一見は市井の人に見えながらも、よくよく話を聞いてみるととんでもないマニアだったり、途方も無い熱量の持ち主だったりする。そんな「奇才紳士&淑女」をご紹介していく連載です。
令和の時代に「活動写真弁士」として活躍を続ける紳士
「活弁(カツベン)」というものを聞いたことがあるでしょうか?
大正時代や昭和初期を舞台にした作品で、無声映画を上映する際に横に立ち、その解説をする人の姿を見たことはありませんか?あれが「活弁」。
語っている人は「活動写真弁士」といいます。
実は音声付きの映画が一般的となった今の時代にも、活動写真弁士は存在します。
今回はそんな弁士のお一人、坂本頼光さんが登場!
なぜ活動写真弁士になったかというユニークな来歴から、「活弁」の現在地まで、たっぷり語っていただきました。
坂本頼光(さかもとらいこう)
11979年生まれ、東京都出身。少年時代は漫画家志望で、水木しげる作品に傾倒。中学2年頃より活動写真弁士を志すように。上映会やイベント、寄席、映画祭などで活動写真弁士として活動するほか、アニメの声優やCMナレーションなどの活動も。2019年公開の周防正行監督映画『カツベン!』では出演の他、俳優陣の活弁指導も務めるなど、ドラマや映画に活弁が登場する際の監修・指導等も多数。
現在、声優をつとめたアニメ映画『クラユカバ』と『クラメルカガリ』が公開中。(『クラユカバ』公式 https://www.kurayukaba.jp/)X(旧Twitter):@sazaza_fuguta
日本の「語り芸」文化が生んだ「活動写真弁士」という存在
――おそらく読者は活弁、「活動写真弁士」という職業に馴染みがない人が多いと思うので、説明していただいてもいいでしょうか。
19世紀末に「映画」というものができたわけですが、昔は映画のことを「活動写真」と言っていました。写真が動いて見えるから「活動写真」。
でも当初は音声が付いていなかったんですね、いわゆる「サイレント映画」とか「無声映画」と言われるものですね。
だからスクリーンの横で、登場人物の声から物語のナレーションに至るまで説明をする人間が必要だったわけです。
これが「活動写真弁士」ですね。音楽の方は、これまた生演奏で、こちらは楽士。
海外でも作品内容を語る司会や解説者はいましたが、日本では特にこの弁士のスタイルが広まっていきました。
それはなぜかというと、日本にはもともと落語や講談、浪曲、人形浄瑠璃といった「語り芸」というものがたくさんあったからなんです。
――なるほど、日本の観客は「語る」スタイルになじみがあった!
そうなんです。だから「舞台上に喋る人間がいる」スタイルが自然に導入され、広まったんだと思います。
また、弁士が語ることでそれぞれ自分の個性が出る…………決まった語りではなく、その人のパーソナリティが出るわけです。
これも落語や講談など他の話芸と同じですよね。
だから映画に音声が付いた「トーキー映画」が登場し1930年代に広まっていくまでは、日本では一般的なものだった。全盛期には全国に7000人以上居たと言われています。
今は、私を含めて20人くらいです。
――そんなに居たんですね!
そんなわけで、現役の活動写真弁士たちは残っている昔の無声映画を使わせていただいて、映画祭や上映会などを中心に活動を続けています。
――そもそも、頼光さんが活動写真弁士を目指した理由は何だったんでしょう?
僕は荒川区の西日暮里出身なんですが、中学校2年のとき、課外授業で学校の先生に引率されて映画を見に行くという授業があったんです。
そこで観たのがチャップリンの有名な『キッド』という映画だったんですが、弁士と生演奏がついた形態での上映だったんですよ。
それを観て、「こういう芸があるのか」とその表現形態に刺激を受けたというか、カルチャーショックを受けまして。
また地元・西日暮里は下町みたいなところで、お年寄りも多い。
落語家の師匠が近所に住んでいたりといわゆる演芸も身近だったし、僕自身おじいちゃん子だったものですから、古い映画も年齢の割には観ていたほうだった。
それもあったんだと思います。
――一番衝撃だったのはどんな部分だったんでしょう?
映画が主役なんですけど、語りと音楽が加わらないとライブパフォーマンスとして成立しない……というところでしょうか。
そのときに語ってらっしゃったのは、まだ現役で活躍されているうちの業界の第一人者、澤登翠(さわとみどり)さん。
澤登さんが語ることで、サイレント映画なのにチャップリンや子役のジャッキー・クーガンがあたかも喋っているように聞こえたわけです。
「これは面白いぞ」と思い、やってみたいなと。
実はもともとは漫画家志望で、水木しげる先生が大好きだったものですから水木先生の弟子になりたかったんですよ。
そこから夢が水木先生の弟子か、活動写真弁士かの2つになりまして。
高校は池袋の高校に通っていたんですけど学校に行かず文芸坐で映画ばかり観ているような高校生だったこともあり、高校は中退して活動写真弁士になる道を選びました。
活動写真弁士になるまでの紆余曲折
――「活動写真弁士」って、どうやったらなれるんですか……?
