歴史をかさねるごとに、もっと過剰に、もっと過激にと、ひとは娯楽に際限なく「刺激」を求めてきた。物語だって、はじめはきっと素朴なものだったはずなのだ。なのに、もっと予想を超えたものを、もっと見たこともないものを、とかやっていたら、ちょっと「極端」なものまで生まれてきてしまった、現代はそんな状況なんだと思う。
これが正しいことかどうかはわからない。いいことなのかどうかもわからない。ただとにかく、ひとの性というのはそういうもので、なにかに驚いたとしても、すぐにそれに慣れてしまい、そして、とどまることをしらない人の欲は、この二十一世紀にいたって、とにかくいろいろと振り切れた物語や設定の娯楽をたくさん生んできた。今回は、そんな娯楽のひとつであるマンガから、ある「極端」な作品をご紹介しようと思う。
ところで、「極端」といっても、いろいろある。
よくある極端設定のひとつが、「最強」というやつだ。この「最強」の称号を求めて、ありとあらゆる物語で、戦いがくりひろげられてきた。
たとえば、ドラゴンボールも、ワンピースも、話が進むにつれて、なんか当初の目的がどっかにいっちゃったように、キャラクターたちは最強を求めて戦うようになった。ドラゴンボールって、はじめは牧歌的な、願いを叶える宝玉あつめのお話じゃありませんでしたっけ?
それがどこをどうまちがえば「私の戦闘力は53万です」なんてことになったんだろう?(ちなみにフリーザ様のこのセリフは、鳥山明先生渾身のギャグだとぼくは思います)他にもキングダムや、るろうに剣心、たぶん鬼滅の刃も、こうした最強ジャンキーマンガの系譜に属するものだといっていい。いや、それどころか、本気でピックアップしようとしたらとても上げきれるものではない。
以前ご紹介した「シンデレラグレイ」だって最強をめぐる物語だし、ファイブスター物語なんか何人最強がいるんだーって感じだし、最近のだと「怪獣8号」だってのっけから開放戦力という指標があって、フリーザ様みたく「開放戦力98%」といってるわけだ。つまり、戦ったり、競争したりするたいていの活劇においては、なにがしか「最強」への志向があるといっていい。
とにかく、最強論議はきりがない。最後にはかならずインフレに、つまり「極端」になる。特に強さを「数字」で表すようになってきたら、極端化を疑っていい。「お前の全力は100ガッツってところか……オレの場合、ノーマルで2,000、覚醒したら5,000ガッツってところだ(ドヤ顔)」と、こんなやりとりは、もうげっぷがでるくらい、マンガでよく見るやつだ。
長くマンガを読んでくると、もうそういうのはお腹いっぱい、というのが正直なところなんですよね(キライじゃないけど)。
そもそも「最強」という概念そのものが、ツッコミどころ多すぎなのだ。剣で最強と、柔道で最強、どっちが強い?とか。全長100メートルの巨人や竜を、ひとりの人間が倒してしまって(オタクが好きなやつ)、ヤツこそ最強だ、みたいになるけれど、これって非現実的なただのご都合主義で、不自然なだけですよね?そもそも、史上最強の剣聖になるより、核ミサイルのボタンを押せる一本の指のほうが、強いんじゃない?……などなど。
たぶん、そういう世間の「最強疲れ」というか「最強アレルギー」みたいな空気もあるのだろう、薄々このままじゃよろしくないと作り手も気付き、物語も少し絡め手で攻めてくることが増えたように思う。
たとえば、バスケマンガ「黒子のバスケ」では、主人公は超絶プレイヤーではなく、存在感を消すことでプレイ中にステルスできる、というトンデモ地味技で活躍する。メガヒット野球マンガ「MAJOR」も、最初の主人公は子供の頃から天才的なスーパープレイヤーだったが、その息子が主人公の「2nd」では、主人公は超平凡な選手として描かれている。こういった、かつてなら“バイプレイヤー”の属性だったものが主人公に与えられるのが現代であり、強く世相を反映した現象だと思う。
ちなみにスポーツマンガにこの傾向が強いのは、もちろんスポーツが「競う=戦う」ものだから当然であるが、にしても、おもしろい。あひるの空、DAYS、おおきく振りかぶって、なんかすべてそうだ。エースで四番、というのが、羨望の対象ではなく、いまやたんなる「幸福の不公平」の象徴でしかないのだろう。
特権的なギフトを与えられた、いかにもなヒーロー・ヒロインにリアリティがなくなり、そんなものより、乏しい才能でも、徹底的に磨き上げれば、なにかを成すことができる……という“ボトムアップ”な物語にこそ、ひとは共感を覚えるようになったといえる。こうしたいわば「反動的」なマンガが一世を風靡し、畢竟、かつて王道といわれていたような物語も数を減らしていったわけだ。
