煙のあった風景 16 終わる自由と新たな道【2019年/香港】

煙草はリラックスのための嗜好品。しかし命がけの一服もある――。
「危険地帯ジャーナリスト」としてスラムやマフィアなどの裏社会を取材し、世界の生々しい姿を平和ボケの日本に届け続ける、丸山ゴンザレスさん。
本連載では愛煙家でもある丸ゴンさんの数々の体当たり取材の現場に欠かせなかった煙草のエピソードを通して、その刺激的な旅の足跡をたどります。

▶いままでの「煙のあった風景」

▶煙のあった風景 15 夜に漂う自由の残り香【2014年/香港】

危うい旅とともに必ず煙草があった丸ゴンさんの、今回のエピソードは―

丸山ゴンザレス


ジャーナリスト、國學院大學学術資料センター共同研究員。國學院大學大学院修了後、出版社勤務を経てフリーのジャーナリストとして日本の裏社会や海外危険地帯の取材を重ねている。主な著書に『アジア親日の履歴書』(辰巳出版)、『世界の混沌を歩く ダークツーリスト』(講談社)、『MASTERゴンザレスのクレイジー考古学』(双葉社)、『世界ヤバすぎ!危険地帯の歩き方』(産業編集センター)、『危険地帯潜入調査報告書 裏社会に存在する鉄の掟編』(村田らむ氏と共著・竹書房)など多数あり。

16 終わる自由と新たな道

あの日の続きが始まる

2019年、香港で民主化を求めるデモは雨傘革命と呼ばれていた。すでに世界中のメディアが香港に入っていたし、かつて学生の身でデモに参加していた子たちの中には、独自のメディアを立ち上げてジャーナリストになる者もいた。リアルタイムで発信される映像や情報からわかるのはデモの変化だ。平和的だった以前のデモと違い、警察とのぶつかり合いが顕著になっていた。それだけに俺は2014年に警察と向かい合った記憶、あの時に吸ったタバコの自由の味、自由を求める人たちの熱気を思い出していた。

「行かなきゃ」

どうしてもこのタイミングで現場に行かなければならないと強く思った。6月の終わりに荷物をまとめてチケットを買った。アジア取材用のSIMカードは常時いくつかストックしていた。現地で報道陣が目印に着ている蛍光色のベストは手に入れられなかった。仕方ないので目立つ色のストラップにプレスカードをぶら下げた。過去の取材で作ったもので、フィリピン政府発行のものだ。期限は2年前に切れていた。ないよりはマシだろうという感じで、それもカバンに詰め込んだ。

このデモに肩入れするのは、暴力と抗議活動をイコールにして結びつけない香港人の価値観が東京人の価値観と似ていると勝手に思ってきたからだ。俺の独断で異論も反論も無数にあるだろう。あくまで俺の印象でしかないのだが、その分、香港への思い入れは他の人より強かったかもしれない。前回のデモ取材の後も特殊な住居、高層ビルの屋上にあるルーフトップハウスやボートハウスを取材したり、中国との密輸事情を追いかけたりと、何度も訪れていた。そのたびに香港に魅了されていた。それだけに暴力の伴う運動となってしまったことに心がざわついていたが、それでも俺の自由を求める人々を応援した気持ちに変わりはなかった。

 

羽田空港から香港まで4時間ちょっとで到着した。日本の免税店で買い込んだいつものアメスピを1カートン抱えて降り立った香港国際空港。デモの拡大に合わせて閉鎖されると噂があったのだが、この時は稼働してくれていた。ホテルは前回の取材の時と同じ重慶大厦にしようかとも思ったのだが、香港島の銅鑼湾(コーズウェイベイ)にとった。デモの中心となっている中環(セントラル)のあたりからほど近いし、何より非常事態には九龍半島と香港島の往来が制限されることがある(可能性として)ので、仮にそうなったとしても大丈夫なように、取材の利便性を優先した。

