村田らむの”裏・歳時記2023”【5月】~最終回・何度でも訪れたい「西成」~

最後はやっぱり「あの街」へ


2022年1月から日本の裏側を旅してきた「裏・歳時記」は今回で最終回です。
(※近日、電子書籍で加筆・リリースされます、お楽しみに!)

「ホームレス」や「樹海」取材のパイオニアである村田らむさんの案内で巡る、メジャ~&激込み~&つまんな~い観光名所紹介とは一線を画す、日本の裏側を覗く旅。

しめくくりは、潜入取材を得意とする村田さんにとって20年以上にもわたり、もっとも多く訪れた旅の目的地「大阪市・西成区」。あいりん地区、釜ヶ崎など治安最悪と呼ばれる地域を含む、日本の「裏エリア」の代名詞です。

ホームレス・日雇い仕事・違法露店…日本のヤミが365日ドロドロとあふれだす西成の路上も、長い時間をかけ、変わっていったといいます。

その変貌を見てきたらむさんの、怖いだけじゃない、どこか懐かしい西成案内をどうぞ。

村田らむ
一九七二年生まれ。愛知県名古屋市出身。ライター、漫画家、イラストレーター、カメラマン。ホームレスやゴミ屋敷、新興宗教などをテーマにした体験潜入取材を得意とし、中でも青木ヶ原樹海への取材は百回ほどにのぼる。著作に『樹海考』(晶文社)、『ホームレス消滅』(幻冬舎新書)、『人怖 人の狂気に潜む本当の恐怖』(竹書房)などがある。

1999年の「西成」

 知り合いの女性に頼まれて、大阪のドヤ街『西成』をぐるり案内した。
 西成には年に何度も来ているし、今でもよく泊まる街なので懐かしいという気持ちはわかない。
 ただ場所の説明をしていると、初めて西成に来た頃のことを思い出してじんわりとノスタルジックな気持ちになってきた。

 俺がはじめて西成に行ったのは1999年だった。初の単行本『こじき大百科―にっぽん全国ホームレス大調査』(黒柳 わん氏との共著・データハウス刊)の取材のためにだった。世間知らずの俺は、それまで西成という存在を全く知らなかった。
 公園などでホームレスに話を聞いている時に、たびたび
「なんだお前は西成を知らないのか? それでよくホームレスの取材をしているな」
 と馬鹿にされて、存在を知った。
『定期的に暴動が起きていた』
『昼間から酒を飲んでいる人が多数いる』
『路上で普通に覚醒剤を売っている』
 などというような、1999年当時としても耳を疑うような話を耳にした。
「これは行かねばなるまい」
 と、すぐに足を運んだのだ。

「日本の裏側」の代名詞

※1999年当時の西成

 新今宮駅で下車。国道43号線を超えると、街の雰囲気がガラッと変わった。
 たまたま真夏に訪れたのだが、道には半裸の男性がバタバタと倒れていた
オウム真理教の毒ガス事件を思い出して、
「なにか事件でも起きたのか?」
 と思ったが、道行く人は誰も気にしていない。日常風景だった。

 臭いも違う。抽象的な意味ではなく、本当に違う。歩いていると、たまに鼻にツンと刺激臭が刺さる。みんなが適当にそこいらで立ちションをしている。特に高架のトンネルなどからはひどい悪臭が漂っていた。

人も犬も老いていく

 倒れる人たちの横を野良犬がウロウロと何匹も歩いていた。当時、野良犬は群れでいた。警察署の横にある通称四角公園ではホームレスが野良犬を餌付けしていた。
 ホームレスに話を聞いていて、
「なんだとこの野郎!!」
 などとホームレスが大きな声を出すと、犬がザッと一斉に立ち上がって「ウー」とうなる。一心同体なのだ。そんな大量の犬に襲われたら絶対に勝てない。正直、暴力団の人と話をするよりも緊張した。

 噂では小学生を噛んで怪我させたとかで、駆除されたと聞いた。今でも他所の地域に比べたら野良犬は多いが、大半がヨボヨボのおとなしい犬だ。

「暴動」と「路上ギャンブル」

「西成と言えば暴動!!」
 みたいなイメージがあるが、西成で頻繁に暴動が起きたのは1960年代~1970年代の前半までだ。
 80年代は起きず、90年、92年に2度起きた。
 取材をした1999年はもう暴動から7年経っているのに暴動で焼け焦げたらしい自動車が放置されていた。

 ちなみに最後に暴動が起きたのは2008年だ。暴動直後に取材に行ったが、道路のレンガが掘り起こされて穴が開いていた。レンガを掘り出して、警察署に投げ込んだ。この跡は今も残っている。対する警察は放水車を使って、暴徒を鎮圧。21世紀に起きた出来事とは思えず、ワクワクする。

