第十二篇は、絶対に終電を逃さない女さん「愛があってもなくても」をお送りします。
愛があってもなくても
野良犬みたいに汚れた飼い犬がいるリサイクルショップで買った椅子と私を荷台に載せた軽トラックは満開の桜並木の大通りを走っていて、一点透視図法のお手本のように駅がぐんぐん遠ざかっていく。
荷台に座ったまま運転席を振り向くと窓を開けているのか、強いパーマのかかったアフロに近い黒髪が窓越しに揺れている。近隣の閉業した喫茶店から買い取ったという木製の椅子の配送を頼んだところ、私と同世代と思しき若い店員の男は、良ければ今から一緒に送って行きますよ、と申し出たのだった。
「配置までやりましょうか?」
荷台から降ろした椅子を担いだ彼は私の後をついて木造アパートの階段を昇ってくる。男を背にして階段を昇る時、私のお尻を見ているだろうか、といつも意識してしまう自分がいるのだが、できればこの人には見ていてほしいとどこかで望んでいるような気がした。
配置までお願いしたものの、玄関に入ってから、この椅子を置く場所を決めていなかったことを思い出した。椅子が必要な場所があるから適当な椅子を探して買うのではなく、心惹かれる椅子に出会ったからその椅子に相応しい場所を探す。私はそういう生き方をしてみたかったのだ。
とりあえずこの辺に置いといてください、と頼むと彼は玄関に入ってすぐのところに椅子を慎重に置いたあと、くたびれたチェック柄のネルシャツの胸ポケットからおもむろに煙草を取り出して下駄箱の上に置いた。
「あ、すいません、なんか自分ちでの癖で置いちゃいました」と苦笑しながらポケットに戻そうとする彼に、
「いや、置いてください」と私は咄嗟に頼んだ。
「え?」
ラッキーストライクの白と赤のパッケージは、赤で統一した雑貨を並べた備え付けの白い下駄箱の上に、置いてあるほうが自然に思えるほど馴染んでいた。赤い防災用ラジオ、赤い額縁の鏡、アクセサリーを載せた赤いプレート、ラッキーストライク。彗星の如く現れて歓迎されているようで、最初からそこにあったようでもあり、なくなっても気づかないような存在に、もう少し居てほしかったのだ。
「一本もらってもいいですか」その言葉が口をついて出たのは、ラッキーストライクよりも彼を引き留めたかったからかもしれない。
「あ……一緒に吸いますか、お時間あれば」
しばしキョトンとしていた彼は、あ、じゃあ……と遠慮気味にライムグリーンのスニーカーを脱ぎ、赤い靴下でフローリングを踏んだ。
「ここ、煙草吸って大丈夫なんですね」
「あと一年で取り壊されるので、原状回復しなくていいんですよ」
「なるほど」
壁に垂れ下がった白い紐を引っ張ると、壁をくり抜いて嵌めてあるプロペラファンタイプの換気扇が轟々と回り出す。差し出された一本を受け取って咥え、ライターの火をもらって思い切り息を吸い込む。慣れた手つきで素早く火をつける彼を横目に、私はできるだけゆっくりと、煙を吐き出す。
こんなに息をしている実感があるのはいつぶりだろうと思った。
「三年ぶりに吸いました」
「えっ、禁煙してたんですか」
「まあ、不本意ながらでしたけど」
彼氏と同棲していたマンションを出て夜逃げ屋のトラックで──逃げたのは昼だが──先ほどの大通りを走っていた時は、まだ桜は一つも咲いていなかった。彼が仕事に行っている数時間の隙に荷物をまとめるのはさほど大変ではなかった。家賃は折半なのに私の好きな物はほとんど置いてもらえなかったおかげで、あんなに縛られていた三年間が嘘みたいに、逃げる時だけはあっけないほど身軽だった。
「それは、おめでとうございます」
背の高い彼は私の目を見て何度か頷き、脂肪の少ない頬を凹ませてまたひと口、煙草を吸う。
煙草そのものだけが、恋しかったわけではない。
それ、パーマですか、と聞きながら私は既に手を伸ばしていた。
「パーマです」そう答える彼の声が少し小さくなる。
そのふわふわの髪の中に指先を沈ませ、彼の首筋に鼻先をつけて、私は息を大きく吸い込んだ。
吸い切らないままそれぞれの煙草を灰皿に押し付けたのは、同時だった。旧居では封印を命じられ小物入れとして使うことすら許されなかった、いつかアンティークショップで買った、ガラス製のハート型の、灰皿に。
人生には時々、普段の自分じゃ考えられないような大胆なことができる瞬間が訪れる気がする。勇気を振り絞るわけじゃない。何かに導かれるように、自然と。それは、ここではないどこか、未知の場所へ行きたいという欲望の、小さな爆発なのではないか。
