の子がどんな子なのか、「親父のにおい」がなにを意味するのか、はわからない。ただ、この出会いが物語の決定的な“着火点”であろうことが示唆されている。

次のページでは、すぐに時間軸が過去に飛び、物語は再スタートのためにリセットされ、エイジの単調な日常やその平凡さがあらためて描かれていく。

次に、そのなんてことのない描写に、あらためて冒頭の出会いが再挿入される。

合コン全敗のなさけなさを、エイジとグッチがくどくどと嘆き合い、しかしふたりが決意を込めて「童貞を卒業するぞー」と叫んだ、まさにそのとき、アヤメはしれっとコマに登場するのだ。


出典:ビンテイジ ©赤堀君・講談社

ここで冒頭のシーンがあらためて再現されるわけだ。この過不足ない、過剰な演出などまるでない、さりげない・あまりになんてことのない登場の仕方!大げさな大コマも、うるさいだけの効果音も必要ない。

エイジとグッチのコメディシーンに、するりと現れるアヤメの、そのタイミングの悪さのおかしさ、ユーモア感は絶妙だ。もちろんこの時点でもまだ、この女の子が何者か、エイジにはわからない。ただ、なにか含みを持った出会いにちゃんとなっている。

そして三度目、今度は古着屋での偶然の出会いだ。ここでついにエイジは彼女の名前を知り、さらに会話までする。すでにご紹介したように、ここでエイジは、アヤメにこてんぱんにされてしまうわけだ。

この、三度に分かれて描かれる、エイジとアヤメの出会いの描写は、細かくテキストにすれば以上のようなものなのだが、ポイントなのは、この描写は実際にはおそらく、読者にとっては、こんなに複雑なものと意識はされないだろう、ということだ。

流れはスムーズで、強引なご都合主義も、不自然な“気づき”もない(なんの伏線もないのに、「俺は運命を感じた」とか言わせるようなやつ)。すべては自然に流れている。そしてこの自然さは、マンガ表現を使ってしか、表わし得ないものだと、ぼくは思う。

マンガが、なんらかの欲望を満たすための娯楽メディアである以上、現実にはおこりえないご都合主義は、どうしたって描かれる。ありふれた・泥沼のような日常でなく、<非日常>を描くことが、最短で娯楽に直結するからだ。

ただ、その題材選びや話の進め方の“恣意性”が読者に違和感を感じさせないようにできるかどうかが、物語に没入できる・できないの分かれ目だろう。

あふれかえるアイドルものも、筍のように乱立する異世界ものも、金太郎飴のごとき悪徳令嬢ものも、題材の選び方に安直さがあるのはさておき、マンガと名乗るのであれば、マンガでしか読めない・体験できない、そんな作品であってほしいと思う。

さて、寄り道はここまでにして、「ビンテイジ」二話以降を駆け足でご紹介しよう。

大学生って勉強しないんですかね

アヤメに古着のことを教わろうとするエイジは、アヤメが所属する「古着サークル・NARD」の創設者・2年生の茨戸景(ばらと・けい)を紹介される。

古着を知る手始めに、かつて父にもらった「Tシャツ」を着ていたエイジに、Tシャツコレクターの茨戸は豊富な知識を披露する。同時に、その変態性も(Tシャツをアテに酒を呑む、とか)。

茨戸はいう。「僕は基本コレクターだから ほとんど着ないかなー」。



出典:ビンテイジ ©赤堀君・講談社

なし崩し的に、エイジとグッチはこのサークルに入ることになる。

サークルには、双子のビンテージミリタリー好きである有栖半次郎・段次郎(ありす・はんじろう、だんじろう)兄弟がいた。見た目がハンプティ・ダンプティ。

このサークルは20人ほど在籍していると聞き、夢のリア充サークルと思っていたエイジとグッチだが、現実には大半が幽霊部員で、茨戸と有栖兄弟、そしてアヤメしか顔を出していないことがわかり、しかも女子はアヤメひとり。夢打ち砕かれるふたり。

出典:ビンテイジ ©赤堀君・講談社

ただ、そんな厳しい現実のなかでも、いろいろドキドキハプニングは起きる(アヤメの部屋で深夜のファッションショーとか)のだが、割愛。

こうして、想像していたものとは違うにしても、古着サークルらしく、エイジは茨戸たちに古着のことを教わったり、それなりに居心地の良さを感じはじめていた。

そんなある日、サークルに新入部員の女の子がやってきた。

全身ゴスロリな服で、よかれあしかれ衆目を集めてしまう目立つ外見である。

実は子供のころエイジが通っていた柔道道場で天才少女といわれていた、五十嵐碧(いがらし・あお)であった。だが、エイジのコトバがきっかけで、柔道をやめ、好きだった刺繍を趣味とすることができた過去をもつ。

このことで、碧はエイジのことが気になっていたのだが、偶然同じ大学でエイジを見かけたことで、古着サークルに入ることにしたのであった。

なお男性がニガテで、間合いに入られると誰彼なく投げ飛ばしてしまう。

出典:ビンテイジ ©赤堀君・講談社

活動らしい活動もしていなかった古着サークルも、エイジにグッチ、アオと、一気に3人も新入生が増え、にぎやかになる。

「ディグる(掘り出し物を探して手に入れる)」ためにフリーマーケットに出かけたり、全員「黒コーデ」で参加しなければならない「コム・デ・ギャルソン」について語る会をしたり……

