【煙たい物語】第九篇~花草セレ「貴女の言葉を嗅ぎたくて」【JPS】

文壇の現在と未来を担う書き手たちが、それぞれの想いとともに煙草にまつわる物語を織りなす「煙たい物語」。
第九篇は、花草セレさん「貴女の言葉を嗅ぎたくて」をお送りします。

香りを言葉に変換して想いを伝えることができる”文煙草”。けれどどれだけ灰皿を吸い殻で埋めても、あの日出会った貴女が流した涙の意味だけが分からない――。

貴女の言葉を嗅ぎたくて

 真っ黒な JPS の紙箱には、飾り気のない煙草が入っている。あたしはまた、一本を取り出して火を付けた。そのままだとすぐに消えてしまうから、キスのように煙草へ口を付けて、息を吸う。煤けた煙が、記憶が、言葉が胸にむせ返る。少しせき込んで、煙草を灰皿の淵へと立てかけた。
 煙草なんて吸いもしないのに、灰皿は吸い殻でいっぱいだ。
 煙がくるくると踊り出す。セピア色を燃やして灰にしたような、少し茶色っぽい煙だ。紙箱のように飾り気のない煙は、煙草らしい焦げた匂いがする。混じりけのない、寡黙な香り。それでも、あたしにありありと、あの日を思い出させる。
 ぽっと紅い煙草の先が弱くなって、火が消えないようにもう一度口を付けた。もう一度むせた。
 吸った煙は、あの日、この煙草を吸っていた貴女が何を考えていたのか、何も教えてはくれない。JPS らしい煙だけの香りが、ちりちりと肺を焼いた。苦しくて、煙草をもう一度、灰皿の淵に戻す。
 燻る煙が、あの日を余さず、甦らせる。
やがて煙草の火は、金で縁取られた JPS のロゴマークに辿り着く。あの日を綴り終えようとする煙が、香りが言葉が、どうしても苦しくって。

 真っ黒に塗り潰された言葉が、貴女が、何を言いたかったのか。あたしにはとんと分からなくって。
 灰皿の淵へ煙草を強く押し付けて、火を消した。煙草の香りが、真っ黒の灰になって潰れた。

 

 女の子って本当におしゃべりで、いろんな香りがする。可愛くなりたいって唱える苺の香りや、大人っぽくありたいジャスミンの香り。癒されたいと願うカモミールだったり、頑張るぞと背筋を伸ばすレモンだったり。シャンプーにリンス、柔軟剤、ハンドクリームに香水と、いたるところに香りを、言葉を身に着けて、女の子は自分を表現している。男は鈍感だから気づけない。多彩な香りの言葉で、女の子たちは目で見るよりももっとずっと、可愛いのに。
 わたしは今日も身に着ける。あのお姉さんが可愛いと言ってくれた、苺の香りを。
 あのお姉さん、琥珀さんが燻らせていた煙草の香りが何を言いたかったのか、まだわからないままだけれど。
 貴女の言葉を嗅ぎたくて。わたしは今日も、隣駅まで貴女が吸っていた JPS を買いに行く。こんな話を煙草一つで語ってくれるのだから、香りは本当におしゃべりだと思う。

 