畳に敷いた布団の中で嗅いだ彼の体臭は、特に好きではなかった。副流煙の匂いも別に好きじゃないのに、その二つが混ざった途端に、いつまでも胸いっぱいに満たしていたくなる匂いに化けるのだった。
歳は多分二十代後半、おそらくアルバイト、名前すら知らない、敬語のまま。彼が知っている私の情報は、住所だけ。
互いに肉体しか知らないからこそ、一切の不純物がないように思えて、清らかで、軽やかで、心地良かった。
「私、付き合ってない人としたの初めてで、なんか、ちょっと生まれ変わったみたいな気分で嬉しいです」
キッチンに戻って煙草を吸いながらそう言うと、彼はフッと煙を吹き出して、ちょっと照れくさそうに笑いながら、そうですか、とだけ言った。
失ってから気づいても遅いぞ。初めて別れを切り出した私に元彼が放った脅し文句が、煙と一緒に換気扇に吸い込まれて、羽の隙間からわずかに見えるよく晴れた空に一瞬にして霧散していくようだった。失って初めて気づくことは確かにある。必要だったことだけでなく、不必要だったことにも。
愛してくれる一途な彼氏なんて、別に要らなかったんだなあ。
毎日飽きもせず、可愛いだとか愛しているだとか言ってくれて、他の女には目もくれず、将来を誓ってくれる代わりに、酒や煙草は家以外でも禁止され、スマホの監視はもちろんのこと、どこかに一人で出かけようものなら一緒にいなかった間の出来事すべてを報告し終わるまで眠ることを許されなかった。
愛されることが縛られることを伴うものならば、私はもう誰にも愛されなくていいし、誰のことも愛したくない。
「僕はもうこういうの、やめようと思ってるんです」
「こういうの、って」
「行きずりっていうか。ちゃんと将来のこと考えて、真面目に付き合って愛せる人を見つけたいなって。このバイトも辞めます」
「なんか、もっと自由奔放に生きてる人なのかと思ってました、勝手に」
いま欲しいものだけを後先考えずに手に入れる人だけが放つ匂いに、私は誘われたのかもしれない、というのに。
「そういう生き方をしてきたかもしれないですけど、もういいかなって。目先の自由を追い求めるほど、むしろ自由が遠ざかっていくことを思い知ったんですよね。みんな何かに縛られながら生きてるんじゃないかなあ」
「……じゃあ今日は、なんていうか、私が邪魔しちゃった感じですか」
「いえ、まあ、今日は、寄り道してもいい気分になったっていうか」
「寄り道ですか。じゃあきっと、寄り道でしか見えない景色もありますよね?」
それは問いの形をした祈りだったかもしれない。
「ありますね。そう言われてみると、今まで散々遠回りしていろんな景色を見たから、自分が歩むべき道がわかったのかもしれない」
「そっか」
ここではないどこかへ行きたい。それは自分を変えたいということでもあるのだろう。
本当に愛してるなら私を自由にさせてよ。愛してるから言ってるんだ。そんな押し問答は無意味だった。そこに愛があるかどうかなんて、愛とは何かなんて、どうでもよかったのだ。私はただ、道を自分で選んでみたかったのだと思う。
どこへ通じる道だろうと、誰かに指示されたわけでもなく、誰に勧められたのでもない道を、道標もない道を、自ら選んでいるという手応えが恋しかった。
「じゃあ僕、行きます」
「はい」
引き留めない。私の道に、彼はちょっと寄り道をして、一服付き合ってくれただけ。それが優しさだとしたら、とりあえずそれを、愛と呼んでみてもいいかもしれない。
「あ、煙草もやめようと思ってたんで、良かったらあげますよ」
最後にお礼を言い合って、別れの言葉はお互い口にしなかった。
かちゃ、と頼りない木造のドアが閉まる。下駄箱の上にはくしゃ、と少し潰れたソフトパックの、ラッキー・ストライク。
絶対に終電を逃さない女
1995年生まれ。著書にエッセイ集『シティガール未満』(柏書房、2023年)。エッセイ、小説、短歌を、Webメディア、雑誌、映画パンフレットなどに寄稿している。
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note@syudengirl
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