たばこと映画でできている|二作目【海の上のピアニスト】実話ではない”リアル”な生き方~無限の鍵盤からたった1つを選べるか~

1人の人間として人生をどう過ごすかは、人それぞれだろう。愛する家族を守るために生きたり、生涯をかけて成し遂げたい夢に挑戦したり、100人いれば100通りの生き方があるものだ。長い人生を航海に例える詩人もいるが、本作『海の上のピアニスト』の主人公である1900(ティム・ロス)は船上で生まれ、一生を通じて一度も船から下りることはなかった。

初めに断っておくが、この映画は”実話”をもとにした話ではない。本作とタイトルがよく似ている『戦場のピアニスト』が実話であるため、混同されてしまうのかもしれない。あくまでも1つの物語なのだが、僕も含めて本作を観る人間を思わず惹きつけてしまうのは、この作品に創作という枠を超えた、人生の深いテーマがあるからだろう。

船の上で一生を過ごす」――僕には到底できることではないし、そういう風に過ごしたいとも思わない。最初にこの作品を僕が観たのは、たしか高校1年生のときだったと思うが、そのときは正直言ってピンとこなかった。当時は、家と学校とバイト先の書店を行き来する毎日であり、そこが僕の世界だった。そのため、本作の主人公のように船の上で一生を終えるという物語が、何だか遠い世界の出来事のように感じていた。

そして、20年あまりが経って再び本作を観る機会を得た。さすがにこれだけ時間が経つとストーリーを丸きり忘れていたのだが、観終わったときには不覚にも涙が零れ落ちていた。図らずも泣いてしまったのは、高校生の頃の自分と比べて、年齢を重ねたからなのだろう。社会人として毎日忙しく暮らしている自分は、果たして本作の主人公のように「自分が人生どう生きるべきか」という問いを真剣に考えていただろうかと感じたからだ。

どのように生きたとしても、その人自身の人生だと思うが、一方で誰しも「より良く生きたい、幸せになりたい」という望みを心のどこかに持っているものだろう。本作の主人公である1900も、物語の中盤まではそうだ。わざわざ自分から不幸を望んで生きる人はいない。そして本作のラストシーンを観たときに、改めて「人間の幸、不幸というものは決して他人が覗けるものではない」と思った。良い人生か、悪い人生かを決めるのは決して周りの人間ではなく、自分自身の心の在りようなのだと。

前述のように、本作は実話ではない。しかし、実話以上にリアルな人間の生き様をこの作品は示してくれる。船上での暮らしにこだわり続ける主人公の生き方は、人によっては彼が“変態”に見えるかもしれない。だが、この作品を観終わる頃には、僕と同じように主人公のユニークな人生に魅了されているはずだ。しばしの間、一緒に『海の上のピアニスト』の世界観に浸ってみよう。

親は選べないし、名前も家も選べない子ども時代

誰でも一度は考えたことがあるだろう、「もっと良い家庭環境に生まれたかった」と。少なくとも、僕は子どもの頃そう考えていた時期があった。子どもの世界というのは無限の可能性に満ちているようで、実は生まれながらに決まっているものも多いと、子ども心ながらにも感じたものだ。

同級生の家と比べては、「どうしてウチの親は〇〇くんの両親みたいんじゃないんだろう」「どうしてウチにはお金がないんだろう」……どうして、どうしてばかりを考えてしまうのも、多感な子ども時代にはよくあることだ。しかし、自分が大人になって思うのだが、子どもが親を選べないのと同じように、親も子どもを選べないものだ。だが、親の凄いところは子どもがどんな大人に育つのかわからないまま、「この子を育てる」と自分で決めてしまうところにあるかもしれない。まさに、本作の主人公である”1900”を育ての父となるダニー(ビル・ナン)が拾い上げて、育てることを決意したように。

この作品は、蒸気船の石炭場で働くダニーが、捨て子の1900を船室で見つけるシーンから始まる。ダニーは客が落とした金目の物を探そうと床を這いつくばっていたら、ピアノの上に置かれている赤ん坊が入った木箱の存在に気が付く。木箱には「T.D.レモン」と書かれており、ダニーは赤ん坊を抱きかかえ、「よう、レモン」と優しく問いかける。ダニーはこの時の気持ちを作中で語るわけではないが、きっと大きな拾いものをしてしまったと感じていたに違いない。血のつながりはないが、ダニーと1900の出会いはここから始まる。
海の上のピアニスト親にとって、最初に悩むべき問題は「子どもの名前をどうするか?」だろう。この赤ん坊が入れられていた木箱にはレモンと書かれていたが、いつまでもその名前で呼ぶわけにもいかない。同じ石炭場で働く同僚たちとのやりとりで、この赤ん坊は「ダニー・ブードマン・T・D・レモン1900」というやたらと長い名前が付けられた。父である自分の名前+木箱+見つけた年が1900年というネーミングであり、同僚からはまるで貴族みたいな名前だと言われるが、ダニーは「このイカれた世紀の最初の年、最初の月に見つけた。だから1900(ナイティーン・ハンドレッド)と呼ぶ!」と高らかに宣言する。かくして赤ん坊の名前もめでたく(?)決まり、貧乏人のダニーが仕事と育児を両立させながら育て始める。まるで天からの授かりもののように、武骨な男が精いっぱいの愛情をわが子となった1900にそそぐのがとても印象的だ。

