第二十八冊『オタクに優しいギャルはいない!?』~白黒つけるだけが 恋じゃない~

あるオタクの告白

のっけから正気を疑われそうだが、じつは不倫について悩んでいる。

え?プリン?不眠?いえ、フリンです。文春砲がよく狙っているアレです。

……オマエは、仕事のコラムで、ナニかましてんだ、狂ったか。ま、待ってください、いちおうこれは今回のお題につながる話なのです、お許しを!

アッハイ、もちろん説明します。

まず、神に誓って、ホントに、不倫はしていない。してたらさすがに書かないデス。

ただ、気になる既婚者がいる――のはホントだ。彼女は中学の同級生。そして、35年黙っていたことだが、ぼくが当時好きだったひとである。

あのころ、彼女は<ギャル>だった。そしてぼくはオタクだった。

いま、彼女は一児の母で、ぼくは変わらずオタクである。

――ひょんなことから、去年以降ひんぱんに連絡をとりあうようになった。LINEで一晩語り明かしたりもした。アラフォーの男女が、まるで放課後の教室でふたりきりの中学生みたいに。

ぼくがよほどのニブチンでないなら、たぶんそのやり取りはただの友人以上の内容だったと思う。

出典:僕の心のヤバイやつ ©桜井のりお・秋田書店

ただ、お互いにこのやり取りが続いた先に待つのはよくない結末だ、とわかってしまったのだろう(彼女には中学生の娘がいるのだ)。会わないほうがいい、という彼女のコトバに、ぼくはすっかり目が覚めた。

ぼくは連絡をとるのをやめた。それがオトナの対応だ、と思った。

ところが、つい先日、彼女がぼくの店に現れたのである。まったくの不意打ちだった。

娘さんの用事でアキバに来たついでだとか。ありえない出来事にぼくはひどく狼狽えたが、なんとか平静を装った。

で、なんやかんやモニャモニャあって、今度食事に行くことになった。

「他にだれか誘う?」彼女はそう尋ねてきた。ぼくの脳は、最適解をはじき出すため、人生最高の速度で回転した。チーン。つとめてさりげなく、ぼくはこう答えた。「ん?オレはふたりだと思ってたけど」。彼女は「だよね」といった。

……

うわー、ぎゃー、不倫しそうだー、耐えろオレー

……さて、おもしろくなってきたところで、この話は、いったん終わる。

そして、「オラ、ワクワクしてきたぞ」という方にはまことに申し訳ないが、この話はかなり“盛って”いる。脚色強めに書かせていただいたことをお詫びしたい。

ただ、おおむね、こんな感じの出来事があったのは事実で、そこでぼくはあらためて考えずにはいられなかったのだ。

<ギャル>とオタクは付き合えるのか?……と。

鼻で笑ったアナタ!ふっ、フツウ人ですね?そういうヒトには分からんのです。

かつての彼女は、今風にいえば「白ギャル」だった。快活で奔放、容姿に優れ、コケティッシュで、いろいろな男と浮名を流していた。十年くらいしてから聞いたが、そのなかにはぼくの親友のひとりもいた(笑)。

とにかく彼女はいっぷう変わっていた。クラスのイケてる女子グループに溶けこんでいたかと思えば、ぼくらのオタクグループにも分け隔てなく声をかけてきた。ギャルによくいる“コミュ力おばけ”ってやつだ。

ひるがえってぼくは、委員長系オタ。小学校一年~中学二年まで8年連続で学級委員長をやらされるような、わかりやすいマジメくん。

そんなぼくにとって、彼女と彼女の属する世界はあまりに遠かった。だから、好きといってもあこがれにすぎなかった、のかもしれない。

それでも、オタクが<ギャル>に惹かれることはリアルにある。ぼくのように。

だが、それは――複雑な感情でもある。

なぜなら、それは現代の“身分違いの恋”であり、どこかコンプレックスを伴わずにはいられないからだ。オタクであることを恥じたことは人生で一度たりともないが、TPOをわきまえねばならないシーンは何度もあったのだ。こと恋愛に関しては。

