煙のあった風景 09 坂の上の白い粉【ボリビア】

煙草はリラックスのための嗜好品。しかし命がけの一服もある――。
「危険地帯ジャーナリスト」としてスラムやマフィアなどの裏社会を取材し、世界の生々しい姿を平和ボケの日本に届け続ける、丸山ゴンザレスさん。
本連載では愛煙家でもある丸ゴンさんの数々の体当たり取材の現場に欠かせなかった煙草のエピソードを通して、その刺激的な旅の足跡をたどります。
刺激的な旅とともに必ず煙草があった丸ゴンさんの、今回のエピソードは―

丸山ゴンザレス


ジャーナリスト、國學院大學学術資料センター共同研究員。國學院大學大学院修了後、出版社勤務を経てフリーのジャーナリストとして日本の裏社会や海外危険地帯の取材を重ねている。主な著書に『アジア親日の履歴書』(辰巳出版)、『世界の混沌を歩く ダークツーリスト』(講談社)、『MASTERゴンザレスのクレイジー考古学』(双葉社)、『世界ヤバすぎ!危険地帯の歩き方』(産業編集センター)、『危険地帯潜入調査報告書 裏社会に存在する鉄の掟編』(村田らむ氏と共著・竹書房)など多数あり。

09 坂の上の白い粉【ボリビア】

 

煙を吸うのが苦しかった場所

思い出すだけで苦しくなる煙の記憶がある。不意に蘇っては決して忘れることのない記憶である。その舞台となったのは、ボリビアの事実上の首都ラパス(憲法上の首都はスクレ)にあるエル・アルト国際空港。
訪れたのは2018年。取材目的はコカインだった。というのもコロンビア、ペルー、ボリビアは南米の三大コカイン生産拠点として挙げられるからだ。どうやって生産しているのかを紹介すると、まずコカインの原材料となるのがコカの葉。これを精製してコカインにするのだ。精製前のコカの葉については先住民の伝統的な嗜好品となっているため、全面的な栽培禁止などには各国踏み切れずにいた。それでも諸外国からの圧力もあってコカインの取り締まりが強化されているコロンビアとペルーに対してボリビアは違っていた。エボ・モラレス大統領(当時)が、コカの栽培を拡大する法案に署名したのだ。
モラレス大統領は、先住民出身で支持母体も先住民ということで人気取りとは言われたが、実際に生産量は増加していた。世界的に問題視される麻薬。その原料が増産されている国がある。この状況に興味を抱くなという方が無理だろう。そんなことがあって20時間近くの移動を経てボリビアに向かったのが、先ほどのエル・アルト国際空港だったのだ。

旅暮らしの身としては、移動時間がどんなに長くてもある程度は慣れがある。体力的にも問題ないし、そもそも南米エリアに行くことにテンションは高まっていた。問題だったのは、空港の立地である。ここは標高4000メートルの高地だ。
富士山が標高3776メートルといえば、どれほどの高さかわかるだろう。そんな空港に降り立ってやや息苦しさを感じた。イミグレを通過するあたりまでは違和感程度だった。徐々に呼吸がおかしくなってきた。
喫煙者ならわかるだろうが、空港を出たタイミングで吸うタバコほど体に染みるものはない。この体調の変化に違和感はあったものの喫煙の習慣が抜けるわけではないので、アライバル(到着)ゲートを抜けると真っ直ぐ喫煙スペースに向かった。

空港の場合、明確に喫煙所が設置されていない場合は、「なんとなく」探すのである。タクシー運転手が吸っている場所ならば間違いなく注意されることはない。あとは、ルール違反で色々と言われそうだが、吸い殻が捨てられている物陰あたりで吸えばいいと思っている。
この時もそんな場所でくわえタバコを決め込んだ。
だが何かがおかしい。
鼻と口から吸い込める空気の量が少ないのだ。それでもニコチンの誘惑には勝てない。火をつけて一気に吸い込む。何度も吸い込む。それなのに空気がいつものように吸えないのだ。「あれ? 俺、どうにかなってしまったのか?」との戸惑いが顔に出ていたのだろう。空港で合流していた通訳のTさんが思いもよらないことを指摘する。
「丸山さん、顔が白いです。青じゃなくて白です」
「!?」