このシーンを観ていて思うのだが、初めから親になる覚悟のある親というのはいないのかもしれないと。まして、ダニーの場合はいきなり親となるのである。通常であれば妊娠・出産を経て、親になるのだが彼の場合は違う。きっとダニーも戸惑いながら子育てを始めただろうし、1900が成長していく中でだんだんと”親らしく”なっていったのだと思う。

それにしても、このコラムを読んでいる皆さんも気になっていると思うが、ダニーはなぜ子どもの名前を“1900”としたかである。彼は「イカれた世紀」と言っているが、一体どのような時代だったのだろうか。少し気になったので、作中で描かれている時代背景について、移民船も含めて調べてみた。この船はヴァージニアン号という移民船で、2,000人の移民を乗せてヨーロッパとアメリカを往復している設定だ。設定だといっても、実はこの船は実在している。さらに詳しく調べてみると、ダニーが赤ん坊を拾い上げた1900年の移民船では、出生証明書やビザがない子は船から下ろせば、ただちに国に取り上げられてしまっていたようだ。

ダニーが何が何でも、1900を船から下ろそうとしなかった理由は、どうやらここにあるようだ。子どもというのは、やがて成長して学校に通う年齢となる。おそらく、そのことはダニーも考えただろう。しかし、当時の時代背景が父としてのダニーと息子としての1900に、いわゆる”普通の生活”を送らせてくれなかった面がある。そのため、読み書きといった教育は父であるダニー自ら行っている。そして、「船から決して下りてはいけない」というのがこの父子の暗黙のルールとなり、成人してからの1900の心にも父の教えは息づいていたに違いない。彼が頑なに船を下りようとしなかったのは、父の教えによるものが大きかったのであろう。何にせよ、物語の序盤は船上で偶然にも生まれた父子のエピソードが描かれている。

しかし、レモンや1900年をそのまま名前に入れるセンスがある意味スゴい。“方山・レモン1900”なんて付けられてしまった日には、僕はどう生きていけばいいのだろうか。恥ずかしくて外もまともに歩けやしない。まぁ、付けられたら付けられたで生きていくしかないんだけども。

子どもにとって、親や名前や住む家は選べない。自分の好きにならないから不自由と感じる一方で、それは同時に親が子どもを育てることに責任を担っている証でもある。ダニーの満面の笑みを見ていると、すべてを受け入れている父の顔がこうも安心できるものかと、つい感じ入ってしまった。

摩擦熱で神をも超えた?才能に集う友と挑戦者たち

父が死んだ――、親との別れは時としてあっけないものだと教えてくれる。少年1900にとって父ダニーは唯一の肉親であり、彼がそそいでくれた愛情の大きさを振り返れば、少年の悲しみの深さは察するに余りある。船長をはじめ、周りの大人が気遣う様子が、少年が抱く孤独感を一層際立たせている。

ダニーは死んだ、彼がわずか8歳のときに。不器用ながらも真面目に働き、文字を教え、毎日寝かしつけてくれた優しいダニー。もう彼はいない、海へ帰ったのだ。父を亡くした1900は船底の窓から海や港を眺める日々を送る。誰と交わるわけでもなく、孤独の海に沈んでいた。

親の死というものは、冷静に考えてみれば誰にでも訪れるものだが、日常において普段からそのことを意識する機会は少ないかもしれない。僕がこのシーンに注目してしまうのは、近ごろ自分の母親を亡くしてしまったことも影響しているのは確かだろう。しかし、少年時代に親を亡くすことと、大人になってから親を亡くすことは意味合いとしては別次元のものかもしれない。だからこそ、少年1900のこの時の心境に思いを馳せてしまうのは、きっと僕だけではないと思う。

