マンガを長くあつかっていると、どうしても「これはアニメ化しそう」とか「アニメ化にむいてる」とか考えるクセが身についてしまう。なぜなら、アニメ化=その作品の知名度がおおきく上がり、ひいてはセールスが爆発的に伸びる(可能性がある)からだ。さらにはある本を何冊仕入れるか、という判断にもかかわってくる。
これは、世界中の書店員の永遠にして究極のアポリアであり、日本のコミック業界に限定すれば、その数字を左右するいちばんおおきな要因が「アニメ化」であることにうたがいはない。
さて、ぼくはあるマンガがアニメ化するかどうかを“言い当てる”ことができる、とか、そういう自慢をしたいわけではない。それどころか、むしろぼくはそういうのが圧倒的にニガテなほうで、これまでに当てたという記憶もほとんどない。
だが、アニメ化「すべき」だ、と思うことなら、しょっちゅうある。
今回ご紹介するマンガ「らいか・デイズ」(むんこ 芳文社)は、その筆頭だ。
なぜ、このマンガをアニメ化すべきだ、とぼくが思うのか。それをお話しする前に、まずは作品のご紹介を。
「らいか・デイズ」は2003年から芳文社の複数の4コママンガ誌で連載され、今なお継続している長寿4コママンガである。カテゴライズするとすれば、いわゆる“ファミリー4コマ”というジャンルに属する。
基本的に主人公・来華を中心としたさまざまな登場人物の、小学校や子供の世界、またその親や周辺のひとびとのごく普通の生活を、ごくまっとうに描いていく。紋切りないいかたをしてしまえば、「さわやか」なマンガである。
作者の「むんこ」先生はこの作品で連載デビューし、その後4コマを中心に多数の作品を発表していくことになる。個人的には現役最強の4コママンガ家だと思う。
主人公「春菜来華(はるならいか)」は、ひとことでいえば“天才少女”だ。
小学六年生にして、大学の入試問題を秒殺で解き、児童会長を圧倒的な能力と人望でつとめあげ、生徒はもちろん教師や児童の親たちまで絶大な信頼をうけており、ほとんど完璧超人といっていい。
出典:らいか・デイズ ©むんこ・芳文社
だが、じつは女子力皆無、にがてなものは恋愛トークと家庭科全般、とくに料理は絶望的にヘタで、得意料理は「なっトースト」(トーストに納豆乗せただけ)、好きな食べ物は「サンマ」、旅行のお土産を選ぶセンスはビミョー、という愛すべき純朴カワイイ少女なのだ。
「らいか・デイズ」とは、一見完璧超人である来華の“ギャップ萌え”を堪能するマンガだといっても過言ではない。
出典:らいか・デイズ ©むんこ・芳文社
「らいか・デイズ」には、主人公の来華のほかに、たくさんの登場人物がいる。
中でももっとも重要なのが、勉強のライバル(といってもまったく来華にはかなわない)である「竹田将一」だ。
のちに来華の“カレシ”になる。
常にテストで満点の来華にたいして、竹田はなぜか常に一問だけまちがって、来華に一度も勝ったことがない。教室で答案用紙を返されるたびに、竹田が来華にむかって言い放つ「いい気になるなよ 次は勝つ!」は、このマンガでもっとも繰り返し登場するお約束のセリフである。
だが、なんだかんだで来華のことが気になってしかたない竹田は、序盤は勉強でのからみばかりだったのが、巻が進むにつれて、さまざまなエピソードを共有しながら、しだいに来華と相思相愛になっていく。
「らいか・デイズ」にはときおり番外編があって、そのなかに未来の話が出てくるのだが、それによればふたりは最終的に結婚することがわかっている。
ちなみに、作中ではっきり、ふたりが思いを伝えあっているシーンはひとつもない。ただなんとなく相手が気になっていて、周囲もそのことを知っていて、からかいの的になっている。こういうところが小学生の恋愛らしくて、逆にやたらとリアルな感じである。
竹田は、父親が単身赴任、母親も仕事をしている、いわゆる鍵っ子である。そのため、極度に家事スキルが高く、特に料理は小学生離れした腕前である。来華が家事全般が壊滅的であるのと、これは対照的なものとして描かれる。
この設定は、のちのち(おそらく作者むんこ先生自身も、そこまで有効だとは思わなかったであろう水準で)子どもたちの「大人のしらない世界」を描き出す上で、“効いてくる”ステータスとなる。
