パパに負けたぼくの話
ぼくがかつて、結婚を心に決めた女性は、ファザコンであった。ファザコンとは「ファーザー・コンプレックス father complex」の略だが、これは和製英語らしい。つまりこんな心理学用語はなく、ただの俗語だ。
対になるマザコンというのもあるが、これは英語だと「mama’s boy」というそうな。ではファザコンは「papa’s girl」であろうか。
彼女とは結局別れることになったが、ぼくは彼女がどうして、一度はぼくを選んでくれたのかずっとわからなかった。だが、別れてずいぶん時が過ぎてみると、薄々このへんかな?という理由が思い当たらないではない。
つまり、たぶんぼくは……彼女の「パパ」に、おそろしく似ていたのだ。
彼女は自分の父親のことを「パパ」とか「パパさん」とか呼んでいて、めったに「お父さん」とは呼ばなかった。ただ、寝ぼけたときに何度かぼくのことを「お父さん」と呼んだことがあって、ぼくはかなりショックだった。ぼくの「パパ度」は、そんなに高いのだろうか?と。あっ、ここは笑っていいところですよ。
とにかく生活のあらゆるシーンで彼女は父親の話をしたし、電話は毎日のように彼女にかかってきた。ただし、ぼくは十年、この父親と一度も話したことがなかった。
一度も、だ。
ぼくと、彼女の父は、この時点で、もうすでになにかが似ていた。
いわば十年以上くだらない意地をはり合ったわけで、しまいにはおたがいの頭の中が、わかりたくなくてもわかってしまう感じすらした。会ったことも、話したこともないのに。彼女を挟んで、ぼくとこの父親は十年以上、無言の死闘を繰り広げたのだった。……あっ、ここも笑っていいところです、はい。
さて、彼女の母、つまりこの父親の妻は、亡くなっていた。
彼女が高校生くらいのときで事故だったそうだ。(このことで、ぼくには話せないような苦労があったことは察せられたが、ぼくはそれを決して聞くまい、と誓っていた。彼女が聞いてほしくなさそうだったからだ)
彼女の母親の写真は、びっくりするくらい彼女にそっくりだった。実際、地元ではしょっちゅう間違われていたらしい。
母と死別した娘にとって、父親とはどういう存在なのか。
あるいは妻と死別した夫にとって、妻と異様に似ている娘とは。
もちろん、ぼくに理解できるとはウソでも言えない。だが、そういう立場のひとと、十年以上いっしょにいると、なんとなく思うことはある。
たとえば母と息子より、父と娘のほうが「強い物語」なんだと、ぼくはよく思ったものだ。
息子が変な女にだまされても、自業自得だアホウで済むが、娘が悪い男に騙されたりでもしたら、父親は復讐で殺しにいくかもしれない。それくらい、ちがう。
……いや、なんかぼくの偏見が丸出しだが(笑)とにかくぼくにとって、「父と娘の物語」というのは、まったく他人事ではないのだった。
なんたって、結果的にぼくは、彼女の父に勝てなかったのだから。
さて、ここまで書けば、もう、今回のお題がおわかりの方もおられるかもしれない。
当コラム第二回「OL進化論」の34年を抜いて最長となる、連載36年の大ロングセラー、「Papa told me」(榛野なな恵 集英社)をご紹介しようと思う。
我が国のマンガ史に燦然と輝くファザコンマンガ……ではないが、おそらくこのマンガを抜きにして、父と娘の物語を語ることはゆるされないだろう。
「Papa told me」は、母を失った娘と父親のお話である。
そして、一見“箱庭”のような物語世界のなかに、さまざまな「爆弾」をこっそり埋め込んでいる、トラップだらけのマンガである。だけど、こわいマンガじゃない。この<世界>の、どこに爆弾が隠されているか、このマンガがきっと教えてくれるだろう。
SINCE 1987
まずは書誌的なご紹介から。
「Papa told me」は1987年、集英社の月刊誌「ヤングユー」で連載を開始。
その後、ヤングユーの休刊(2005)にともない、「コーラス」「別冊コーラス」で不定期に連載。2012年からはコーラスの後継雑誌である月刊誌「Cocohana」で不定期連載、今にいたる。
これだけ長いと、コミックスの発行形式も複雑に変わっている。というのも、掲載誌の変遷にともない、「Papa told me」のコミックスは三つの形態に分かれているのだ。まさにジェットストリームアタッ……もうガンダムはやめます、すいません。判型も変わっていて、B6から新書判になっている。