だが一方で、子どもの成長というものは周りの大人の動きとは関係なく、進んでいくのも事実だろう。少年1900は入ることが許されていなかった一等客室へと足を踏み入れる。まるで何かに突き動かされるように。大勢の大人たちが優雅にダンスパーティーを繰り広げる中、彼はピアノの音に魅入られてしまう。才能というのは、まったく恐ろしいものだ。1900は一度聞いただけの演奏なのに、夜な夜なホールに足を踏み入れたかと思えば、完璧に弾きこなしてしまう。誰もがこの子の才能に気付いた瞬間だった。そして、ピアノとの出会いは彼の才能を引き出すだけでなく、運命すら決定付けるものとなる。

少年期が終わって、成人した彼は船上のピアニストとして人生を歩んでいた。“コーン吹き”と呼ばれるトランペット奏者のマックス(プルイット・テイラー・ヴィンス)との出会い、彼とは生涯を通じての友となる。

ある時マックスは1900に、「なぜ船を下りないのか?」と尋ねる。お前の腕なら有名になれるし、大金持ちになれるぞと。本作を観ているこっちにも伝わってくるのだが、このときの1900の怪訝な表情は、「何万回もその質問を受けたよ」という顔をしている。だが、マックスのことを友人だと思っているからこそ、船を下りようとしない理由を正直に告げるのだろう。

「なぜか?を考えては他の人は時間を無駄にする。冬が来れば夏を楽しみにし、夏が来れば冬は二度と嫌だと思う。だから旅を続けるんだ。いつも遥か遠くにある常夏の場所を追い求めて。僕はそういうのは嫌いだ」――と1900は答える。

この返答にマックスは「まったく訳がわからない」という顔をするが、この作品を観ている僕もマックスと同じ気持ちになった。しかし、冷静になって考えてみれば1900は船上でしか暮らしたことがない。冬が来れば、夏が来ればと言っているのは、きっとこの船を訪れる数千人の乗客のことを指しているのだ。ヴァージニアン号は移民船だが、一等客室もあり金持ちも貧乏人も乗っている。立場は違えど皆んな同じように、遠くにある楽園を求めて旅をしていると1900の目には映ったのだろう。まだ見ぬ土地にあこがれを抱くのは決して悪いことではないが、陸での生活を知らない1900はずいぶんと達観した人生観を抱くようになっていた。

しかし、彼がいくら他人と交わろうとしなくても、凄い男のもとにはその才能を無視できない相手が現れるものだ。ジャズの発明者と呼ばれるジェリー・ロール(クラレンス・ウィリアムズ3世)からピアノ演奏での決闘を申し込まれることになる。作中では「音楽の神様」といった立ち位置であり、1900にとってライバル的な存在だ。1900にとって陸の上の暮らしのことは知らないが、音楽という同じ土俵の上では無視できる存在ではない。なぜなら、父亡き後の彼にとって唯一の生きがいは、「ピアノを弾くこと」なのだから。彼は決闘を申し込まれたこと自体に関心を示していないように振る舞うが、心の中では熱い闘志を燃やしていたに違いない。

このピアノ決闘は、本作で一番の見どころと言えるシーンだ。“海の上の天才”と“陸の上の巨人”のバトルであり、音楽を題材とした作品でこんなにも熱い展開を繰り広げているものはめずらしい。実際その熱さは、ピアノの弦の摩擦熱でたばこに火を点けるもので、1900のピアノ捌きは圧巻というより他にない。もう、音楽を奏でているのかすら観ている僕にはわからないほどだ。素早く奏でるといっても限度があると思うのだが、周りの想像以上をいくのが天才の天才たるゆえんなのだろう。
海の上のピアニストこのシーンは、1900がピアノに懸ける強い意志と信念が感じられる。ジャズの神様だろうが何だろうが、彼の前では塵も同然。一方で、挑戦者のジェリー・ロールも潔く負けを認めて、言い訳をせずに去っていくところが、とってもニクい。
海の上のピアニスト強烈な印象を与えてくれるシーンであるのは、汗だくになりながらも決して演奏を止めない1900の鍵盤捌きに鬼気迫る凄みを感じるからだ。演奏のテクニックが巧みなだけでなく、彼自身が「ピアノを弾く」ということにかけて、己の存在をすべて懸けているのが伝わってくる。もはや、このピアノ決闘が繰り広げられているホールに、海の上や陸の上といった日常の世界は存在しない。ここにあるのは、男と男がピアノ演奏を通じて、静かにそして熱く闘っている世界が存在しているだけだ。
そして、1900は見事に勝利する。もっとも、彼自身は最初から負ける気など微塵も感じていなかったような余裕っぷりだが。このシーンを初めて見る人は、きっと呆気にとられることだろう。僕のような常人には知る由もない音楽の世界が繰り広げられるだが、1人の男が守るべき誇りをかけて闘っている想いの強さだけは、充分に伝わってくる。熱い、とにかく熱いのだ。

