なにかを為すのに“使える”時間
人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり
一度生を受け 滅せぬものの あるべきか
これは能や歌舞伎の原型となった伝統芸能・幸若舞の演目「敦盛」の一節だ。かの織田信長が「桶狭間の戦い」の出陣直前に舞い謡ったとされる。“海道一の弓取り”と称された大武将・今川義元を、十分の一の寡兵でやぶったこのドラマティックな戦は、信長が飛躍するきっかけとなった。くだんの舞のシーンは、ドラマや映画でさんざん描かれたから、日本人ならどこかで聞いたことがあるはずだ。
それにしても、これを、国の存亡をかけた一戦のまえに舞える、そのセンス!
戦争という、現実のなかでももっともキツイ、極限のリアルに臨むにあたって、そのリアルですら“ゆめまぼろし”だと喝破するのが「敦盛」だ。永劫の時のなかで、仮初にある人の生と思えば、戦での生き死になど、なにするものぞ(ゆえに臆するな)――というわけだ。しょせん、人はだれでも死ぬのだから、と。
これをこのタイミングでチョイスできる信長、超絶カッコいい。こういうところにこそ、ぼくたちは信長の英雄性をみるのだろう。
細部の真偽はさておき、当時の勢力図からいって、この戦におもむくことは、信長にとって一世一代の大バクチであったのはまちがいない。なにせ兵数でいえば、今川25,000対織田3,000。もはや奇策しかないので、ありえない奇襲をしかけたわけだ。
古来、英雄はこういう一線をつねに越えてきた。ユリウス・カエサルはルビコンを渡り、源義経は鵯越の逆落としをやってのけ、カストロとゲバラは8人乗りのボートに82人を詰め込んでキューバに渡ったのだ。そして、おそらく彼らはみな心のなかで、それぞれの国のコトバで、「敦盛」を謡っていたのだ、とぼくは信ずる。
さて、本題だ。
この「敦盛」の一節で、ぼくがどうしても気になるところがある。
それは、人間「五十年」という、妙に具体的な数字だ。
日本人の平均寿命が五十年を越えたのは戦後だそうだ。だから、五十歳は戦国の当時だとケッコーな長生きになる。が、どうやらそういう具体的な年数の話ではないらしい。この「五十年」は、あくまでも人間の生の“短さ”の比喩なのだとか。下天(化天)、すなわち天界の時間の流れは人間の世界よりおそろしく早く、住人の寿命も計算上23億年(!)あることになるんだそうだ。ゆえに、もはや五十年なんて“ゆめまぼろし”なんだ、と。
そういう考え方、ぼくはキライじゃない。宇宙の果てがどうなっているのかに比べれば、自分の悩みなど取るに足らぬ、と思えるのと同じだ。
ただ、そうはいっても「五十年」という時間は、主観的には決して短いとは思えない。それどころか、自分がまさにその年齢を目前にしているからかもしれないが、ひとは五十年あったら、たいていのことはできる気がしている。世界を変えることすら。
じつは、はじめて「敦盛」のこの一節を知ってから、こんにちまでずっと、この「五十年」という時間の長さは、ぼくにとって、ひとがなにかを為すのに“使える”時間の基準になってきた。そして、その“ゆめまぼろし”の五十年を思うとき、必ず脳裏に浮かぶ3人の人物がいる。
3人は3人とも世界を変え、ほぼ「五十年」で死んだ。
織田信長。本能寺の変で自害。49歳。
ユリウス・カエサル。ブルータスその他大勢に刺されて謀殺。55歳。
そして、大西洋の絶海の孤島・セントヘレナ島で、「51歳」で死んだ近代最後の英雄――ナポレオン・ボナパルト。
今回ご紹介する「ナポレオン~獅子の時代~」および続編「ナポレオン~覇道進撃~」(。以後、どちらも「ナポレオン」)は、タイトルどおり、このナポレオンの生涯を描いた、長編マンガである。
(勝手に)我が友ナポレオン
このマンガとは、長い付き合いだ。気づけばもう20年になる。
じつは、このコラムを引き受けたとき、取り上げるマンガの一番最初の候補リストにすでにこの「ナポレオン」は入っている。つまり、ぼくはずっとこのマンガをご紹介したくてたまらなかった。だが、今じゃない、と思って26回寝かせてきたわけだ。それがなぜ、今でしょ、になったかというと最新巻の帯を見てドキッとしたからだ。
そこには、こうあった。
「20年でワーテルロー」。そうか……ついに、ワーテルローまで来ちゃったのか。
正直な気持ちを言えば、ぼくはこの帯の文句を見てちょっとヘコんだ。なぜなら、いよいよナポレオンとの別れが近づいているからだ。止まることのない時の流れをあらためて突きつけられて、苦しくなった。