まず、ヤングユー時代のコミックスが全27巻。仮に「無印」とする。
その後のコーラスなどでの不定期連載の単行本が全4巻にまとまっていて、タイトルに副題が付く。「街を歩けば」「私の好きな惑星」「カフェで道草」「窓に灯りのともる頃」の4巻。このシリーズは「コーラス版」としておこう。ここから新書判となる。
そして現在つづいているのが「Cocohanaバージョン」。2023年9月現在、11巻まで刊行されていて、連載継続中である。
全部で42巻。連載期間だけでなく、コミックス数でもこのコラム最長です。
ひとこと言っておきたいのだが、この「長さ」はただダラダラ長いというわけではなく、作品性と不可分な「長さ」なんだと思う。
つまり、たぶんこのマンガに「終わり」は必要ない。長いというより終わらないのだ。
なぜなら、娘と父親の物語というのは語り終わることがないからだ。ドラえもんが友だちとの日常を、サザエさんが家族を、永遠に語りつづけるのと同じく「Papa told me」は父と娘の物語をいつまでも語りつづけるだろう――作者の死まで。あるいは、その先まで。これはそういうマンガだ。
ふと、THE BLUE HEARTSの「終わらない歌」が気になって調べてみたら、なんと1987年、このマンガが始まった年に出ていた。ただの偶然だけど、ちょっと熱くなった。
作者・榛野なな恵先生は1978年デビュー。もちろんこの「Papa told me」が代表作である。ちなみにこのタイトルは、Mama told meという歌からだとか。他にも「ピエタ」「パンテオン」など、その40年以上にわたるキャリアで刊行された作品は多数ある。
無印の初期には、榛野先生の「作品一覧」がコミックスに掲載されていた。といっても93年までのものだが、ご参考までに。
ごらんのとおり、とんでもない数!
……こういうのを見ると、つくづく80年代ってのは夢のような時代に思える。まるであたりまえのように、榛野先生が新作を連発していて、しかも、その一回あたりの圧巻のページ数!50、60Pはあたりまえの大ボリュームだ。
そういえば、ナウシカやシティーハンターが連載していたのも同じころだし、エリア88が終わったのも1986年、「Papa told me」開始直前だった。
今は、このころより見ることのできるマンガは数万倍になったかもしれないが……ぼくにとって、確実に感動や興奮は減った。ま、老害のたわごとだが、でもそれには悲しいことに深刻な理由がある気がする……いずれ、この問題とはケリをつけたいと思うが、いまはさておく。
話をもどすと、榛野先生の作品はたしかに多いが「Papa told me」以外だと、いま読めるものは限られている。とても残念なことだ。ぼくも、単行本になったものは、ある程度網羅的に読んでいるが、古いものは手に入れられなくて、国会図書館ですべて読み切ってから死のうと決めている。
さて……
とにかく「Papa told me」はこれだけ長い。なので、ご紹介の仕方には、悩んだ。
ただ、幸い長いといっても連続性のある長さではない。一話あたりのページ数が多いとはいえ、基本的に単話モノである。
なので、登場人物の紹介とそれにまつわるエピソードをピックアップ、という感じでいきます(選ぶのは一苦労でした。42冊、しっかり読み返しました)。
この親にして この子あり
出典:Papa told me ©榛野なな恵・集英社
「Papa told me」の主人公は、的場知世(まとば・ちせ)。小学生の女の子。
年齢は明示されていないが、おそらく四~五年生と思われる(上級生がいるから、六年生ではない)。幼いころに母を病気で亡くし、父親とふたり暮らしである。
この少女こそが「Papa told me」というマンガそのもの、といっても過言ではない。知世ちゃんに共感・同意できないなら、このマンガを読む必要はいっさいない。それくらい際立ったキャラクターだ。
知世は、重度のファザコンである。
めちゃ下世話な表現だけど、100%そうなので、断言しちゃいます。
彼女がどれだけファザコンかは上の紹介画像のすみっこをみていただければ、お察しいただけよう。なにせ、好きなひと「おとーさん! おとーさん!」なんである(なぜ二回も繰り返すのだ)。そして、きらいな人が「おとーさん以外の男性一般」だというのだから……重症なんである。