船を下りる決断は、初恋と共に散っていく

初恋の味”って、とっくに忘れてしまった年齢だが、誰しも初めて恋をしたときのインパクトは強烈かもしれない。初恋がいつの年齢かにもよるが、10代の初恋、20代の初恋、30代の初恋とそれぞれ味も異なるものだろう。頑なに生きた人ほど、誰かを好きになったときのエネルギーはとても大きい印象がある。

本作の主人公である1900にとっても、初恋は例外ではなかった。ピアノ決闘を制して、自分の誇りを守った彼だが、次に訪れたのは音楽とはまったく別次元の「恋」である。主人公がヒロインに惚れ込むというのは、多くの映画で王道パターンであろう。だが、本作における男女の恋愛の面白いところは、ヒロインのことを好きになったら1900はいずれ船を下りなければならないことがわかるからだ。1900が好きになった女性は、陸で生まれて陸で育ち、単に移動手段として船を使っているに過ぎない。

ヒロインである少女(メラニー・ティエリー)は、一見すれば美しい女性という存在に過ぎない。しかし、船の上での暮らししか知らない1900の視点を通じて彼女を見れば、その美しさは見た目以上に大きなものがあるのだろう。僕はいち視聴者としてこの作品を観ているが、作中の1900の心に映った心象風景は、きっとこの少女が女神のように映ったのだと思う。一目惚れをした彼のその後の行動を見ていると、ピアノの演奏も疎かになってしまうほど、彼女のことで頭がいっぱいなのが伝わってくるからだ。

しかし、恋のかけひきを知らない彼は、ただひたすらに彼女を見つめるだけで思うように言葉すらかけられない。が、行動しなければ、恋は始まらないものだ。なかなか行動を起こせない1900にきっかけを与えてくれるのは、やはり「音楽」をおいて他にない。

友人マックスが勝手に契約したレコード会社が、1900の演奏を録音するために船を訪れる。出生証明書すら出されていない彼の存在は、世間的には相変わらず「存在しない人」なのだが、ジャズの巨人にピアノ決闘で打ち勝った彼の名声はもはや陸の上にも届いていた。

レコーディングは順調に進むものの、後からレコードとして売り出すことを知った彼はレコード盤を奪おうとする。しかし、何を思ったのか結局はレコードを少女にプレゼントすることを決める。たぶん、女性に対して口下手な彼が自分の気持ちを伝えられるものが、音楽しかないと思ったからだろう。レコードを渡すことで、彼女に寄せている好意を1ミリでいいから気づいてほしいという願いがあったのかもしれない。

結局、レコードは彼女に渡せなかった。だが、彼の初恋はまだ終わらない。なんと、恋のために船を下りる決断をするのだ。そう、生まれてから一度も船を下りたことがない彼がである。
通常の映画であれば、このシーンは1900がいよいよ船上での暮らしに別れを告げて、愛する彼女を追いかけるために陸に下り立った――という展開で描かれるかもしれない。主人公の成長や恋愛のすばらしさを伝えるテーマの映画であれば、そうした展開も悪くないものだ。

しかしながら、僕がこのシーンを取り上げるのはいわゆるお決まりの展開とはならないからだ。冒頭に述べたように、彼は生涯を通じてこの船を下りなかった。だから、多くの仲間に見守られながらも、彼はタラップの途中で立ち止まり、船へと引き返す。船を下りる直前に一番の理解者であるマックスは、

「君が海を降りたくなった本当の理由は、あの娘だろ。いい女と出会って結婚して、子供をもうける。無限の人生じゃないが、平凡でも価値がある人生になる」

と言っていたし、タラップを下りる1900自身もきっとその気になっていたと思う。しかし、眼下に広がる都会の風景が、彼の視界を覆い尽くして足を止めることになる。人生の大きな選択を前にしたとき、一歩踏み出すのがいいのか、それとも踏み出さないのがいいのか、結局のところそれは誰にもわからない。

当然、ここで1900がタラップを下りたならば、この物語はハッピーエンドで終わっていただろう。それはとても価値ある一歩だし、「人を愛するすばらしさ」を伝える作品として心に残るかもしれない。しかし、本作のテーマはそこにはないのだ。彼が船を下りなかったのは、彼女への愛が小さかったわけでも、まして幼い頃の父からの教えを守ろうとしたからでもない。彼自身が1人の男として、「踏み出さない決断をした」のだと僕はこのシーンを観て感じ取った。作中での彼の年齢はこの時、20代後半だがすでに自分の運命がどこにあるのかを悟っているようにも見える。ここまで孤高に生きるべきかは、何度このシーンを観ても僕にはわからない。このコラムを読んでいるあなたは、どう感じるだろうか?