日本中のたくさんのオタクが、きっと、こんなメンドクサイ恋愛PTSDに苦しんでいることだろう。だから、そういうテーマのマンガが描かれるのはどう考えても必然なのだ。

さて、もうお分かりの通り、今回のテーマは<ギャル>とオタクを扱ったラブコメマンガだ。そしてお題のマンガとして<ギャル>+オタクもののなかでも、ぼくが異様にハマっている作品「オタクに優しいギャルはいない!?」(原作:のりしろちゃん 作画:魚住さかな コアミックス)をご紹介したい。

ぼくなら「ギャルない」かなあ

タクに優しいャルはいない!?」は、原作ののりしろちゃん氏によれば「オギいな」と略してもらいたいらしい(3巻あとがき)。まあ、あんまししっくりきませんけど(笑)使ってみます。コミックスのなかには「Ota Gal(オタギャル)」という略称が書かれたページ数調整用のカットがあって、こっちのほうがいい気もする。ちなみに、ぼくの案は「ギャルない」です。

出典:オタクに優しいギャルはいない!? ©原作:のりしろちゃん・作画:魚住さかな・コアミックス

「オギいな」は、月刊コミックゼノン(コアミックス)で、2021年10月から始まり、現在も連載中。コミックスはちょうど先日最新刊4巻が出たばかりである。

原作・作画方式でつくられており、原作は「のりしろちゃん」氏、作画は「魚住さかな」先生。のりしろちゃん氏は原作者として活躍中で、最近も「気絶勇者と暗殺姫」(秋田書店)を手がけておられる。

さっそく内容をご紹介していこう。

タイトルが示すように、このマンガは<ギャル>+オタクものである。この「オタクに優しいギャル」という単語は、インターネット・ミームになっていて、この一言のなかにオタクの屈折した心理が込められているのだが、のちほど触れたい。

「オギいな」は、各話が「○時間目」と題され、そのなかにひとつあたり4ページの小エピソードが入っているという凝った構成である。たとえば「1時間目 オタクとギャルとキラモンと」は、「#1 オタクあるある」「#2 違うから」「#3 興味でてきたかも」「#4 アタックも上手」「#5 どうなの!? 天音さん!」の五つのエピソードで成り立っている。4巻ラストで29時間目、#127となっている。

……あれ、29×5=145では?と思った方、鋭いです。つまり“強演出回”ではこの法則をくずしているのだ。この法則がくずれている回は、なんらか重要なわけで、そこに注目するとマンガの流れがわかりやすくなるだろう。たとえば、おそらくここまでの全4巻で、もっとも物語のテンションが最高潮になる29時間目は、なんとまるまる#127ひとつで構成されているのだ。

わずか4ページごとに区切られた細かいエピソードには、必ずそれ単体でオチがある。つまり独立した一話とみなせる。これは4コママンガ形式と似ている。リズムは一定で、間延びも、詰め込みすぎもなく、非常に快適な読後感だ。

ただ、エピソードの数自体はたいへんに多く、それらをすべて追うのはしんどい。なので、おおまかな設定だけご紹介し、そのあとでキーになるエピソードを個別にピックアップしたい。

出典:オタクに優しいギャルはいない!? ©原作:のりしろちゃん・作画:魚住さかな・コアミックス

「いぢあませお」の基本設定

……主人公・瀬尾卓也(せお・たくや)は、オタクである。それも高校生にして「女児向けアニメ」である「キラリンモンペット(略してキラモン)」が大好きという、かなりの局地戦仕様オタクだ。

そんな瀬尾はある日、クラスの同級生で、校内でも一、二を争う圧倒的人気を誇るふたりのギャル、伊地知琴子(いぢち・ことこ)と天音慶(あまね・けい)に絡まれる。

出典:オタクに優しいギャルはいない!? ©原作:のりしろちゃん・作画:魚住さかな・コアミックス

伊地知は明るく社交的な<黒ギャル>、天音はクールな<白ギャル>。

瀬尾にとって、もっとも縁遠いタイプの女子であった。しかし、伊地知は瀬尾のキラモン趣味を笑うことなく、自然に接してくるのだった。

だが、そのキラモンネタの会話のなかで、天音のあるセリフが、瀬尾にはひっかかった。


出典:オタクに優しいギャルはいない!? ©原作:のりしろちゃん・作画:魚住さかな・コアミックス

キラモンオタクである瀬尾ですら容易に気付き得なかったそのコアな指摘に、こんな疑念が瀬尾の脳裏をよぎる――天音慶は、オタクなのではないか?