「だから、もう本当に嫌なの。わたしの言うこと、何にも聞いてくれなかったじゃん。だから、別れて」
「お前、よくそんな偉そうな口が利けるよな」
 骨ばった拳が、頭上に振り上げられる。わたしは思わず目を閉じた。別れ話の度に、これだ。男って馬鹿だから、一発殴らないと気が済まないんだ。それで、縁が切れるのなら。男の腕が強く振り落とされ、風を切る。わたしは歯を食いしばった。
 と、痛く、ない。ゆっくりと目を開けると、見知らぬ女性が拳を押さえつけていた。
「こんな路上で、恥ずかしくないの?」
「お前、誰だよ。邪魔すんな」
「あなた、サイテーね」
 その女性がきゅっと手をひねると、元カレは酷く痛がって、だらしなく走り去っていく。わたしは終始ぽかんと立ち尽くしていた。
「あなた、大丈夫?」
 お姉さんがポンと肩を撫でてくれて、漸く、身体の硬直が解けた。と、同時に、足が震えだす。あんな馬鹿でも、また殴られるだけと思ってても、怖かったんだ。
「その、ありがとうございます」
 お姉さんは真っ直ぐな黒髪と黒いカジュアルスーツに包まれ、凛としていた。夜の繁華街で、お姉さんだけが深夜のように静かな佇まいだ。シンプルな服装に、一筋、煙草の香りだけが彼女を飾っている。
「その、何かお礼、を」
「いいの、気にしないで。それよりあなた、歩けそう?」
「ちょっと、厳しいですね。怖かったみたいで」
「おうちはこの近く?」
「あぁ、はい。別れ話なんで、なるべくわたしに利のある、この辺でと思って」
「さっきの馬鹿、戻ってこないといいけど」
「あはは、腰抜けだから大丈夫ですよ」
「もし、あなたが良ければだけれど。おうちまで送りましょうか?」
「そこまで甘えちゃ、悪いですよ」
 言い切る前に、細く白い指がわたしの唇をふさぐ。冷たく静かな指からも、煙草だけが香った。
「怖かったんでしょう? こういう時くらい甘えなさい、苺ちゃん」
「どうして、わたしの名前を」
「ごめんなさい。苺の香りがしたから、つい」
 お姉さんがすっと笑って、わたしもつられて、笑ってしまった。お姉さんは笑うと紅い唇へ指をあてる癖があるのか、笑みからも煙草の香りが燻った。
 結局、言い負かされて、あるいはやっぱり、誰かに頼りたくて。お姉さんと二人でわたしの自宅へと向かっている。わたしが苺香と名乗ると、お姉さんの名前は琥珀だと教えてくれた。琥珀さん。宝石みたいに美しくて、静かなお姉さんにぴったりの名前だと思った。
「それにしても、よく、苺の香りって分かりましたね」
「だって、女の子は色んな香りでおしゃべりするでしょ?」
「香りでおしゃべり、なるほど?」
「分かってないでしょう、あなた」
 くすくすと琥珀さんはまた、小さく笑った。紅い唇に手をあてて。
「うちに、苺のリキュールがあるんです。今日の別れ話が終わったら、飲んで自分を慰めようと思って。そうだ、琥珀さん、お酒お好きですか? 今日のお礼に、カクテル作りますよ」
「だから、お礼なんて別にいいの。あなたが痛い思いをしなくてよかった」
「お礼くらい、させてください。うち、色々リキュールあるんです。何でも作りますよ」
「誰かと飲んだ方が、さっきの男を忘れられそうっていうのなら、いただきたいわ」
「本当ですか? じゃあ、そういうことで。どうぞ、狭いですけど」
 手狭なワンルームに、どうにか用意したバーカウンター風のテーブルへと琥珀さんを案内する。元カレはバカスカ飲むお酒が好きだったから、ここには座らせてやらなかった。だから、わたし以外で初めて、このカウンターに人が座る。
「果物切ったり、ちょっと準備がいるので、少し待っててください」
「ありがとう。あ、煙草を吸いにベランダかどこか、借りてもいいかしら?」
「あ、ここで吸って大丈夫ですよ。馬鹿のせいで、もう壁とか汚れちゃってるんで」
 わたしがカラカラと笑うと、琥珀さんはまた、すっとわたしの唇に指をあてがった。無理をして笑うなと、そう言われている気がした。
「そうだ、煙草お好きなら、文煙草って知ってます?」
「いいえ。知らないわ」
「最近、流行ってるんですよ。手巻き煙草ってあるらしいじゃないですか。自分で、葉を詰めるやつ」
「そうなの? ごめんなさい。煙草はこれしか、知らなくて」
 琥珀さんは真っ黒なパッケージの箱を優しくなでる。黒地に金で銘柄の刻まれた、琥珀さんらしい無口なラベルだ。
「文煙草っていうのは、手巻き煙草みたいに自分で葉を詰めるんですけど、香りで、言葉を綴れるんです。わたしもあんまり分かっていないんですけど、香りって暗号というか、コードみたいに認識されるらしいんですね。A, B, C って香りを感じる信号があったとして、A と B の信号が来たらオレンジ。B, C だったらレモン、みたいに」
 琥珀さんの耳に触れる。小ぶりな銀のイヤーカフは、一見ただのアクセサリーで、そのお洒落さもあって文煙草は流行っている。あの馬鹿のせいでわたしも煙草が好きだろうと勘違いした友達が、わたしにプレゼントしてくれたくらいには。
