純喫茶で名文を  Vol.5 “若者の街”下北沢の老舗喫茶店で、名エッセイの感性と視点に嘆息する

古き良き純喫茶で美味しい飲み物をいただきながら、書評家・スケザネ氏にセレクトしていただいた「その店に似合う1冊」を楽しむというこの「純喫茶で名文を」
第5回の舞台は、下北沢です。

……ここはどこ? 答えは、下北沢駅の東改札口。
日々、下北沢駅を使用する人には日常風景なのでしょう。ただ、ちょうどこの駅の工事が終わったくらいからコロナ禍もあり、下北沢に来る機会がぐっと減った身としては……すいません、まだ慣れません。
かつての南口を駆け下りて、開演ギリギリで劇場やライブハウスに飛び込んでいた動線を身体がまだ覚えてるんですよね。

気を取り直して南口商店街の方に回っていくと、見慣れた通りの風景が目に飛び込んできて少しホッとします。これこれ、これですよ下北沢は。

多くの店が並ぶにぎやかな南口商店街を南下。駅から数分歩いたところにある交差点の右手に、このビルが見えます。こちらの2階にあるのが今回の舞台となるお店「カフェ トロワ・シャンブル」
「おいしいコーヒーをどうぞ…」の看板が目印です。

店内に足を踏み入れると、1980年の創業時から変わらぬ空間が広がっています。一枚板のカウンター、ゆったりとした店内……。窓際のちょっとした半個室スペースも素敵。

店主の松崎寛さんは、神保町の「カフェ トロワバグ」で修行をしたあとこの店を始められたそう。下北沢に店を開いたのは「たまたま、この物件が見つかったから」が理由だったとか。

「当時の下北沢は『閑静な住宅街』という雰囲気でしたね。商店街も昔ながらの個人商店が並ぶような場所で。変わってきたのはバブルのあとかな」

長らく見守り続けてきた街の変遷を語る松崎さん。
その後、ライブハウスや小劇場が下北沢に多くなり、それらを目的とした若者や近隣の大学生が増え、今では「若者の街」と言われるように。また、この店にも数多くの演劇人や映画人、ミュージシャンが足を運ぶようになります(有名人も多数!)。
おそらく、数多の作品がこの店をきっかけに生まれていったのでしょう。

さて。スケザネさんが今回選んでくれたのは……?

純喫茶で名文を  Vol.1 眠らない街・新宿の名喫茶で、熱狂の60年代を懐古する_01
スケザネ
書評家・シナリオライター。
YouTubeチャンネル「スケザネ図書館」では書籍紹介や考察、トークなどの企画を配信中。
https://www.youtube.com/channel/UCLqjn__t2ORA0Yehvs1WzjA/

下北沢は、文学や芸術好きにはたまらない町です。小劇場やライブハウスがひしめいている他、本屋B&B、クラリス・ブックスやほん吉といった個性的な書店が軒を連ねています。そして、数多くの文士が住んでいたことも見逃せません。「下北沢文士町文化地図」(https://www.city.setagaya.lg.jp/kitazawa/001/001/005/d00037757_d/fil/shimokitazawabunkachizu-8.pdf)には、文士たちの旧居が綿密に記載されており、想像が膨らみます。ひときわ目を引くのは「下北沢静仙閣」。作家や映画監督から中華皇帝の弟までが住んでいたという、多文化のトキワ荘といった趣です。(交流はあまりなかったと思われますが。)
前置きが長くなりましたが、「劇場」、「下北沢の文士」、「映画監督」から計三冊をセレクトしました。
まずは「劇場」から、有川浩『シアター!』 (メディアワークス文庫)。抜群に面白いエンタメ小説です。主人公は売れない小劇団を運営する青年。彼の劇団は、半ば趣味で運営していたこともあって、大赤字の上、大きな金銭トラブルを起こしてしまいます。そこで頼ったのは、厳格で優秀なサラリーマンの兄。兄は金を貸す代わりに、二年以内に大きな利益を出せる劇団にするか、さもなければ劇団を畳んで普通に働くことを条件に出します。青年は条件を呑み、個性的な劇団員たちとともに、劇団を再建するため奮闘していく…。小説でここまで豊かなキャラクターたちを書けるのかと驚きますし、芸術にはつきものの”趣味かガチか”の対立を見事に描いており、ぐいぐい読まされます。
次に「下北沢にゆかりの深い文士」から、森茉莉『記憶の絵』(ちくま文庫)。森茉莉は、かの森鴎外の長女であり、作家です。綺羅星のような文学者たちに囲まれて育った文学のサラブレッド。そんな彼女の作品はどれも、名だたる文学者にも世間にも一切容赦のない、歯に衣着せぬ筆運びです。読んでいて、喝さいを送りたくなる気持ちよさは、窮屈な現代には持ってこい。本書には、店員とのやりとりについて書かれたあるエッセイがあり、下北沢のある喫茶店でしか「ご馳走様」を言わないのだとか。その理由を読むと、粋を感じさせられ、ついマネしたくなります。
最後は、「静仙閣に住んでいた映画監督・成瀬巳喜男」から、伊藤弘了『仕事と人生に効く教養としての映画』(PHP研究所)です。映画の見方を教えてくれる格好の書。名前を挙げた成瀬も、黒澤明、小津安二郎、溝口健二とともに日本映画の巨匠として、言及されています。そういった巨匠の作品はなぜ名作なのか、どう見ればよいのか、実際の映像を例に、人物の映っている角度や小物といった小さなものに着目し、あっと驚く見方を提示してくれます。古典から、『トイ・ストーリー』や『パラサイト』といった現代映画にまで目配りを欠かさず、映画史や映画の基本用語などもコンパクトに解説されており、読者への親切と信頼、そして映画への愛で溢れた一冊です。
以上三冊!下北沢のあの空気に包まれて、繙くのは一体どの本でしょうか。