物語は、この“天音オタク疑惑”をきっかけに、瀬尾がふたりのギャルと親密になっていくというおはなしだ。

ふたりは瀬尾のことを「オタクくん」と呼び(セ“オタク”ヤ)、なにかあるごとに「オタクくんさぁ~」とふたり同時に絡んでくるようになるのだった。これはこのマンガの決めゼリフであり、瀬尾に決定的選択をせまる場面では必ず放たれる。


出典:オタクに優しいギャルはいない!? ©原作:のりしろちゃん・作画:魚住さかな・コアミックス

そんなふたりのギャルは親友どうしだが、性格や見た目は真逆といっていい。

このふたりの造形こそがこのマンガの命にして主題なので、詳細にご紹介したい。

黒ギャル・伊地知琴子の素顔

伊地知は、外見も行動様式も「典型的なギャル」であるかのように意図的に描かれている。明るい髪色と髪型、褐色の肌に、肌見せ多めな着こなしなど、きわめて記号的なギャル表現が集中している。あらゆることにポジティブで、周囲もそういう陽性ギャルキャラとして伊地知をみている。

だが、じつはここに“仕掛け”がある。ぼくはこの「オギいな」というマンガは、この伊地知のキャラ作りこそがキモだと思っている。

彼女があまりにうまく機能しすぎたので、このマンガはありふれた“三角関係”ものにならなかったし、後で触れるが「ダブルヒロイン選択問題」も発生しなかったのだ。
彼女はギャル的にいうと、<黒ギャル>といわれるカテゴリになる。すなわち、肌が黒(褐色)でアニマル柄や金髪を特徴とし、サーファーファッション・LAファッションを起源としているスタイルだ。日本では、90年代後半に安室奈美恵さんにあこがれた少女たち(アムラー)、コギャルといわれた<ギャル>たちがこぞってこのスタイルを真似して、一般に<ギャル>というときはこの<黒ギャル>を指すことがおおい。

だが伊地知は記号的な<ギャル>を見た目上は体現していながら、内面的にはそういう底の浅い決めつけをあざ笑うかのように、逆をいくキャラクターだ。

出典:オタクに優しいギャルはいない!? ©原作:のりしろちゃん・作画:魚住さかな・コアミックス

たとえば、なにげに勉強ができたり、料理や家事が得意だったり、内面はいまどきめずらしいくらい純朴だったり、恋愛には(当初は)まったく興味がなかったり。しかも、必死にそういうキャラを作っているとかではない。それが伊地知のフツウ、という描かれ方だ。

瀬尾のオタク趣味にも、平然と合わせてくる。というより、とにかくすこしも否定しない。

だから読者は伊地知のそういう「ムリを全くしていない」素直さに、そしてその「全肯定」な性格に、黒ギャルな見た目とのギャップを感じるはずだ。むろん、伊地知は<ギャル>を演じているわけでもなく、<ギャル>のままでそうあるのだ。

それこそが狙いであって、この「オギいな」というマンガが見た目ほど単純ではないことを示している。

ヲタトークで早口になってしまった瀬尾に、「ゆっくりでいーよ」と伊地知がいうシーンの彼女の表情、淡いほほえみの微妙さ!

出典:オタクに優しいギャルはいない!? ©原作:のりしろちゃん・作画:魚住さかな・コアミックス

みごとな表現だとぼくは心底感嘆した。原作のオーダーに応えた、魚住さかな先生のすばらしい一コマだと思う。

また、放課後デート回(#41)でも、瀬尾がC級サメ映画を観たがっているのを察して、伊地知は同じように「いーんだよ? 好きなもの 正直に言って」という。もはや聖母マリアに許されているかのごとく、オタクの自己承認欲求が満たされるのだ。

出典:オタクに優しいギャルはいない!? ©原作:のりしろちゃん・作画:魚住さかな・コアミックス

瀬尾のまえに最初にあらわれた「オタクに優しいギャル」とは伊地知である。オタクである天音は二番目の優しいギャルだが、ふたりの「優しい」の意味合いは、あきらかにちがう。オタクでない伊地知は、<ギャル>のままで瀬尾に優しく・好意をもつのであって、そのハードルは天音とはくらべものにならないくらい、高い、ともいえる。