マンガというやつは、極論、1ページのなかで宇宙のはじまりから終わりまで描ける。いくらでも時間をあやつれる。だから、ふつうは連載リアル時間とマンガ内時間は、読者にとって「別の流れ」と意識されているだろう。
たとえばスポーツマンガだと、何コマ・何ページもかけてコンマ1秒の攻防を描いたり、一試合に何年もかけたりする。バスケマンガ「DEAR BOYS」はインハイ決勝のたった一試合に約4年もかけているし、トンデモ麻雀マンガ「アカギ」にいたっては、配牌だけで10ヶ月(笑)かけたりする。
さて、ではこの「ナポレオン」はというと、最新刊までのマンガ内時間は、ボナパルト誕生の1769年~1815年のワーテルローまでで46年が経過している。
20年かけて、46年を描いている……。
これってつまり、そんなに「端折ってない」って思いませんか?まんまリアルタイムとまではいわないけれど、ケッコーそれに近いというか。
言い換えれば、ぼくはこの20年「ナポレオン」と共に生きてきた気がしているのだ。
こんな気持ちになったマンガは、いまのところ自分の人生において他にない。
「ナポレオン」よりおもしろいと思ったマンガはたくさんあるし、「ナポレオン」よりマンガの芸として優れていると思うマンガもたくさんあるが、「ナポレオン」ほど<一緒に生きてくれたマンガ>は他にない。
なにか絶望的にツライことがあるとき、ぼくはいつも「ナポレオン・ボナパルトならどう考えるだろう」と考える。そして、そのナポレオンはこの「ナポレオン」というマンガに描かれている顔をしている。
あたりまえだが、ぼくが「ナポレオン」というマンガに感じる魅力の大部分は、実在したナポレオン・ボナパルトという人間の魅力に依っているといえる。それは否めない。
だが、そのことがマンガ「ナポレオン」の評価を貶めることには全くならない。それどころかマンガとして「ナポレオン」はいろいろとスゴイのである。このマンガだったからこそ、ぼくは20年、付き合うことができた。ナポレオンを題材にしている他のマンガではダメなのだ。そのへんをなんとかお伝えしたい。
そのうえで今回は、20年来の友人を紹介するようなつもりで書かせていただこうと思う。
獅子は覇道を突き進む
「ナポレオン」は15巻までの「獅子の時代」(以下「獅子」)と、そこから副題をあらためた「覇道進撃」(以下「覇道」)に分かれている。
獅子15巻でナポレオンは「ブリュメールのクーデター」を成功させ、フランスの権力を一手ににぎる。つまり「獅子」は“軍人”ナポレオン、「覇道」は“為政者”ナポレオンの時代という分け方である。
エルガイムでいえば、ダバ・マイロードが「獅子」で、カモン・マイロードになってからが「覇道」。えっ、ガンダムじゃないからわからないって?日本のオタク教育はどうなってるんだ!
……それはさておき、「獅子」も「覇道」も同一人物の人生だから、当然途切れのない一本道なわけだし、改題するほどの区切りなのか個人的にはハテナだった。改題は作品にとってかなりのオオゴトだと思うのだが、なにか変えないといけない理由でもあったのだろうか。
とにかく「獅子」と「覇道」は、内容的には完全につながったひとつの物語といえる。なので、このコラムでは両方のことを指すときはただ「ナポレオン」と書くことにする。
さっそく書誌的な情報を。
「獅子」は、少年画報社の月刊誌「ヤングキングアワーズ」で2003年より連載開始。2011年から「覇道」に改名し、現在も同誌にて連載中である。アワーズ編集長であるフデタニン氏(筆谷氏)から、ウチで描かないか、という誘いがあったと1巻あとがきに語られているが、それを推薦したのは平野耕太先生らしい。単行本は「獅子」が15巻、「覇道」が24巻まで出ている(2023年6月現在)。合わせて39巻となり、このコラムでとりあげるB6判マンガとしては最長になる。
いくつかの番外編があり、おおむね単行本に収録されているが、「ミュラ外伝 色僧」は未収録(電子版のみ)。どうして電子だけなんだろう……。ぼくは、ほんとうに大切にしたいマンガは断固・紙派なので、こういうのは悩ましい。出版社の事情は痛いほどわかっているので責められないが、ぼくのような読者は少なくないと思う。「読めればいい」マンガと「本として所有したい」マンガは、やっぱりちょっとちがうのだ。
作者・長谷川哲也先生は、SFから時代劇モノまで幅広く手掛ける、パワフルなマンガ家であられる。「北斗の拳」の原哲夫先生のアシスタント経験がおありで、絵柄にはその影響がみられる。