無印時代のファザコンはこのようにかなり生々しく描かれていて、知世がファザコンをこじらせて、騒動をおこしまくる話数がかなりある。
連載が進むにつれてさすがに落ち着いていき、Cocohanaバージョンあたりでは、父親を幼児的に求めるような振る舞いは、すっかり鳴りをひそめるようになるが、根本は変わらない。
もちろん、このファザコン描写は誇張されたものだ。キャラクターの心理描写や、ストーリー制作上、そのほうが都合がいいからだ。
ただ、そういったキャラ造形上の“打算”によって仕立て上げられた、ただのファザコン娘なら、このマンガはこんなに長くは続かなかっただろう。
知世のファザコンは、父親の人物や彼女の置かれた環境・経験、そして彼女自身の資質からくるもので、単なるベタベタした依存ではない。もちろん、親子であるという、強い関係性に起因しているが、けっして、短絡的・記号的な感情ではない。
父と娘の、この関係性をなりたたせる「もの」こそが、このマンガのカギである。最後に取り上げようと思う。
ファザコン以外の性格的特徴としては、けっこう肝のすわったリアリストな面があって、七夕回ではこんな短冊を笹に吊るす始末である(笑)。
出典:Papa told me ©榛野なな恵・集英社
また、かわいい缶を集めたり、分厚いファンタジー小説に夢中になったり、街中で隠れ家のような小さい公園を見つけてよろこんだりする、多感な感性を示したかと思えば、いっぽうで宇宙旅行をする船の設定を考えるシーンでは、ごった煮のエンタメ宇宙船がいいと言ったり、「だっせーユニフォーム」はいやだとかお下品な言葉遣いもためらわない。
お上品なお姫さまなどでは、断じてないのである。
出典:Papa told me ©榛野なな恵・集英社
ただ、知世は繊細ではあるし、母の不在に不安になるし、父とながく離れるだけで泣いちゃったりもする。そうした自分を不自由にさせる「もろさ」を克服し、自由を保持しつづけるために、この年にしては稀有なレベルでセルフコントロールする。
たとえば、父のまずい食事を食べなければならないときは「ここは冬山の大雪に閉じ込められた山荘」設定で、あったかい食事はおいしいなあ、と自己暗示するとか。父が仕事で部屋にこもっているときは、気配を消して静かにすることをおぼえたりとか。
こうした知世のありようについては、のちにあるエピソードでこんなふうに語られる場面がある。
出典:Papa told me ©榛野なな恵・集英社
「普通のコより チャンネルを 多く持っているみたい」「一人でいると 人間は早く 進化してしまうのかもしれない」。
知世のこうした、オトナからみても、どこか進みすぎてしまっているかのような感性と価値観は、あきらかに、父親という絶対存在の土台があってこそのものだといえる。
作者・榛野先生が生み出した、この「的場知世」というキャラクターは、マンガ史に残るであろう、特筆すべきキャラクターだ、とぼくは思う。そしてそれはたぶん彼女の、いわばその特異なポジショニングが育んだであろう、そのなんともユニークな「価値観」のためだ。
「Papa told me」というマンガは、極論すれば、知世ちゃんの、あるいは彼女が信頼するひとたちの<世界観>、つまりこの世界のあらゆるものごとにたいする「価値観」をめぐる物語だ。
断じてただの、父子家庭のほっこりファミリードラマなんかじゃない。
「Papa told me」は、ことのはじめは、母親のいない娘が、理想的な父親を偏愛し、ふたりだけの幸せな世界を、おだやかに過ごしていく、いわば“クローズド”な世界観のマンガとして読まれた、といっていい。
なぜなら、発表された1987年当時、「イクメン」なんてコトバもない時代に、母のいない家庭で、自由業の父親が一人娘を育てるお話を描くとなると、どうしても“規格外”な受け止められ方をさけられなかっただろうからだ。
だから、知世が、あるいはふたりの家庭が、そういう「珍種」のカテゴリに入れられ、でもそこでたくましく、したたかに生きていくというその姿に、家父長制的な家族像への、なんらかの攻撃性・明確な主張を見ずにはいられない。たぶん、そういう時代であったろうと思う。