伊地知の「優しい」はオタク・瀬尾ではなく、人間・瀬尾に向いているといういいかたもできるだろう。伊地知は瀬尾のキラモン趣味をまったく否定しないが、瀬尾や天音のように、どハマリしているわけではない。

<ギャル>+オタクマンガの多くが、ちょっとムリのある強引さでオタクが<ギャル>的趣味に理解を示したり、逆に<ギャル>がヲタ趣味を受け入れたりするとぼくは感じている。

だが、この「オギいな」にそうした窮屈さはいっさい感じない。そこがおそろしいバランスで、原作・のりしろちゃん氏の匠の技だと思う。

特に、伊地知が瀬尾に好意をいだいていくプロセスは、とても丁寧に描かれていて、説得力がある。無数の小エピソードで、徐々に瀬尾が気になっていくように演出され、#70「こぼれた気持ち」では、思わず「好き」と言ってしまう。直後「(いまの好きは)ライクでーす!」とごまかすのもカンペキな後始末だ。ここで安易に「一線を越えない」ところがこのマンガの絶妙なところなのだ。


出典:オタクに優しいギャルはいない!? ©原作:のりしろちゃん・作画:魚住さかな・コアミックス

なお伊地知は、悪気なくボディタッチしたり近距離にせまることが多く、「距離が近い」といわれる。コミックスカバーの折返しには、伊地知と天音の4コママンガが毎回掲載されているのだが、一巻のそれが距離に無頓着な伊地知の罪深さ(笑)を示している。「可愛すぎて 胸が苦しい」。わかる。

出典:オタクに優しいギャルはいない!? ©原作:のりしろちゃん・作画:魚住さかな・コアミックス

白ギャル・天音慶の本音

いっぽうの天音は、なにごともクールに受け流す「孤高のギャル」のようにみなされている。「鉄仮面」の異名をとるくらいだ。

だが、それは外見から勝手にそう思われているだけで、真の姿はまったくちがう。周囲からの先入観とギャップがあるという点では、伊地知と似ている。私生活はズボラで、学校でも居眠りするわ、テスト前に勉強しないわ、赤点上等だわ、かなりのダメキャラである。

出典:オタクに優しいギャルはいない!? ©原作:のりしろちゃん・作画:魚住さかな・コアミックス

そして特に、そのオタク趣味をながらく周囲に隠してきた。そのため、一見スクールカーストの頂点にいるようにみえながら、本人は息苦しさを抱えながら生きてきたのである。

だが、瀬尾の的確なツッコミに徐々に逃げ場を失い(そのこっけいさが、このマンガの序盤の読みどころだ)、ついには“自白”に追い込まれる。


出典:オタクに優しいギャルはいない!? ©原作:のりしろちゃん・作画:魚住さかな・コアミックス

ただ、瀬尾のウラオモテのない態度に、瀬尾にだけは心を開いて(ついでにオタク趣味も全開放して)いく。はじめて自分の部屋に招いてしまうくらいに。

こうした天音のキャラクター造形は、ぼくの理解では<ギャル>の「最新仕様」そのものである。すなわち「オタクである<ギャル>」という存在だ。ギャルマンガがさまざまな過程を経て、ついにはこの「オタクである<ギャル>」というキャラクター性に到達するにいたった経緯については、のちほどご説明したい。

天音は、伊地知と異なり、瀬尾に対して「弱い立場」だ。オタク趣味をあばかれたこともそうだが、なんとなく多方面で負けている感じで描かれる。これは伊地知にたいしても、同じだ。天音は素のままの自分を受け入れてくれるという点で、瀬尾と伊地知に依存していて、一見すると強キャラのようにみえるが、じつは三人のなかで最も“幼稚”な存在だ。

伊地知>=瀬尾>天音。おそらく、こういう関係になっている。

もちろんこのパワーバランスは、ドギツく描かれたりはしない。また、このバランスはシーンによっても変化する。ただ、その天秤がはっきり揺れるシーンがあって、それはギャルふたりが瀬尾のことを意識するときだ。


出典:オタクに優しいギャルはいない!? ©原作:のりしろちゃん・作画:魚住さかな・コアミックス

抜け駆けしたり、牽制し合ったりはしないまでも、瀬尾を意識したとき、ふたりはちょっとだけ普段とちがう空気を作り出す。このバランスが傾くときがくるのかどうか、先はまったく読めない。