体調の悪さというか、思うように空気が吸えない苦しさは自覚していたが、そこまで変化があるなんて。いったいこれは何かあったのかと思うが、冷静になってみればすぐに原因に思い至った。高山病である。
旅仲間から聞かされたエル・アルト国際空港の話を思い出したのだ。
陸路で動くバックパッカーたちは、あえて何日かかけて下の方の街からラパスに上がってくるので、高山病にはかかりにくくなる。一方、飛行機で移動した場合、ここに降り立つと一気に富士山より高い場所に行くことになる。そのため体が順応できておらず、高山病になりやすいというものだった。
そもそも高山病とは、気圧が下がる高地では空気が薄くなり、その環境に体が順応できずにさまざまな症状が現れるものである。
空気が足りないところにタバコの煙を入れ込んだ俺の状態など、今さら説明することもないが、ほぼ溺れた状態なのである。顔も青を通り越して白くなるというものだ。

タバコの火が残ったまま、俺はゆっくりと深呼吸をした。
とにかく酸素が欲しかった。
指の間でチリチリと燃えていく。本来ならこんなタバコの持ち方はしないはずだ。酒の一滴と同じぐらいタバコの吸い口を大事にしたからだ。特に海外では空港の免税店で買ってきたタバコを帰国するまで無駄にしたくなかった。この時もアメリカンスピリッツを1カートン持参していた。

貴重な一本が燃え尽きる頃、俺はようやく動けるようになった。
その様子を見た通訳Tさんは「行きましょう」と出発を促したのだった。移動車に乗り込む。まずはホテルへと向かう。その途中は中心部に向けた急勾配。高度も徐々に下がってきたことで気持ち呼吸も落ち着いていきた。窓ガラスに張り付くようにして外を見ていると、空港までの上り道を自転車で走ったり、ランニングしている地元民を見かけた。そのたびに思うように動かない自分への苛立ちをぶつけるかのように、失礼ながら「どういう心肺能力なのか」をもっと酷い言葉に変換した悪態に近いことを言いまくった。そうやって口から空気を出すたびに、俺の顔色は白くなっていった。

坂の上の白い粉

コカインの取材に来たのだから苦しいとばかりは言っていられない。
ボリビアではコカから精製されたコカインの安さは極まっている。1グラムで1〜5ドルぐらい。混ぜ物の入っていないピュアなコカインである。
ボリビアの裏社会でコカインを大きく扱っている売人に聞いたのに細かい値段ははっきりしなかった。商売ものの値段がわからないというのに納得できずに追求すると、
「俺たちの扱う単位はキロだから、グラムでの値段なんてわからない」
とのことだった。思わず納得である。確かに彼らは大口の取引しかない。それならば、街で販売しているプッシャーの方に聞いてみるしかない。
そのことを取材に協力してくれていた地元の元ギャングに伝えると、ちょうどコカインを買いに行こうとしている初老の男を紹介された。申し訳ないが小汚い雰囲気でそれほど裕福な暮らしをしていないことがうかがえた。
そんな男に同行を申し出ると、条件が突きつけられた。それは俺が一人で行くことだった。カメラは自前のスマホだけ。他の人間はいない。俺はこんな取材をずっとしてきたので、正直なところなんとも思っていなかった。むしろ二つ返事で「いいよ」と言ったぐらいだ。
驚いていたのは通訳のTさん。
「マジで行かれるんですか? 一人で売人のところってやばくないですか?」
俺には何の懸念かわからなかった。危険とされる場所に飛び込むから、そこで見た現実に価値が出る。俺のように動くことでしか生み出すきっかけを掴むことのできない物書きにとって、どんなにリスクがあろうとも躊躇なく踏み込むことしかない。
「行くよ。当然でしょ」
言い残したのはそれだけだった。俺にだってリスクがあることはわかっている。それでも立ち止まることなどできない。
初老の男についてラパスの街をのぼりはじめた。躊躇なく返事をするまでは、我ながら決断力がある。実は一人で坂道を歩くたびに後悔が押し寄せていた。
それはリスクの高さではない。呼吸である。
苦しいのだ。
普通の坂道ではない。富士山よりも高い場所である。そこを一歩一歩進むのだから、登山をしているようなものである。
それなのに慣れた様子で初老の男はスタスタと登っていく。