だが、ぼくは「Papa told me」がそういうマンガだとは思わない。そういう「読み」はもちろんあるが、それは一面的なものだと思う。
おそらく、そういう受容のされ方をひっくりかえしたのは、知世ちゃんのキャラクター造形のなせるワザだろう。
連載がすすむにつれて、知世の示す「価値観」は、ありきたりな「家族の問題」とか「親がいないかわいそうなコドモ」とか「世間サマとの軋轢」とか、そういう次元を、軽く超えていく。
なにしろ、年齢・性別・社会的立場・慣習……そういうしがらみが、人間の思考におよぼす「決めつけ」や「偏見」を、知世はぜったいに認めないのだ。
こうした価値観を、知世は父親の影響で身につけた、といっていい。つまり、知世のキャラクター性に、父は不可欠なファクターだ。というわけで次にいこう。
出典:Papa told me ©榛野なな恵・集英社
「Papa told me」には、もうひとり主人公がいる。
それは、知世の父親である、的場信吉(まとば・しんきち)だ。
正確な年齢はやはり示されていないが、知世が10歳前後で、数年の会社勤めののちに結婚したことから、30代前半~半ば、であろう。
信吉は作家である。執筆ジャンルはエッセイや批評が多いようだ。
かつては新聞社の記者であったが、のちに作家に転身。作家としての評価は高いようだが、いわゆるベストセラー的なものを書くような作家ではない。
知世の母である「千草(ちぐさ)」とはなんと略奪婚。
もともと千草は日本有数の画家の妻であったが、あまりうまくいっていなかった。そんなあるとき、信吉と千草は出会って恋に落ち、ふたりは周囲の反対を押しきって、結婚。知世を授かるのだが、身体の弱かった千草は、若くして病死してしまう。知世がまだ物心つく前であった。
こうした人生経験から、信吉は「世間であたりまえ」とか「こうすれば摩擦なく生きられる」とか、そういう考え方を、よしとしない。
出典:Papa told me ©榛野なな恵・集英社
たとえばこんなふうに、知世の自主独立の後押しをしたりする。
信吉は、父として、そして人生の先達として、なにより亡き妻の願いを尊重して、娘の知世に、ありったけの愛と知恵をあたえる。
すなわち、「Papa told me」――「父は わたしに 言った(教えた)」。まさにタイトルどおりというわけだ。
そして時に、その教えは、イバラの道を歩め、と示すことすらある。
出典:Papa told me ©榛野なな恵・集英社
これはCocohanaバージョン1巻「オーラム・ブックマーク」の一コマだが、「責任を持って決断し」たというのは、もちろん、他人の妻だった女性を愛し、結婚したことだ。「どんなに考えても 他に選択肢なんて無い」そう考え抜いて。
信吉が教えるのは、そういう「自分の内なる声の聞きかた」であって、世間の声に忖度することではない。こういう父親だからこそ、知世の価値観もまた、自主自立の色が強いのだ。
ただし、信吉は完全無欠の父親、というわけでもない。
母がいない知世をどう育てるか。どう接するべきか。そうした思いにしょっちゅう悩むし、ややもすればこっけいな親バカなところもみせる。そうした愛ゆえのこっけいさもまた、娘にとっては大切なことだ。娘のために、こっけいになれない父親など、なにか大事なものが欠けているのだから。
そして、ここは重要なポイントなのだが……端的に「イケメン」である。
このへんが、女性誌連載のマンガっぽいなー。性格がよくて、インテリで、かっこいい、そんな人間、マンガにしかいねえよ!……と、ひがんでも仕方ないのだが、あとで説明するが、じつはこのイケメン父という設定には、裏返って、けっこうシビアな意図がかくされているのだと、ぼくは考えている。後述。
さて、とにかく信吉は、若いころからとにかくモテたらしい。今っぽいイケメン(たとえば塩顔)でなく“クラシック”であると知世はよくいう。アイドルっぽいのではなく、たぶん戦後の邦画俳優的なハンサム?という感じだろうか。
ただ、根がマジメなので、モテまくるからといってカサノヴァみたいなプレイボーイになったりはしなかったようだ。とくに千草と結婚し、死別して、知世をひとりで育てるようになってからは、そういう色めいた話はほぼない。
とにかく知世にとって、信吉はあらゆる面で「男性の理想像」そのものであり、それを自覚する信吉も、意識的にそういう父親になろうとつとめるのである。