三人の平和な世界

以上が「オギいな」の基本設定だ。物語はこの3人のみでほぼ進むが、何人かサブキャラもいる。

外せないサブキャラとしては、天音のオタク趣味をカモフラージュするために、何度も「妹がね、妹が好きなの」とダシにされてきた、妹分の「雨宮紗優」(あまみや・さゆ)小学校三年生。

天音の本当の妹ではなく隣家の子だが、むかしから天音家に出入りし、生活能力ゼロの天音にかわって食事の世話をしたりしている。天音とちがって紗優はほんとうにクールで、同年代の男子など、ひとことで黙らせてしまうような辛辣な正論をぶっ放す。小学生ならではの「それ言っちゃう?」的なセリフがおおい。

天音が瀬尾を自室に招いたエピソードで初登場した(#36 ボーイ・ミーツ・ガール)のだが、そのときの紗優のセリフなど、殺人級だ。

出典:オタクに優しいギャルはいない!? ©原作:のりしろちゃん・作画:魚住さかな・コアミックス

わかってても言っちゃイカンことってあるよね(笑)。

ほかには、伊地知の兄である「弦一郎」、弟の「翔」と「響」も頻繁に登場する。翔と響はどうやら紗優のことが気になるらしく、姉たちによくからかわれる。

ご覧のように登場人物は少ない。ほぼ伊地知と天音だけで回っている。このふたりが、ただの黒・白ギャルだとしたら、こうはならないだろう。すでにご紹介したとおり、ふたりの設定は、見た目どおりのものではなく、緻密で、繊細なバランスのうえに成り立っているのだ。だからエピソードの種をいくらでも拾えるのである。

さて、最新4巻までで、物語はいくつかのイベントを“クリア”している。

「三人デート」「(天音の)部屋でふたりきり」「(伊地知と)放課後デート」「水着で海でBBQ」「コミケ」「夏祭りに花火」「お泊り会」そして最新巻「学園祭」。

どれも特段目新しいものではない。学校ものの、ド定番ばかりである。

個別のイベントで起きる事件も、さほど意外性のあるものではない。むしろ、お約束どおり、というものがほとんどだろう。そのこと自体はあきらかに意図的なので、違和感はない。

注目すべきは、そのイベント進行の結果、三人の関係性がどう変化するか、だ。

ズバリ、このマンガの読みどころは「三人でハッピー」だ。

そう、かつてこのコラムでも取り上げた「ダブルヒロイン選択問題(以後DH問題)」が発生しない。というより、発生させないことでこの物語は成立している。

瀬尾は、伊地知にも天音にも、まだ恋愛感情をいだいているとはいえない。

逆にギャルふたりは、かなり瀬尾に恋愛にちかい感情をいだいているのだが、ドロドロした情念はまったくない。友情、同士意識、母性、なんでもいいが、それはラブというよりライクなわけだ。少なくともそういう迂回のしかたができるレベルで、ギリギリのところにとどめている。

つまりこのマンガは、徹底的に、リアルな恋愛、およびそれによって生じるイザコザを排除している。

そのことは、原作者のりしろちゃん氏によって、明言されている(4巻あとがき)。

出典:オタクに優しいギャルはいない!? ©原作:のりしろちゃん・作画:魚住さかな・コアミックス

「平和な世界」。

シンプルな表現だが、このコトバには“含み”がおおい。それどころか、あまりに含意がありすぎて、発言者の真意を汲み取れていないかもしれない。ただ、ぼくの理解では、この「平和な世界」とは「三人でハッピー」を維持するために、慎重に調整された物語世界のことだ。

ぼくは、のりしろちゃん氏は、おそろしいバランス感覚の持ち主でいらっしゃるのだと考えている。「平和な世界」を実現するのに、シナリオをどれだけ吟味し、微調整したか想像に難くない。それがもっとも示されているとぼくが思うのは、最新4巻のラストだ。

学園祭の後夜祭に手をつないで花火を見るとふたりは結ばれる、という噂があるのだが、「オギいな」はここでまさかの、いや、パーフェクトな結論を出すのである。これはぜひ、マンガ本編をご覧になっていただきたい。

