煙のあった風景 10 取り残された夜【ブラジル】

煙草はリラックスのための嗜好品。しかし命がけの一服もある――。
「危険地帯ジャーナリスト」としてスラムやマフィアなどの裏社会を取材し、世界の生々しい姿を平和ボケの日本に届け続ける、丸山ゴンザレスさん。
本連載では愛煙家でもある丸ゴンさんの数々の体当たり取材の現場に欠かせなかった煙草のエピソードを通して、その刺激的な旅の足跡をたどります。

▶いままでの「煙のあった風景」

危うい旅とともに必ず煙草があった丸ゴンさんの、今回のエピソードは―

丸山ゴンザレス


ジャーナリスト、國學院大學学術資料センター共同研究員。國學院大學大学院修了後、出版社勤務を経てフリーのジャーナリストとして日本の裏社会や海外危険地帯の取材を重ねている。主な著書に『アジア親日の履歴書』(辰巳出版)、『世界の混沌を歩く ダークツーリスト』(講談社)、『MASTERゴンザレスのクレイジー考古学』(双葉社)、『世界ヤバすぎ!危険地帯の歩き方』(産業編集センター)、『危険地帯潜入調査報告書 裏社会に存在する鉄の掟編』(村田らむ氏と共著・竹書房)など多数あり。

10 取り残された夜【ブラジル】

 

油断ならない真夜中の路上

「おい、マジかよ!ふざけんな!」
2018年の夏の終わり頃のことだ。俺はブラジルサンパウロの真夜中の路上、しかもボアッチを出たところでややキレ気味に不満をこぼしていた。ボアッチとはキャバレーと出会い系カフェと置き屋を合わせたようなブラジルを代表するナイトスポットの形態である。こんな場所で不満をこぼしているのも別に風俗的な意味で外したからではない。遡ること1時間前までの出来事に原因があった。

二週間ほどのリオデジャネイロに滞在する取材を終えてサンパウロに移動した。サンパウロは初めての街だったが、ここには頼りになる友人Kが住んでいる。彼を頼って滞在することにしていた。10年来の付き合いである。サンパウロ入りする前から「任せろ」と言う彼の言葉を信じていた。実際、すすめられるままに街の中心部、Kの会社に徒歩圏内のホテルを選ぶほどだ。この時点で完全に油断していたのは否めない。
通常の俺だったら自分で調べて街の地理とかを頭に叩き込んでおくところなのに、「案内人がいるのだから徐々に慣れていけばいいか」とのんびり構えすぎて準備を怠っていた。しかもサンパウロはブラジル第一の都市として安定感のある場所だった。ちなみに首都のブラジリアは行政の中心であり都市としてはサンパウロが頭抜けている。そんなこともあってどこか治安的なことでは安心し切っていたのだ。

空港からホテルに到着後、チェックインを済ませると街の空気を感じてみようと一本裏の路上でタバコを吸ってみた。路上喫煙はあまり推奨できることではないが、ゆっくりとタバコの煙を燻らせて街ゆく人たちを観察することで気がつくこともある。

たとえばブラジル人たちもそれなりにタバコを吸っているが、喫煙者自体そこまで多いようには感じられなかった。タバコ屋も多いようには思えなかった。これは外国人である俺にわからない場所で販売しているのか、よほどの高級品なのかとも思ったが、相場をなんとなく調べてみると「250円ぐらい」とのことであった。
手元にはいつものように日本から持参していたアメスピがあったので、ブラジルの現地タバコを頻繁に吸うことはなく、印象に残るような銘柄はない。ぼんやりと覚えているのは、パッケージのグロ画像がタイのタバコ(グロ注意で有名)よりもエグいなということぐらいである。
後でわかったのだが、国策で健康増進を掲げており、徐々に規制する方向であるという。もしかしたら喫煙者やタバコ屋が目立たないのは、その影響なのかもしれないが、さすがに深いところまでは路上観察や散歩しているだけではわからなかった。

ホテルの周辺を散歩したところで友達と合流した。ステーキでも食べようとなったが、昼を過ぎたばかりで時間的には相当早かった。そこで向かったのは中心部の外れの方にある大きな公園。ここは少しだけ治安が悪い特徴に合致するような場所だった。要するにドラッグの売人やホームレスがいるような場所だったのだ。こういう雰囲気はどこの国でも好きなもので、Kの案内で少し散策することにした。
「郊外に出なければ、一応、この辺りがサンパウロの危ない場所かな。まあ、マルゴンさんにしてみれば余裕でしょ」
「別に怖いところが好きなわけじゃないから。取材でもなかったら近寄ったりしないよ」
「またまた〜。危険とかスリル、大好きじゃないですか」
実は直前まで取材していたのがリオのファベイラやギャングたちである。もしかしたら危機察知のアンテナ、恐怖の抑制といった感度が完全にバグっていたのかもしれない。そんな内面のズレがあるかもしれない懸念を口にすることもなく、どうでもいい思い出話を重ねたりして旧交を温めた。その後も廃ビルのようなマリファナの販売所や大型置き屋など、地元の人でないと知り得ないおもしろスポットを巡り、時刻はいつの間にか夕方になっていたので、ようやくステーキ屋に入った。


