煙のあった風景 15 夜に漂う自由の残り香【2014年/香港】

煙草はリラックスのための嗜好品。しかし命がけの一服もある――。
「危険地帯ジャーナリスト」としてスラムやマフィアなどの裏社会を取材し、世界の生々しい姿を平和ボケの日本に届け続ける、丸山ゴンザレスさん。
本連載では愛煙家でもある丸ゴンさんの数々の体当たり取材の現場に欠かせなかった煙草のエピソードを通して、その刺激的な旅の足跡をたどります。

▶いままでの「煙のあった風景」

危うい旅とともに必ず煙草があった丸ゴンさんの、今回のエピソードは―

丸山ゴンザレス


ジャーナリスト、國學院大學学術資料センター共同研究員。國學院大學大学院修了後、出版社勤務を経てフリーのジャーナリストとして日本の裏社会や海外危険地帯の取材を重ねている。主な著書に『アジア親日の履歴書』(辰巳出版)、『世界の混沌を歩く ダークツーリスト』(講談社)、『MASTERゴンザレスのクレイジー考古学』(双葉社)、『世界ヤバすぎ!危険地帯の歩き方』(産業編集センター)、『危険地帯潜入調査報告書 裏社会に存在する鉄の掟編』(村田らむ氏と共著・竹書房)など多数あり。

15 夜に漂う自由の残り香

「好きな街は?」と聞かれたらアメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、アジア……、これまでに旅してきたいろんな街のことを思い出す。

どんな街にもその街の顔がある、それぞれに思い入れがある。ひとつに絞り込むことは難しい。ただし、特別な思いを抱く街に共通しているものがある。「自由」の匂いがするのだ。実際に鼻腔に届く香り的なものではない。旅をしていて、街を歩いていると自然と感じる空気のようなものだ。

「この街っていいな」

何日かさまよっていると不意に浮かぶ思い。そんな出会いがたまらなく好きだった。

ところが、俺の好きな自由が抑圧されることが近年はあまりに多すぎた。誰もが思い浮かべるのはコロナとロシアのウクライナ侵攻だろう。

移動の自由、人権、尊厳、命、あらゆるものが抑圧される時代の中で俺は再び旅を始めるようになった。そんな今、どうしても訪れたい街がある。香港である。今回はそんな街の煙の記憶をお届けしたい。

hong kong occupy central

友人の岸田さんはカメラマンでドキュメンタリー監督である。その人が台湾取材から帰国した。2014年3月18日に台湾と中国のサービス分野の市場開放を目的としたサービス貿易協定の批准に反対する学生らが立法院を占拠した。それを取材してきたのだ。

のちに「ひまわり学生運動」「台湾学生立法院占拠事件」と呼ばれるタイミングに出くわした彼の取材が正直うらやましかった。

「俺も行きたいな」と思っているところで、次に何かが起きそうな場所として目に入ったのは香港だった。行政長官の選挙に中国が圧力をかけてきたことに反発した学生たちが中環(セントラル)地区の行政府庁舎前に集まったのだ。非暴力の主張としてペッパースプレーを使ってくる警察に対して、雨傘を開いて立ち向かったことから雨傘革命と呼ばれ始めていた。

これまで香港には何度か行ったことがある。恵まれた経済力と高度な教育に裏打ちされた先進国的な無関心な人が多い街。そんな街の若者たちが大国に傘を武器に立ち向かうなど、これはいよいよ差し迫った状況にあるのだと思い知らされた。

香港に向かったのは同年6月の終わり。狙いは香港返還記念日である7月1日。そこで何かが起きると思ったからだ。岸田さんはすでに香港入りしており、重慶大厦(チョンキンマンション)で待ち合わせることになっていた。

重慶大厦といえば、沢木耕太郎先生の『深夜特急』を通ってきた世代のバックパッカーにとっては特別な場所である。尖沙咀のネイザンロードに面する巨大なビルである。ゲストハウス、雑貨屋、食堂、両替所などなど、およそ旅に必要なものは全て揃う。