ところが、昨今、さらに事態が変化してきた……気がする。
どういうことかというと、こうした反動的なマンガにすら、ひとは、やはり飽きてしまったのだ!まあそうなりますヨネー。とにかく人類は飽きっぽいですから。
で、どうなったかというと、一周回って、もう、ど・ストレートなやつ、いいからドツキ合いしようぜ、みたいな、結局「最強を求めてオレは闘う」的な、先祖返りみたいなマンガが、また復活してきた感じがする。
たとえば異世界転生モノのタイトルに、「最強」という単語が、いったいいくつ出てくるのか、もう数えるのもめんどうなくらいだ。ただし、まがりなりにも、いちど変化球を経験してしまった今のわれわれに、かつてのような直球な王道はもう読むに堪えないから、基本設定はかなりひねってあるのが特色だろう。
さて、以上の長い長い前フリをふまえて、今回は「終末のワルキューレ」(梅村真也原作・フクイタクミ構成・アジチカ作画 コアミックス)をご紹介したい。
このマンガこそは、まさにこうした先祖返りの最先端をいく作品であり、きわめて現代的なマンガだ。
ただ、紹介する前からいうのもなんだが、はっきりいって、この「終末のワルキューレ」に、よけいな解説は不要だ、と思う。それくらい、このマンガの内容は単純で、わかりやすい。
「神と人の、タイマン勝負」。
もうこの一言だけで、ほぼ内容説明になっている。だが、いちおう、ストーリーをご紹介しておこう。
出典:終末のワルキューレ ©原作:梅村真也 構成:フクイタクミ 作画:アジチカ・コアミックス
……神々が人類を一千年ごとに評価し、次の一千年も存続してよいかどうか、その是非を問う「人類存亡会議」。今回ついに、悔い改めない人類のおろかさに業を煮やし、神々は人類の“終末”を決議する。だが、それに北欧神話の戦女神(ワルキューレ)の長姉・半神ブリュンヒルデが異議を申し立てる。
ブリュンヒルデは、人類の存続を賭けた「神VS人類最終闘争(=ラグナロク)」の開催を提案する。最初は相手にしなかった神々も、ブリュンヒルデの挑発にのせられて、最終的には「ラグナロク」に同意する。
ラグナロクのルール:神VS人類で、それぞれ13人ずつを代表として選出し、ガチンコのタイマン勝負をし、先に7勝した側の勝利となる。
こうして、古今東西の神々と、それに対して人類史のあらゆる時代・地域から選ばれた「神殺しの13人(エインヘリャル)」による闘いがはじまった。
……とりあえず、まあ、戦う理由に、いちおうこういう「エクスキューズ」があるよ、ということだ。おろかな人類なんて別に滅びていいんじゃ、と思わないでもないが、ブリュンヒルデにはなにか人類を救いたい理由があるのだろう。その理由についてはまだまったく明かされていないが、今後物語がすすむにつれて明らかになるだろう。……とマジメに書いてるが、この「終末のワルキューレ」というマンガにおいては、このへんの闘う理由とか、はっきりいってどうでもいい。すべての背景設定は、人類史上の英雄と、神話上の神々による、リアリズムの見地からは絶対にありえない組み合わせによるガチンコバトルを描くための、単なる刺身のツマだからだ。
出典:終末のワルキューレ ©原作:梅村真也 構成:フクイタクミ 作画:アジチカ・コアミックス
さて、登場する神と人類だが、まあ当然ながら、有名どころがずらりとならんでいる。中には「どうしてこれ選んじゃったの?」もあるが、そういうところ(=だれを選ぶか、読者にも考えさせる)は作者の狙いであろう。予想どおり、ネット上ではこのメンツに対して、ありとあらゆる賛否両論なコメントが乱れ飛んでいた。5回戦までのメンツを、出場順にあげると、
神:トール(北欧)、ゼウス(ギリシャ)、ポセイドン(ギリシャ)、ヘラクレス(ギリシャ)、シヴァ(インド)……
人類:呂布奉先(中国・三国志)、アダム(聖書)、佐々木小次郎(日本)、ジャック・ザ・リッパー(イギリス・殺人鬼)、雷電為右衛門(日本・相撲)……
となる。ちなみに、すでに全メンツは公開されている。残りは以下のとおり。
神:毘沙門天(※)、アポロン、スサノヲノミコト、アヌビス、ロキ、ベルゼブブ、アポロン、オーディン、釈迦(※)
人類:始皇帝、レオニダス王、ニコラ・テスラ、沖田総司、グレゴリー・ラスプーチン、ミシェル・ノストラダムス、シモ・ヘイヘ、坂田金時