……と書くと、なんか、ありきたりなファミリーマンガっぽいなあ。
ぼくの読みでは、ちょっとちがう。
「Papa told me」は、たしかに父子家庭の話ではあるが、「家族」の物語じゃないと思うんですよね。なんというか、そういう「血」の要素は慎重に排除されているというか、血縁に基づくア・プリオリな愛情を否定はしないが、それを重要視しないというか。
知世の、信吉に対する愛情に、ぼくは「DNAの本能」みたいなものをあまり感じないのだ。
もちろん、血縁関係があるキャラクターとの話には、そういう要素も避けられない(弟の嫁姑問題とか)が、無印初期はともかく、じょじょにそういう話数は減っていくのである。
それにともない、血縁でなく、感性のつながりが重視され、知世と信吉の世界を構成するのは<自由>と<自立>を大切にする人物だけになっていく。
おそらく、次に紹介するサブキャラたちが初期と後期で変わってくるのも、「Papa told me」の世界観が、家族をめぐるものから自立した個人たちのゆるやかなつながりにシフトしていった結果だろうと思う。
この主役にして この脇役あり
描かれた時期や、掲載誌によって、サブキャラは微妙に変化する。
知世と信吉以外のレギュラーとして、とりあえず「三人」ご紹介。基準は、単話で主人公になったことが複数回あること。プラス、最新シリーズで配役があることだ。
出典:Papa told me ©榛野なな恵・集英社
まず、信吉の妹・つまり知世の叔母である「的場百合子(まとば・ゆりこ)」。
できのいい兄にコンプレックスがあったとされているが、客観的にみれば、容姿に優れ、仕事ができ、リベラルな人格を有する、オトナ女子の理想形みたいな描かれ方である。
姪である知世とは対等な友人関係を築いており、知世にとってもっとも信頼できる身近な大人の女性といえる。
大手化粧品メーカーに勤務し、チーフ(課長クラスの管理職と思われる)に昇進。部下には慕われ、かなり恵まれた職場環境である。
そんな彼女は、知世がそのままオトナになったような人物である。
同性ということもあるのか、知世のもっとも深い理解者となるシーンがしばしばある。
出典:Papa told me ©榛野なな恵・集英社
知世の、ファッションに対する典型的な価値観がしめされるシーンだが、ここでも百合子は、ややファッションにはうとい信吉にかわって知世の心情を代弁してみせる。
出典:Papa told me ©榛野なな恵・集英社
次に、信吉の担当編集である「北原ひとみ(きたはら-)」。
大手らしき出版社の「ブックエンド」という文芸誌で、編集者をしている。無印の最初期から登場しているが、作中でもっともキャラが変わった人物である。
登場初期はもっさりとした、あまり身支度に気を使わない、イモっぽい編集者であったが、みるみる洗練されて無印中盤あたりでは、おしゃれ超人にして有能なインテリ編集者化している。百合子同様、オトナ女子の最終形態みたいな、こんな女性がリアルにいたら両手で足りないくらい男から言い寄られるだろうキャラである。
最強クールメガネ女子。
ひとりで生活を楽しむことに関しては達人級。作者・榛野先生いわく「おひとりさま」的な価値観が確立していなかった時代に、そういう人物として描いたとのこと。
信吉に明確に恋心をいだいているのだが、36年連載しても手すらつないだこともなく、そもそも告白もしていない。中学生の片思いレベル。知世や信吉から、編集者としてだけでなく、ひとりの人間として家族以外でもっとも信頼をうけているのはたしかだが……合掌。
ぼくは、じつは「Papa told me」で、もっとも作品の主題を“言語化”しているキャラクターは、この北原さんだと思っている。ぼくが好きなエピソードも、どういうわけか北原さん回ばっかり。
――彼女の、ある休日の過ごし方を描く回。無印25巻ep.132「マロン マカロン」。
出典:Papa told me ©榛野なな恵・集英社
休みを利用して、ベッドのシーツを手作りする。ハサミでシーツを切る行為を「アメリカのロードムービーによく出てくる 大平原に一本まっすぐ どこまでも続いている道を」「1人で走っているみたいな気分になるわけ」というのだ。
なんという……爽快な飛躍だろう!