スタート地点にしてカオス。そんな感想を抱きながら実際に建物へと踏み込んでみると、意外に綺麗な感じで肩透かしを食う。エレベーターで上階に行くと、ゲストハウスは1フロアに複数入居していたりするので、やはりカオスな雰囲気ではあるのかもしれないと思って、どうしても心が浮き立つ。

岸田さんと待ち合わせた宿で3畳ほどの激狭な部屋に入った。カバンを置いて岸田さんが滞在している部屋に行った。そこは俺の部屋よりも狭い2畳ぐらいの診察台かと思うようなベッドがギリギリ入っているだけのスペースだった。

「岸田さん、ここって」

「今朝になって急に狭い部屋に移動しろって言われて。それまではもう1畳ぐらい広かったんです。床にカバンも置けたのに」

愚痴っている岸田さんに申し訳なさそうに言った。

「それ、多分俺のせいです」

「は?」

俺の部屋番号を伝えると「マルゴンさんが入ってきたから俺が追い出されたってことですね!」

爆笑してくれた。彼の底抜けの明るさになんとなく心のつかえが取れたので、休憩がてらタバコを吸うことにした。

日本から持ってきたのはラッキーストライクのメンソールだった。

「ここ禁煙?」

宿のスタッフに尋ねると「当然」とばかりにうなずいた。エレベーターで一階まで降りると路上に面した外壁に寄りかかってタバコに火をつける。行き交う人たちは、路上喫煙になんとも思うことはないようで、特に視線を集めることもなかった。

ファッション、鞄、靴、メイクなどなど。外側でわかる属性だけでは中国らしさも、香港らしさも区別はつかない。大きな街に生きる人々にしか見えない。

(ここで民主主義を守るためのデモが起きているのか)

情報としては知っている。当時、日本のニュースではほとんど扱われていなかったので、付き合いのある雑誌社にデモ取材の企画を提出はしてきたが、どこからも採用されることはなかった。この頃、俺の仕事スタイルは雑誌に企画を通してから海外に出る流れになることが多かった。

出版社を辞めた俺はフリーランスのライターとして活動していた。経済的にそこまで余裕のあるわけではなかったので、旅費を捻出するのに仕事を絡めるのは当たり前だった。そのため、企画を通して記事になる=売り上げになるという位置付けの旅をしていたのだ。当然のことながら、お金にならない海外取材は費やした労力、時間も徒労に終わってしまう。

金にならない仕事とは、フリーランスにとって辛いものだ。そんなことは十分にわかっているのにチケットとホテルを手配して香港に来たのは、香港の自由が抑圧されていると感じたからだ。

地下鉄で岸田さんと現場となっている中環に着いた。車道に溢れる人。どこか中心になるような場所はないかと見渡すと海外からのメディアのベース基地となっているテントはあったが、そこに大手メディアの人はいなかった。

俺は岸田さんと離れて中環を歩き回る。人混みをかき分けて進む。座り込んでいる様子に統一感はない。自然発生的な集まりのような印象だった。

他に歩いていて気がついたのは、ゴミが散乱していないことだった。運営委員会があるわけでもないのにボランティアでゴミの収集場所を作る人がいて、デモ参加者もそれに従う。

自由のある都市というのは、誰かに強制されるのではなく、その街の市民であろうとする心、振る舞いをする市民たちによってこそ作られるものだと思う。その意味では、香港人たちの自由を愛する心の強さを感じることができた。

 

俺はデモ隊から離れるようにしてタバコを吸った。なんとなく人の波の中で喫煙する気になれなかったのだ。それから、俺は7月1日を迎えるまでの数日、香港の街中にある風俗店を覗いたり、香港式カレーを食べ歩いたり、深圳に行ったりと仕事じゃないからこその自由度で歩き回った。