今でこそ、その作風の幅に違和感はないが、じつは「ナポレオン」を読みはじめてしばらくの間、ぼくはこの「長谷川哲也」が、あの「長谷川哲也」だと気が付かなかった。“あの”とは、その独特の昭和感あふれる傑作短編集「アトミックカフェ」の作者、という意味だ。このSFパロディマンガはぼくの店でずっと押していて、個人的にとても思い入れがある。その印象があまりに強くて、なんとなくコミカルでフィクション・SF寄りの作風、と思いこんでいたのだ。だって、全部三頭身キャラなんですぜ。「ナポレオン」の絵柄とは、似ても似つかない。
実際には「陣借り平助」や「セキガハラ」などの時代劇モノ、「アラビアンナイト」のようなエキゾチックエンタメ、そして「ナポレオン」の原型となった歴史マンガ「青年ナポレオン」「1812・崩壊」と、多彩なマンガを発表しておられる。なお、最後のふたつは、電子のみで読める。またかー(泣)。単行本の巻末に入れてくれないだろうか、でも版元ちがうのあるしムリかなぁ……
愚痴はさておき、とにかく「ナポレオン」は連載中だが、いよいよそのゴールが目前に迫っている、ということだ。
歴史マンガは史書じゃない
この「ナポレオン」というマンガをどう紹介するのが良いか、ずっと悩んでいた。ただ、とりあえず、あらすじは不要だと思う。
なぜなら、以前ご紹介した「蒼天航路」もそうだったが、基本、歴史モチーフのマンガの場合、おおまかなストーリーはもう決まっているからだ。
……ナポレオンはフランス革命のなかで天才的な軍事の才を発揮し、次第に権力を手にし、ついに<皇帝>になる。アウステルリッツの戦いで戦史に残る勝利をおさめるなど、軍事的成功を重ね続け、ヨーロッパをほぼ手中にするにいたる。だが、ロシア遠征に失敗し、失脚。エルバ島に追放される。舞い戻ったものの、ワーテルローの戦いに破れ、セントヘレナ島に流されて歴史の表舞台から姿を消す。……
マンガ的に多少の脚色はあるとしても、この過程と結果に変わりはない。
そもそも、読者の方々でナポレオン・ボナパルトを知らないひとは、まさかいないだろう。21世紀のいまも、その業績は残っている(彼が制定に深く関わった「ナポレオン法典」は、なんといまでもフランスの現行法として生きているくらいだ)。
もし「ナポレオン」が“トンデモ歴史マンガ”だったり、ご都合主義の横行する異世界転生モノとかなら、たとえば安直に「ロシア遠征に成功した皇帝陛下がヨーロッパを征服するアナザー歴史モノ」「セントヘレナで失意の死をとげたと思ったら転生して、異世界で無双する陛下」みたいな展開もあったのだろう。
だが「ナポレオン」はそういうマンガではない。
膨大な史料・資料をもとに、史実をふまえて描かれている。
それを補足するテキストとして「大陸軍戦報」というコラムがある。これが素晴らしいの一言だ。
これは編集さんが本作品のために、市井の軍事研究家・兒玉源次郎氏をわざわざ探して、執筆を依頼しているという強力な補足コラムだ。区切りのいいエピソードごとにあって、特にナポレオンの戦術解説は圧倒的だ(下画像は「戦争芸術の粋」と言われたアウステルリッツの戦いの最終局面)。
敵味方の開戦時初期配置から、時系列に沿った各ユニットの動きをつぶさに解説し、しかも特におもしろいのは、その戦闘中に起きたさまざまな小さなアクシデントもひろって、エピソードとして紹介してくれるところだ。また、そうした戦術解説にとどまらず、当時の社会情勢や民衆の考えていたことなど、社会史的な観点からの読み物コラムも多く、副読テキストとして至れり尽くせりである。
出典:ナポレオン ©長谷川哲也・少年画報社
また、さらに補完的なテキストとして、「ビクトル対談(あとがき)」と「ビクトル戦報」がある。
ビクトルというのは、このマンガのキャラクターのひとりで、完全な創作上の人物である。ビクトルはこのマンガをとおして登場し、狂言回し・トリックスターとしてさまざまな役割をになう、ある意味でナポレオンの次に重要なキャラクターといえる。
※じつは「ナポレオン」のもととなった短編マンガ「1812 -崩壊-」でメインキャラとして登場しており、「ナポレオン」でアンコール出演しているわけだが、別人のようにダメ人間になってる(笑)。
そのビクトルと作者・長谷川先生が、巻末でくりひろげるぐだぐだ楽屋トークが「ビクトル対談」。超おもしろい。なによりこの「ビクトル対談」は、マンガではエンタメ演出上、あえてウソも描いているのだが(しかもそれはけっこう多い)その訂正役も担っている。「○○事件のとき、○○はただの下っ端将軍にすぎなかったが、マンガでは演出上、元帥にしちゃった」みたいな。この楽屋トークがあるからこそ、長谷川先生は、思い切ったアレンジや演出をすることができている、そういう面はあると思う。