おお、今回はとても悩ましいラインナップ!
実はカワグチ、『シアター!』は過去に読んだことがあり、そしてとても面白かったので再読したい気持ちがあります。コロナ禍以降いろいろと苦しい状況に立たされている演劇界ですが、これを読むと演劇と“お金”のことがよくわかるので個人的にもオススメです。
『仕事と人生に効く教養としての映画』も、好きな映画が多数取り上げられているようで気になる……。あと“伝説のアパート”静仙閣も気になりますね、これは別口で後でまた調べてみることにしましょう。

結局、じたばたしながら選んだ今回の一冊は、こちら。

『記憶の繪』森茉莉(ちくま文庫)。

なんだか、この店の佇まいにすごく似合う気がしたのでした。
この『記憶の繪』は、タイトルの通り彼女の記憶の底にある様々な風景を描き出したエッセイ集。どれも3ページほどの短いものなのでとても読みやすく、そしてスケザネさんの言う通り「気持ちいい」のです。
少し秋めいてきた陽気の日だったので、松崎さんおすすめのカフェオレ600円を注文。大倉陶園のカップにたっぷりと入った飲み物とともに、読み始めます。

その視点の鋭さ、言葉の小気味よさと切れ味、風景や食べ物の描写のみずみずしさ……。全く古びず、令和の時代を生きている私たちにもスルッと入り込み、共感できるエピソードの数々。
あれ? 森茉莉って明治生まれの人ですよね? と再度確認してしまいましたよ。

特に読んでいて吹き出したのは「ヤッタルデ」という一篇。根性(=ヤッタルデ精神)を持つ人間が褒め称えられるようになっている……という風潮を挙げ、続くのがこの一文。

「ヤッタルデ精神は、オリンピック以来いよいよひどくなったが、所謂根性的な、凝り固まった人間は私の好きでない感じの人間なのである」

痛快――――!!!

ちなみにこのあとに続く「続・ヤッタルデ」では「正義」についてぶった切ってくれています。読んでいるとなんだか、ネット上でもよく見るあれやこれやのトラブルが思い浮かぶから不思議。再度繰り返しますが森茉莉、明治生まれです。この感性の鋭さたるや。

気の向くままに何篇か読み、飲み物をゆっくり楽しんで、さてもう少し読もうかな、もしくはどこかへ足を伸ばそうか……そんな楽しみ方ができるのも、こういう本の良いところですね。

ちなみに森茉莉は生前下北沢に住んでいたことも有名で、エッセイにも数多の喫茶店が出てきます。特に有名なのは、引っ越すまでほぼ毎日通っていたという「世田谷邪宗門」でしょうか。当然、彼女の作品の多くはそれら喫茶店から生まれていったというわけで。

おこがましいとは思いつつ、ちょっと“森茉莉気分”で文章に浸る……そんなひとときを過ごした今回でした。

カフェ トロワ・シャンブル

東京都世田谷区代沢5-36-14 湯浅ビル 2F
9:30~23:00(緊急事態宣言中は〜20:00)
03-3419-6943

文・川口有紀