こういう地味なアクティビティを、心から楽しめる精神、そういう価値観。まさに「Papa told me」の主題を実践しているといえよう。
そして、そういう価値観が、ただそう思っているだけで<ふつう>への脅威となっている、というところまで見抜いてしまっている卓越した描写もぬかりなく描いているところが、このマンガの底知れないところだ。無印11巻ep.46「マイ ソリテア」。
出典:Papa told me ©榛野なな恵・集英社
さらに、北原さんのある意味で辛辣な、<ふつう>な価値観への疑いのまなこは止まらない。“幸福”と世に言われるものは「すでに完成されて 社会に認められた 価値観によりかかることのここち良さですから――」。
出典:Papa told me ©榛野なな恵・集英社
そして、ぼくが「Papa told me」全話のなかで、一位に推したい回、無印21巻ep.104「ルナ エクリプス」。
北原さんはある美しいドレスに心奪われてしまう。それはもちろん生活必需品などではないのだが、どうしても心惹かれてしまう。なぜ、そういう欲求が生まれてしまうのか、彼女は自問する。
「誰のためでもなく 誰に見せるわけでもなく ただ自分が そうありたいだけの 細い肩と薄い胸が欲しい」「月の光をまとうに ふさわしいような――」。そうありたい自分というワードは、そこに理由などない、という補足の前に、究極の純粋さをしめしている。
知世が、信吉が、すなわち「Papa told me」が、是とする価値観の、もっとも洗練された地点までいきついたものがここにはある、とぼくは思う。
出典:Papa told me ©榛野なな恵・集英社
三人目は、信吉と同じ作家(ただし書くものは、はるかに軽薄なものばかり)である「宇佐美淳(うさみ・じゅん)」。
書くもの同様、軽薄なイケメンとして描かれているが、じつはかなりの好人物。
他者へのするどい洞察力を有し、他人を不愉快にさせるようなことは決してしない。まちがいなく高い知性を有しているのだが、それは書くものには決して活かされないのが玉にキズ。
知世にかなり“雑”な扱われ方をされており、「うさみん」と呼ばれている。本人は、そういう扱われ方がちょっと快感になっているフシがある。
浮気した父に刃傷沙汰を母親がおこしたトラウマから、深層心理に女性への不信感があるらしい。
だが、生来の性格からか、あまりそこに囚われず、遊び相手としての女性をひろく好む。年配の老婦人をエスコートして楽しいひとときを過ごしてもらう、みたいな役回りも嫌がらずむしろよろこんで引き受けるほどだ。
とにかく言動が軽いが、プロの物書きとしてコトバをたくみに操り女性を称賛する。あるオペラ歌手がストリートで一曲歌った場に居合わせたときなど、すらすらと歯の浮くセリフを並べ立てたり。「この広場が サンタンジェロ城に見えました」には爆笑しかない。
出典:Papa told me ©榛野なな恵・集英社
それでもさすが、と思うのは「重さも 厚みも無く 手にとることも出来ないが故に~」以下の文言。こんなセリフ、アドリブで言えるヤツがいたら見てみたいわ!