別にステーキ屋と看板を掲げている訳ではないが、ブラジルの飲み屋のつまみは大抵がステーキである。肉の塊を焼いただけといった感じなのだが、これがたまらなく美味しい。日本では当たり前になっているサシの入った柔らかい肉ではない。赤身で歯ごたえのある肉なのだ。ゆっくりと噛んでビールで押し流す感触がたまらなく良かった。
何本も飲んだせいで、タバコの銘柄は覚えていないのに、お気に入りのビールができた。Skol(スコール)とBrahma(ブラハマ)だ。いずれもブラジルでは定番のビールだ。肉を食ってビールで流し込む作業を繰り返していたら無性にタバコを吸いたくなった。やはり俺にとって煙もつまみなのかもしれない。
陣取っていたのはテラス席だったので、ちょっとだけ店外に体をはみ出して、外に向けてタバコを吸う。誰からも文句は言われないし、他の常連客も同じように喫煙していたので、それでいいのだろう。細かいことを追求してこない大雑把なところに魅力を感じてブラジルのことが好きになる日本人は多いという。実際、俺も魅了されつつあった。

ナイトタウンで消えた友達


ひとしきり飯を楽しんだところで「飲んだらボアッチでしょう!」と、Kに誘われる。極めて個人的な嗜好を言わせてもらえれば、俺は飲んだら寝たい。正直、遊ぶ気にならない。とはいえ、ここはKの地元である。彼の顔を潰すのもよくない。重くなった腹をさすりながら付き合うことにした。これは中学生の「俺、性欲なくなった」的な強がりではなく、本当にそう思っていたのだ。むしろ積極的に遊ぼうと思っていたら、この後の展開でも納得できる部分はあったのだが……

連れていかれたのは、人気のボアッチでかなり多くの女性や男性客で混み合っていた。この点で正直、自分がどのあたりにいるのかわからなくなっていた。昼間に歩いたあたりから15分か20分ぐらいは移動したかなという感じであった。
しばらく店内でビールを飲みながら女の子たちを眺めていた。
サンパウロでの出来事、滞在中に何をするのか、日本での思い出など取り止めのないことを友達と話していた。少し経つとタバコが吸いたくなったが、店内では禁煙だという。店員から奥にある吹き抜けスペースが喫煙所になっていると教えられた。
タバコを吸って、トイレに寄り、女の子たちに声をかけてポルトガル語ができないことをいじられて、英語で言い返すを繰り返してから席に戻った。友人が席にいなかったので「あれ?」と思ったが、どうせトイレか酒のおかわりだろうと思って、俺も飲みながらダラダラと過ごしていた。
しばらくぼーっとしているが、友達が現れる様子がない。スマホを見ても着信どころかLINEも届いてない。
心配になった俺から「どうした?」「大丈夫か?」と送るが既読すらつかない
実はボアッチは二種類あって、店舗にプレイルームがあるタイプと近隣のホテルに行くタイプがある。ここは前者だったので、この時点で「あいつ、プレイしに行ったな」と確信していた。それからさらに30分が経過した。その頃になって「もしかしたら違うかも」という疑念が湧き上がってきた。

「そもそも黙ってプレイしに行くだろうか。いや、やつならやりかねない。う〜ん」

仕方ない。あと10分待っても来なかったら……どうする?そもそもここがどこかもわからない。ちょっと待て、これって不味くないか?しばらく思考停止していたが、ようやく自分の置かれた状況を把握したところでLINEが届いた。

「嫁が怒ってるから先に帰る」

俺は固まった。時刻は既に深夜だった。この辺は昼間でもドラッグの売人がたむろしているような場所でサンパウロの中では治安の悪い方に入る、などという友人の説明をよりにもよってなぜかこんな時に思い出した。俺は散々迷った挙句、店にいても仕方ないと、とりあえず外に出て様子を確認しようと思った。
もしかしたら店の前にはタクシーの列とかできていて安心安全かもしれないからだ。むしろそうじゃなかったら友達を置いて地元の奴が帰るはずがない。
ゆっくりと歩きながら店のドアを一歩出ると、タクシーどころか車もそれほど走ってない。道は暗い。何グループか男たちがたむろしている。
ダメじゃん!
そういえば、あいつはそういう奴だった。見た目は日本人だが、心はほとんどブラジル人。むしろブラジル人に大雑把と言われるような奴である。ここにきてようやく初めての街で置いてけぼりにされたのだとあらためて思った。

