【第16話】 花咲く乙女たちの中心に(八)
後輩社長が車を研究所の裏手に回した。
スライムが車やわたしを認識しているのかはわからないが、今のところこちらに向かってくる気配はない。
「地下3階まで侵入されました!」
それからの三十分間のことは今も思い出したくない。
地上四階分の非常はしごを登るなんて──そもそもはしご自体──初めてだったし、チーフとふたりで屋上に出てからはスライムの触手をかわしながら走り続けて、日々運動不足のわたしはこうして書いているだけで息が切れてしまう。
「小説家さん、ADP(アンチドローンパルス)はわたしが動かします。小説家さんはそこのドアから所内に逃げてください」
車を出て十四分目、ふたりでADPの操作盤にたどりついたところでチーフが言った。
──今カギを開けました!
後輩社長もメガネに指示を出す。
わたしは息も絶え絶え、
「──そ、それっ……す」息継ぎ「っすぐに、動く──の?」
「四十五秒で動かします!」
ならばわたしのやることは決まっている。
わたしはチーフの肩をぽんぽんと叩き──それはもう話ができなかったからだけれど──ついに地下から上がってきたスライム本体に向かって走り出した。
「小説家さん? ──待っててください!」
チーフはさすが後輩社長が選んだだけはある。すぐにわたしの意図を読み取って作業を始めてくれた。
わたしはおとりとなってスライムを引きつけて、チーフから離れていく。
「小説家さん、あと四十秒です!」
──先輩! がんばって!
まだ五秒?
応援されるのは悪い気分ではないけれど、そのころにはもうわたしは声を出すことなんてとてもとてもできなくて、ほとんど歩くようにしてチーフから反対側の屋上の端に進んだ。
量子コンピュータは無事だった。防火扉に防犯シャッターでスライムを物理的に防ぎ、それから消火用のガスもぶっかけて、さらに屋上にわずかに残っていたスライムがわたしを見つけて本体を呼び寄せて、スライムは地下から引き上げたのだった。
A-PRISMの特徴のひとつが、量子コンピュータに実装されていることにもとづく〈量子性〉なのだという。
小説の世界にも、テーマやタイトルなど様々なかたちで量子という言葉が入ってきて、学生時代のわたしは後輩社長と過ごした二年間、一緒に物理っぽい授業を受けたりしたものだ。
ん?
わたしは不意に学生寮の夜を思い出す。
眠れなくて寮の前の自販機でコーラを買って、誰もいない寮のロビーでひとり飲んでいた。
そこに現れた後輩は小さなぬいぐるみを抱えていて、ぬいぐるみのTシャツにはA-PRISMという文字が入っていた。Aは人工知能で、PRISMというのはPredictive Reality Interactive Search Model(予測現実相互作用検索模型)の頭文字をとったものだという。そうか、後輩はあの頃から作っていたんだ。
あれ、何のぬいぐるみだったかな。
「小説家さん! あと二十秒!」
うそでしょと心の中で思おうとした瞬間、わたしはスライム流に飲み込まれてしまった。
メガネも流されて、もう誰の声も聞こえない。
スライムはものすごい勢いでわたしを押し流していく。
突然スライム流の方向が変わって、わたしは目を開いた。
驚いて、思わずスライムを飲み込むところだった。
わたしを包み込んだスライムはぐぐっと上に伸びていて、わたしは屋上よりも遥か高いところに宙づりみたいになっていた。
足元ずっと下で、チーフが何かを叫んでいる。
あと十秒とか言っているのだろうか。
次の瞬間、スライムが爆発した。
ああ、チーフが装置を起動したんだ。
そしてわたしの視界いっぱいに青い空が広がる。
ただ青くて美しい。
わたしはスライムと一緒に流されていく。
このままだと外に流れ出てしまうだろうとは思うのだけれど、スライムの中でも息ができなかったから、もうわたしは指一本動かせない。このスライムも殺人鬼のものなのだろうか。
「小説家さん!」
わたしはチーフに抱きつかれて、スライムの表面まで運ばれていく。
「息して!」
げぼげぼとスライムを吐き出しながらわたしは超ひさしぶりに新鮮な空気を吸った。
きっと顔もぐちゃぐちゃに違いない。
ちゃんとお風呂に入って着替えてからチーフにお礼したいなんて考えていたのは、きっと死にそうだったからだろう。アドレナリンか何かで、すべてがスローモーションになっていく。
チーフとわたしはスライムと共に下へ落ちていこうとしていた。