……というわけで、以上がレギュラークラスの三人。
Papa told me時空のその他の人々
これ以外にも、繰り返し登場するサブキャラはいる。みな、知世が認めるだけのことはあって、だれもが人間的に自分なりの価値観を大切にしている人物ばかりである。列挙だけしておくと……
無印初期のころだけ登場していた的場家のスーパー家政婦「小川さん」。
舞台となる街の“元区長”である初老の紳士「唐沢」氏。
初期には知世の親友的ポジションであったおじょーさま小学生「辻野幸子」。
知世の通う小学校のクールイケメン上級生(六年生)にして、知世にほのかな恋心をいだいているらしい「乾鷹彦」。
知世のご近所さんで売れない長髪ミュージシャンの「まさおちゃん」。
銀座の伝説的ホステスであったが、のちに独立して花屋をはじめる絶世の美女「月子さん」。
そしてこのマンガのトリックスター的存在である、喫茶店アリスカフェを切り盛りしている謎めいた双子の姉妹・「詩子&奏子」。
……といったあたりである。
このキャラたちは、単独の主役回がしばしばあったりもする。
だが、ただ残念なことに、掲載誌が変わり、作品のテーマもごくわずかではあるが変化していった結果、これらのキャラたちは登場頻度ががっくり減っている。最新シリーズのCocohanaバージョン版でも出てくるのは、アリスカフェの姉妹と元区長さんくらい。
ただ、「Papa told me」というマンガは、いわゆる群像劇とはちょっとちがう。登場人物は多いし、それぞれのキャラにも物語があるが、キャラ同士の関係性は不動に近い。
キャラ同士の付き合いが長くなったから、たとえば恋愛感情が生まれたり、以前の会話や事件があとの話数の行動に影響をあたえる、といったようなことはない。
人間関係に変化がない=人間として成長しない、というわけではないが、ハッキリいって、このマンガにおいて「成長」はまったく重要なキーワードでない。ドラえもんやサザエさんと、ある意味ではおなじだ。
ここは「Papa told me時空」なのだ。
「Papa told me」の場合、キャラクターたちの人間としての基本的な「輪郭」は、最初期から完成している。このことは、作者・榛野先生もインタビューで明言している(Cocohanaバージョン11巻・巻末インタビュー)。
小学生の知世ですら、進みすぎといわれるほどに大人びて、安定している。信吉はもちろん大賢者クラスだし、百合子や北原さん、うさみんにいたるまで、登場した段階で安定し、完成した人格を有している。つまり、かれらの「成長」は問題にされていないわけだ。
だが、かれらはみな、悩みはする。
おそらく、このマンガのポイントは「何に悩むか」という、その<対象>であって、その悩みの解決法・答えは、比較的すんなり、どの悩みについても出るのだ。ただし、だからこそ、その<対象>のピックアップは、おそるべき鋭さ・意外性をしめす。
「まさか、そんなところを問題として認識してしまうのか」というような、驚異的な視点の変換をするのである。いいかえれば<ふつう>を徹底的に疑う視点、とでも言おうか。
ふつう、というのは実はおそろしいものなのかもしれない。ふつうを標榜するものが、もっとも強く、そうでないものを抑圧し迫害するのだから。
セピア色の街
マンガの舞台は、東京のどこかの街(赤坂見附乗り換えで、千代田区に行ける距離感らしい。ep.21「スーパースランプ」より)で、実在しない。物語の都合にあわせて創造された架空の街だ。
だが、イメージされている街やエリアはあるように思う。おそらくは西東京の、複数のおしゃれタウン・高級住宅地をモデルにしている。麻布十番、田園調布、自由が丘、成城、下北沢、つまり港区・目黒区・世田谷区あたり。
文教都市で、緑がおおく、広い公園があって、商業的な賑やかさはひかえめ。
ひとことでいえば「アーバン(urban 都会的)」。
こうした舞台設定は無論、物語の基調そのものを示している。
「Papa told me」というマンガは、ぼくのはっきりしたイメージでいえば「声のおおきい、うるさいやつは読んではいけない」マンガだが、それは舞台となる街、登場する人々などのすべてにわたって、徹底されている。
無印7巻、このマンガにしてはめずらしく“長編”と銘打たれた話数であるep.32「アーバンキャッツ」の冒頭には、街の地図が載っている。
出典:Papa told me ©榛野なな恵・集英社