竹田は、鍵っ子の環境にも、したたかに適応して、なんの問題もなく強さを手にしたように当初は描かれるが、しかしその裏では、父に過剰ともいえる愛情を示したり、さまざまな“もろさ”を隠していることもわかってくる。
そうした屈折しやすい環境で、竹田はひたすら来華に挑戦しつづけ、負けつづける。その負けっぷりはカッコ悪いことこのうえなく、その姿も当初はただのコメディリリーフでしかなかった。
しかし、そのバカげた一途さが、じつは来華を救い、そして竹田自身をも救っていたことが次第にわかってくると、「いい気になるなよ 次は勝つ!」というバカっぽいセリフが、がらりと意味を変える。
ハムレットもかくや、というくらいの、決めゼリフになるのだ。
さらに感動的なのは、実はそのことを“わかっている”大人が、かれの周囲には複数いるということだ。ちょっとしたことで来華がおちこんだとき、教師のひとり財津は「いつもどおりにしてやれ」と竹田にアドバイスする(この財津は、なかなかヘビーな過去の持ち主で、人間的にはおそらく作中でもっとも「ただしい強さをもった大人」として描かれている)。
そして竹田も、勘どころのいい、繊細で聡い少年であるから、うすうす自分の言葉の力は自覚していて、助言どおりバカっぽいセリフを来華のまえで叫ぶのである。
泣ける。
出典:らいか・デイズ ©むんこ・芳文社
来華に勉強では勝てないが、その他のむしろ人が生きていくうえで必要なスキルは圧倒的に勝っている竹田は、どんなときも、「次は勝つ!」と憎まれ口をたたきながら、あらゆる場面で来華を助け、ひそかに彼女を支えていくことになる。いいやつなのだ。
「らいか・デイズ」のキャラクター造形は、ほんとうにすばらしいと思う。
ざっとその他のメインキャラをご紹介すると――来華に匹敵する優等生にしてお嬢様の「蒔奈」、いつも明るいムードメーカーの「まなみ」、一歩下がってみんなを支える「陽子」、竹田並みに家庭科スキルが高い「悠美」、の四人が女子のレギュラー。
男子側は、スポーツ万能の単純バカだけど男気のある竹田の親友「小西」、漫画家を目指す「漆野」あたりがレギュラー。
大人はおおいので教師に限定すると、かれらの担任であるズボラな女教師「東野(旧姓・藤田。作中で結婚)」、大食漢だがどんな問題も解決する「財津」あたりがレギュラーである。ちなみに全員フルネームがあるが、長いので省略。
あとは、それぞれの「親」。とくに来華の母・房江の登場頻度はかなりおおい。財津同様、「理想的な大人」として描かれていて、その肝っ玉の太さはハンパない。たとえば来華のクラスで、男子と女子がケンカになる。それを来華がわざと感じ悪くふるまうことで、クラスの男女の目を覚まさせる、という話がある。そのいきさつを聞いた房江は、なんと答えるか。
ぼくは、この房江さんのセリフには、心底感心してしまった。
出典:らいか・デイズ ©むんこ・芳文社
大人には、「ただしく断念する」力が必要だと、ぼくは思う。とくに、世間体や、プライドや、思い込みで、ほんとうに大切なことがみえなくなってしまうとき、房江さんのように「どーでもいい」といえる大人になりたいものだ。
なお、キャラの命名はほぼすべて、なんらか「カメラ」にちなんだものらしい(カメラ関連であること自体には特に意味はないみたい。
単に作者むんこ先生が、過去にカメラの仕事をしていたから)。主人公の来華からして、もちろん有名なカメラ「ライカ(Leica)」だし、たとえば財津は「ツァイス・イコン(Zeiss Ikon)」からだとか。
このことは特に裏読みしなくてもいいと思うが、おもしろい命名だ。
さて、どのキャラクターもたしかにすばらしいのだが、じつは最初、かれらには名前がなかった。「らいか・デイズ」で名前がついていたのは、主人公の来華だけだったのだ。
それが、徐々にキャラクターが掘り下げられていく過程で、どうしても名前が必要になり、順番に公開されていった……という経緯がある。
準主人公といってもいい竹田ですら、「将一」という下の名前は、かなりあとにならないとあきらかにされなかったくらいなのだ。
このことは、「らいか・デイズ」というマンガに、描き始めたときとそれ以降で、おおきな内容の変化があったことを意味する。