この演出は予想できなくはなかったけど、ちょっと「神の一手」クラスの描写だと思う。平和はみごとに保たれたからだ。

ギャルマンガ研究序説

じつはマンガの世界で、近年、<ギャル>+オタクのマンガが、激増している。
この現象に、ぼくはとても興味があった。

「オギいな」のついでに、長いけどぜひお話しさせてください。

マンガのある特定の<形式>が激増するとき、その背景には読者・社会の「それを求める」なんらかの欲望・あるいは病があるんじゃないか、とぼくは思う。なろう系が、異世界が、悪徳令嬢が、勇者パーティーを追放された誰かが、エトセトラエトセトラが、異常繁殖しているウラには、明白な欲望、明白な病巣がある。

それを調べるのは一介の書店員の仕事じゃない……のかもしれない。だが、売れるマンガの深層になにがあるのかを「マンガのコトバ」ではなく、なんというか「批評のコトバ」で言語化しておくことは商売上大切なことだとも思っている。

「マンガのコトバ」「批評のコトバ」というのは雑な分け方だが、要するに、マンガを「商品」としてでなく、固有の「作品」としてみる、ということだ。100万部売れてもゴミはゴミだし、10冊しか売れなくても千年残る作品はある。マンガじゃないけど、宮沢賢治は生前一冊も出版社から出版できなかったのだそうだ(だから自費出版した。いまでいう同人作家だ)。だが、なんの予備知識もなしに「銀河鉄道の夜」を読んだとしても、それがとんでもない作品だ、とぼくは思うだろう。

売れるマンガがなぜ売れるのか、を考えることも大事だが、「売れる以外の指標」でマンガを見れないなら、書店員は向いてない。

これは、キレイゴトでもカッコつけでもない。顧客の欲につけこむため(笑)だ。顧客が表層的に求めるものを仕入れるだけでは、競合他店を出し抜けないからだ。また、顧客がいちばん書店を「信用」してくれる瞬間とは、知らないおもしろさに出会ったときなのだ。

話を戻すが――<ギャル>+オタクマンガの激増には、今ならではの理由が(あるいは病のもとが)あるにちがいない。そう思ったとき、ぼくは少し意識的に、そうしたマンガを読んでみたり、<ギャル>についてマジメに調べてみることにした。

まずは<ギャル>ってなんだ?という根本からはじめてみよう。

水と油でもないギャルとオタ

そのむかし、オタクにとって<ギャル>はたしかに怖い存在だった。

そしてその理由はたぶんカンタンだ。それは、あまりに“理解できない”存在だったからだ。

特にそれはファッションや話し方に顕著だった。オタクにとって<ギャル>のそれは、異質すぎた。ガングロのメイクとか、恐怖を越えてぼくにはエイリアンに思えた……
もちろん<ギャル>とひとことに言っても、色々な人がいる。

そこで試しにギャル、という単語を調べてみたが、これがおもしろかった。

おなじみウィキによれば、英語のガール(girl)の俗語である「gal」に由来しているのだとか。ただ、ギャルというとき、そこにはもちろん女の子という以上のなにかが含意されているわけだ。そのことをウィキでは「価値観・文化・マインド」だといっている。

さらに調べると、ギャルには“渋谷系”と“原宿系”という系統があるとか、昭和・平成・令和のギャルのちがいとか、いろいろと細分化していて、十把一絡げにできないものだとわかった(ちなみに男性版の“ギャル男”というのもあった)。なるほど、<ギャル>にもいろいろあるんだなー。ヤマンバが<ギャル>のすべてじゃないんだ。

……考えてみると、オタクにも、似たようなところがある。

大文字の<オタク>というとき、かつてはステレオタイプなイメージもあった。たとえば、ケミカルウォッシュのジーンズにチェックのシャツ、指先出しの手袋とバンダナ、みたいなやつだ。

しかし、今、こんな格好のオタクは、現実にはいない。そういう例は極端としても、もはやオタクは、あまりに社会のあらゆる方向に拡散しすぎたため、「国民総オタク」化が進んでしまったのだとぼくは思っている。わかりやすいオタクはいなくなったが、わかりにくいオタクだらけになった、というわけだ。そしてそれはオタクが延命するために選んだ“生存戦略”なのだ、とも思う。

そんなふうに考えると<ギャル>とオタクは案外相性がいいのかもしれない。

どちらも“健全”な社会に画一的なレッテルを貼られながら、実際には多様であり、自分の価値観を堅持する戦いを強いられているからだ。

好きなモノはちがっても、「是非の判断基準」は思ったより似ている……?