このマンガで榛野先生がイメージするのは、ややヨーロッパ的な古い街並み(日本ではもちろんありえない!)だ。コミックスの装丁が基本的にセピア調に統一されているのも、そのイメージの一環なのは明白だ。
ほぼイメージどおり。こういうのは、好きなひとは好きだし、イメージを限定されることを嫌がるひともいるだろうが、個人的には超好き。
で、そういう好みの話はさておき、この地図が奇しくも示しているのは、「Papa told me」の描く「範囲」を、しかもそれは物理的な意味でなく、精神的な意味で規定している、ということだ。もちろんそれは、視野が狭いとか、そういうことではない。
ぼくは「選択」がなされたのだ、と解釈する。
なにを描き、なにを描かないか、という選択があり、その基準には作者であるマンガ家の価値観が影響する。あらゆる創作は、創り手の価値観に、読み手が反応することによる、相互作用の産物だ。
舞台設定も、もちろん登場人物たちも、ある意図のもとに「選択」されている……
Papa told meが描かないもの
このマンガは、知世や信吉、周辺の人々、そして舞台設定にいたるまで、ひとことでいえば、選びぬかれた“ファンタジー”である。
どこまでも静謐で、洗練され、暴力的な争いごとはなく、平和だ。
思うに、性と暴力を描かない話は、すべからく、リアルのもっとも重要な側面を切り捨てたフィクションだ、といってもいい。この意味で「Papa told me」は、徹底的なフィクションである。
こうした、非現実的な設定やキャラクターたちは、ぼくに言わせれば、描かれない「汚物の不在」をむしろ際立たせる。
たとえば、信吉はありえないくらいの完璧な父/男性だ。知性とリベラルな思想をかねそなえた、人間として高度に完成された人物だ。そのうえ容姿に秀でているとなると、読み手によっては、その非現実性に“シラケ”てしまうかもしれない。
だが、ぼくの考えはちょっとちがう。
この「Papa told me」からは、暴力も、性も、きたないものも、どぎついリアルも、徹底して排除されている。それは、物語の基調に反するからであって、当然の配慮だろう。
だが、それはぬるま湯のような、甘いざれごとなどでは決してない。
むしろ、ぼくの印象ではこのマンガは、とても「頑固」な作品だ。
いいかえれば、あらゆる“正しさ”に/自由を損なう同調圧力に/親切の皮をかぶったお節介に「よけいなお世話よ!」と、蹴りをくらわすマンガなのだ。……そ、そんな、スパルタンでコワモテなマンガなのか(笑)と思われるかもだが、ぼくの答えはイエス、だ。
なんたって36年前、このマンガが始まったときから、それはハッキリ描かれている。
第一話にこんなシーンがある。
出典:Papa told me ©榛野なな恵・集英社
これはもう、「宣戦布告」だとすらいえる。
初期から多少の変化はあるとはいえ、大筋で「Papa told me」は、さまざまな世間様の「決めつけ」に、誰がみてもわかるくらい、はっきりケンカを売っているのだ。
このマンガのファンタジーな外見は(たとえばかっこよすぎる父親は)、ケンカを売るための呼び水みたいなものなんじゃないか。ぼくは、このなごやかな物語をなんの違和感もなく読むことなど到底できない。
このマンガはいたるところに、そう見せている外見のうらに、「そうでない」という可能性に配慮する、いわば“デリカシー”を持ってね、というメッセージをひそませているような、そんなふうに思うのだ。
おわりに
「Papa told me」は、イケてる父親へのファザコンが描かれているが、べつにイケてなくてもファザコンではありうる。とにかく娘にとっての父親とは、なんというか「錨」みたいなもので、自分の価値観の土台にある、なにかおのれの基礎のようなものなのかもしれない。
ちなみにマザコンってのは、ダメ息子の甘えでしかないのでアカンですわ。……なんか、この話題はぼくには痛すぎるから、もうやめることにする。
ただ、コドモにとっての親というのは、ひとにとって、自分がこの世に、無から湧き出たのではなく、ちゃんと「みなもと」から出現したのだということを常に教えてくれる、そうした存在なのだと思う。
ただ、それでも、ひとがその究極的なところでは生きねばならない「孤独」というのはあるだろう。
だがそれは、決しておそろしいものではないことを、あなたひとりにだけ届くような、おだやかで静かな音量で教えてくれる、「Papa told me」はそんな物語である。