「病気に負けたんじゃない 俺の寿命を生ききったということだ そのときが来るまで 俺はいつも通りに普通に生きて 自分の人生を、命をしっかり生ききるよ」
2021年6月30日に70歳で亡くなられた、日ハム等で活躍した元プロ野球選手・監督・野球解説者であった大島康徳さんが、最後のブログに綴ったコトバだ(正確には奥方の代筆で、このコトバも以前に記されたとのことだ)。鴎党のぼくにとって、なじみの薄い選手ではあったが、このコトバを読んだとき、正直、頭を殴られたような気がした。
重くはない。だが軽さなどない。ぼくがよほど読み間違っていないのであれば、このコトバは、「生きる」ことについてのひとつの答えだと思う。このコトバを読んだとき、ぼくは、まあ間違いなく勝手な思い込みなのだが、ちょっと運命を感じた。
ぼくは、大島さんの死の前日に、今回のコラムを「風の谷のナウシカ」(著・宮崎駿 以下「ナウシカ」)でいくと決め、書き始めたところだった。
出典:風の谷のナウシカ ©宮崎駿・徳間書店
「生きねば ……… ………」
これは、完結に12年かかった「ナウシカ」最終巻、最後のコマに書かれた、むすびのセリフだ。「ナウシカ」はさまざまな読みが可能なマンガだが、どんな読みをするにせよ、この最後のセリフの意味を考えなければ、読み終わったことにならない。すべての創作は、どこから読み始めても、どこで読み終えてもいい、と認めたうえで、やはりそうである。これはナウシカのこの時点での結論であると共に、「ナウシカ」という物語をどうにか終える決心がついた作者・宮崎駿が悩みに悩んだ末に、最後の最後で「ぎりぎり選び取った」コトバだといえる。
ナウシカのこのセリフを考えるということは、とても難しい。なぜなら、ただちに「生きるとはなんぞや?」という究極の問いにつながってしまうからだ。これは普通なら、ノータイムで降参である。どう答えたって「アウトー!」である。
だが、ぼくはラッキーだった。なぜならその答えは、大島さんが、じゅうぶん答えてくれたからだ。このコトバで、じゅうぶん答えになっていると思う。そもそも、「生きる」とはなんぞや、なんて問いに、ぼくごとき若造が二週間やそこらで、どんなに悩んだところで、答えなど出る訳がない。一年二年考えたって、無理だ。それなら、七〇年生きた人のコトバを借りるほうがいい。
だから、もう安心だ。いちいちナウシカの主題は云々、この物語に宮崎駿が込めたメッセージは云々、などと悩む必要はすでにない。宮崎駿が、壮大なドラマを描ききったその結論として、何もなくとも「生きねば……」と主人公にいわせたのは、端的にいえば、「大島さんのように生きろ」ということだ。これ以上、何が必要だろう?
いやー、肩の荷が下りました。よかった。ありがとう、みなさん、ありがとう!……
……と、これで終わってもいいくらいだが、よく見たら、ぜんぜん「ナウシカ」そのものについて紹介してないじゃないか!これではいけないので、仕切り直します。
まずは「ナウシカ」がどういうマンガか、一応ご紹介しておこうと思う。とはいっても、ジブリ映画を見ていなければ非国民扱いされかねない日本において、映画「風の谷のナウシカ」を見ていない人など、見つけるほうが難しいだろう(「ナウシカ」はトップクラフト制作で厳密にはジブリ映画じゃない、とかいっちゃう人は、ちょっと病んでるかもです)。それくらいのメジャー作品だから、ストーリーや設定について、あらためて紹介する必要はないのかもしれないけれど、映画ではなくマンガの「ナウシカ」をおすすめする以上、特に映画しか見たことのない人に、この同じ設定で描かれたふたつの作品の違いについては、ぼくなりにお伝えしたいと思う。
さて、マンガ「ナウシカ」は全七巻。映画版はこのうちの一~二巻(P80まで)の内容を描いたものだ。つまりマンガは映画の原作にあたる。アニメ誌「アニメージュ」の看板コンテンツとして、1982年から連載を開始し、途中四度の休載を挟んで、1994年に完結した。アニメージュの投票コーナー「キャラクターベスト10」では、情報操作を疑われるレベルでナウシカが一位を独占し続けていた時代がある(企画開始から4年間ずっと一位!)くらい雑誌の顔であった。
舞台は、巨大産業文明が「火の七日間」と呼ばれる戦争で滅んでから千年後の世界。大地は汚染され、「腐海」と呼ばれる、有毒の瘴気を発する巨大な菌類の森に覆われつつあった。腐海は防毒マスクをつけなければ五分で肺が腐る死の森であり、徐々に拡大して人類の生活圏を呑みこんでおり、人類は滅亡の淵へと追いつめられていた。物語は、この「腐海」の浸食に対して、人類がどう向き合っていくのかを描いていく。