 西成の中心地と言えば、通称三角公園だ。文字通り三角の形の公園だ。
 初めて訪れた時は、かなり強いカルチャーショックを受けた。

 公園の角には木材で建てられたボロボロのバラックが並んでいた。数人が集まって上を見上げているので、なんだと思ってみると、街頭テレビだった。

 街頭テレビなんて、父親の子供時代の思い出話でしか聞いたことがない。
 離れた場所から、

 「丁か半か!!」

 という威勢のよい声が聞こえてくる。
 ドラム缶を置き、その上でサイコロを振っていた。ドラム缶の周りを取り囲んだ、男たちは現金を賭けていた。
 先程の西成警察署から歩いて数分のところで、あからさまなギャンブルをやってるんだからビックリしてしまった。
 世界観としては『仁義なき戦い』っぽい。
 丁半博打をしている公園を出て、近くの路地に入ると、椅子に座った人相の悪い人たちがジロジロとこちらを睨んできた。
 その時は、なんだか分からなかったが、ノミ行為をしているお店らしい。警察がこないか、文句をつけに来るやつがいないか、見張っているのだ。「ハリ屋」と呼ばれていた。

 三角公園の横にはシェルターと呼ばれる、ホームレスが無料で泊まれる宿泊施設があった。宿泊施設と言ってもベッドが並んでいるだけの、とても素っ気ない施設だ。

「蚤や南京虫が出てたまらんが、外よりはマシや」
 とホームレスは体をボリボリ掻きながら話していた。

ドヤが「1泊500円」だったころ

 多くのホームレスは、ホームレスになる前は「ドヤ」に住んでいた。
 ドヤというのは、宿(ヤド)の隠語だ。
 ドヤ街というのは、つまりホテル街という意味だ。ただ、ホテルというか簡易宿泊施設という、最低限の設備しかない狭い宿だ。
 取材を始めた頃は、一泊500円というおそろしく安い宿を中心に泊まって活動していた。一週間泊まって3500円だったので、貧乏人にはとても助かった。

 当時、俺が一番長く泊まっていた500円の宿は、部屋を上下に二分割されていた。
「502上」みたいな部屋番号だった。

 上の部屋で泊まる人は、ハシゴを登らないと部屋に入ることができない。当たり前だが天井は低く、部屋の中では立つことはできなかった。
 冷暖房はあったが、館をまるごと冷やしたり、温めたりするので、自分の部屋では調整ができない。
 冷気を部屋に引き入れるため、ドアを開けっ放しにしていると、
「おえぇええ!!」
 とゲロを吐く声や、トイレやタバコの臭いが漂ってきた。
 なんかワクワクしたのを覚えている。

 ちなみに今でもドヤに泊まるが、ホテル予約サイト『じゃらん』で予約することが多い。一泊1500~3000円くらいの宿で連泊する。部屋やサービスに問題はないのだが、深夜1時くらいを門限に施錠してしまう宿もあるので注意が必要だ。
 飲み会で遅くなって帰ってきたら、中に入れなくなっていたことがあった。仕方なく、近くのネットカフェに移動して、朝のドアが開く時間まで寝た。まことに馬鹿馬鹿しい出費だ。

ドヤの窓から見た「●●を売る人」たち

 二分割された狭い部屋の窓から外を見ると、路上に立つ怪しげな人たちが見えた。覚醒剤などの違法薬物を販売している売人だった。まだ少年に見える売人もいた。見つからないようにコソコソしているという感じではなく、堂々と商売をしていた。
 当時は、路上にはたくさんの屋台が出ていた。手作りで作られたボロい屋台で、売っているのは安酒と、チーズ、缶詰などの保存がきく商品だけだった。実はほとんどの屋台が覚醒剤を販売していた。問題になって全部取り壊されてしまった。
「屋台でシャブ売ってるくらい普通やっちゅうねん。昔はドヤのカウンターでシャブ売ってたんやで
 と話を聞いたオッサンはなぜか得意げに言っていた。真偽のほどは分からなかったが、覚醒剤が非常に近くにあるのは事実だった。
 西成にあるコンビニのトイレには
「便器に注射器を捨てないで」
 という注意書きが書いてあったし、ごみ捨てのポスターには「覚醒剤1パケ0.03g」と、売人が連絡先を書いていた。
 今はここまであけっぴろげに、シャブを売る人は見られなくなった。かわりに、
『居酒屋で覚醒剤を売るな!』
 という黄色と緑で書かれた怪しげな看板がいくつも出ている。なんとも不穏な雰囲気を醸し出している。

 本当に居酒屋で覚醒剤が売られているのかどうかは知らないが、まだ覚醒剤がなくなったわけではないようだ。

食い物から盗品まで…西成エコシステム

 当時は覚醒剤だけではなく、様々な物を路上で売っていた。
 最も盛んだったのは、弁当やパン、おにぎりなどだ。もちろんまっとうに仕入れたものではなく、消費期限切れの廃棄品をなんらかのルートで手に入れて売っていた。