 文煙草は、用意された葉を混ぜ合わせることで言葉を紡ぐ。それぞれの葉には特有の香りが既に施されている。ありがとうを表すベルガモット。嬉しいを表すチョコレート。ごめんねにはブルーベリー、寂しいはチェリー。基本セットにはこの四つだけ。追加で葉を買えば、好きのローズとか悲しいのミントとか、使える言葉を足すこともできる。手紙を綴るというより、SNS とかで使うスタンプをいくつか混ぜて送る方が感覚としては近いのかも。いくつかの言葉を選んで、葉の量で香り、つまりは言葉の濃さを選んで、混ぜる。最後に、簡便に使えるローラーで巻き上げれば、文煙草の完成だ。
「それで、このイヤーカフで、巻き煙草の香りからくる信号を読み取って、言葉に変換してくれるんです。例えばこんな風に」
 わたしが即興で作った手巻き煙草を、琥珀さんは慣れた手つきで口に付けた。イヤーカフに付属の小さなライトがオレンジに点滅する。琥珀さんが香りを、わたしが文煙草に包んだ言葉を嗅いでいる。そう思うと、妙に心がくすぐられた。
 長らく忘れていたような、頬の温まる感覚。
「そんなに見つめないで、恥ずかしい。あるいは、この香りのせいかしら」
 ふぅ、と甘い煙が吐き出される。猫のキャラクターが印刷された灰皿を手渡すと、琥珀さんは軽く会釈してから火を消した。
「ありがとう、がたくさん。香りだと、胸いっぱいに感謝されて、なんだか気恥ずかしいわ」
「だって、本当に、助けてくださって嬉しかったんです」
「ふふ。ねえ、このイヤーカフって、その文煙草っていうのかしら。それ用の香りしか認識しないの?」
「付属の香料だと、もう、この香りならこの意味っていうコードが決まっているんです。さっきのはベルガモットとチョコレートの信号が混ざっていまして。でも、どんな香りでも翻訳自体はされるはずですよ」
「なら、この香りは分かる?」
 琥珀さんが取り出したのは、あの、真っ黒なパッケージの煙草だった。華奢な白い指がついと煙草を摘まむ。銀製のライターでじっとりと先端を焦がすと、香りが燻った。イヤーカフのライトが六等星の瞬きでぼんやりと点滅する。目を伏せた琥珀さんはきっと、煙草の言葉に耳を傾けている。
「ねえ、あなたにはどう聞こえる?」
 不意に、口元へ琥珀さんの煙草があてがわれる。口紅の残った、琥珀さんの唇が確かに触れていた煙草だ。彼女の指と同じく、香りはたった一筋、煙たいだけ。
「けほっ。あ、すみません」
「あたしも、咽せちゃうもの。ゆっくり、そおっと吸ってごらん」
 凛とした濃い煙に、思わずむせてしまった。琥珀さんが背中を撫でてくれる。心を落ち着けながら、もう一度。わたしの耳に付け直されたイヤーカフに向けて、煙草の香りへ耳を澄まして。
 しいんと、静かな香りだった。
 あるいは、黒く塗りつぶされた手紙。
 わたしが首を横へ降ると、残念そうに、琥珀さんはわたしに咥えさせた煙草を抜き取った。
「やっぱり、分からないよね。ありがとう」
「いえ、その、すみません。あ、カクテル。カクテル、すぐお出ししますね」
 煙へ滲むような琥珀さんの表情に、わたしはつい、キッチンへと逃げてしまった。琥珀さんは濡れそぼった瞳のまま、あの無口な煙草を吸い直している。たった一筋の香りに、煙に、縋るような吸い方だった。あの煙が琥珀さんを包んで、縛って、わたしの部屋でないどこかへ閉じ込めているような気がした。耳に着けたままのイヤーカフが香りを、じくじくとした言葉とは呼べない何かに変換していく。
 けほと、少し咽せたような声がした。
 冷蔵庫に用意していた苺を細かくカットして、リキュールと牛乳、砕けた氷とを混ぜる。わたしの手元ばっかりが春の香りに華やぐけれど、琥珀さんまでは届きそうもない。一滴、二滴。香りづけにとリキュールを追加で垂らした。
「お待たせしました」
 じゅっと、琥珀さんの煙草が灰皿へ押しやられる。火を消された煙草が、首を絞められたようにぐったりと黒い灰を溢す。
 あの煙草にばかり触れていた琥珀さんの紅い唇が、グラスへ、わたしのカクテルへと向けられる。そうしてこくりと、苺が琥珀さんの喉を伝った。
「本当に可愛い。ありがとう。でも、ごめんなさい。あたし、もう行かないと。ご馳走様」
 突然、早口となった琥珀さんは、足早に帰り支度を整えた。ほとんど虫の息の吸い殻を拾い上げて、ゆっくりと吸って。咳き込みながら、それでも、わたしが引き留める隙もなく玄関から出て行ってしまった。追いかけようにも、できなかった。
 大粒の涙が零れるのを、見てしまったから。
 残されたのは JPS と書かれた無口な煙草のパッケージ。それから、恋にもならなかった、間抜けに甘い苺のカクテル。
 琥珀さんは、この煙草になんと言われたかったのだろう。それを思いながら残された煙草を吸った。いずれ箱の中身が尽きても、ずっと。