なにせ、もともと描くつもりのなかったキャラクターに名を与え、性格や背景を後付けで足して掘り下げようというのだから、これはそれなりに大掛かりな方針変更だろう。
といっても、実際には、まったく難しいことではなかったと想像できる。
なぜなら、こういう方向転換がすぱっとできるのが、4コママンガの便利なところだからだ。これが大仰な一本道の大河ストーリーマンガだったら、話の途中で急な方向転換もやりにくいだろうが、何度も何度も始まりと終わりがくりかえされ、比較的ストーリーの連続性がよわい4コママンガでは、そういう小回りがききやすい。
もともと「らいか・デイズ」は主人公・来華の天才少女ぶりをすげーすげーと感心するコメディマンガだったわけだが、それだけではネタが続かないから、来華以外のキャラクターを掘り下げなければならなくなった=単独ヒーロー物から群像劇にシフトした、ということだろう。4コマならではのフットワークの軽さ、といえる。
結果として、それが功を奏した。「らいか・デイズ」がここまでの長寿マンガになったのは、これらおおぜいの「後付けキャラ」による、物語の多彩化に成功したから、という側面もあるだろう。
もし、これらの後付け設定が、薄っぺらい人間観からつくられていたなら、それも成功しなかっただろうが、「むんこ」先生の描くキャラクターは、ファミリー4コマの特性もあってか、みごとにクラスチェンジできたように思う。
ファミリー4コマの特性とは、ぼくが思うに「ちいさな日常」を積み上げやすい、ということだ。1エピソード4コマを、連載一回ごとに15本も描くので、あたりまえだが、オチも15回あるわけだ。そのため、キャラクターの「人生経験値」も着実に増えていくことになる。
「らいか・デイズ」でいえば、ぼくの感じだと、6巻や7巻あたりで、なにか“しきい値”を超えたように思った。
キャラクターに血肉が通った、こういう言い方は好きではないが、でも、そういう感じがした。名前すらなかったかれらを、ここまで掘り下げきった「むんこ」先生のマンガ家としてのパワーを、すなおにすごいと思う。そしておそらく、先生ご自身も、なにかをつかんだのではないか。
キャラクターの一人「漆野」はマンガ家を目指す少年だが、その彼に、担当となった編集者がこんなことをいう場面がある。「今は仕込みの時期だから いっぱい勉強したり 友達と遊べって」(12巻)。マンガを描くのに、ひととしての経験値が活きてくる、ということを、体感したからこそのシーンに思えてならない。
出典:らいか・デイズ ©むんこ・芳文社
キャラクターを中心に「らいか・デイズ」をご紹介してきた。あと、舞台についてつけくわえておきたい。
「らいか・デイズ」は「花丸町」という架空の街が舞台となっている。公式では埼玉県にあるらしい。この花丸町は、この「らいか・デイズ」以外のむんこ作品でも舞台となっていて、シェアード・ユニバース方式とでもいうのか、さまざまな作品で共有化されている。
またそれぞれの作中でも、別作品のキャラがカメオ出演する。
そのものズバリ「花丸町の花むすび」というマンガまで出ている。この作品自体が、花丸町作品をクロスオーバーさせることを狙ったものだ。
このマンガの表紙には、通行人モブのひとりとして、来華も描かれている(というより、表紙の三分の一を占めるくらい、ドでかく描かれている)。
これらはちょっとしたお遊びではあるのだが、むんこ作品を次々と読んできたファンは、どこかパズルがはまっていくような快感があるだろう。
さて、ぼくは「らいか・デイズ」の一巻目からのそこそこ古参のファンだが、じつはこの作品が、世の中でどんな評価を受けているのか、お恥ずかしいことに、よくわかっていない。
もう生活の一部になってしまっていて、世間のひとたちがこのマンガをどう読んでいるのか、とか考えたこともなかった。
ただ、気がつけば掲載誌「まんがホーム」の表紙を飾っているから、看板作品なのはまちがいないし、相応の評価も受けているのだろう。無理に評価されてほしい、とは思わないが、作者「むんこ」先生の収入が少しでも増えてほしいので、そういう意味では売れてほしい。
ともあれ、「らいか・デイズ」の置かれている状況をかんがみるに、なんか、かなり、アニメ化の条件はそろっているように思える。
ところで、そもそもどういうマンガをアニメ化「すべき」なんだろう?