主人公ナウシカは、海からの風で腐海の毒からわずかに守られている、辺境の小国「風の谷」の族長の娘だ。ナウシカは優れた風使いであり、一人乗りの凧メーヴェを操って腐海に足しげく通い、蟲と交流する、この世界でもいっぷう変わったキャラクターとして描かれている。
ある日、風の谷に隣国ペジテの商船が墜落した。墜落した船から救い出したペジテの王族の姫から、ナウシカは不思議な秘石をされる。秘石は「火の七日間」で世界を焼き尽くした「巨神兵」を甦らせる鍵であった。ペジテは偶然にも坑道の深部で巨神兵を発掘してしまったため、その力を欲する大国「トルメキア王国」に攻め滅ぼされたのであった。軍を率いるトルメキア皇女クシャナは秘石を追って風の谷を急襲するが、ナウシカの剣の師である辺境一の剣士ユパ・ミラルダの仲裁で、なんとか戦は回避される。そしてその翌日、トルメキアと、この世界のもうひとつの大国である「土鬼(ドルク)諸侯国」のあいだに、腐海におかされていない土地をめぐって、のちにトルメキア戦役と呼ばれる大戦が勃発した。
クシャナは王族間の権力闘争のために、少ない兵力しか与えられないままで、主戦線から遠く離れた辺境に追いやられていたが、虎視眈々と巻き返しの機会をうかがっていた。谷を離れたクシャナ軍は、辺境諸国の兵を徴兵しながら主戦線を目指すが、途中、滅ぼされたペジテ市の遺子アスベルに奇襲を受ける。奇襲は失敗し、アスベルは腐海に落ちるが、ナウシカがそれを助ける。しかし、ふたりがなんとか腐海を脱出しようとしたとき、彼らは土鬼の軍に出くわし、囚われてしまう。
実はクシャナ軍の動きは、土鬼に通じたクシャナの政敵によって敵に筒抜けであった。土鬼軍はトルメキア軍をせん滅すべく、軍が集結している宿営地を「王蟲」の群れで襲わせるという、なりふりかまわない手段に出る。しかしこの罠は、土鬼軍を脱出したナウシカの決死の働きで空振りに終わる。
そしてナウシカは、トルメキアと辺境諸国が結んだ古い盟約に基づき、クシャナ指揮下のトルメキア軍に従軍し、戦場に向かうこととなる。
……要約が難しい!ここまででまだ、コミックス二巻である。映画版だと、このナウシカ従軍前までを扱っているので、ここでいったん切る。
さて、映画とマンガでは、ここまでにいたる過程がまったく異なる。映画だと、王蟲の群れを操ったのは、滅ぼされたペジテ市の残党だ。彼らは復讐のために、やむを得す王蟲を暴走させ、風の谷ごと、敵であるトルメキア軍を葬り去ろうとしたのだった。
それを止めたのがナウシカである点までは同じ。ただし映画では、ナウシカは命をかけて王蟲を止め、瀕死の重傷を負う(というより、見た感じ、一回死んじゃってるとしか思えない)。だが、王蟲の力で蘇生する。王蟲は、自然界の大いなる意思を代弁する特別な生物であり、ナウシカの蘇生は、自然と人類の絆の「結びなおし」を暗喩するものであった。腐海は、汚染された世界を浄化するために、自然そのものが生み出したメカニズムであり、物語は残された人類と腐海との共生を力強く選び取って、終わる。
……と書くと、きれいに収まった感じがするが、宮崎駿本人が映画版の結末におおいに不満があったのは、よく知られた話だ。まあ、二時間くらいで話を終わらせないといけない訳で、いろいろと端折ってしまうのは、ぼくはやむを得ないものだと思う。映画版はじゅうぶん優れた物語だし、これはこれ、それはそれ、でいいんじゃないでしょうかね。
むしろ、映画版を無理やり終わらせざるを得なかったからこそ、マンガ版の、執拗ともいえるくらいの「問い返し」が可能になったような気がする。叩く相手がはっきりしていたほうが、ケンカはやりやすい、という訳だ。
宮崎駿は、大いなる自然「様」が、人間の愚かしさを、万能の力で解決してくれる、というとらえ方ではダメだ、と思ったのだろう(彼はこのことを「宗教になってしまった」という言い方で自己批判している)。自然の偉大さを、ただ崇めたてまつるだけでは、救世主願望となんら変わらない。そうした、どこかに問題を解決してくれるだれかが現れて、自分達のかわりに面倒事を引き受けてくれる、という姿勢が、極端なことをいえば、たとえばヒトラーを生み、ナチスを生み、ホロコーストの悲劇にいたってしまったのではなかったか。そうした歴史を振り返れば、我々は、自らがまねいてしまった危機に対して、いちばんめんどくさくて遠まわりでも、自分達の力で解決する道を、覚悟を決めて選び取るべきではないのか――
つまりここが、マンガ版と映画版の、決定的な違いである。
なお、ぼくはこの結論の出し方そのものについては、正直、どっちでもいい、と思っている(なぜなら「ナウシカ」で重要なのは、結論ではないから。後述)。もう、どうにもならなくなったら、人は神だろうが悪魔だろうが、何にだってすがるだろう。その弱さを、ぼくは否定できない。物語は、弱さからだって生まれるのだし。