あと、ビクトルの覚え書きというか手記みたいな体裁のテキストが「ビクトル戦報」。表紙裏にびっしり書かれていて、これはいわば「普通のひと代表」としての、同時代証言である。知性のかけらもない悪文だが、もちろん意図してのことだろう。高い知性だけが、歴史を語れる、なんてバカな話はないからだ。
だが、こうした史実への誠実さが疑うべくもないとしても、「ナポレオン」はあくまでもエンタメ歴史マンガだ。史実を忠実にたどった伝記ではない。限りなく伝記に近いが、でも伝記ではない。
やはりぼくは、この「ナポレオン」を単純に歴史マンガとご紹介するのには、ためらいがある。このマンガを「近代フランス史を学ぶ教科書に使える」などというような紹介はしたくないし、すべきでないと思っている。
ただ、「ナポレオン」のマンガ的演出は、人間ナポレオン、あるいは革命期フランスやヨーロッパ情勢への深い理解と洞察にもとづいている。このことは、どんなに強調してもし足りない。
ちなみに、なぜそんなふうに言えるのかというと、じつは大学で史学科だったぼくの専攻は……フランス革命史なのだ(ドヤァ)。卒論も革命期の心性史がテーマだった。ぼくはアナール学派なのです。「ナポレオン」というマンガにのめり込んだのも、このへんが理由のひとつではある。
まあ、えらそうに語れるほどではないけれど、それなりにベンキョーはした、と思う。たとえば、フランス革命というのが王制を打破し、「自由・平等・博愛」をもたらした民衆革命……などではない(少なくともそんな紋切りではない)ということを、ある程度承知している。その内実は都市と農村の、秩序なき複合的な内乱であり(農村部のそれは「大恐怖(グラン・プール)」と呼ばれる。
これはちゃんと「ナポレオン」で描かれている!第2巻)、パリの指導者たちによる統一的な革命運動とはいいがたい。「大恐怖」にふれている時点で、マンガ「ナポレオン」の歴史認識は、パリ中心の素朴な政治史だけにとどまらないものだといえる。まあ、この辺はキリがないので、あまり掘らないでおこう。
出典:ナポレオン ©長谷川哲也・少年画報社
とにかく「ナポレオン」というマンガは、これほどまでに歴史に誠実ではあるが、やはり史書ではない。なにしろフィクションがたくさんある。
そして、まさにそこが“読みどころ”なのだ、とぼくは思う。
正確ではない=まちがい、ではないしウソでもない。この辺を含みおいていただかないと、「ナポレオン」のおもしろさはちょっとわかってもらえないかもしれない。逆に開き直って「いや、だってエンタメでしょ」というのも許しがたい誤読だ。
すぐにそういう“わかりやすい”記号化に逃げることなく、真偽の狭間で迷い・苦しみながら、表現したいことに適度に<飛躍>できるかどうか。それが創作の(とくに歴史マンガの)真髄なのではないか。
このマンガに描かれた、ウソでない・でもたぶんホントでもない、いくつかのエピソードをご紹介することで、この<飛躍>のおもしろさをなんとか伝えられれば、と思う。
童貞にあらずんば革命家にあらず
さて、おそらく「ナポレオン」のことをググったり、有名なシーンはどこか尋ねたら、いの一番に出てくるのはこれだろう。
出典:ナポレオン ©長谷川哲也・少年画報社
これはフランス革命最大の立役者である、マクシミリアン・ロベスピエールのセリフだ。聞き手は、革命期に“死の天使長”と称された、ロベスピエールの右腕サン=ジュスト。
フランス革命を描くマンガにおいて、このふたりの描き方こそが、もっとも振れ幅が大きいだろう。たとえば「断頭のアルカンジュ」(原作:花林ソラ 作画:メイジメロウ コアミックス)はサン=ジュストが主人公(超イケメン。くそう)のマンガで、ロベスピエールは子どものように小柄だが、有能な弁護士として描かれている。
「第3のギデオン」(乃木坂太郎 小学館)では、主人公たちと裁判バトルをくりひろげるロベスピエールが登場するが、やはり小柄でクセの強いキレ者として描かれている。どちらも理念的なもの(正義・真実など)に異様に固執するところが共通した特徴だ。小柄ではあるが、怪人、といえるだろう。
だが……それらのどれよりも「ナポレオン」のロベスピエールのインパクトは上、といわざるをえない。ビジュアルからして圧勝である。