デモを横目にしながら、カレーと一緒にブルーガール(藍妹啤酒)を飲んだ。香港生まれのビールではないようだが、香港人に人気らしい。青色と少女の絵柄のラベルが気に入った。すっきりとした味がメンソールのタバコに合う。

店は普通に動き、交通機関も正常。他の会社も当たり前に営業を続ける。こんな時でも香港は香港として稼働している。そんな街の力強さに俺は魅了されていった。

2014年7月1日

何度も通うと中環のデモ現場にも最前線があることがわかった。それでもどこが衝突ポイントになるかはわからない。警察本部の前という感じらしい、という噂話程度の情報を頼りに向かった。すでに多くの人が集まっていたが、カメラを持って首から適当に作った取材パスをぶら下げた俺が日本人でジャーナリストだとわかると「どうぞ」とばかりに前に出された。すると、いつの間にか俺が最前列にいた。

俺が一番前かよ!と思ったが、まわりを見れば、そこにはいろんな国から香港に来た連中がカメラを構えている。

そんな我々を見下ろしている連中がいた。警察本部の横に建つ人民解放軍の施設に上半身裸になった男たちがお気楽な表情で談笑していたのだ。その視線に気付いたのかどうかわからないが、イギリスから来たというフリージャーナリストの男が突然立ち上がって「F●●K チャイナ!!」と叫んだ。周囲から拍手が起きる。誰もが今夜、何かが起きると思っていた。

張り詰めた空気が弾けるのを待っている。そんな感じがしていた。

俺はどうしていいのかわからないのだが、とりあえずこの場を動くべきではないと思った。じっとりと嫌な汗をかいてTシャツが体にへばりつく。水分を補給しつつ、やがて深夜0時を迎えた。静寂だった。

10分、20分と時計の動きを見ていると警察本部の建物から警察隊が出てきた。

緊張が走った。

デモ隊や周囲の連中が腕にサランラップを巻いた。俺もそれに倣う。頭にタオルを巻いてゴーグルを装着した。警察がデモ隊に向けて噴射するペッパースプレーへの対抗策である。

「来るなら来い!」

ここは民主主義の最前線だ! 妙なテンションのギアが入った。もはや取材ですらない気持ちになっていた。俺は香港人ではない。自由のために戦う気概がどの程度かわからないが、それでも今ここにいることが正しいと思った。

汗が垂れる。

喉が渇く。

目が霞む。

どうすればいい。

俺の前にはデモ隊のメンバーは誰もいない。

何分経過したのかわからない。すると、警察が隊列を組み直した。そして、警察のトップと思しき人物、イギリス人の警察の高官がゆっくりと歩いてきた。

ぶつかる。衝突する!

緊張感はピークに達した。

「私たちは、君たちを尊重する。排除しない!」

警察が発した意外すぎる言葉に一瞬の静寂の後、現場では拍手が巻き起こった。俺は自分の心から空気が抜けていくような感覚をおぼえていた。他の人たちも同じだったのだろう。その場から誰も動こうとしない。

しばらくしても警察はそのまま動かなかったが、今夜は何も起きないと確信するまでその場を動けなかった。

徐々に空が白んできた。そこでようやく俺は安心して笑顔が溢れ、岸田さんと一緒に宿に戻ることにした。あの狭苦しい部屋に戻る方が圧迫感で潰れてしまうかもしれないなと軽口を叩きながらタバコを咥えた。

香港はこれからどうなっていくのだろう。相手は中国である。きっと勝てない。そんなことはわかっている。それでも香港人の強さ、香港人らしさを失わないで欲しいと勝手に彼らに託して立ち去ることにした。

薄明かりの中環の街。夏の朝だが少しだけ肌寒い風が吹いている。そこに俺のタバコの煙も一緒に運ばれていく。この瞬間、煙のあった風景を俺は忘れることはないだろう。

この後、俺は何度か香港を訪れたのだが、事態が転換したのは2019年7月1日のこと。そのことについては、また次回お届けしよう。


▶いままでの「煙のあった風景」

文・丸山ゴンザレス
Twitter:@marugon

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