ただ、宮崎駿自身としては、映画版の短絡的なラストがどうしても納得いかなかった訳で、映画公開後も右往左往しながら「ナウシカ」を描き続け、「生きねば」に辿りつくまでがんばれたのは、本人にとっては満足であろう。生きているあいだに、作品を終わらせられない無念さだけは、味わわずにすんだのだから(「ベルセルク」の三浦建太郎先生のことを考えずにはいられませんね)。
出典:風の谷のナウシカ ©宮崎駿・徳間書店
さて、気を取り直して、ふたたび、マンガのあらすじをたどってみよう。
……土鬼軍が王蟲の群れを操った手法、そして王蟲との心話から、何か土鬼がおそろしい禁忌を破ろうとしている、とナウシカは直感する。それが「大海嘯」すなわち腐海が突如湧き上がり、津波のようにおしよせるという未曽有の災厄をまねいてしまうことを、ナウシカは危惧していた。
いっぽう、腐海の謎を解かんとするユパは、単騎南へ向かっていた。その途中、クシャナ軍を王蟲に襲わせた土鬼の軍を見つけ、船に潜入する。船は「蟲使い」の村に立ち寄るが、ここでユパは信じられないものを見てしまう。王蟲が培養されていたのだ。
だが、すぐに潜入が露呈し、ユパは追いつめられる。この窮地を救ったのは、ナウシカを脱出させる際に身代わりに囚われていたアスベルと、生命を弄ぶがごとき王蟲の培養に反対していたマニ族の長老であった。
そのとき、ある思惑を持ってこの地に赴いていた超常の力を持つ土鬼の「皇弟」ミラルパが現れ、彼らの脱出を阻もうとする。しかし、マニ族の長老が、その命を賭して皇弟をしりぞけ、ユパとアスベル、それにマニ族の少女ケチャの三人は、船を奪ってその場からの逃走には成功する。
ところが船は追手に撃墜され、ユパ達は腐海に落ちてしまう。土鬼は蟲使いをはなち、ユパ達を捕らえようとするが、そこへ「森の人」が現れ、ユパ達を保護する。森の人は、蟲使いの祖といわれ、腐海の奥深くに住み、腐海の謎に通じる謎めいた一族であった。森の人の助けで、ユパ達は一時、腐海の中で療養することになる。
そのころクシャナ軍は南の戦線、土鬼の地へ向けて南下をつづけていた。さまざまな戦場で、ナウシカは悲惨な戦争の現実を目の当たりにする。
クシャナは彼女から取り上げられた子飼いの精兵である第三軍との合流を目指していた。そしてついに戦線で孤立した友軍を発見すると、無能な将軍をおしのけ、クシャナはたちまち軍を掌握する。さらにたくみな采配で大勝をおさめ、第三軍を救出する。だがナウシカは戦の無益さに見切りをつけ、南で起ころうとしている変事を探るべく、ここで軍を離れ、単独南を目指す。
途中、オアシスを見つけ立ち寄る。そこには異教の僧が隠れ住んでおり、即身仏となりかけている僧正とその弟子チククに出会う。土鬼の秘儀に通じる僧正は、土鬼の神聖皇帝が聖地「シュワの墓所」の封印を解き、禁忌の技を復活させようとしていることを告げる。そのとき、トルメキア軍をせん滅すべく、まさにその禁忌の技で作りだされた人工の腐海をまきちらす船が、折悪しくこのオアシスにも迫った。ナウシカはこときれた僧正を残し、チククを連れてオアシスを離脱する。
船は、不自然な瘴気をまきちらしながら暴走をつづけており、ナウシカはこれが大海嘯の引き金であると察知、ただちに船を止めようとこころみる。
船には皇弟ミラルパが乗っており、ナウシカの接近に気付くと、超常の力で彼女を殺そうとする。しかしナウシカはこれに打ち勝ち、傷ついたミラルパは逃げ出す。
そのとき、人工の腐海を生み出していた菌が船内で突然変異し、粘菌となって、爆発的に増殖をはじめた。ナウシカは土鬼の僧チヤルカに手を貸して、船もろともこの粘菌を滅し去ろうとするが、失敗。落下した粘菌は、おそるべき速度で大地を呑みこみながら広がり始めた。ナウシカは、チヤルカと共に、粘菌が国土を滅ぼしてしまうのを止めるため、協力することになる。
……ここまでで四巻終わり。あと残り三巻もあるのに、なんつか、もうこれがクライマックスでよくね?くらいの重大な危機になっている。
ぼくは個人的に、この四巻あたりがいちばん好きだ。特に、宮崎駿が描く戦場は、とてもおもしろい。動かしてナンボのアニメーション監督である宮崎駿が、動くものしかないような戦場という場を、どう静止画のマンガにするか。たとえば、弾着に合わせて騎兵を走らせ、それを隠れ蓑に敵陣に一気に肉薄し、砲台群をほぼ全滅させる一連の流れは、なめらかで疾走感ある描写がやはりすばらしい。やっぱりアニメで「絵コンテ」を切る人間がマンガを作ると、「コマ割り」がいちいち“演出的”というか、マンガプロパーの作家とはまったく異なる論理が働いていることが、よくわかる。映画「ナウシカ」は、絵コンテ集が出版されていて、ぼくなどは小学生時代の愛読書ベスト10に入るくらい読み込んだものだが、宮崎駿がこのシーンでは何を考え、何を狙っていたのかが、つぶさに見てとれるこの絵コンテ集を思い出しながらマンガを読むと、やっぱり同じ人が描いたんだなあ、と思う。