「おい、マジかよ!ふざけんな!」

ここで冒頭のブチ切れ発言に繋がるのである。最初からひとりだったらなんとも思わなかっただろう。最低限の準備はしているはずだからだ。自分のミスで追い詰められた俺の思考は揺れ出した。

きっと街歩きの補助輪となる友達Kがいるということで油断していたのだ。子供の頃に補助輪を外された自転車を漕ぎ出すのとは訳が違いすぎる。
この時、浮かんだのは「店の人は何メートル先まで「客」として守ってくれるのだろうか」ということ。店の中ならスタッフが何とかしてくれるだろう。入口ではどうか。多分、なんとかなる。店の敷地内だ。では、店の入り口を背にして歩き出したらどうなるのだろう。
なんだか考えるのが面倒になった。揺れた思考の先に自分の安全の担保をどこに置くのかという訳のわからないところに陥って色々面倒になったのだ。
(もういいや、行っちゃえ)
俺は出入り口まできたことで、この街に入ってからバグっていた危機察知アンテナの感度が戻っていることに気がついた。
戻ってきた俺の直感は「行ける」と言っている。もういい、行ってしまえ!一気に歩を進めて店から離れる。その瞬間からこっちを見ている連中がいる。若い男たちだ。数名のグループ。短パンによれよれのTシャツ。どこにでもいるお金のなさそうな若者たち。悪い奴らじゃないかもしれないし、思いっきり悪い奴らかもしれない。普段はいいやつでも俺を獲物と認識したら一瞬で狩人に変わるかもしれない。
獲物として値踏みしているのだとしたら、いったいどれほどの値段をつけてくれているのか。困ったものだ。感度のバグりが戻って落ち着きを取り戻したことで、周囲を観察する余裕も生まれた。すると不意に俺の記憶の扉が開いた。
いつだったか、ニューヨークの知り合いに「ゴンザレスさんは、こっちに来ても地元みたく過ごすよね」と言われたことがある。海外だろうとどこだろうと、自分のペースで過ごすし、できるだけ自分のやり方を貫く。そんな姿を見てのことで、深い意味はなかったのだろう。だが、この些細な言葉を今の俺の自信にするしかない。この時ばかりはそう思ったのだ。
(この街は俺の地元みたいなものだ)
自分に言い聞かせた。そうすることで振る舞いがより自然になる気がした。すると勝手に体が動いた。ポケットから汗でやや湿ったタバコを取り出す。俺にとって自然な動きといえばタバコだ。いつものアメスピ(アメリカンスピリッツ)である。口にくわえてゆっくりと火をつける。あとは深く空気ごと吸い込んだ。肺に溜めたあと真っ暗な空に向かって大きく吐き出した。自分が作り出したもやが薄いカーテンを作ってくれた。向こうに見える男たちの視線が若干緩んだような気がした。


それから男たちにこっちから目を向けて決して逸らさず、思いっきり距離を取るのではなく、程よい距離を保つことを優先した。その方が自然だと思った。そのまま歩道から車道に一歩降りて、ゆっくりと歩き出した。
振り返らなかったが誰かがついてくる気配がしていた。彼らとて別に本当に悪い奴らではない。たまたま俺の視界に入っただけなのだ。だが、ブラジルで油断はできない。特に深夜の風俗街なんて何が起きるかわかったものじゃない。俺は拳を振り抜く準備だけはしていた。
(くるならきやがれ)
いつだってやりあう覚悟はできている。ゆっくりと歩いていくと視界にタクシーが入る。こっちに向かってきた。空車っぽい。俺は焦る様子を見せないでタクシーの前に出て止まれのハンドサインをする。ゆっくり止まったタクシーに乗り込んだ。運転手の許諾はいらない。多少のぼったくりは覚悟しても許せる範囲だろう。
運転手は人の良さそうな初老の男。ブラジルで英語はあまり通用しないが、翻訳アプリと地図アプリを駆使して説明すると笑顔で頷いて出発してくれた。
すでに何の問題もないが、一応、気を抜かない。この運転手が豹変する可能性だってある。いや、あるはずだ。というか、このまま何も起きないのもちょっともったいない。このあたりは体験型作家のもの悲しさ。どんなに追い詰められていても、ぎりぎりのところでネタになりそうな時はそんなことを考えてしまうのだ。
そうこうしているうちにタクシーはホテル前に到着した。俺はこの運転手を疑ったことを申し訳なく思い、お釣りはいらないと言って降車した。

そしてホテルの玄関横の喫煙スペースに腰掛けるようにしてタバコを吸った。この時ばかりは、煙が流れていく夜空よりも、ゆっくりと立ち去っていくタクシーを見ていた。
友達に置いてきぼりにされた夜の煙は少しだけ安心な味がした。


▶いままでの「煙のあった風景」

文・丸山ゴンザレス
Twitter:@marugon

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