【煙たい物語】第十一篇~やらずの「地獄で息をする」【ピース】

文壇の現在と未来を担う書き手たちが、それぞれの想いとともに煙草にまつわる物語を織りなす連載――「煙たい物語」。
第十一篇は、やらずのさん「地獄で息をする」をお送りします。

21世紀末、事実上の煙草排除が達成されたロンドン――。違法行為になった喫煙を続ける彼女はあたしに言う。「だってこの肺も、身体も、命も、ぜんぶわたしのものだよ?」

地獄で息をする

 罪の香りが漂っていた。アガサが吐き出す紫煙を、あたしはじっと眺めていた。
 よく手入れされた二本の指のあいだで、紙巻きの煙草が燃えている。艶めかしくて滑らかな、だけどキャンディを舐めるみたいな可愛げのある動作で、その根元が唇へと収まっていく。アガサは深く息を吸う。吐き出す。いつの間にか煙草なんてものを覚えていた彼女の横顔は、あたしが知らない表情をしていた。
 アガサの吐息が混ざる紫煙が、ロンドンの曇り空に溶けていく。あたしはそれを見て、深く濁った溜息を吐く。
「……まったく、そんなものどこで覚えちゃったんだか」
「初めてはね、ロースクールのキンバリーくん。いろんなところに顔が利くんだって。すごいよねぇ」
 あたしが何気なく溢したつぶやきに、アガサは馬鹿正直に答えてくれる。あたしが通報したらどうするつもりなんだと思わなくもないけれど、アガサのそういう打算のないところがあたしは好きだった。石畳の地面はまだ昨日の雨のせいで黒く湿っていて、隠れるように座り込んでいる路地裏はいつもより少し暗い気がした。
「知ってる。何回も聞かされた。ロースクール生が闇煙草ばらまいてるとか、もうこの国もおしまいだわ」
 あたしは売店で買ったサンドイッチを齧って、自分の口を塞いだ。これ以上口を遊ばせておくと、余計な棘の生えた言葉を吐き出し、投げつけてしまいそうだった。
 ほんとなら、明確な違法行為である喫煙に及ぶアガサを、あたしは止めないといけないんだろう。あるいは違法か合法かを抜きにしても、肺を汚し、血を汚し、命を蝕むだけの煙の吸引なんて馬鹿なこと、やめさせてあげなくちゃいけないんだろう。分かってるのにほうっておくのは、煙草を吸うアガサを横目に見ることで、あたしもまだ辛うじて大丈夫なんだってことをちゃんと確かめておきたいからだった。
 あたしはアガサのトートバッグの外ポケットから無防備に覗いている煙草のパッケージに視線を落とした。〈Peace〉。淡いイエローの上を、ゴールドの鳩が泳いでいた。健康を蝕むくせして〈平和〉を冠するその違法品は、日本から密輸されたものだった。
 今から七〇年前、ある法律の施行がこの国の煙草事情を一変させた。煙草にかかっていた税金が引き上げられ、二〇〇九年以降に生まれた人は生涯にわたって煙草を購入することが禁止になった。それは大昔から続く喫煙文化に告げられた緩やかな死刑宣告で、法律の施行から時間が経つにつれ、煙草は少しずつ排除され、社会は少しずつ浄化されていった。今ではもう、八八歳以下の人は煙草を買うことができなくなっていて、それは事実上、煙草が根絶されたことを意味していた。
 煙が漂っていた。傍観者のあたしに罪をなすりつけようとするみたいに、風下に座っているあたしのほうへと流れてきた。
「くさい」
「えー、絶対そんなことないよ。バニラ味。吸ってみる?」
 顔をしかめたあたしに、アガサは吸いかけの煙草を差し出した。二重のまぶた、濃茶色の大きなひとみ、それから薄くてかたちの綺麗な唇と、むきたての卵みたいに艶やかな頬。あたしになくて、あたしが憧れているあれこれがあたしに向けられていた。煙草なんかでは汚れようのないアガサの笑顔は、時折あたしの心の奥底にある澱を見透かしているような気がした。
 アガサのことは嫌いじゃない。だけど地獄の果てまで一緒に落ちてあげるつもりもなかった。
「吸うわけないでしょ。あんたもいい加減にしなね、煙草なんてろくでもないんだから。肺が黒くなるって。癌にもなるし、肌も荒れるし、いいことないよ」
 あたしは立ち上がった。鋭く固くしたはずの言葉は、流れ星を見上げて祈るような頼りなさでかすれた。
「だってこの肺も、身体も、命も、ぜんぶわたしのものだよ?」
 遠くの方でサイレンが聞こえたような気がした。アガサのまっすぐな問いかけはレイピアのような鋭さで、あたしの思考を縫い留めた。あたしは何も言えなかった。アガサの右手の指に挟まれている煙草から灰が落ちて、黒ずんだ石畳の上で砕けて散った。
「あのね、わたしね――」
 声を振り切るように思わず逸らした視線の先、空の東の端のほうに夜が薄く滲み込んでいる。