おそらく、革命に殉ずる真の革命家は<童貞>でなければならないという表現は、マンガやそれに類するエンタメに限っていえば、この「ナポレオン」というマンガが確立したものだとぼくは思っている。
たとえば、アニメ「攻殻機動隊S.A.C 2nd GIG」では、ある革命思想を利用して世論をコントロールしようとする悪役が、革命を志す若者たちにウィルスプログラムをしこむのだが、その発動条件が<童貞>であること、だった。しかもその悪役はしれっとこう言う。「かくいう私も童貞でね」。このシーンに「ナポレオン」のロベスピエールを見ないでいることは、ちょっとむずかしい。
出典:ナポレオン ©長谷川哲也・少年画報社
革命家は、そのすべてを国家あるいは人民に捧げるべきで、特定の個人と性的関係になることは、革命に殉ずる者として失格である……いわば、こうした「童貞革命家」像の、おそらくパイオニアなのが「ナポレオン」のロベスピエールだ。
あたりまえだが、これこそがまさに<飛躍>だ。ほんとうに、ロベスピエールがこんなことを言ったわけではないだろう。しかし、ロベスピエールという革命家のことを、こんなに鮮やかに表現できる方法が、ほかにあるだろうか!見事というしかない。
そしてもちろん、この描写には、あきらかにユーモアがある。というか、このシーンで爆笑しないヤツっているのか(笑)。
そりゃ、革命に殉ずるならたしかにそうなんだろうよ、だけど、だけどさ……そんなドヤ顔で「私は童貞だ」とか言われても!
大げさな歴史など笑い飛ばせ
こういう、いわば唐突なユーモアで横っ面をはたくような描写は、「ナポレオン」の全体にみられる。長谷川先生の、マンガ家としての本能があふれでてしまっているところだろう。さすが「アトミックカフェ」の作者だ。真剣さを極めていくと、こっけいになってしまうことを知り尽くしておられる。
こうしたユーモアは他にもいろいろある。というより、ありすぎて選べない。ガマンできないので連発してしまおう。
――「覇道」14巻。ナポレオンがロシア遠征に動いたとき、最前線に出ようとするロシア皇帝アレクサンドルを、大公女エカテリーナが押し止める場面。将軍バルクライは言う。
出典:ナポレオン ©長谷川哲也・少年画報社
――「覇道」2巻。ナポレオンの友・ドゼーがいろいろぶっちゃけるシーン。有能なドゼーが、なにを求めているのかナポレオンが問うたときの答えがこれだ。なんだろう、このリズムは荒木飛呂彦先生っぽい。
出典:ナポレオン ©長谷川哲也・少年画報社
……まだまだあるが、とりあえず終わり。
「ナポレオン」を特徴づける、こうした笑いの意味をちょっと考えておきたい。
こういう笑いのシーンは、もちろん読者サービスとして描かれているわけだが、たぶん、これは<安全弁>のようなものなのだ。歴史マンガに取り組んで行くうえで、へんに“大河っぽさ”に偏りすぎないようにするための。
歴史マンガは、どこかいちいち「スケール感の大きいドラマであること」が要求されがちだと思う。歴史の大きな変革の波に翻弄される男女とか、激動の時代を駆け抜けた風雲児とか、そういうやつだ。
そういうマンガをぼくはすごい好きなのだが、ただ、ふと思うこともある。
そういうの、おれにはどうでもよくね?……と。
いちいちすべての人生を大河ドラマの主人公みたいに、騒ぎ立てないでもいいじゃねえか。クソみたいに思える人生だろうが、夢に向かって翼を広げて自分を信じてどこまでも高く羽ばたくJ-POPみたいな人生だろうが、とにかく、ひとは生きて、死ぬんだ。それだけで他になにがいるんだ、と。
マンガなんだからドラマチックに描けばいいじゃん、というのも100%認める。けれど、それは平凡な現実の、生のくるしみや窮状を乗り越える力を与えてくれはしない。現実から目を背けさせるだけのドラマになんの意味があるんだ。アヘンのような、地獄行きの片道切符じゃないか……。
そんなふうに思ってしまうとき、ぼくは「ナポレオン」に描かれるキャラクターたちの、ナチュラルなこっけいさに、心からホッとする。それは単なるマンガのテクニックというだけではなくて、作者・長谷川先生のいわば<歴史観>の現れに思えてならない。
「まあ、アンタ、ちょっと笑っときなさいよ」みたいな。「おれは歴史をマンガにしてるけれど、こっけいなギャグや笑いでバランスをちゃんと取るから、カッコつけないで気楽に読んでよ」と。
こういうマンガだったから、20年付き合ってこれたと思う。