出典:風の谷のナウシカ ©宮崎駿・徳間書店
では、いよいよ最終巻までラストスパート。ただ、ぜんぶ書くと初めて読むのかたに悪いので、超高速ダイジェストまとめで、かつ最後は伏せておきます。
……拡大する粘菌を追いながら、ナウシカとチヤルカは人民を避難させていく。その途中、ナウシカは、散らばった粘菌が合流しようとする地へ、膨大な王蟲の大群が向かっているのに遭遇。王蟲は粘菌を“助けに”いくのだ、とナウシカは理解し、それに寄り添うことを決意する。王蟲の力で粘菌はおさまり、大海嘯は未然に防がれるのだった。
しかし、王蟲との深い精神的な融合で、ナウシカは精神を失ってしまう。だが森の人セルムの助力で復活する。粘菌を食い止めたものの、その原因となった僧会のチヤルカは、見せしめに処刑されようとしており、ナウシカはそれを救出する。
そのころユパ一行も、クシャナと合流し、何かが起きようとしている土鬼の地にさらに潜入していく。が、復活した土鬼の神聖皇帝ナムリスがクシャナを捕える。
ナムリスは巨神兵を復活させ、トルメキアを滅ぼし、土鬼の民を移住させようとしており、クシャナと婚姻して関係を強固にしようとしていた。
だが、ナウシカがそれを止めようと、ナムリスと一騎打ちする。そのとき、アスベルに託された秘石の力で、巨神兵がナウシカを「母」だと認識し、ナウシカを助ける。
すべての元凶が、土鬼の聖地・シュワの墓所にあると悟ったナウシカは、シュワを目指し、そこですべてを根底から解決することを決意する。
その途中、ナウシカは巨神兵に「オーマ」という名を授ける。するとそれまで幼児のようだったオーマは、一気に知性が上昇し、自らを「調停者」と名乗りだす。オーマと共にシュワを目指すナウシカだが、クシャナの兄弟、そして父であるヴ王までもがシュワの秘儀を我が物にせんと集結してくる。
そして、ついにすべての役者が、シュワの墓所に集結した。
……あらすじ、ここまで。ここから先は、マンガを是非ご覧ください。
そして、いろいろあって、「生きねば」で物語は終わる。
「トルメキアは王をもたぬ国になったという」というモノローグは、伝承や神話、歴史書などの文体作法であり、宮崎駿らしいケレン味にあふれていてすばらしい。こういうのを見るたびに、もう、今のマンガ家で、こんなモノローグが書ける人は一人もいないだろうなあ、と思う。
出典:風の谷のナウシカ ©宮崎駿・徳間書店
あらすじだけで、もうイッパイイッパイになってしまいました。
そんな中でひとつだけ、ぼくが強くこだわるところがあって、それはラストのセリフの書き方だ。
「生きねば。」でも「生きねば!」でも「生きねば……」でもなくて、「生きねば (改行)……… (改行)………」であること。「…」すなわち三点リーダは、文章の約束事として、普通は「2回」しか繰り返さないので、通常は「……」と表記するが、ここでは「3回」も繰り返している。
ジブリ映画「風立ちぬ」の宣伝広告のコピーライトが「生きねば。」で、これはナウシカのラストのセリフだ、なんていちいち騒ぐ人がいるが、某プロデューサーあたりの思うつぼなので、よしたほうがいい。こういう、思わせぶりだけど実は特に深い意味はないようなものに、あっけなく踊らされてしまう人間にだけは、なってはいけません。
話を戻すと、三点リーダの本来の役割からすれば、この3回×2行という、はっきりいえば異様な使われ方には、「どんだけ、言い切りたくないんだよ」というくらい、言い切ることへのただならぬ“ためらい”が見てとれる。
勝手な想像ではあるが、おそらく宮崎駿は、「ナウシカ」の結末・結論自体については、当初はあまり迷ってはいなかったと思う。理由は、彼の映画を見ればあきらかだ。宮崎駿は、あらゆる表現、あらゆる作品で、「(それでも)生きねば」といっているからだ。
ただ、それをどう「表現」すればいいかについては、決めかねていたのだろうと思う。だから長い休載期間があった(映画作ったりしてた)のだろうし、結果として発表された最終巻は、振幅の激しい、ありきたりな結論を幾度となく否定し続ける、そういう展開で描かれたのだろう。墓所の主とナウシカの対話では、それがピークに達しており、先手・後手・先手……と打たれる将棋の対局のように、激しいコトバの応酬が繰り広げられる。