端的にいえば、それはその作品が、今の発表媒体“以外”のマーケット・コミュニティ・クラスタに、潜在的なユーザーを期待できるとき、だろう。
アニメ化で底上げされた知名度が、原作マンガにフィードバックし、売り上げが伸びるのが理想的。ぶっちゃければ、アニメ化すればもっと売れそう!ということだ。
「らいか・デイズ」はこの点、じつにアニメ向きだと思う。この二十年弱の連載で、いわばマンガを集中的に読むマニア層にはじゅうぶん知名度があるから、もうあとは、ふだんマンガを読まない“外”のひとびとにアピールするだけ、そんな感じだ。
さらに突っ込むと、アニメ化に「向いている」マンガとはどういうものだろう?
まず、あたりまえだが、ある程度の「売れる見込み」が必要だ。巨額の投資(1クール=12~13話で、2億円弱といわれる)をしても、回収のメドが立つことこそが、アニメ化の最低条件だからだ。
もちろん、なにが売れるかなんて、わからない、と誰もがいうだろう。もちろん、そのとおりだ。だが、ここで「なにが売れるかなんてわからない」なんて正論をぶつような人間は、そもそもアニメのプロデュースには向いてない。
また、これと被る意味であろうが、おおくの視聴者が見込める「テーマ」かどうか、だろう。野球とカーリングなら、どうしたって野球のほうが、受容人口がおおいわけだ。
それはどれだけ著者(あるいはアニメのプロデューサー)がカーリングを愛し、その魅力を伝えようとしても、容易に覆しえない現実だ。アニメ化は、上に書いたとおり、巨額の投資を求められるから、“ハイリスク”な選択は避けるのが当然だろう。
だから、なにかが一度ヒットすると、おびただしいコピーが生まれ、アニメ化もまたそうしたコピー品ばかりが占めることになる。
さて、おそらく、このアニメ化のゴー・ノーゴー判断において、「作品性」はあまり問われない。そしてそれはまったくおかしなことではない。
「いい作品」だから、アニメ化すべき……ということは、現実には、たぶん、あんまりない。すくなくとも、それだけではダメだ。
もちろん、候補になってくるマンガは、作品として、なんらかの強さや、売りがあるだろう。だがアニメ化には、どうしてもカネの話が付きまとってくるから、まずそのハードルを現実に越えていかないと、そもそも企画自体が先に進まない。
いいロシア人は死んだロシア人だけだ、的な言い方をするなら、いいアニメ原作マンガは売れた原作マンガだけだ、ということになる。作品性において、画期的だったり、独創的だったりして、批評的には高い評価を受けたとしても、それがマーケットで受け入れられにくいと予想されてしまえば、アニメ化という点では不合格だといえる。
もちろん、マンガはアニメ化のために作られるわけではないので、この点で不合格だとしても、作品の評価にそれはまったく関係がない。
すでに述べたように、作品性においてあきらかに何か先行作品のエピゴーネンでしかないようなものでも、アニメ化することは珍しくはない。また、アニメという「表現手法」をとることで、その作品がマンガのときとはまったく異なったおもしろさを生みだすことはありうる。
つまりは、アニメ化の基準なんて、まあなんだかよくわからない、というのが正直なところだ。
ただ、こうしたさまざまな現実、オトナの事情というものの、さらに先に、その作品をもっとおおくのひとに見てもらいたい、という単純な願いが生まれることもある。そういう願いがつくりだすアニメもあっていいじゃないか……そう信じたい。