こうした相似性が、<ギャル>+オタクマンガの登場を導いた、というのがぼくの仮説だ。

そしてギャルはオタクになった

そもそも、いわゆる「ギャルマンガ」はかなり“伝統的”なカテゴリで、ここ最近で急にあらわれたものではなかった。調べるほどにその地層は深く、すべて挙げることはとてもムリだ。たとえば、このジャンルを考えるうえで、岡崎京子について触れないのはありえないが、そんなことをしたらこのコラムが十倍あっても足りない。

だが、現状にダイレクトにつながっている(とぼくが思う)作品に限定すれば、ラフな見取り図くらいなら描けると思う。やってみよう。

まず、話をわかりやすくするために図式的に断言してしまうが、おそらくギャルマンガには、ふたつの流れがある。

ひとつは、リアルギャル(候補)の少女をターゲットにした1999年「GALS!」(藤井みほな 集英社)あたりを起点としたリアル路線

そしてもうひとつは、男性オタクを読者に想定した2014年「おしえて!ギャル子ちゃん」(鈴木健也 KADOKAWA)系統のオタク路線。この路線にはその後、百合要素を加えたパターンが登場するが、これも総じて「オタク」路線とまとめてしまっていいだろう。

さて、リアル路線の作品は、散発的に90年代以降も出ていたが、数は少ない。

現実の<ギャル>がそうであったように、キャラクターとしての<ギャル>もまた、マンガを背負えるほどの強い単独イメージでは表現できないまでに、細分化が進んでしまったからだとぼくは思っている。バンダナ巻いたオタクが、もはやパロディとしてしか登場しないように。

もちろん、そんななかでもリアルな<ギャル>を描こうとするマンガはあった。本家本元たる「GALS!」の続編2020年開始の「GALS!!」は、平成や令和を生きるギャルたちにむけた<ギャル>の復権・再解釈をねらったチャレンジだといえる。

だが、オタク路線の作品たちは、そうした真っ向からのチャレンジとちがったアプローチで<ギャル>の再解釈と復権を目論んだように、ぼくは思う。

オタクにとって恐怖の対象だった<ギャル>を、オタクが耐えられるていどにソフトに書き換え、かつ、オタクの価値観にそったヒロイン性を併せ持たせた、いわば仮想<ギャル>がこうして生まれた(ただしこの路線の作品は、リアルギャルの支持はまったく集めなかったと思われる)。

2016年「はじめてのギャル」、2017年「ギャルごはん」、2018年「夫婦以上、恋人未満」、2018年「イジらないで、長瀞さん」と、数年のあいだにギャルマンガのヒット作がつぎつぎと発表された。これらの作品が描くギャルは、仮想<ギャル>であったのかもしれない。

ヒロイン役のギャルは、主人公(=読者)である情けない男を、なぜか好きになる。その理由はない、としかいえない。むろん、恋に理由はいらない、とここでいうのも説得力に欠ける。

つまり、いわば仮想<ギャル>は、オタクに恋するように作られた人為的<ギャル>なのだ。もちろんこのことは、マンガの価値を貶めるものではないことは強調しておきたい。ただ、ここではまだ<ギャル>がオタクと明確につながる根拠は示されていないのはたしかだ。

2018年「やんちゃギャルの安城さん」、2019年「道産子ギャルはなまらめんこい」は、なさけない男と奔放なギャルの関係を青年マンガの文法で掘り下げたラブコメだ。上に述べた根拠なき「ギャル→オタク」な恋の理由を、キャラクターを掘り下げきることで説得力あるところまで描ききった、という点でオタク路線におけるギャルマンガのひとつの到達点だとぼくは思う。

こうした流れのなかで、2018年に登場した「その着せ替え人形は恋をする」は、ギャルマンガのエポックメイキングな作品だとぼくは思う。

この作品のギャル・喜多川海夢(きたがわ・まりん)は、オタクが望む・オタクに都合のいいギャルではない。むしろそのセリフやファッションは「オタクが恐れる」ギャルそのものだ。にもかかわらず、オタクが望むギャルを結果として生み出すために、<ギャル>自身を重度のオタクとして描く、というアクロバットを試みた画期的な作品なのだ。