そして、こねくりまわして、こねくりまわしきった末に、生きねば、と断言させてはみたものの、なんと最後の最後でも「生きるって、そんなに全面的にいいことなのか?」と、やっぱりためらっちゃったのだ!さすがは、俺達のパヤオ御大!アニメ監督は知的アリストクラートだ、みたいにカッコつけてる連中とモノが違うぜ!答えがどうしてもみつからないときは、「答えがみつからない」が立派な答えなのだ。
「ナウシカ」を自然と文明の対比で見たり、バイオテクノロジー批判の観点から見たり、とにかくいろいろと文明や技術の問題点を読みとろうとするひとびとがいる。そういうひとびとは、ほぼイコール、そういう問題に現実世界でも直面していて、それをなんとか解決し、「よりよき未来を作り出そう!」と健やかにがんばっているひとびとだったりする訳だが、そういうハッピーなだけのひとびとへ向けた、これは痛烈な皮肉だとぼくは思う。
そういうひとびとが期待している、底抜けに明るい未来、夢と希望を持って生きれば人生はすばらしいんだ!的ヴィジョンに対する、最高のカウンターアタックじゃないか。
そう、光しかない人生なんか絶対にないんだ。光があれば、かならず影ができる、それが本質だ。宮崎駿は、もちろん、はっきりとそう描いている。
出典:風の谷のナウシカ ©宮崎駿・徳間書店
「いのちは、闇の中のまたたく光だ」とナウシカに喝破させた宮崎駿は、このコトバに辿りつくまで、えらく悩んだろうなあ、と思う。これはすんなり出てくるような、簡単なコトバじゃないからだ。ただ、このコトバの前後の、墓所の主との対決シーンで語られるすべてのコトバは、もはや、単独の「詩」もしくは「思想的な叙述」であって、たぶんマンガ表現ではない。絵はおまけで描いてあるだけだ。宮崎駿はきっと、コトバで、コトバを必死に考えたのだ、ぼくはそう思わずにはいられない。このあたりの宮崎駿は、是非はともかく、たぶんマンガ家ではない。
宮崎駿は、どこをどう見ても、「絵」の表現者であるというのに!
ぶっちゃけると、だからこそ、ぼくは、この最終巻をはっきりいって実はあんまり評価しない。思想のコトバに囚われた宮崎駿になど、興味はないからだ。彼は、一〇〇年に一人の表現者であって、思想家や教祖では断じてない。こんなに“わかりやすく”しなくてよかったんだ。描いてあること自体には、ほぼ異論がないし、理解できないところもまったくない。だが、表現のしかたが気に入らない。「意味を描こう」となんて、しちゃいけなかった。そんな似合わないことなんか、やめちまえばよかったんだ。ゴチャゴチャ周りがうるさかったせいだろうなあ。
ここで宮崎駿が辿りついた思想・結論そのものは、コトバ通りに受け取るならば、現代ではごく平凡なものだと、ぼくは思う。平凡がいいすぎなら、否定しようのない絶対「安牌」な結論だ、といってもいい。光と闇の不可分性は、アジア圏に生きる我々には、なじみの深い概念にすぎない。太陰大極図でも見れば一目瞭然だ。あるいは、さまざまな評者が、たとえば後半やたらと「虚無」が出てくることから、ニーチェとニヒリズムに関連づけて「ナウシカ」を読み解こうとするのを見たことがある。その分析自体にはそんなに異論はなかった。ただ、ぼくはこういう文章を読むたびに、書いたやつに聞いてみたいのだが、ほんとに、ほんっとーーーに、そこがあなたにとって、この「ナウシカ」の大事な読みどころなんですか、と。
つまりぼくは、「ナウシカ」という作品を、この「結論」そのものが唯一無二だからおすすめしたい、とは思わない。そこじゃないんだ。
「ナウシカ」は超スゴイ(語彙!)マンガだと思うが、つまるところ、人がいやおうなく生きねばならないという、そのだれもが背負わざるを得ない宿業に、特別新しい光を当ててくれるようなマンガではない、と思う。もちろん、ナウシカの辿りついた「生きねば」の境地に、ぼくは全面的に同意するし、その姿勢についても同意する。苦難と挫折を必死に乗り越え、生き汚くとも生きろ、ただひたすら生きろ、そうする価値が人生にはある、とぼくも思う。でも、いってしまえばそれは、ナウシカに大仰にいってもらうまでもなく、あたりまえのことなのだ(そう言い切れることは、なんと幸せなことか)。
だから、「ナウシカ」の超スゴイ(だから語彙!)ところは、結論そのものではない、とぼくは思う。
ぼくの考えでは、こうだ。
すなわち、「ナウシカ」が現代人のバイブルといってもいいくらいの、画期的な表現に成功しているのは、この大長編を最初から最後までずっと貫いている、その生きねばならない「いのち」というのは、“そもそもなんなんだ?”ということだ。