生涯を船上で過ごした男と親友との別れ

初恋の記憶さえも、遠い昔の出来事となるように月日が過ぎていく。初恋の味は甘酸っぱいと教えてくれる作品は多いが、実際の暮らしは昔の出来事に思いを馳せるほど、時間的な余裕を与えてはくれないものだ。しかし、その忙しいと感じる感覚さえも、陸の上での話なのかもしれない。船に留まることを決めた1900は、もはや世間の騒がしい動きとは無縁であり、隔絶された世界の中で1人生きていた。

かつては彼を知る人も、1人また1人と船を下りていき、友人であるマックスもすでに船を下りていた。第二次世界大戦を経て、ボロボロの状態となったヴァージニアン号はもはや役目を終えようとしていた。船と運命を共にすると決めた1900の人生も、わずかな時間を残して終わりを告げようとしているところから、ラストシーンが展開する。

朽ち果てたこの船はダイナマイトで爆破されることが決まっていた。その噂を聞きつけたマックスは、船内に1900がまだいることを訴え、必死に彼を探し出そうとする。残された時間はわずか半日。友を懸命に探そうとするマックスの姿は、本当の友情が何であるかをその振る舞いから教えてくれる。だが、1人の男を探すにはこの船はあまりに広い。広い船内を探し疲れたマックスは、かつて録音したレコードをかけ始める。その演奏に呼応するかのように、「やあ、コーン。まっすぐ歩けないのか?」と1900は姿を現した。
海の上のピアニスト再会するのは、15年ぶりくらいだろう。お互いの身の上話をしつつ、マックスはこの船が爆破されることを伝え、1900に下船するよう強く促す。だが、1900はその求めに返事をするわけでもなく、なぜ自分が昔タラップを下りなかったかを説明し始める。

「都会は終わりがなかった。どこまでも果てしなく続いてる。教えてくれ、都会はどこまで続いてる?」と、彼はマックスに問いかける。答えようのない問いに困惑した表情を浮かべるマックスだが、1900はさらに言葉を続けていく。

「ピアノは違う。初めの音、終わりの音だ。鍵盤は88と決まっている。ピアノの鍵盤には限りがある。ただ紡ぎだす人間には、曲には限りがない。そこがいい」と、まるで自分の人生をピアノに重ね合わせているようだ。

1900の言葉の1つ1つを噛みしめるかの如く、マックスは黙って彼の話を聞いていた。1900が船を下りないという覚悟を決めていることをすでに感じ取っていたからだろう。

「みんな幸せという夢を見る。だが人生というピアノは無限じゃないんだ――君は例外だ。君だけが僕の存在を知っている、どうか許してくれ。僕は船を降りない」

もはや、1900の説得が叶わないものだと悟ったマックスは泣いた。彼にどうしても船を下りてほしいという想いと、彼の存在を昔から知る友人だからこそ、その意志を尊重したいという想い。言葉にならない想いが溢れ出たとき、人は泣くのだろう。2人は熱くハグをして、マックスは下船した。

最後まで船に留まった1900は、空気のピアノを奏で始める。もはや、そこに現実のピアノは存在しない。彼がこれまでヴァージニアン号やピアノとたどってきた人生を振り返るかのように。やがて時は満ち、1900は船の爆破と共に海原に散っていった――

観終わって、思うこと。

本作を観終わって感じるのは、「選択の難しさ」だ。若ければ若いほど、人というものは可能性に満ちているものだろう。1900も例外ではなく、そのピアノの才能を持ってすれば、マックスらが言うように大きな活躍ができたのは想像に難くない。

しかし、何を持って“良い人生”とするかは、究極的には当の本人をおいて他人には決められないものだ。父のダニーは幼子を置いて、不慮の事故で死んだ。ダニーは大きくなった1900を見たかったに違いないが、父子として過ごした8年という時間は彼に生きる希望を与えていた。たとえ自ら生き方を選べなかったとしても、その意志を誰にも曲げることはできないだろう。

1900もまた、船と運命を共にした。そう、彼自身が選択したのだ。無限の可能性よりも、88の鍵盤を選び取った人生。むしろ、自ら選択したからこそ、彼の音楽は友人のマックスの心に深く響き続けていくはずだ。

さて、僕は今日という日をどう生きようか。強い意志で生きられるほど、まだまだ人生を生き尽くしてはいないのかもしれない。

文責:方山敏彦