もし、マンガがすべての人生・すべての人間を「特権的」なものだとしようとするなら、ぼくはきっと、マンガなど読みはしないだろう。むしろ、泥沼のように終わりのない、凡庸で、まちがえまくって、後悔だらけの人生で、ただときおり喜びや楽しみがあって、なんとか立て直していく、みんなそうしているんだよ、と、そんなふうに思わせてくれるマンガなら、ぼくは読むし、こうしてご紹介したいと思っている。
もう、ほとんどファイナルアンサーしてしまったが、つまり「ナポレオン」というマンガは、ぼくにとってそういうマンガなのだ。
一見、真逆に思えるかもしれない。ナポレオン・ボナパルトこそは、人類史でも稀にみる、特権的立場を手に入れた人物だからだ。それを描く「ナポレオン」というマンガは、どう考えてもその特権的人生の物語じゃないか、と。
ちがう。
そういうふうにナポレオンを描くことも、もちろん長谷川先生にはできただろう。
だが、そうしなかった。しなかったのだ。
皇帝陛下の辞書に<まちがい>はある
マンガ「ナポレオン」をひとことで言うなら、ナポレオンという未曽有の覇業に挑んだ男が、いかにふつうに”ジタバタ”しながら生きていったのか、そのさまを描きだすマンガである――多分、この言い方が一番しっくりくる。
作中でナポレオンは、何度も何度も迷ったり・判断をまちがったり(少なくとも後世からみれば)する。
後からみて悪い結果になった判断をすべて「あやまち」とひとくくりにするのは、乱暴かもしれない。
それはただの“あとづけ”でしかないし、そもそもゲームの分岐みたいに、こっちを選べば正しくて、こっちならまちがい、みたいなことは現実世界ではありえない。ただ、「もしも」があるとしたら……くらいの意味で、ここでは話を単純にするために、とりあえず「あやまち」があるものとしよう。
さて、創作においては「あやまち」すらも物語の一要素にすぎない。たとえば「大きなあやまちを乗り越えて、復活する主人公」といったシナリオがあったとして、ここでいう「あやまち」は、演出上のパーツのひとつでしかない。
もちろん、そうした「創作されたあやまち」にも、読者は感情移入できる。また、そうさせることのできるマンガ(創作物)こそが、一流というべきだろう。
たとえば「ワンピース」の主人公ルフィが兄エースを目の前で殺されたとき、大勢の読者は泣いた。その死はルフィにとって、どこかで正しい選択をしていれば回避できた(かもしれない)もので、だから兄を助けられなかったルフィは、おのれの“あやまち”に苦悩するし、読者もそれがわかるから悲しむのだ。
つまり、創作されたあやまちは、嘘や無意味なものでは断じてない。ただ、次のようには言えるのではないだろうか。それは、作者が選択的に表現したものである以上、そこには「狙い」がある。
たとえば“泣かせる”“笑わせる”“怒らせる”というふうに、物語の都合によって、表現されるものだ、と。
だが「ナポレオン」でその手は使えない。なぜなら、それは<現実>のあやまちだからだ。ナポレオンのあやまちは、物語的に解決・昇華されることは、決してない。まちがいは、必ず、取り返しがつかない。
どんなにハッピーエンドを望んでも、ワーテルローの戦いでナポレオンが勝つことはない。ロシア遠征がなかったことにはならないし、数少ない友といえるランヌも、ドゼーも、ジュノーも死ぬ。ジョゼフィーヌと離婚することも避けられないし、服毒自殺も失敗する。尾羽打ち枯らして、自然死なのか謀殺なのかわからないような、もの寂しい最後をとげる……。
「いやー、やっぱ、このへんで皇帝陛下には負けといてもらわないと話が単調になりすぎちゃうなー」とか「この絶望的な状況からナポレオンの天才的軍略で逆転する!燃える展開だぜ!」とか……そんなふうには、な ら な い のだ。
歴史、あるいは歴史上の人物をモチーフにするマンガでは、<年表という神>がいるとでも言おうか。
ぼくは、だからこそ「ナポレオン」というマンガを、心から信用できる。このマンガは、ナポレオンの人生を描いているわけだが、このマンガに描かれる彼は、べつに人生をスマートに、要領よく、渡り歩いたりはしていない。むしろ“ジタバタ”している。
とはいっても、べつに泣き叫んだり、狂乱したりはしない。びっくりするくらい、冷静に、落ち着いているように描かれることが多い。ぼくが“ジタバタ”というのは、文字面どおりの意味ではない。
ひとが生きていればふつうに直面する、さまざまな「あやまち」に、ケースバイケースで対処していく、そのサマのことだ。
このことを、「ナポレオン」というマンガは、おそらくだが、意図的にクローズアップしている。まちがえるナポレオン、苦悩するナポレオン、淡々と状況に対処するナポレオン、すなわち“ジタバタ”するナポレオンを。