チェックインしたのは外国資本のホテルチェーン。設備は揃っているし、古びているがそこそこ綺麗な部屋。シャワーやトイレも完備である。これだけで重慶大厦との違いを実感する。重慶大厦は九龍半島側にある巨大な安宿&旅に必要なあれこれと怪しさをこれでもかと詰め込んだ複合ビルである。そこの宿屋に比べれば確かに便利ではあるが、こういう部屋は禁煙なのが辛い。それでもホテルを一歩でれば路上喫煙していても咎められることは皆無である。むしろ、香港の人たちがそこかしこで吸っているイメージだ。

 

通りに面した店の前で店主が常連客らしき老人と喫煙しながら談笑する。香港の街角でなら、どこでだって見られる風景である。俺がたまらなく好きな感じでもある。眺めていると、彼らはデモに参加しないのだろうかと疑問が浮かんだ。タバコを吸う者同士だからというわけではないが、吸っている間はその場を動かない習性を利用してみることにした。

「どうも。デモ、すごいね」

「あんた、旅行かい? こんな時に」

ながらくイギリス統治下にあった香港では老人でも英語が通じる。ここも香港の好きなところでもある。

「デモを見にきたんだ」

「変な人だね」

「あなたたちは参加しないの?」

「頑張ってほしいと思っているよ。だけどね、私たちには生活があるんだよ」

さも当然のように言った老人に経済都市である香港らしさを感じた。別れを告げて取材に出ることにした。タクシーを使うには近く、徒歩圏内というには体力的にしんどい季節である。日中は歩かなくても汗が垂れてくる。地下鉄で中環まで移動して、過去の取材で何度も通った警察本部や香港議会の庁舎などの並ぶエリアに向かった。

2014年の時と同じく若者を中心に多くの人で埋め尽くされていた。

その光景に既視感はあるが、懐かしさはない。

いつものようにその風景を撮影しようとスマホのカメラアプリを立ち上げる。

「カシャ」

シャッターの音がした。その瞬間、近くにいた少女が詰め寄ってきた。こちらが外国人であることがわかったようで英語で話してくれたのは良かったのだが、どうも怒り心頭の様子で写真を撮影するなということを捲し立てられた。その場をおさめるために目の前で削除したが、今度は「スマホを叩き割れ」という。

流石にそれには応じかねると思い、その場を立ち去ろうとすると今度は大声で喚き出したのだ。その様子を見かねた他の若者たちが、「ごめん」「私たちにはリスクがあるのを理解してほしい」と言ってきた。そのことは十分にわかっていたつもりだったが、ここまでの対応をされるとは思っていなかった。

少女が怒りをぶつける相手に周囲がサポートに入ってくれる。香港らしさも感じられたが、どうにもやり切れない気持ちでその場を立ち去った。少し離れたところから振り返ってみると、先ほどの少女は、まだ俺のことを睨んでいた。

やり場のないエネルギーが満ちていて、いつ爆発してもおかしくない。そんな感じで以前の時よりも、デモ隊に漂う空気が殺伐としているような気がした。

虚しさの残骸

いくつかの取材で想定していたチェックポイントをまわった。過去に取材した場所と比較したかったからだ。実際に回ってみるとゴミの処理、物資の補給などきちんとされており、デモの規模に対してきちんとしている印象は以前と同じであった。それから2〜3日は、そんな感じで過去との比較をしながら街を歩いた。

変化があったのは7月1日

デモ隊の力が大きくなって、そのまま弾けたのだ。

立法会の議会庁舎のバリケードを破って占拠したという。その情報を知ったのはホテルに一時的に戻ったタイミングだった。というのも、議会の側にいたデモ隊には動きがないと予想して、大規模デモ行進をしている大通りの方を取材していたからだ。

現場にいなかったことで遅れをとってしまい情報が足りない。俺はスマホで拾えるニュースを片っ端からチェックした。すると、本日中に退去しないと実力行使に出ると香港政府が発表していた。