 

 あたしは煙草の香りが、貴女のことが忘れられなくて。苺の芳醇な可愛らしさでも、ブドウにオレンジ、花も蜜も、この真っ黒な香りを塗り潰してはくれなかった。
 可愛い苺のカクテルを口に含んで、その香りに、可愛らしいお礼の言葉に胸を浸したとき、気がついてしまった。泣いてしまった。あぁ、あたしは、貴女の香りを忘れることができないのだ、と。あの無垢な香りがどれだけあたしに語りかけてくれようと、あたしには、とんと響かなかった。あたしの心は、JPS の香りで真っ黒に染まったまま。無口に見せかけた貴女の香りは、JPS の煙は、もう、言葉に分解できないほどに無数の文字で綴られていて、どんな香りも、打ち消せやしない。どんな女の子も、貴女を忘れさせてはくれないのだと。
 いつか、貴女が残してくれた言葉を嗅げるまで。あるいは煙草の染みついた記憶が、まっさらに塗り潰されるまで。あたしはこの煙草を求め続けるのだろう。



花草セレ(はなくさ・せれ)
科学で世界を鮮やかに。本物よりも美しく。科学書籍の紹介動画“食べ合わせ科学読書会” を投稿しています。
”URL”http://nicovideo.jp/series/168355
”創作” http://pixiv.net/users/952214

📖「煙たい物語」を読む

💡次回(4月下旬ごろ予定)のゲスト作家は……池澤春菜(いけざわ・はるな)さん

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