※注 最新11巻の時点で、第6回戦が始まっているのだが、実は6回戦の出場者には、すこしややこしい変更点がある。まあ、大した問題じゃないと思うのでネタバレしてしまうが、最初は神側で出場することになっていた「釈迦」が、人間側で出る、と言い出す。で、神側の出場者も、毘沙門天あらため、七福神すべてが合体した「零福」になっている。
既出だと、あからさまにジャック・ザ・リッパーだけ浮いているかなあ。
あと、シモ・ヘイヘには爆笑してしまった(ミリオタなら、この「コレジャナイ」感はわかっていただけるだろう)。
いや、いくらなんでもヘイヘは人類代表してねーだろー。ちなみにシモ・ヘイヘはフィンランドの伝説的スナイパー。でも、お釈迦様とヘイヘが同格ってことは天地がひっくり返っても、ない(笑)
選ぶ基準は、おそらく「闘い方がかぶらない」ことが基準なのか、と最初は思った。マンガ的にそのほうが、バトルにバラエティーを出せるからだ。でも佐々木小次郎が出てるのに沖田総司が出てるから、ちがうかな。まあ、ぼくもてきとうに書いてます。
はい、そうです、この考察、全体的にとにかくテキトーです。あんまり考えないで書いてます。前回のナウシカと比べて、脳の稼働率は100分の1くらいだろうなー
しかし、それこそが、「終末のワルキューレ」というマンガの醍醐味であり、正しい読み方なのである。Don’t think,feel!
マジメな話、「終末のワルキューレ」を読むわれわれは、考えるな・感じるんだ、でいいんだと思う。
ただ、制作陣たちが、このよもすれば単調にしかならなそうな構造のマンガに、たくみにダイナミズムをとりいれ、予想を裏切り、読者を飽きさせないように必死の工夫をかさねているのはあきらかだ。
やたらと強調が多い描写(大文字・大ゴマの多用)、ギャグ要素担当のブリュンヒルデとゲルの解説コンビ、各キャラクターごとに背景設定があり、その人生におおきくかかわった重要人物のゲスト出演(呂布の劉備・関羽・張飛および陳宮、佐々木小次郎の宮本武蔵)など、もうサービス精神てんこ盛りといっていい。
「終末のワルキューレ」は、説明の必要のない有名なキャラクターを出し(つまり読者に、おぼえる負担をいっさい負わせない)、だれもがなんとなく知っているエピソードをうまくアレンジして組み込み、徹底的に読者目線で娯楽に徹しきったマンガである。「考えずに読める」マンガだからといって、「考えずに作られている」わけではないのだ。
出典:終末のワルキューレ ©原作:梅村真也 構成:フクイタクミ 作画:アジチカ・コアミックス
さて、このラグナロク、いってみれば、「デタラメなトンデモバトル」以外の何モノでもない。これは悪い意味で書いているのではない。
まず、超ご都合主義のオンパレードである。召喚されている人類の代表者たちは、なぜか「その人間の強さの全盛期」の姿であらわれてくる。なぜ?とか考えてはいけない。そういうものなのだと、だまって受け入れてください。
で、神と闘うのに、人間の武器だとかんたんに壊れてしまうから、13人のワルキューレが武器として変身する「神器錬成」という術があって、これまたきわめて都合よくその人間に最適な武器となることになっている。たとえば佐々木小次郎なら、彼の愛刀と伝えられている三尺二寸の刀「備前長船長光」(通称「ものほし竿」)になる。ただしその代償として、所持者が死ぬと、神器錬成したワルキューレも共に消失するリスクがある。
勝ち負けについても、だれもが納得できるようなロジックがあるわけではない。たとえば、どちらかが明らかに強かったから勝った、とか、勝つ必然性があるほうが勝った、とか、そういう理由は、ない。単に作者が「今回は神(人間)側に勝たせる」と、話の進行上判断し、その結果に当てはめられるにすぎない(と、少なくともそういう理由で勝敗が決まっていることは明白である)。
たとえば一回戦、雷神トールが、呂布奉先に勝ったのは(この勝敗だけはネタバレご容赦)、トールが呂布より明確に強かったからでは、ない。そんなことは、どんなにつぶさに読んでみても、どこにも書いていないし、読み取れない。トールが呂布に勝った理由を、ぼくはまったく説明できない。勝つと決まっているほうが勝つ、これはそういうマンガである。
もちろん、それは少しもおかしなことではない。
ここが飲み込めないと、「終末のワルキューレ」をほんとうに楽しむことはできないだろう。