たとえばこんなふうに。
――「獅子」9巻、のちにナポレオンが「めちゃキツイ戦いだった」と回想したという(ビクトル戦報より)「アルコレの戦い」の一幕。冷静さを欠き、無謀な突撃をして大敗し、敵軍の真っ只中に孤立したシーン。
若き頃から寝食をともにした、ナポレオンの母レティッツィアに「ボナパルト家6人目の息子」とまでいわれた親友ジュノーに告げるコトバ。
(ちなみにここではジュノーは死なないです)
出典:ナポレオン ©長谷川哲也・少年画報社
――「獅子」12巻。エジプト遠征の出鼻をくじかれるアレクサンドリア海戦での大敗。後にトラファルガーの海戦でナポレオンのイギリス上陸を阻む英雄ネルソンが、この海戦でフランス艦隊を殲滅させる。
この敗戦は、エジプトに上陸したフランス軍に、地獄をもたらすことになる。「うん――まあな」。慌てたって仕方ない、ナポレオンらしい割り切り。
出典:ナポレオン ©長谷川哲也・少年画報社
――同じく「獅子」12巻、エジプト遠征。現地の抵抗はげしく、砂漠に無謀な進軍を強いられることになったフランス軍。
ぼくが、ナポレオンの際立った現実主義がもっとも強く表れていると思うシーンがここだ。「兵も将校も俺に水と食料を出せと言う」「俺は魔法使いじゃないぞ」「無いものを どこから出すんだ」。そしてシャープな決断……「だったら できることをやるしかない」。中間管理職には胸に響くセリフだ。「俺はわかった上で 兵士を使い捨てる!」。
出典:ナポレオン ©長谷川哲也・少年画報社
――「覇道」16巻。悲劇的なロシア遠征において、ナポレオンが決定的に二択をまちがった場面。ロシア遠征では、ナポレオンは精彩を欠き、何度かこうした選択をまちがう。
出典:ナポレオン ©長谷川哲也・少年画報社
まだまだいくらでもある。特に、「覇道」21巻あたりの、皇帝退位以降は、なにもかもうまくいかない。古くからの戦友は裏切り、あるいは状況が悪いほうへと転がる。この転落のさまを、「ナポレオン」は読むほうが苦しくなるくらい、淡々と描く。
ぼくらの皇帝陛下は、ただのひとだ。全知全能の神ではない。「余の辞書に不可能の文字はない」とナポレオンは言ったとされるが、ご覧のようにド派手にまちがいは犯す。
ぼくらはみな、まちがう。正しくありたいと心から思っている人間でも、立場や状況によって、避けようもなくまちがう。それは本人にもどうにもできないことで、マンガのように救済などない、ただ落ちるだけのまちがいであることが大半だろう。
大きく道をまちがえず、慎重に生きることは、多くの人間にとって、望ましい生き方であろう。おそらく、できるだけ「致命的」なまちがいを犯さず、ダメージを最小限にとどめながら、最後の着地点へ――つまり死まで――到達したいと望むものであろう。
ナポレオン・ボナパルトという人間は、どうだったのだろうか。
むろん、だれにも本当のところはわからない。そうと承知したうえで、「ナポレオン」というマンガのなかにかぎれば、あえてこう言おう。
ナポレオンはたぶん、まちがうかどうか、ということを考えるより先に、状況のなかで、ベストを尽くしていただけなのだ、と。そして上で多数例示したように、結果としてまちがうことも多かったわけだ。「ナポレオン」が描くナポレオンは、ぼくにはそう見える。
彼とて置かれた状況に人並みに恐れたり、おびえたり、不安になったりはしたのだ。金がなく、ジュノーとふたり、汚い下宿で、パン一切れとチーズとビールで生き延びながら、ちゃんと困ったり、ちゃんと絶望したりしたのだ。
ちなみにこの下宿のシーンは、ここまでの39巻のなかで、何度か回想シーンにも出てくる、ナポレオンにとって、大切な思い出だ。貧乏暮らしをともにした友との、貧しくも、気の置けない時間……
皇帝陛下、ケッコーふつうだな。
そう、これはマンガだが、マンガじゃない。
ほんとのことだからだ。
ナポレオンのひとつひとつの選択は、合理的で、そして、ふつうだ。ヨーロッパに大帝国を築くというとてつもない成果を達成したから、何かふつうじゃないと思うかもしれない。だが、「ナポレオン」を読むかぎりでは、ナポレオンは戦術的判断は神懸かっているが、それ以外のところではかなり“俗っぽい”。
皇帝陛下の辞書はまちがいだらけだ。なんとすばらしいんだろう!タレーラン(ナポレオンの右腕として暗躍した、史上屈指の外交の天才)のコトバを借りれば、「愛さずにはいられない」。
そして、最後に考えてみる。こんなにふつうな彼は、なにがぼくらとちがうんだろう?