最初に観た上映会を行っていたマツダ映画社という会社に「どうやったら活動写真弁士になれますか?」と訪ねていったんですよ。
すると「無理だ」と。もう活動写真弁士は職業として成り立たない、澤登翠さんもお弟子を取っていないし、活動写真弁士にこれからなるのはほぼ不可能ですよ、と言われたんです。
でももう学校は辞めちゃいましたから(笑)仕方ないのでアルバイトを始めてお金を貯め、自分でフィルムを借りて、ライブハウスみたいなところで自主ライブを始めたんですよ。インディーズのミュージシャンと同じですね。
――その当時のお客さんってどんな感じだったんですか?
基本的にはおじいさん、おばあさんですね。
まだギリギリ明治生まれの方もいらっしゃったかな?皆さんお元気で……って元気じゃなかった方も居たと思いますけど。
「公演中に具合悪くなられたら困るな」とか思いながらやってました。
そうこうするうちに、2000年に鶯谷に「東京キネマ倶楽部」という劇場がオープンしたんです。
今は同じ名前で劇場だけ残ってますけど、開館当初のコンセプトが「無声映画を活動写真弁士の語りと生演奏で365日鑑賞できるレストランシアター」だったんですよ。
そうなるとプロの活動写真弁士が足りなくなる、そこでオーディションが行われまして、僕は晴れてそのオーディションに合格し、〝プロ〟になれたわけです。
当時の同期が今や『ドラえもん』のジャイ子役でも知られる山崎バニラさんですね。
あと当時の話なんですが、これは書いても書かなくてもどちらでもいいんですけど、実は僕、18歳から4年間ほど山本竜二さんというAV男優、今で言うセクシー男優の方の付き人をやっていまして。あの人も水木先生と共に、僕の「師匠」なんです。
――山本竜二さん! 俳優としても活躍されていたり、お話も面白かったりかなり特殊な男優さんですよね。
アバンギャルドというか、アブノーマルな方でしてね。竜二さんは無声映画の大スター・嵐寛寿郎のご親戚なんですよ。
また喋りもとても上手くて、撮影現場で起きたハプニングを面白おかしく漫談風に語られていて。
ある日快楽亭ブラックという落語家の師匠の会にゲストで出られるということを知り、僕は映画館に出入りしていた関係でブラック師匠とも顔見知りだったものですから、師匠が山本竜二さんに私を紹介してくださったんです。
僕は自分が嵐寛寿郎の『鞍馬天狗』をかけるときに何かネタが拾えればいいな……くらいで行ったんですが、話の流れで竜二さんの付き人になることに。
当時朝はルノアールという喫茶店、夜はセブンイレブンで働いていたんですが、山本竜二さんにそれを話すと「あかーん!」と。
「芸人を目指すんやったらそんな真っ当な仕事をしていたらあかんえ」ということで、竜二さんの監督兼主演ビデオのカメラマンだったり、現場付き人だったりをすることになったんです。
――それはまた……かなりの経験をされたでしょうね……。
カメラ抱えて最初に行った現場、お相手が64歳の女性でしたから。赤木春恵さんみたいな方でした。
本当に『渡る世間は鬼ばかり』だな、って思いましたね。そんな日々でも逃げなかったのは好奇心と、あとは竜二さんからの「芸人というのは真っ当なことから離れなければいけない。異空間にいなければならない」という催眠、これでしょうね。
コンプライアンスが厳しい時代。「表現は変えても精神性は変えない」
――頼光さんはサザエさんをパロディにした自主アニメ『サザザさん』などでも知られていますが、ブラックユーモアあふれる作風のものを作られていますよね。そういったアンダーグラウンドなものがお好きというのは根底にあると思うのですが、昨今のコンプライアンス重視の風潮で難しさを感じることはありますか?
