【煙たい物語】第十篇~池澤春菜「空を目指す煙」【メシャム・パイプ】

文壇の現在と未来を担う書き手たちが、それぞれの想いとともに煙草にまつわる物語を織りなす「煙たい物語」。
第十篇は、池澤春菜さん「空を目指す煙」をお送りします。

「それじゃあお話を始めよう」——メシャム・パイプから香る甘い匂いとともに大好きな祖父が語ってくれた、放浪した南米で見たマプチェの民の不思議な思い出。

空を目指す煙

 祖父のパイプが好きだった。
 海泡石、ミーアシャムという白い石でできたパイプには小さな穴がたくさん空いており、煙草の煙を吸い込んで次第に飴色になるそうだ。精緻な彫刻を施したものが多く、祖父のパイプは前を見つめる鷲鼻の男性の顔だった。それをいつも祖父は右手で包み込むように握り、深く息を吸って、煙を吐き出す。それから話し始める。
「それじゃあお話を始めよう」

 この一言、そしてパイプの甘い匂いがわたしを魔法の国に連れて行ってくれる扉だった。

 鍵っ子だったわたしは、学校から帰ると歩いて一〇分のところにある祖父の家に足繁く通っていた。祖母はニコニコしながら、お茶やお菓子を出してくれた。でもそれより何より、わたしは祖父の書斎と、祖父の聞かせてくれる話が大好きだった。
 祖父のする話は、自分の若いときの話だったり、祖母との出会いだったり、世界のどこかの話だったり、誰かから聞いたお伽話だったり。でも一度だけ、とても不思議な話をしてくれたことがある。
たった一度だけ。
 その後どんなにせがんでも、今日は違う話をしよう、と逸らしてしまう。だけどたった一回聞いたその話はずっとわたしの心に残った。

 まだ若かった頃、僕はふらっと放浪の旅に出た。南米を何ヶ月もかけて巡ったんだ。大変だったけれど、楽しかったよ。
 チリからパタゴニアに向かおうと長距離バスに乗っていたある日、バスがデモ隊に止められた。道路がバリケードで封鎖され、バスが止まり、どやどやと人が乗り込んできて僕たちを下ろし、バスに火を放った。バスは黒煙を上げて猛烈に燃えている。人々はこんなことはよくあることだ、とばかりに、諦めた顔で道ばたに座り込み、燃えるバスを見ていた。真っ黒に焼け焦げ、枠だけになったバスは、まるでクジラの骨のようだった。気がつくとデモ隊は自分たちの車に乗っていなくなっていた。後に僕たちだけを残して。
 周囲一帯何もない。がらんとした場所で、一〇人ばかりの乗客と運転手は途方に暮れた。そのうち一人が立ち上がり、何かを話し始めた。その頃まだ僕はまだスペイン語がおぼつかなかったし、チリのスペイン語は早口で訛りが強い。聞き取れたのは、この辺にはピューマが出るらしいこと、だけど近くにかつてマプチェの人たちが住んでいた集落の跡地があるから、そこに身を寄せよう、ということだった。
とにかくここにいるわけにはいかない、次のバスは明日まで来ない。まだ携帯なんてない時代だったからね、僕らが取り残されていることは、誰にも伝えられなかったんだ。
 僕らは歩き始めた。
 下生えの中に見える細い道を辿っていく。乗客の中には、ずいぶん高齢の人もいた。けれど僕よりずっと健脚で、藪の中もぐいぐいと歩いて行く。
僕のあやふやな知識によれば、マプチェはチリの先住民族。マプとは大地、チェはそこに生きる人を意味する。
 スペイン人の入植者たちに虐めに虐められて、すっかり嫌気がさして自分たちの生活の中に閉じこもってしまった。マプチェ語という独自の言語を話す彼らは、その後も迫害され、社会の低層に押し込められた。複雑な歴史と文化を抱えた人々だ。
 目指しているのは、かつて伝統的な暮らしをしていたマプチェの村の跡だ。高齢化、それに近くにあるテムコの街にどんどんと人が流れ、いつしか誰も住まなくなった。けれど家は残っているし、火が焚ける。声を上げた人はかつて調査の一環でその村を訪れたことがあると言う。
 森の中を小一時間歩いただろうか。少し開けた場所に出たと思ったら、そこが目的地だった。藁葺きのような背の低い家が、なかば植物に侵略されるようにして幾つか残っている。
 粗朶や乾いた藁が集められ、村の中心にある広場に積まれる。火がつけられ、集まった人たちの安堵した顔を照らす。健脚な老婆は大量のお菓子を持っていた。孫たちへのお土産だという。それを惜しげもなくみんなに配ってくれた。僕も日本から持ってきたとっておきの羊羹を出す。甘い物の好きなチリ人には意外と受けた。
 夜が更けていく。次第に火の勢いは弱まり、三々五々、近くにある家の中に人が引き上げていく。だけど僕はなんだか目が冴えてしまって、いつまでも広場に残っていた。
 熾火になった火を借りて、パイプに火をつけた。そうだよ、今も持っているこの海泡石のパイプだ。
 大変な一日の最後に吸う煙草は美味しかった。
 焚き火の煙と交じってパイプの煙が空へ上っていく。
 星がすごかった。
 当たりは静かで、虫の声と夜泣き鳥の声、時折火のはぜる音だけが聞こえる。
 それから彼らが来たんだ。
 煙が凝るように、不規則に流れ、やがてそれが人の形に見えてきた。怖くはなかったよ、なぜか僕はその時「ああ、来ましたね」とでも言うように、受け入れていたんだ。
 人影はどんどん増えていく。
 子供たちがいる。
 小柄だけどがっしりとした男性がいる。
 皺に埋もれた老人たち。
 背筋を伸ばし、きらきらした目であたりを見る女性たち。
 飾りのあるポンチョや、金属の円盤を連ねた華やかな頭飾り。
 気がつけば、焚き火の周りは、たくさんの人たちでいっぱいだった。盛んに身振りをしながら話し合っているけれど、声は聞こえない。僕のことも見えていないようで、目線は通り過ぎていく。
 やがて、彼らは歩き出した。立ち上る煙に足をかけ、一歩ずつ空へと上っていく。その先には迎え入れるように星たちが瞬いていた。次から次へ、人々が通り過ぎていく。空へ、空へ。
 僕は無言でパイプを吹かし続けた。焚き火が消えてしまえば、そしてこの煙草が尽きれば、きっとこの人たちも消えてしまうとわかっていた。最後の一人まで送ってあげないといけない、そんな風に考えて、ゆっくりゆっくりパイプを吸った。
 どのくらいの人を見送っただろう。最後の一人がやってきた。壮年の男性だった。羽根を頭に飾り、上半身裸で、たっぷりしたマントを羽織っている。男性は煙にしっかりと足をかけ、一歩一歩上っていく。
 そして振り返った。
 そう、その人だけには僕が見えていたんだ。
 僕を見て、その人は微笑んだ。そして一つ頷くと、また踵を返して空へと上っていった。煙に足がかりを刻むようなその歩みを僕はいつまでも眺めていた。彼の後ろ姿が星の瞬きに紛れて見えなくなるまで。