端的にいって、「ナウシカ」で描かれる「いのち」は、非常に奇怪な見た目であることがおおい。腐海の樹々や蟲達がその筆頭だ。虚無や巨神兵も含めていいだろう。はっきりいって気持ち悪いが、しかし、生命のもつ、絶妙・繊細なロジックで、その気持ち悪さにも、はっきりと「そうである理由」があることを感じさせる、そんな描かれ方だ。
とにかく、宮崎駿のもうほとんど「神業」といっていい、おそるべき描写力で、すべてのコマにおいて描かれている腐海の生態系は、あまりに異様でありすぎた。であるがために、さまざまな解釈をされることになったが、ぼくの考えでは、腐海は何かの「比喩」ではない。
じゃあ何なんだ、といえば、腐海の本質はズバリ「人間の不在」だ。ここまで、人が生きることをまったく想定していない設定の空間など、マンガ・小説・映画問わず、めったにあるものではない。繰り返すが、比喩ではない。人間の不在「そのもの」だといっている。
たいてい、いや、極論すれば、すべての物語は「にんげん」を描くものだ。おおくの論者達が「ナウシカ」について語るときも、この物語に登場するキャラクターもしくは作者の、思想や生き方についての話をするだろう。たとえば「ナウシカの最終結論の是非について」とか、「シュワの墓所の主と対決時のナウシカは、ほとんど神のような無謬装置だった。その境地にいたった変化は、いつ・なぜ・どのようにおこったのか」とか、「その変化は、長期連載における、宮崎駿という人間の変化そのものなのではないか」とか……こんなふうに。どこまでもどこまでも、「にんげん」の話になってしまう。それは、我々が「にんげん」である以上、避けられないことだ。
もし「ナウシカ」の担当編集がいるなら、「そろそろアスベルとラブラブにしときますか」とか「クシャナ様のツンデレ描写足しときましょう」とか「ポンコツクシャナ様は至高ですから」とか「クロトワの何もなかった一日、みたいな日常話を挟んどきましょう」とか、「にんげん」を、つまりキャラクターを掘り下げたかったことだろう。
でもぼくは、「ナウシカ」の価値は、そういうところにはないのだと思っている。
「にんげん」の話が重要なのは、当然ながら、人間のあいだでだけ、だ。いっぽう、世界にとって、人間は、何か特別な存在という訳ではない。石や木や空気と、なんら変わらない。「ナウシカ」の提示するヴィジョンが空恐ろしいのは、そういう意味において、人は世界の支配者でも何でもない、ということを、腐海の圧倒的な描写によって示してしまったことにある。
世界があり続けるために、人間の有無は、はっきりいって、どうでもいいことなのだ。いてもいなくてもいいのだ。いないほうがいいとはいわないが、そもそも世界にとって、人間とはパーツのいとつなのだ。これは卑下していうのではない、単なる存在論的平等、というやつにすぎない。
腐海は、人間の世界と「対立」してなどいない。別の次元・別の価値体系・別の世界像に存在しているにすぎない。あの猛烈な菌類の森がはっきりと示しているのは、そういうことに他ならない。だから、最後に明かされる謎として、腐海は旧世界の人類が世界の浄化のために生み出したものだということが判明するが、そんなことは大した問題じゃない。映画「ナウシカ」を作ったのがトップクラフトかジブリか、などというバカげた論点で口論をするくらい、どうでもいいことだ。そのことは、ナウシカ自身が、「私達の身体が人工で作り変えられていても 私達の生命は 私達のものだ 生命は生命の力で生きている」と述べているように、出自が問題ではない。それが自然発生的なものでなく、人工の森であった、という程度の真相は、腐海の圧巻のヴィジョンを少しも揺るがすものではない。
そもそも、ぼくは、この腐海の誕生秘話は、単なる「つじつま合わせ」だと、はっきり思っている。宮崎駿は、12年かけてやっと、腐海の生まれた理由に、いい感じにはまる理屈を見つけたにすぎない。もちろん、なかなかうまく理屈をつけたものだ、とは思う。主題と矛盾しない、それどころか、きちんと映画版の短絡的な結論を乗り越え、宮崎駿がなんとか自分を納得させられる程度には、ロジックが通っている。
でも、腐海は、単なる生物学的環境修復システム(バイオレメディエーションというらしい)というだけのものではない。
もしそれだけでいいなら、なぜ、あのようなまでに異様な風景にしなければならなかったのだ?ここに、宮崎駿の、比類なきイマジネーションが炸裂したからこそ、あのヴィジュアルになったのではないのか?つまり、理屈だけでは、腐海を説明できない。
コトバで考えたりする前に、ぼくは、まずは腐海の「絵」を虚心に見てほしい、と思う。
その圧倒的ヴィジョンこそが、「ナウシカ」のほとんどすべてだと、極論ぼくはそう思っている。