こうしてエイジは、古着の世界に、どんどんハマっていく。そしてある出来事をきっかけに、かれは「伝説的バイヤーであった父親を超えたい」と思うようになる。

古着をもっと学びたい、と茨戸に相談したところ、古着の師匠として、茨戸以上に古着にくわしい(そして茨戸以上に変態的である)24歳社会人の桃川杏南(ももかわ・あんな。以下アンナ)を紹介される。

アンナはたしかに古着について博覧強記であり、しかも聞いていた以上の変人であった(他人の“舌”をふにふに触りたい、という「ベロふに」の趣味がある)。エイジは彼女にさまざまな古着のことを教わる。のちに、エイジのことを異性として気にするアオと、なんとなく巻き込まれたグッチも合流し、三人で古着修行することになる。

そして折しも季節は夏。学校も夏休み。息抜きにサークルで海に行こう、という話になったりする。そこでも古着トークをきっかけに、パリピな集団となかよくなったりして、けっこうリア充っぽい日々を過ごすのであった(すごいのは、まったく勉強をする描写がないことだ)。

――そんな夏休みが明けて、大学は文化祭シーズンをむかえる。

古着サークルは、大学の公認サークルとしての地位を守るために、なんらかの活動をする必要に迫られていた。そこで茨戸がいいだしたのが「男装・女装コンテスト」への出場。

もちろん古着を着て、ガチの優勝を狙いにいくのである。出場者(という名のピエロ)は、結局、エイジとアヤメに決まる。

アオはエイジの服を仕立て、アヤメはデザイナーズブランドの古着で、インパクトのある服を用意することになった。一ヶ月の準備期間をへて、狙いどおりの衣装も無事にそろい、あとは明日の本番を待つのみ……というとき、ハプニングが起こる。

なんとグッチが誤ってペンキを衣装にぶちまけてしまうのだ。もちろん洗浄もできないし、今からでは作り直したり代替品を用意する時間もない。

そこで、エイジが提案する、0点か満点しかない、起死回生の一手とは――

欲しければ買おう

……と、ここから先は、マンガの現物をぜひ読んでください。エイジくんの古着修行の成果がまさに発揮される、感動的な演出です。ちなみにここまでで、発刊されている3巻は終わり。

さて、おわかりの通りこのマンガの男性陣に「おしゃれ達人イケメン」はいない。

たとえば、一応スタイルという点では、エイジもグッチも、それなりであるように描かれている。が、彼らがおしゃれ達人ということはない。

知識だけなら圧倒的な茨戸は、あらすじにご紹介したように、そもそもコレクターで買った服を「着ない」。有栖兄弟がその見た目上、コメディリリーフであることは明白だ。アヤメやアオは、容姿に優れているがただ着たいものを着ているふうだ(とくにアオは)。

つまり、この「ビンテイジ」において、厳密な意味で、おしゃれのために服を着ている人物はいないのだ。そのことを、茨戸がズバッと述べているシーンがある。


出典:ビンテイジ ©赤堀君・講談社

「というかね エイジ君」「おしゃれについては 僕ら よく分かんないよ」。そして続けるのだ。

「おしゃれかより 欲しければ買うよ 僕は」。

ぼくは、このセリフに思わず膝を打った。

アヤメもすでにご紹介したシーンで類似のことを述べている。

「ファッションが好きな人と 古着が好きな人は ちょっと違う」「古着好きは 多分 おしゃれかどうかより 「その服が欲しい」とか「着たい」って気持ちのほうが強い」と。

おそらくこの「ビンテイジ」というマンガは、このことを描くために、「古着」というジャンルを選んだのだ。

もうおわかりのことと思うが、ここには「ただしイケメンにかぎる」のような、運命に選ばれし、オシャレマスターはいない。というより、そんなこと、だれも気にしない。

エイジの古着師匠であるアンナは、一応こんなことも言っている。

出典:ビンテイジ ©赤堀君・講談社

身も蓋もない(笑)。そう、厳然としてイケメンはいる。容姿による差もある。もちろん、おしゃれをしたくないわけでもない。だが、アンナはこの遠慮のないセリフの前に、おそらくはこっちが本当の結論なんだろう、ということを言っている。

「カッコつけるな、童貞! まずはもっと楽しめ!」と。

視覚情報が先験的に与えられるのと同様に、ぼくは「まず楽しい」と感じることはコンプレックスなどより<先験的な感覚>なんじゃないか、と思う。そして、そういうふうに感性が働くようになっている状態のことを、あるいは「自由」というんじゃないか。

なによりぼくは、茨戸やアヤメの「古着」に対するスタンスに正直救われた気分すらしたのだ。「欲しい」とか「着たい」だけで、服は十分楽しいのだ、と。

さいごに

とにかくぼくは「服」にまつわる最大の問題とは、ズバリ「似合う・似合わない」ということだとずっと思いこんできた。その似合い度合いが高ければ「センスある」し、低ければ「ダサい」のだと。

だが「ビンテイジ」の描く古着の世界は、もうちょっと自由で、「服」や「見た目」について、異なる価値観を示してくれた。

たとえば、「古着では「汚れ」が服の価値になることもある」と茨戸がいうシーンがある。

「基本「汚れがいい」は 新品にはあり得ない価値観だからね」。

なんておもしろいんだろう!目からウロコだった。

自分がいいと思えば「いい」んだ、というのは、ぼくにとって、最も大切にしている価値観で、だからぼくはそれを描く「ビンテイジ」が好きなのだ。

着たい服を着て、読みたいマンガを読もう、とあらためて思った。

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