別に誰かに頼まれたわけでもない。
自分が好きでここまできた。
自分がもう嫌だと言えばそこまでである。
いつだってやめることができる。
だからこそ、自分からギブアップなんてしたくない。
だけど、いつまで登り続けるのだろう。
この男は地元だから慣れているのか、それとも俺の体力がないだけなのか。
酸素が足りないせいだろうか、思考がぐるぐると巡っている。
もうダメだ。このままではどうにもならない。だが、俺の語彙と男の英語力では意思の疎通などできようはずもない。どうにかいい方法はないものか。
不意に遠くを見るとラパスの街は坂にへばりつくように並んだ灯りだけが並んでいた。暗くて建物自体が見えないため家の灯りが浮かび上がっているのだろう。
関係ないところに思考が動き出した。もはやこれまで。これから売人の家に行こうかというので主導権を譲りたくはない。心肺機能が限界を越す前に休息をするべきだと判断した。

「ウェイト・ア・ミニッツ、プリーズ(少し待ってください)」

ここはスペイン語がベターなのだろうが、悲しいかな話せるほどの語彙がない。初老の男にも伝わりやすいようになるべくゆっくりと発音した。それなのに男は「は?」という表情を浮かべるばかり。
こんな簡単な英語すらわかってもらえないのか。やはりスペイン語でないとダメなのだ。だが、俺の中にあるのはセルベスタ(ビール)、バーニョ(トイレ)、アミーゴ(友達)、グラシアス(ありがとう)ぐらいなものである。他にないのかと考えるうちにある光景が浮かんだ。
それは大好きなプロレスの一場面である。人気ユニットのロスインゴ(ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン)の内藤哲也選手がゆっくりとした動きで相手を挑発するように「トランキーロ、焦んなよ」と言うところだ。
「焦るな=急ぐな=ちょっと待って」
このようにならないだろうか。言い方が強くならないようにしよう。
「トランキーロ、アミーゴ(友よ、ちょっと待って)
肺に残った最後の酸素を使って消え入りそうな音量で叫ぶ。すると奇跡が起きたかのように男は立ち止まった。俺は自分がここで一旦立ち止まっていたいということを伝えるべくさらに重ねた。
「アミーゴ、バーニョ(友よ、トイレだ)」
男は半笑いで頷く。そして、ちょっと坂の上の方の家を指差した。どうやら目的地に到着しているようだ。早く言えよ!と思ったが文句をつけるほどの語彙力がないのは既にお伝えしたとおりである。奴は「ちょっと待ってろ」のジェスチャーをして、家の中に入っていった。

暗い夜道で一人になった俺は酸素を無駄遣いするのはわかっていながら、ポケットからタバコを取り出し先ほどの斜面の家の灯りを眺めながら火をつける。そして酸素と一緒に吸い込んだ。
乾いた喉に煙が張り付いた。
バックパックのサイドに差したペットボトルの水を飲む。ボトルを閉めてから口内が潤っているのを確認する。それからゆっくりタバコと空気と一緒に煙を吸った。体内を循環した煙がゆっくりと戻ってくる。
叫ぶように吐き出した煙は夜の灯りが散らばるラパスの街に向かって流れていった。それが消えていくまで追いかけて見ることができた。それぐらいの余裕は戻っていたようだ。少しだけ高地順応できている自分の体を褒めてやりたいと思った。

戻ってきた男の手には白い粉の入ったパケットがあった。なぜかドヤ顔をしていたのが印象的だったが、これ以上は何も言う気にならない。「グラシアス」と言って、おとなしく坂道を降りることにした。下り坂は体力的に平気だったが膝が少し痛かった。
その間も煙の消えていったラパスの街並みをずっと眺めていた。この時の風景はいつまでも俺の記憶に苦しさとともに残っている。

▶いままでの「煙のあった風景」

文・丸山ゴンザレス
Twitter:@marugon

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