きっと、それは「する」か「しない」か、だけだ。
世界史に名を残す、その決定的なちがい、ぼくらが「越えられない一線」を「ナポレオン」は見事な<飛躍>で描いている。それは、ぼくの読む限り、たぶんここだ。
9歳の夢
「獅子」11巻で、ある兵士を銃殺するとき、ナポレオンはそれまで周囲に秘していた軍の進行先を、死にゆく兵士に教える。ナポレオン最良の友として描かれるランヌがそれに立ち会い、ナポレオンのおそるべき考えを聞くことになる。
出典:ナポレオン ©長谷川哲也・少年画報社
「これらすべてが 9歳の俺の夢をかなえるために 動いているとしたら」。
誇大妄想狂だろうか。かもしれない。アレクサンダー大王にあこがれた9歳の子どもの夢、ヨーロッパの歴史はそんな幼稚なもののために動いたというのか。ロシア遠征で死んだ50万以上の兵士は、そんな理由を許すだろうか。
いうまでもなく、これは<飛躍>だ。史実ではあるまい。だが、ぼくは、異様にこの「9歳の夢」に説得力を感じてしまった。
神の啓示や観念的正義・理念のために、十字軍が、宗教裁判が、魔女狩りが、そしてフランス革命が、無実の人々を殺すのと、どちらが度しがたいであろうか。
のちにランヌは、アスペルン・エスリンク会戦で、砲弾に斃れる(「覇道」11巻)。その死の前に、ランヌはナポレオンに再度問うのだ。「その子は まだ君のなかにいるのか」と。ナポレオンは答える。「ああ いるさ」。
出典:ナポレオン ©長谷川哲也・少年画報社
死の床でランヌは告白する。あのとき、自分は君を撃ち殺そうとしていた。なぜなら、君の能力は落ちたのに、野心だけは9歳の子供のままだからだ、と。ならばこの先、破滅以外の何があるんだ……。
自分を(友情ゆえに)撃ち殺そうとしていたランヌが苦しんでいるのを見かねて、ナポレオンは彼に銃口を向ける。だが撃てない。
「馬鹿野郎 友だちを 撃てるわけねぇだろ」。
たぶん、純粋な人間ドラマとして、ぼくが「ナポレオン」で一番心を動かされたのはここなのだが、そのことより「9歳の夢」のことだ。
それは、原始の欲望なのだ、おそらく。幼稚だろうが、もっとも強く、もっとも人の深いところにあって、人を駆り立てる。ナポレオンの動機に、この「9歳の夢」をもってきた「ナポレオン」というマンガは、おそろしい。
プリミティブで、簡潔だからこそ、簡単になくならないし、揺るぎない。ぼくは、けっこう、人間みんな、この「9歳の夢」を持っているのだと思っている。なんだかんだ難しいことを言っても、根っこにはたいてい、これを持っている。
だが、持っているのと実践するのはちがう。
そんなナポレオンの本質を、もっとも簡潔に見抜いているとぼくが思うテキストが、「大陸軍戦報」のなかにある。それがこれだ。
出典:ナポレオン ©長谷川哲也・少年画報社
つまり、ナポレオンは「する」か「しない」かであれば、「する」人間だというのだ。
「歩ける兵士」と「歩く兵士」なら、後者だ。「ナポレオンを偉大たらしめたのはその才能というよりその成果である」。
では、どうして「する」ことができたのだろう?
ぼくの脳裏に、ある一節が響く。「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり」。日常に頽落し、あくせくと生きているぼくらは、いつか死ぬことを忘れている。だが、明日死ぬとなったらどうするだろう?やりたいことを「する」んじゃないか。
かのスティーブ・ジョブズは毎日鏡の前で「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは、本当に自分がやりたいことだろうか」と問いかけていたという。
理屈はわかるけど……やっぱ、「する」人はすげえなあ。
ぼくはもうすぐ五十歳になる。時は止まってくれない。マンガ「ナポレオン」も、終わる日が必ず来るだろう。
一度生を受け 滅せぬものの あるべきか。
もう、残された時間は少ない。
「する」しかないんだぜ、とナポレオンが言っている。