二十一世紀を「脱・人間中心主義」の時代だ、などという人もいる。我々は、いっとき、まるで世界の征服者のようにふるまっていた訳だが、気がつけば、その世界を汚し、あるいは自らの種を絶滅できるような兵器を作り出してしまったりして、けっこうヤバい。しかもさらに愚かしいことに、“サスティナブル”つまり「持続可能性」などというコトバまで引っ張り出して、なんとか人の覇権を維持しようと、涙ぐましい努力で足掻いている訳だ。
だが、もう、我々は、人間という種だけが好き勝手しても許される地点を、越えてしまった。人間中心主義などというのは、最初から完全なるファンタジー、虚妄にすぎなかったのはあきらかだ。我々は天動説を笑い、地動説を、ガリレオを正解とみなし、中世以前の蒙昧なひとびとを嘲笑するが、我々とて、大して違わない、と知るべきだ。
我々は人間だから、もちろん、人間としてしか考えることはできない。だが、そのことをもってして、世界のありかたを、人間の目線で考えることは、あきらかに傲慢なのだ。
腐海、そして蟲達は、そうした人の傲慢さを、ぼく達にはっきりと意識させてくれる。彼らは、こちらのことなど眼中にないだろうが。
出典:風の谷のナウシカ ©宮崎駿・徳間書店
ぼくが、腐海の圧倒的なヴィジュアルに感じたのは、端的にいえば、「恐怖」だ。
それは、人間の尺度で測ることのできない、何かおそろしいものだった。その菌類の森は、人間という「種」を――完全に圧倒していた。
小学生ではじめて「ナウシカ」のマンガを読んだとき、こわくてこわくて、ちょっと世界の見え方が変わった気すらした。映画のほうを先にテレビで見ていた。そのあと行きつけの書店の隅っこのほう、大判の高額本が並ぶ、ちょっとオトナのゾーンに、ぼくがそれまで熱心に読んでいたジャンプコミックスとかとはまるで違う風情の、何か読むのに資格が必要なんじゃないかと思わせるような、そんな佇まいで「ナウシカ」はあった。ぼくはお金がなくて、ドキドキしながら、立ち読みをした。数ページで、本当に周りが見えなくなった。腐海に呑みこまれた気がして、息をしたら死ぬから、ガチに息を止めて、読んだ(今、書店業をやっていて、立ち読みを全面的に悪と言い切れないのは、こういう経験があるからだ)。恐怖と、畏怖、そしてあこがれで胸がいっぱいになった。パヤオは、とんでもないものを盗んでいきました。私の心です。
人間の世界を完全に「上書き」するかのごとき、まったく人間性を感じない、ただ異様な生命力にみちあふれた、生き生きとした森。宮崎駿のいったいどこから、こんなヴィジョンが生まれたのか、ぼくは、心の底から知りたい。宮崎駿は「ナウシカ」のインスピレーションを得たものとして、たとえばフランスの世界的コミック作家・イラストレーターの「メビウス」氏による連作コミック「アルザック(Arzach 1975~1976)」の影響を受けた、とはっきりいっている。本人がいうなら、たぶんそうなのだろう。だが、それはもはや問題ではない。腐海のヴィジュアルは、メビウスのイメージすら大きく越えて、宮崎駿しか辿りつけないところまで突き抜けてしまっているからだ。
出典:風の谷のナウシカ ©宮崎駿・徳間書店
その生きねばならない「いのち」というのは、“そもそも何なんだ?”と、もう一度問おう。その答えは、たぶんこうだ。つまり、人の尺度に収まらない腐海のようなものからすれば、「いのちを問うこと自体が、不自然だ」――と。
宮崎駿が、不世出のクリエイターであるとぼくが思うのは、このヴィジョンを、腐海を描くことで、ことのはじめから、つまり一巻第一話最初のページから、すでに示しているからだ。絵とは想像力であり、力のある絵を描けるということは、それだけの想像力がある、ということであり、スゴイ絵が描ければ、スゴイ話が作れる(可能性が高い)ということなのだ。いっては何だが、腐海のヴィジョン以外のすべては、「あとづけ」のようなものだ、とすら、ぼくは思う。
最後、墓所の主との舌戦で、さすが宮崎駿、ナウシカにこうしっかりいわせている。「その問いはこっけいだ 私達は腐海と共に生きてきたのだ 亡びは 私達のくらしのすでに一部になっている」。そう、コトバにすれば、こういうことだ。
でも、やっぱりコトバで説明するのは、パヤオじゃないよなーと思う。
ぼくは、年を取った宮崎駿が、コトバに囚われてしまった状態から解き放たれ、彼自身の望むマンガ(アニメでもいいが)で、このヴィジョンを描く日がくることを、心から願っている。
さて、あと触れておきたいことがひとつ。
突然だが、「ナウシカ」には、尖ったところが、ない。
ああ、いえいえ、若い連中によくある“尖った”ヤンチャとか、そういうポリシーの話ではないです。もっと即物的な、つまり物理的に「先が鋭く尖った」描写がない、という意味だ。