 次の日、僕らはバスまで歩いて戻った。
 僕らのバスが焼かれたことは、バス会社には伝わっていたらしい。僕らはパサパサのサンドイッチとペットボトルの水を貰い、何事もなかったかのようにそれぞれの目的地まで連れて行かれた。
夢を見たんだと思うかい?

 全ては焚き火の側でうたた寝して見た幻だと。
 そうかもしれないね。
 だけどね、見てご覧。僕のパイプ。あの日から、このパイプの横顔があの人に見えるんだよ。空を目指して上っていった、最後の人に。

 その祖父ももういない。
 大人になったわたしの手には、祖父の形見の海泡石のパイプがある。わたしは煙草を吸わないけれど、時々祖父のようにパイプを包んで持ってみる。その肌理はしっくりと手に馴染む。
吸い口を咥えて、静かに息を吸う。祖父がいつも燻らせていた、甘い煙草の名残が微かに香る。

 大きく息を吐く。
 煙こそ出ないけれど、わたしの息に乗って、祖父が空へと上っていけるように。
 海泡石の横顔が、真っ直ぐな眼差しで空を見ている。



池澤春菜(いけざわ・はるな)
声優、歌手、舞台俳優、エッセイスト。アクロスエンタテインメント所属。第二十代日本SF作家クラブ会長。星馬豪(『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』)、麻宮アテナ(『THE KING OF FIGHTERS』シリーズ)など、数多くのアニメやゲームのキャラクターを演じた。エッセイ集に『乙女の読書道』『SFのSは、ステキのS』『台湾市場あちこち散歩』など。2020年には初の小説作品『オービタル・クリスマス』(原作:堺三保)を河出書房新社のWebサイトにて公開し、同作で第52回星雲賞日本短編部門を受賞した。初の小説集『わたしは孤独な星のように』が2024年5月に発売。
Twitter:@haluna7

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