 弁当ならどれでも100円、パンおにぎりは2~3個で100円ととても安かったので、みんな奪い合うように買っていた。
 初めて取材した頃は、金は全然なかったからお世話になった。お腹を壊したりすることもなかった。
 当時はヘビースモーカーだったのだが、韓国から輸入してきたタバコ(税金の差で安く仕入れることができて助かった。後から密造タバコもあったと聞いた)の露店もあった。日本のタバコとは味が少し違ったが、気になる程ではなかった。

 露店ではゴミとしか思えないようなモノも、商品として売っていた。テレビのリモコン、自転車のカギ、鉄アレイ、日本人形、などなど。電気工具もたくさん売られていたが、働いている人が食い詰めて売ってしまったか、作業現場などで盗んで売っぱらってしまったかだ。
「朝起きたら、道具一式がなくなってたんや。泣く泣く買おうと思ったら、露店で自分の一式をそのまま販売してた。悔しかったわ」
 なんて話も聞いた。

 裏ビデオも売っていた。
 ケースにVHSのビデオをズラッと並べて売っていた。一本1000円で買うことができるのだが、またその露店に持っていけば500円で買い取ってくれる。セルとレンタルの間のようなシステムのお店だった。
 何本か見てみたが、ダビングを重ねてだいぶ劣化した映像だった。当時愛用していた人に話を聞くと、中には“当たり”の作品もあったらしい。
 裏ビデオの販売はDVDに移行したあとも長く続いた。裏ビデオは独自に作っているものではなく、カリビアンコムなどの性器のモザイクがない商品を無断でダビングしている物が増えた。
 エロだけではなく、普通の作品も売っていた。映画やアイドルのビデオなどを違法ダビングして販売する店がいくつもあった。
 かなり取締が強化されて、今では見なくなった。

”あいりん総合センター”にいたスゴい男

 そんな、西成の一番のランドマークが、あいりん総合センターだ。13階建ての巨大な建物で威圧感もある。
 一階部分は寄せ場になっていて、多くの日雇い労働者が仕事を求めてやってきていた。1960年代のセンター前の写真を見ると、何百台という自動車が停まっていた。全部日雇い労働者を運ぶための車だ。

 1999年は、もちろん今よりは日雇い仕事はあったが、それでも並んでいた自動車は数台だった。日雇労働者が集まる場所というよりは、ホームレスが集まる場所になっていた。

 一階部分には、炊き出しの順番取りのためにズラーッと荷物が並べられていた。
 館内は空調が効いているわけではないが、屋根があるぶん外よりは過ごしやすい。
 二階に登ると、段ボールや新聞を敷いて寝ている人が何十人もいた。中には上半身裸、パンツ一丁の人もたくさんいた。トイレに行くと、全身裸になった男性が、石鹸で身体を洗っていた。
 センターの前には酒の自動販売機があり、カップ酒をあおっては泥酔していた。
 みんなに酒をせびっていた男が、誰もがシカトをするのに腹を立て
「おいこら!! 俺は天皇陛下の息子や!!」
 と怒鳴っているのが印象的だった。
 とにかく、みんなしとどに酔っていた。

帰ってきたい「西成」

 あいりん総合センターは2019年に閉鎖された。すぐに取り壊されると思っていたが、未だに建っている。
 センターの周りは、労働運動系のバスが停められていたり、おびただしい量のゴミが捨てられていたり、閉鎖前よりも剣呑な雰囲気になった。
 案内した女性は
「ここが、一番すごいですね!!」
 と喜んで写真を撮っていた。
 俺が西成に来はじめた頃の雰囲気が少し垣間見えたような気がして楽しくなってきた。

「西成も大人しくなった」
「普通の街になった」
 と言う人もいるけれど、でもやっぱり普通の街とは違う。
 いつかはセンターも取り壊され、街には新しい建物が建ち、ドヤ街だったという記憶も失われる日も来るだろうが、その日はとりあえず明日ではない。
 その日が来るまでは、大阪に行った際は、だらだらと西成で過ごしたいと思う。

次回は完結記念対談!

「裏・歳時記」ご愛読ありがとうございました。

次回(6月)は、いままでの「裏・歳時記」を振り返る特別対談を掲載します。
らむさんの対談相手は、危険地帯ジャーナリスト「丸山ゴンザレス」さんです。

お楽しみに!

丸山ゴンザレス


ジャーナリスト、國學院大學学術資料センター共同研究員。國學院大學大学院修了後、出版社勤務を経てフリーのジャーナリストとして日本の裏社会や海外危険地帯の取材を重ねている。主な著書に『アジア親日の履歴書』(辰巳出版)、『世界の混沌を歩く ダークツーリスト』(講談社)、『MASTERゴンザレスのクレイジー考古学』(双葉社)、『世界ヤバすぎ!危険地帯の歩き方』(産業編集センター)、『危険地帯潜入調査報告書 裏社会に存在する鉄の掟編』(村田らむ氏と共著・竹書房)など多数あり。

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