まだ動く!と思った俺は、すぐにデモ隊の占拠した庁舎へ向かう。このまま行っていいのか、疲れを理由に休んでも誰から文句なんて出ない。フリーランスの取材なんてそんなもんだ。そもそもタクシーも動いていない。今更じゃないのか。そんな考えが浮かんだ。同時に迷うということは、俺はこの波に乗れるのかどうかが問われているような気がした。

何があっても行くしかないんだ。

決意を固めていくしかない。

 

現場に近づいてみてわかったが、警察が付近を封鎖していたのだ。その結果として、俺はデモ隊が占拠している庁舎には入れず、警察による強制排除が終わった直後に潜入することに成功した。

それを可能にしたのは、申し訳程度に持ってきたプレスカードだった。

警察車両を並べて庁舎には入れないようになっていたが、デモ隊の群衆を入れないようにバリケードにしていた。普通なら諦めるところなのだろうが、俺にそんな選択肢はない。

ダメもとでプレスカードを示し、「入れてくれ」と頼むと「外国メディアであること」を理由に検問を通してくれたのだ。まさかの展開に驚きはしたが、ともかく庁舎に向かって歩いた。あれだけいた人たちの姿が綺麗になくなっていた。

建物に入るとあちらこちらが打ち壊されている。デモ隊によるものなのはわかったが、無軌道の力がもたらす破壊の惨さを感じるだけだった。

ガラスが割れ、落書きされ、さまざまなものが散乱している。エレベーターもエスカレーターも動いていない。建物内を動いているのは警察とメディアの人間だけ。取材者であることを示す蛍光色のベストを着ているので警察でないことは一目でわかる。

俺はといえば、先ほど提示したプレスカードを首から下げているだけ。やはり蛍光色のベストを用意しておくのだったと、自分の装備に不安を覚えていると警察に呼び止められる。そこでもプレスカードを示して「ジャーナリスト」と強調して乗り切る。

期限切れでも国発行の身分証というのがいかに強いものかと思った。そして発行してくれたフィリピンに密かに感謝した。

議事堂を含めてあらゆる場所にデモ隊が入っていたようで、その様子の写真や動画を撮影し終えると俺は建物を出た。その時に改めて入口の写真を撮影しようと振り返った。

するとその場にいた警察が俺に気がついて、今度はカメラの画角から外れるように動いた。写真を撮られたくないのか、単に気を遣ってくれただけなのかわからない。

その場を離れて検問を抜けてホテルまでの道を歩いた。地面にはデモ隊と警察がぶつかったためであろう痕跡としてヘルメットなどが散乱していた。誰もいなくなったと思っていた道で俺はようやくひと息つくためにタバコを取り出した。

ひどく虚しい。

上空に流れていく煙を見ながらそんな気持ちになっていた。どこかで「自由が勝つ」と信じていたかったのだ。しかし、目の前の結果は敗北以外の何ものにも見えない。実際、この日を境に抵抗運動に暴力が加わり衝突の頻度も上がっていった。俺の取材してきた香港の抗議運動とは明らかに違ってきていた。だが、暴力は人の興味を惹きつけるところがある。実際、このあとも世界中のメディア、多くのジャーナリストやカメラマンなどが香港で取材し発信を続けてくれた。

 

それでも俺の香港の民主化デモ取材は、あの夜の煙とともに終わりを迎えてしまっていた。民主化勢力は弱体化し、指導者クラスの人間は逮捕拘束された。集会も禁止されてしまった。そこにコロナ禍である。運動どころではなくなったという香港人も多かっただろう。現実問題としてここからの巻き返しは不可能だった。

この先、俺は香港の何を追いかけるのだろう。自問自答する。本当はわかっていたのだ。俺が求める香港は人々の暮らしにこそある。為政者が変わっても、そこに暮らす人たちは変わらずに存在する。世界中で見てきた普遍の現実である。そこで起きる暮らしの変化こそ追いかけるべきなのだ。変化と共に生きる人たちの現状は俺が今までも、この先も追いかけるテーマだ。

 

少し苦い記憶と共に、これからの香港を旅してみようと思った。


▶いままでの「煙のあった風景」

文・丸山ゴンザレス
Twitter:@marugon

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