宮崎駿の絵の特徴といっていいのだろう。たとえば、ナウシカの持つ蟲の皮から削りだした長剣も、セラミック鋼の剣も、先端は「丸い」。それだけではない。そもそも、定規で引いた線がない。コマの枠線もフリーハンドだし、建物も微妙に丸みをおびたかたちをしている。素材が土や粘土であるかのようだ。コルベットやブリッグ、ガンシップ、メーヴェなど、力学的には直線や薄さが適している(現代のステルス機を見よ)航空兵器も、ぼってりとしていて、曲線でかたちづくられている。
こうしたデザインは、あきらかに、宮崎駿の“作家的実践”の産物である。
あたりまえだが、描けない、のではなく、描かない、のだ。
鋭さでなく、鈍重さ・重々しさに、リアリティや機能性・デザイン的な「おもしろみ」を感じる宮崎駿の価値観が、ぼくはとても好きだ。
宮崎駿が「ナウシカ」を、ほぼすべて「鉛筆」で描いた、というのも、よく巨匠伝説のエピソードとしていわれることだ。デジタル環境が悪い、とかでなく、単に鉛筆のほうがイメージ通り描きやすい、というだけなんだろう。いずれにしても、尖ったところがない、という絵の特徴は、鉛筆描きであることも理由のひとつだといえるだろう。
ぼくは、この鉛筆エピソードを知ったとき、ぜんぜん驚かなかった。やっぱりそうか、と思っただけだった。だって、どう見ても、ペンで描く絵じゃなかったから。
宮崎駿は、あるいは「ナウシカ」は、こういうエピソードでどんどん神格化されてしまうけれど、そういう見方はやめよう。ちゃんと「ナウシカ」を、そしてこの「鉛筆描きの絵」を、自分の目で見よう。
ぼくがこの鉛筆描きの絵から感じるのは、宮崎駿は絵を描くのが、スゴく好きなんだ――ということ。とにかくそれに尽きる。
だってあれはどう見たって普通じゃないでしょう。みなさん、どのコマでもいいです、ひとつ選んでください。そしてそれを模写してみてください。もうそれだけで、ちょっと「ナウシカ」の絵は異常だとわかるはず。こんなクォリティを、たとえ月刊だとしても連載マンガで描き続けるなんて、よっぽど好きじゃないと無理だ。
宮崎駿には、そういったものづくりへのスタンスを、最後まで貫いてほしい。もう、そういうことを、名声や欲に基づくことなくできるのは、あなたぐらいしかいないのだから。
最後に。
“ポスト宮崎駿”をなんとしても作りだそうとする、業界やマスコミの方々には、無駄なことはおやめなさい、といいたい。むしろ、宮崎駿が間違いなく「一代」で終わってしまうだろうことを、彼らだって知らないはずはないのだ(特に盟友・鈴木敏夫プロデューサーは)。庵野秀明も細田守も優れたアニメーション監督だが、どう見ても、宮崎駿の系譜に属してはいない。
焼け野原から大伽藍を築き上げた、宮崎駿(や高畑勲など)と同じことは、日本がもう一度灰燼に帰し、敗戦並みのダメージを受けでもしないかぎり、できないだろう。それは才能の有無ではなく、生まれた時代で決まることで、本人の問題ではない。もう我々は、ソクラテスのように哲学することはできないし、アリストテレスのように考えることもできないのだ。それは頭のできもあるけれど、むしろ、生きている時代の違いがそうさせるのだ、というほうが正しいだろう。
とにかく、ぼく達は、宮崎駿が死んだあとのことを、いいかげんマジメに考えないといけない、と思う。ポスト宮崎なんて、愚の骨頂、論外だ。宮崎駿は“ポスト○○”だったのか?違うだろう。それに伝統芸能じゃないんだから、三代目・宮崎駿とか冗談じゃない。二代目だってうまくいってないんだし(ぼくは死ぬまで、絶対に映画「ゲド戦記」を見ないと誓っている。ル=グウィン信者なので)。それに宮崎駿は七巻の最後で、ナウシカに託しているではないか、「出発しましょう どんなに苦しくても」と。そう、すべてを失っても、出発するしかないのだ。
この国が、ここまで衰退してもなお、宮崎駿がジブリに健在であるかぎり、ぼく達は日本に生まれてよかったと思える。だが、それももう、あと十年か二十年かすれば、終わる。そうなったとき、宮崎駿の遺産にしがみつくことしかできないのか、それとも新しい朝に向けて、血を吐きながらも飛ぶ鳥になれるのか。自戒を込めて、それはぼく達次第だ、と思う。
追記:
第一回の当コラムで、どんな状況でも、どんな相手にでも、常に自信を持って「これはおもしろい」と薦められるマンガがぼくには3つある、と書いた。一回目の「バオー来訪者」がひとつめだった。
ふたつめが今回の「風の谷のナウシカ」である。
安易にこどもに読ませたりすると、人生変わっちゃう劇薬なので、用法・用量にはくれぐれもご注意ください。