ぼくは今回、「らいか・デイズ」を、どういう切り口で紹介しようか迷ったのだが、アニメ化すべきだ、という言い方でほんとうにお伝えしたいのは、たぶん、このマンガには、カネがらみのシビアな現実にとどまらない、それだけの価値があるんだ、ということなんだと思う。
ぼくがアニメ化すべき、と思ったのは「らいか・デイズ」がもっと売れてほしいから、ではない。それもあるけれど、ちょっとちがう。
昭和な考え方なのかもしれないが、ぼくにとってアニメ化する、というのは、おおげさな言い方をすれば、「普遍的」な価値がその作品にあることを意味する。アニメになる作品が、どんなにしょぼいものになりさがってしまったとしても(昨今、正直そう感じることが増えました)、安く、たくさん作れるようになったとしても、なんだかかんだで、やはりアニメ化は重いプロジェクトだ。
ゴーサインを出すのもまた、重い決断だろう。でも、その重さに耐えられるだけの価値が「らいか・デイズ」にはきっとある。
「らいか・デイズ」のアニメをおおくのひとが見たら、ちょっと世の中マシになるような気がする。だから、お金持ってるひとに、その決断をぜひしてほしい。二億で世の中よくできるんなら、安いものじゃないでしょうか。
最後にひとつ。「らいか・デイズ」はもう二十年近く続いているのだから、かなり世間に普及しているはずである。そのわりに、なんかあんまり、マンガオタクの会話の中に「らいか・デイズ」の話は出てこない気がする。ぼくの考えすぎだろうか。
それはなぜかと考えるに、いちいち他人と“シェア”する必要を、みんなが感じないからなのかなー、とか思う。
「らいか・デイズ」は、それくらい、読者の感情に、個別に刺さってくるマンガなのかもしれない。べつにシェアするのが悪い、ということはないが、結局、感じるのは自分であって、他人がどう思うか、は別の話、それこそ「どーでもいい」ことではないか。
別のいいかたをすれば、「らいか・デイズ」のおもしろさは、短絡的な「共通経験」にはない、ということだ。ぼくは、シェアしやすいものというのは、だれもが同じように“わかる”ような、いわば記号化されたものなのだと思う。
もちろん、来華や竹田たちの小学校生活や、鍵っ子生活で描かれる日々だって、ありふれたものではある。テストがあり、けんかがあり、バレンタインがあり、そういう意味では記号化されている。
だが、来華たちの毎日は、記号では断じてない。記号化とは、あからさまに、既存の作品の、設定や、物語の構造や、“おもしろさのメカニズム”を、模倣し、その成果にタダ乗りしようとすることだ。「らいか・デイズ」はそのようなマンガではない。
一見、ユーザーを激増させるアニメ化ってのは、シェアを助長するものであるとみえるが、それも作品によるのだと思う。ひとに話したい、よりも、自分の中でしずかに受け止めたい、そんなアニメだってあるだろう。「らいか・デイズ」はあきらかに後者だと思う。
とにかく、永遠に終わってほしくないなー。
「らいか・デイズ」は、いわゆるドラえもん時空、つまり来華が何回も小学六年生をくりかえしつづけているが、もうずっとつづいてほしい。
なお、単行本の表紙カバーには、毎回、むんこ先生の私的な近況が書かれていて、マンガはドラえもん時空でも、現実の時の流れを感じさせる。
たとえばキリ番でいうと、10巻「もうすぐ36年女 親は老いるし子は育つ 希望を味方に不安を敵に」。
20巻「41歳 色々ボロボロ こいつァいよいよデッドヒート 老眼 腰痛 徹夜不可能 下の子なんとまだ2歳」。
これによると、むんこ先生とぼくは、どうやら同い年なんです!
ぼくもがんばろうっと。