最悪わたしは死んでもいいのだけれど、チーフには死んでほしくない。出会ったばかりだし、完全にわたしの巻き添えだ。
「あきらめないで!」
スライムの巨体が轟音と共に地面に落ちる。
わたしの体を衝撃がつらぬいていく。
「小説家さん!」
痛みがないわけではないが、耐えられないほどでもない。
わたしの下半身に水がかかる。
これは──海か。
「……どうしてここに」
「スライムが屋上から落ちて、ワタシたちごと海岸まで流れてきたんです」
チーフがひざにわたしの頭を載せてくれているのに気づく。ひざまくらというやつだ。
どうやら気絶していたのはわずかな時間らしい。
チーフのものと思われる匂いがほんわり香ってくる。チーフの白衣のせいか、薬品の香りもするし、なんとなく甘い。
「いいにおい……」
「え? なんですか? ワタシ、耳にスライムが入ったっぽくて」
チーフが耳をとんとんしてから、わたしにその耳を近づけてくる。
わたしは手を伸ばして、そっとチーフの耳にふれると、チーフが大げさにのけぞった。
「小説家さん! ワタシ耳弱いんです! さわっちゃダメです!」
「ごめん、なんか目の前にあったから。──起こしてもらっていい?」
空は夕焼けに染まり始めていた。
チーフはわたしを心配してずっと抱きとめてくれている。
しかしわたしのほうが恥ずかしさに耐えきれずに体を離した。チーフはあんなどたばたがあったのに元気に満ち溢れた、無邪気な笑顔を見せる。
ふたりとも全身、髪からつま先まで、スライムでべとべとだ。わたしの──タブレット同様──去年の秋に買ったコートも、チーフの白衣も、真っ青に染め上げられている。
「歩けそうですか? ワタシのメガネもどっかに行っちゃって」
「……ドローンで見てないのかな」
「ADP使ったので、この周囲に使用可能なドローンはないんです」
とチーフは偉そうに言う。もちろんチーフのお手柄なんだけど、なんだかなんだかだ。
わたしはいたたまれなくて一人で歩き出したものの、たちまちよろめいてしまった。
「ムリしないでください。ワタシちょっと走って誰か呼んできます」
「ダメ」
わたしはチーフの手を引いた。
「小説家さん?」
どうやらわたしが寂しがっていると思ったらしく──それ自体は当たっているのだけれど──チーフはまたもわたしを抱きしめてくれた。チーフはわたしよりも少しだけ背が低い。
わたしと目が合うと、チーフは頬を赤くした。わたしなんてもっと前から真っ赤だ。
今度はわたしから顔を近づける。
チーフは目を伏せて、体をこわばらせた。
「キス──していい?」
車を降りてこれが三十分め。
生まれてから色々あったけれど、この三十分間は最高に最悪なひとつだと断言できる。
それはチーフの悲しそうな顔を見たからだ。
「ワタシ……! 社長たち探してきます!」
チーフがわたしの腕の中から走り去っていった。
わたしはその場にへたりこむ。
立っているだけの力も失ってしまったから。
砂浜にはスライムのかけらが青く残っていたけれど、次第に波に流されて消えていった。
わたしごと流してくれればいいのに。
しかし何分もたたないうちに後輩社長たちがこちらに走ってくるのが見えた。
その先頭にはチーフがいて、それだけでうれしくてたまらないわたしはきっとどうしようもない愚か者だ。
──「第二編 花咲く乙女たちの中心に」完──
次回より「第三編 結婚式フォトグラファーのほう」
〔第16話:全3,027字=高島執筆653字+AI執筆2,374字/第17話「結婚式フォトグラファーのほう(一)」に続く〕
▶これまでの『失われた青を求めて』
高島雄哉(たかしま・ゆうや)
小説家+SF考証。1977年山口県宇部市生まれ。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、ハードSF「ランドスケープと夏の定理」で創元SF短編賞受賞。同年、数学短編「わたしをかぞえる」で星新一賞入選。著書は『21.5世紀僕たちはどう生きるか』『青い砂漠のエチカ』他多数。2016年からSF考証として『ゼーガペインADP』『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』やVRゲーム『アルトデウスBC』『ディスクロニアCA』など多くの作品を担当。
Twitter:@7u7a_TAKASHIMA
使用ツール:
AIのべりすと
Twitter:@_bit192
次回をお楽しみに。毎週木曜日更新です。