知られているのかしら……(笑)
『サザザさん』を作ったのにはいろいろと理由がありまして。
プロにはなったものの東京キネマ倶楽部が1年ほどで潰れてしまうわけです。
出られる場所がなくなったのでまた自主ライブを自分で行う活動に戻ったんですが、当時、2000年代前半は『エンタの神様』とか『爆笑レッドカーペット』とかの影響でちょっとしたお笑いブームがあり、インディーズのお笑いライブが非常に多かったんです。
過激な芸風の人たちと知り合って彼らのライブに出るようになると、チャップリン等の通常の無声映画をかけるのはちょっと違うなと。
そこでどぎつい笑いのアニメを作らないと……と作り出したのが『サザザさん』だったのですが、それが多少評判になり仕事が増えてしまったという。
ただ、今は他のお仕事や本来の活弁のお仕事も増えたこともあり、『サザザさん』はあまりやらないことにしています。
まあ一番の理由は、やり過ぎて飽きちゃったんですよね。
自分の中のブラックユーモアだったり、アンダーグラウンドなものが好きという部分はあるんですよ。
でもああいった方向でなく、実は本来のオーソドックスな無声映画でも「自分の狂気」みたいなものを出せる作品もあるんですよね。
もちろん、映画の前に事前にお客様に語っておく部分の工夫とか、いろいろ必要なことはありますが。
参考▶︎「活動弁士・坂本頼光さんが激ヤバ自作アニメ『サザザさん7』を披露してくれたぞ!最高すぎ!必見!【ピョコタン】」
――確かに、古い映画を今上映すること自体がいろいろ難しかったりもしますよね。
女性の容姿を扱ったギャグだったり、アメリカの映画の場合は「黒人をからかう」みたいな描写があるわけです。
でもこれは仕方ないんですよ、作られたのが1910〜20年代とかなので。
そういう作品を扱う時は非常に気をつけますが、それでも「やってはいけない」ということではない。
やり方を工夫すればいいわけです。若い頃は危ない表現を言ってみたりするのが楽しい時期もありましたが、それは麻疹みたいなもので(笑)。
コンプライアンスがいろいろ厳しいこんな時代でも、たとえ表現を変えたとしても、自分の精神性は変えないでおく。それは工夫次第で可能だと思っています。
だから、今の僕のモチベーションは「オーソドックスな無声映画によってお客さんを楽しませる」ということなんでしょうね。
でもそれは若い頃にアレコレやって、それを経たからこその境地だと思っています。また変わるかもしれませんしね。
――若いころのスタイルとは変化が生まれていると。
無声映画は基本的に昔の映画なので、不自然だったり強引な展開も少なくないんです。
若い頃は「そんなわけないだろう」みたいなツッコミをたくさん入れていた時期もあったんですが、やはりそのスタイルは作品を壊しすぎてしまうなと。
今はそういう場合はツッコミを入れるのではなく、褒める、全面的に肯定する、言葉を駆使して誉め殺しで成立させるくらいのテンションを心がけています。
そのことによって笑いが生まれるし、そうなる状況がまた面白い。
変なところも矛盾してるところも肯定して説明する、でもお客さんにもその不自然さはわかるわけですし。
ツッコミというのは何回も繰り返すことで飽きられてしまうし、お客さんからすると私が作品をいじめているように見えてしまうんですよね。それは行儀の悪い芸だと思う。
今は無声映画や活動写真弁士の活動自体を知らない人の前で演じることも増えているので、オーソドックスな作品をどれだけ分析して今のお客さんに伝えられるようにするかが大事ですし、結構な大仕事だな、と思います。
弁士が増えて「活弁」世界の裾野が広がるといい
――活動写真弁士というお仕事の大変な部分は?
「台本作り」ですね。なぜかというと、活動写真弁士は映画1本ごとに台本を自分で作らなくてはいけないんですよ。
――そうか、落語や講談のように師匠からの口伝とかではない!
全部自分で考えるからこそ、弁士ごとの個性が出る部分でもあるんですけどね。
ただ台本を書くに当たって、まず映画の情報を調べます。
原作があったら原作を読むし、字幕がインサートされる場合はそれを抜書きして、字幕以外の部分を埋める作業をする。
外国の作品なら日本人にはわからない現地の風俗描写があったりする。これが大変です。
――練習などはされるんですか?
やりますよ、声が出せるのでカラオケボックスに行くことが多いです。
あとアナウンサーさんとかも訓練でやるみたいですけど、若い頃は目の前の風景を口に出して描写する、ということもよくやってました。
例えば駅で電車を待っているときに家族連れを見かけると「楽しそうにやってまいりました親子、お父さんお母さん、坊っちゃんお嬢ちゃんと平均的な4人のファミリーであります。うん、お父さん、どっちに行くの?」……なんてその場でやってみたり。
――うわ、お見事です! でもこれ、日常でやっていると不審がられませんか?
そうですよね(笑)。でもこれ、今だとやりやすいんですよ。ワイヤレスイヤホンつけて通話してる人だと思ってもらえるので。
――「今後、こういう活動をしていきたい」というビジョンはありますか?
そうですね……まだまだやっていない作品は膨大です。
記録としても残す意味でも未発明の作品を積極的にやっていかなくては、というのはあります。
あと今、最年少の活動写真弁士は23歳なんですね。久しぶりの若手が現れまして。
これを皮切りに、もっと活弁人口を増やしたいなと思っています。
今は全体で20人ほどですが、50人くらいいればいいと思ってますよ。
毎年、新宿の武蔵野館で「カツベン映画祭」というのが行われるんですが、ここにはいろいろな弁士が一同に介するので、ぜひ皆さんに来ていただきたい。
こういうフェス的な催しも、もっと増えていけばいいなと思っています。
興味を持った人が、自発的に来てくれなきゃどうしようもないですからね。
光るものがあるったって、拉致して来るわけにはいかないんだから。
――確かに、そういう場所だと弁士ごとの個性がわかりますもんね。
そうなんです。
僕はこれは声を大にして言いたいんですけど、今数が少ない、イコール「貴重である」ということを悪用したくないんです。
数が少ない事自体はいいことではないですから。
だから活動写真弁士がもっと増えて欲しい、何ならすごく筋がいい人に入ってきてもらい、既存の弁士として脅威を感じたい! そう思っています。
まとめ
第4回カツベン映画祭の詳細はこちら(マツダ映画社)