 大豆由来の合成ステーキは味がしなかった。マッシュポテトは粘土のようで、呑み込むたびに喉の内側に引っかかった。パパとママとあたし、三人分のカトラリーがそれぞれに擦れ合う不協和音だけが食事の気配だった。
「大学は順調か?」
 パパの岸壁で砕ける波濤のように厳しい声がだだっ広い食卓に響く。弁護士であるパパの声はいつだって高圧的な尋問のようだ。まあね。あたしは合成ステーキを水で流し込んで答えた。実際はここ何日か講義には出ていなかったけど、パパはあたしのことなんて見ていないから、あたしの嘘に気づくはずもなかった。
「しっかりやれよ。お前はあいつと違って、ただでさえ馬鹿なんだ」
「大丈夫よね。お姉ちゃんを見習って、ちゃんとやってるわよね?」
 ママはワインで唇を湿らせて、パパに媚びるような視線を送る。無視されていてもパパに寄りかかり、同調するしか能のないママは、哀れで惨めで、見ていると吐き気がした。
「うん、大丈夫。ぜんぶ分かってるよ」
 あたしは繰り返される寝言みたいに言って、ステーキを頬張った。栄養価の計算された完璧で無味乾燥な食事。限りなく意味のない言葉の往復。一つだけ空席のある、四人掛けの食卓。ステーキは噛んでも噛んでも味がしないくせに呑み込めなくて、あたしは壊れた機械の真似でもするみたいに意味のない咀嚼を繰り返していた。
 つまるところ、彼らが欲しいのは優秀な娘だった。パパは学歴や職業のような肩書きにしか興味がなく、ママは優秀な娘を育てることでパパの気を引くことにしか興味がない。あたしはどうしようもない欠陥品で、だけどそのことを必死に隠しながら生きていた。どうして隠しているのかは分からなかった。親を失望させたくないという子供心かもしれないし、ジャンクだと分かった途端に捨てられることを知っているから防衛本能が働いているのかもしれない。なんにせよ、あたしには選択肢がなかった。どこで間違えてしまったのだろう。あたしは満足に息を吸えている気さえしなかった。
 けっきょくあたしは、食べ過ぎると眠くなるからと、てきとうな理由をつけて食卓から逃げ出した。自分の部屋に戻る前にバスルームに行き、口のなかに残っていた合成ステーキをトイレのなかに吐き出した。無数の歯型でずたずたになった合成ステーキは、鏡に映ったあたしと似ていた。今度こそ部屋に向かい、扉を閉めてベッドに横になった。化粧を落とさなくちゃとも思ったけれど、あたしの意識はすべてを拒むようにまどろみに落ちていった。ふいに、顔にかかった髪の毛から、甘くて焦げ臭い煙草が香った気がして、あたしはアガサの言葉を思い出しながら目を閉じた。

 アガサが死んだのは、それから一ヶ月後のことだった。
 ついこの前までふらふら外出してたくせに、容体が急変するや駆け足で逝ってしまった。賢くて、綺麗で、優しくて、誰より愚かで自由だった姉は、病魔に犯されてたった二四年の命を終えた。
 どうしてアガサなんだ。あの人たちは葬式で、そう言って泣いていた。だからあたしはうまく泣けなかった。あたしはあの人たちから、姉の死を悼むことさえ奪われていた。
 あたしはたぶん羨ましかったんだと思う。あるいは妬ましかったんだと思う。
 あの人たちに愛されて、この世界に早々に見切りをつけるみたいに自分の身体を傷つけて、法や常識なんていとも簡単に飛び越えてみせて、どこか遠くへ行こうとするアガサのことが羨ましくて、妬ましくて、許せなかった。
『あのね、わたしね――』
 きっとあたしはこれからずっと、人気のない路地裏を通るたび、ロンドンの空に降る雨が止むたび、こうしてアガサの言葉を思い出すのだろう。
『こんなこと言ってちゃ、神様に怒られちゃいそうだけど、どうしようもなく息苦しいんだよね。それは病気だからじゃなくって、わたしに必要以上に優しくしてくれるパパもママも、無理に笑顔を作ってるお医者さまも、すごく息苦しい。でもね、こうして煙草を吸って、この身体はちゃんとわたしのものなんだって確認しながら煙を吐いて、それを目で見ると安心するんだ。あたしちゃんと息してる。生きてるって』
 馬鹿みたいだと思う。勝手だと思う。
 そんなことのために煙草なんて吸って、残り僅かな命すら削って、あたしを置いて死んでしまうんだから、まったく救いようがない。
 雨上がりの路地裏を、あたしはひとり歩いていく。あの人たちに見つかると面倒だからと、アガサの遺品からくすねておいた〈Peace〉をお守りのようにポケットへと忍ばせている。
 あたしはあたりを見回した。誰もいないことを念入りに確かめた。けれど火を点けるほどに大胆にはなれなくて、あたしは試しに火を点ける前の煙草を香ってみる。
「ふーん、これがバニラねぇ……」
 馬鹿で勝手なアガサはおまけに嘘吐きだ。あるいは、あの合成ステーキを美味しいと食べていたから、実は味覚が致命的に終わってたのかもしれない。
 ねえ、アガサ。あたしは煙草を咥える。火を点ける真似をする。息を吸い込んで、吐く。
「アガサがいないここは地獄だよ」
 見えない煙が目にしみて、頬を涙が伝っていった。


やらずの
ゲンロンSF創作講座7期生。ほか公開作品はこちらから(無料で読めます)。
Twitter(X):@yarazuno_

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💡次回(5月下旬ごろ予定)のゲスト作家は……絶対に終電を逃さない女さん

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