たとえばこれが、ラスボス目指して立ちはだかる敵キャラを順に打ち破っていく、という話なら、簡単だ。主人公サイドは、最初は苦戦するが、かならず最後には、運か、努力か、秘められた力か、実はもってた実力(最初から出せよ)か、とにかく、なんらかの「はっきりした勝因」が与えられ、勝つことになる。その変奏として、出し切って負ける、というパターンもあるが(上に名前を出したものだと、バスケマンガ「あひるの空」が該当。“最後には負けるマンガ”の白眉だ)、とにかく勝ち負けに、それなりに妥当な理由が与えられる。
だが、「終末のワルキューレ」のラグナロクは、そういう話にはならない。
なぜなら、これはトーナメント戦ではなく、団体戦(リーグ戦)だからだ。つまり、剣道の団体戦と同じだ。先鋒・次鋒・中堅・副将・大将がいて、それぞれ照応する相手と戦い、勝数の多いチームが勝つ、というものだ。
そう、マンガにおけるすべての団体・リーグ戦の勝敗は、おそらく、「実力」ではなく、「作者/物語の都合」で決まる。だから、勝ったり負けたりが当たり前な団体・リーグ戦は、個々の勝因や敗因はけっこういいかげんである。「4勝3敗の勝ち」を描くと決めれば、「×××○○○○」でもいいし、「×○×○×○○」でもいいし、このへんはどんな流れのドラマにしたいか、で作者が決めることだ。
トーナメントの場合は、これしかない。「○○○○○○○」。つまり全勝だ。
出し切り負けの場合は、「○○○○○○×」ということになる。
例として、よく似た構造のマンガを上げるなら「テニスの王子様」だろうか。あれも団体戦で、個々人の勝ち負けにまったくロジックがないところも、そっくりだ。問題は個人の勝ち負けではなく、学校の勝ち負けだからだ。そういえば、最後にはトンデモバトルになるところまで、よく似ている(テニプリはギャグマンガですから)。
出典:終末のワルキューレ ©原作:梅村真也 構成:フクイタクミ 作画:アジチカ・コアミックス
「終末のワルキューレ」を読んでいると、つくづく「マンガのおもしろさ」ってなんだろう、と考えさせられる。
このラグナロクという戦いは、すでに何度も述べたように、強いから勝つ、というようなものではない。公平な戦いでもない。そもそも、神VS人間という時点で、基本的に勝てるわけがない。そこにワルキューレの神器練成というチートアイテムを足すことで、かろうじて勝ってもおかしくない理由付けだけはなされているが、どの戦いを見ても、勝ち負けを決定づける説得力のある勝因は、描かれていない。
では、なんで、そんな戦いが描かれているのだろう?これはある意味で、勝負ですらないというのに。しかも、この戦いを読むことを止められないのはなぜだろう。ページをめくる手が止まらないのはどうしてだろう。
そこで、ぼくは「おもしろさ」について、しみじみ不思議に思う。デタラメなのに、なんで求めてしまうのだろうか。ぼくは今、おもしろい、と思っているんだろうか?
この、先へと読み進めさせる「力」、これが「おもしろさ」なんだろうか?
無理にここで答えを出そうとは思わない。ただ「終末のワルキューレ」は、スキだらけで、穴だらけで、デタラメで、荒唐無稽なマンガであることはまちがいなく、そしておそらく、だからこそ娯楽の本質を示すマンガなのだと、ぼくは本気で思う。
このマンガは、娯楽のたどりついた「極端」さの、ひとつのゴールである。ひとりひとりが主人公を張れるような英傑たちがおしげもなく登場し(実際、一回戦の呂布奉先が主人公のスピンオフマンガが出ているくらいだ)、ただの娯楽のためだけに戦うのだから、それくらいいってもいいだろう。そして、いわば読者は、ローマ帝国のコロッセウムで行われた、剣闘士たちの決闘を観戦するローマ市民なのである。そういえば実際、ラグナロクの試合会場は、コロッセウムそのものだ。
ただし、後世からみれば、剣闘士たちの殺し合いを、娯楽として楽しんでいたローマ市民たちは、けっして褒められたものではないだろう。でも、「終末のワルキューレ」はマンガだから、まだ許されるのだ。
そう、マンガだから、「極端」は許される。というより、マンガでなければできない「極端」なのだ、といえる。「終末のワルキューレ」は特にきわどい勝負を打った作品だろう。実際、やりすぎた、という面もある。たとえばインドでアニメが放映不可になったらしい。その是非はここでは問わないが、それほどの「極端」である証拠だといえよう。
ラグナロクもまだ半分以上が残っている。これからどんなトンデモバトルが繰り広げられるのか!そしてシモ・ヘイヘはマジで出てくるのか!ぼくは刮目して待つ!君も待て!