オタクである<ギャル>というキャラクター性は、きわめて重要だ。

すでに述べたように、<ギャル>とオタクには、レッテルを押し付けられてきたという同士感がそもそもあり、その価値観はじつは親和性が高い。「好きなものは好き」「誰はばかることなく、そう言い切ることのナニが悪い」。そういう価値観において<ギャル>とオタクには、通じあうものがあるのだ。つまり一見、まったく接点のなさそうな、このふたつの属性を結びつけ、ひとつのキャラクター性にまで昇華したことこそが「着せ替え人形」の革新性だろう。

たぶん、この着想は、ギャルマンガにつきまとうさまざまな不自然さをうまく解決できるものだった。だからすぐに記号化したし、これを用いたマンガが激増したのだ。
そして、こうした先行作品のエッセンスをひきうけて、2021年「オタクに優しいギャルはいない!?」が登場する。

オタクに優しいギャル

……なんて教科書みたいにまとめてみた。が、自分でもこじつけが強すぎかなあ、と思わないでもない。ただ、近年のギャルマンガをこうして長々と追いかけてみると、オタク路線の描く<ギャル>が、あくまでも「仮想ギャル」だ、という見方は、そうハズしてない、気がする。

そしてたぶん、読者もそのことは薄々承知していたのだ。オタクに都合のいい<ギャル>。そこに“虚しさ”を感じずにいられるだろうか。だからこそ「オタクである<ギャル>」というアクロバットが生まれたのだと、ぼくは思う。

「オギいな」は、伊地知と天音という秀逸なキャラクターをつくり、ふたりはそれぞれのアプローチで瀬尾に「優しい」ギャルである。この黒白ギャルの異なる優しさに「リアル路線」と「オタク路線」のギャルマンガの交点をみるのは容易だろう。ギャルマンガの長い系譜の最前線は、いまはそのあたりなのである。

そして最後に、このマンガを考えるうえで<オタクに優しいギャル>というワードについて触れておかなければならない。

ここまで素描してきたギャルマンガの流れで<ギャル>という概念自体がゆらぎ、またオタク的に再解釈され、ついにはオタク化させることで融合まで果たすまでにいたったことを、ぼくなりにお伝えしてみた。

それがオタクの“逆襲”だとは、ぼくは思わない。

たとえば、<ギャル>を恐れるあまり、それをマンガ的に書き換えて、“支配し返す”ようになった、という見方は、ギャルに恋してしまったオタク(ぼくです)としては、ちょっと認めがたい。ぼくは好きになったギャルを支配したいのではなく、自分をそのまま認めて欲しいだけだ。

ただ、<オタクに優しいギャル>なんてコトバが広まるくらいだから、<ギャル>へのコンプレックスには根強いものがあるのもたしかだろう。

しかし、オタクはいつまでも、そんなことを言っていられないんじゃないか。このコトバをタイトルにした「オギいな」だが、(当然そうなると思っていたが)そのコンプレックスは乗り越えられていくのだ。

たとえば、ギャルがいるだけでこんなふうに逃げ出していた瀬尾――

出典:オタクに優しいギャルはいない!? ©原作:のりしろちゃん・作画:魚住さかな・コアミックス

そこでスピードワゴンってのがオタクの性だが、それはさておき、そんなかれも、4巻ラストでいうのだ。「ふたりに相応しい人間になります」。

相手を自分の都合のいいようにするのでなく、自分が変わること。瀬尾はもう、<オタクに優しいギャル>なんて待ってないのだ。

ところで……

これはありふれたセリフだが、ぼくはハッとした。思い出したことがあったからだ。

――中学校の卒業式。

すべてが終わったあと、全卒業生が集められて、最後に各担任から、コトバが贈られたときのこと。

夢を見つけてガンバレ的な、ありふれたコトバが続いて、てきとうに聞き流していたのだが、最後に尊敬するある先生が、こんなことを言った。これはぼくがリアルで聞いたなかで、いちばんカッコいいセリフだ。

「好きなひとができたら、そのひとに相応しいひとになりなさい」。

そのとき好きだったひとと、今月、会う。

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