ところで、少しマンガをたしなむ方であれば、この「終末のワルキューレ」のラグナロクバトルを見て、デジャヴを覚えるのではないだろうか。
FGO?いやいや、そんなベタなやつじゃない。
そう、あの大和田秀樹先生による麻雀ギャグマンガの超怪作「ムダヅモ無き改革」である。おまけでご紹介しておきたい。このマンガでは、地球の命運をかけた麻雀バトル「ラグナロク」が行われるのだ。
「終末のワルキューレ(2018年~)」より「ムダヅモ(2006年~)」のほうが先に発表されているから、パクリではない。むしろ、終末のほうがムダヅモに影響を受けたのか?とすら思われる。
「ムダヅモ」についてかんたんに説明すると、主人公“小泉ジュンイチロー”がさまざまな外交問題を麻雀で解決する、というむちゃくちゃな話である。モデルとなる政治家たちはかなりドギツくパロディ化されていて、本人読んだら怒るだろ、みたいなのもおおい。
で、アメリカやロシア、ローマ教会などと死闘を繰り広げていくのだが、作中後半になると、地球の命運をかけた麻雀バトルをすることになる。負けたらふつうに死んだりする。その闘いは「ラグナロク」と呼ばれ、敵は復活した歴史上のドイツ著名人たち(ワーグナーとか)であり、ヒトラーがラスボスである。まさに「終末のワルキューレ」と同じだ。
主人公サイドもスゴイ。基本、各国首脳クラスばっかり出てくる。それがチームを組んで出場する。ローマ教皇グレゴリウス十三世、プーチン大統領、ブッシュ大統領などなど。日本からは“麻生タロー”も出ている。ちなみに麻生太郎本人がこの「ムダヅモ」の読者で、この麻生タローは本人公認とされている(超かっこいいキャラだから、本人的にはさぞ嬉しかろう)。
かれらはさすが首脳クラスだけあって、豪運の持ち主である。役満が乱れ飛び、イカサマも桁がちがう。盲牌(指の腹で牌の表面をさわり、なんの牌かを読み取る技術)するのに、すごいパワーで表面をこすることで、文字を削り取り、どんな牌でも「白」にしてしまう「豪盲牌」という技があるくらいだ。
とにかく、おわかりと思うが、「ムダヅモ」と「終末のワルキューレ」は、設定が酷似しているわけだ。双方代表を出し合って、しかもそれが実在の著名人で、地球の命運をかけた「ラグナロク」という名のトンデモバトルをするのだから!
……だからどうした、というほどのことはないが、もしご興味あれば、「終末のワルキューレ」のあとで「ムダヅモ無き改革」もぜひ読んでみてください。麻雀を知っているひとなら、腹をよじって笑い転げることまちがいありません。点3とか点5、点ピンとか(すべて麻雀のレート)ならご存知でしょうが、「点F-15」は見たことないでしょう。「点テポドン」とか。もう書いてるほうも意味がわかりません。
ちなみに、麻雀マンガの最高得点も、「ムダヅモ」で記録されている。
それは908溝6519穣5024杼3594垓8349京9283兆6857億6135万1700点。極端すぎて、書いてるぼくのほうが頭がおかしくなりそうだ。
そう、やっぱりここでも問題は「極端」なのである。
娯楽は、どこまでも極端をめざす。そして、一度限界にたどりついたような気がしても、人間の想像力は、常にそれを越えて、もっと過激な、もっと過剰なものを、生み出していくのだろう。
「終末のワルキューレ」にしても「ムダヅモ」にしても、単なるトンデモバトルマンガなどではない。それは、ぼくたちの「極端」な娯楽への欲が生み出した、ぼくたち自身の似姿に他ならないのだ。それがドギツく醜いものだったとしても、目をそらさずに向き合うべきだと、そしてなんなら楽しんでしまうべきだと、ぼくは思う。