【煙たい物語】第三篇~大庭繭「ふみ子さんの人魚」【ウィンストン キャスターホワイト】

文壇の現在と未来を担う書き手たちが、それぞれの想いとともに煙草にまつわる物語を織りなす新連載――「煙たい物語」。
第三篇は大庭繭さん「ふみ子さんの人魚」をお送りします。

ひとりぽっちだった13歳のあたしは、預けられた叔母の家でキャスターを吸っている人魚に出会う。霞のような記憶。煙のように熱っぽくて曖昧な気持ち。大人になったあたしは今日も、浴槽で彼女の真似をしながら「人魚ごっこ」を続けている――。

ふみ子さんの人魚

 空っぽの浴槽の中はいつもひんやりと冷たい。あたしが細く長く息を吐くと、湯気とは違う、ほのかに甘い匂いを帯びた白い揺らぎが浴室に満ちてゆく。目を閉じて、頼りない、けれど、あたしの中に確かにある記憶の感触を手繰り寄せようとする。指先がさりさりとした何かに触れて、一瞬、あたしは鱗の感触を掴みかけた。けれど、それは、すぐに煙のように消えてしまう。目をあけてみると、あたしの指先には、浴槽に溶け残ったバスソルトの残骸がキラキラと光っていた。あたしは、ため息をついて、二本目の煙草に火をつけた。
 空の浴槽の中で煙草を吸うクセをあたしは心の中で「人魚ごっこ」と呼ぶ。あたしはかつて人魚に触れたことがある。そして、いまだに人魚の感触を忘れられずにいる。20年近く経った今でも、こうして未練がましく彼女の真似をするくらいに。

   ◇

 13歳の誕生日の朝、あたしを起こしに来たママがいちばんに言ったのは「おめでとう」でも「愛してる」でもなく、「今日からふみ子叔母さんの家に行くよ」だった。またか、とがっかりするあたしを無視して、ママはタオルケットを剥ぎ取る。
「また、入院なの?」
 あたしが不満げにきくと、ママは少しこわい顔をして頷いた。妹のむつきは体が弱くて、すぐに入院する。その間、ママはむつきにかかりきりになるから、あたしはママの妹のふみ子さんの家に行くことになっている。なにも、あたしの誕生日に入院しなくたっていいのに。あたしの気持ちなんてお構いなしに、ママは部屋のカーテンを勢いよく開けた。窓から溢れた朝日があたしの瞼を突き刺して、目の奥がじーんと鈍く痛んだ。
 急かされながらなんとか目玉焼きとトーストを食べ終えると、白いワンピースに着替えたあたしは、春休みの宿題がたっぷり入ったリュックと一緒にすぐさまママの車に押し込まれた。
 ふいに、今日はママがあたしのためにシフォンケーキを焼いてくれる約束だったことを思い出して、胸の奥がきゅうっと痛んだ。あたしは咄嗟にリュックを強く抱きしめる。「どうしたの?」と運転席からママの心配そうな声が聞こえたけれど、あたしは黙って寝たふりをした。

 ふみ子さんの家は、あたしたちのマンションから車で15分くらいのところにある一軒家で、すぐそばに海が見える。ママは、道路に面したコンクリートの階段の前であたしを降ろすと、ふみ子によろしくね、と言ってすぐに車を走らせた。ママの銀色の車は、きらきらと光を反射しながらぐんぐん遠ざかってゆく。あたしは、ママの車が小さな光の粒になるまでただ見つめることしかできなかった。
 灰色の小さな階段を登った先は、ふみ子さん家の庭になっていて、大きなオリーブの木がある。ひんやりとした風があたしの頬を撫でた。オリーブの小さな葉たちがさやさやと涼やかな音を立てて揺れる。風は冷たくても、たしかに春特有のいのちの匂いがした。
 インターホンを押すと、すぐにふみ子さんが出てきた。ふみ子さんは、今年40歳になったけれど見た目はうんと若く見える。ノースリーブの黒いワンピースがほっそりとしたふみ子さんによく似合っている。顎の辺りで切りそろえられた黒髪と白く華奢な首筋がとてもきれい。ふみ子さんはいつものようにあたしをぎゅっと抱きしめた。ふみ子さんの体温があたしにじんわり滲んでゆく。ふみ子さんは、せっかくの春休みなのに大変だね、と言いながらあたしを家の中に招き入れた。
 玄関から土間に足を踏み入れるとすぐに、ふわふわとした感触があたしの足首を撫でた。視線を落とすと、茶色のキジトラとかぎしっぽの黒猫が物珍しげにあたしのスニーカーに顔を寄せている。
「また拾ってきちゃった」
 ふみ子さんは細い銀縁の丸眼鏡をくいっと上げながら恥ずかしそうに言った。ふみ子さんは昔から何でも拾ってくる癖がある。犬猫はもちろん、文鳥やザリガニ、ひよこ、ハムスター、亀などなど、落ちてる生き物は何でも拾ってきてしまうのだ。子どもの頃からずっと。ママはふみ子さんのこの癖をひどく嫌っている。
「ママには内緒にしとくね」
 あたしがそう言うと、ふみ子さんはにっこり笑った。あたしは、土間に寝そべっているレトリバーと水槽の中にいる亀とザリガニ、ケージの中で寝ているハムスター、止まり木の上でじっとしている文鳥にそれぞれ視線で挨拶をしてから、土間に面した四畳間にあがった。その部屋の突き当たりには、階段があり、2階はふみ子さんのアトリエ兼仕事場になっている。
「悪いけどちょっと急ぎの仕事を片付けたいから、上に行くね。お菓子用意したから食べてて」
 手洗いうがいも忘れずにね、とふみ子さんは付け加えて、ぱたぱたと階段を駆け上がっていった。
「おいで」
 あたしはなんとなく寂しくなって、土間で寝そべっているレトリバーに向かって声をかけた。ふみ子さんは拾ってきた生き物たちに名前をつけたりしないので、こういうとき、なんて呼びかけたらいいのか分からなくて少し困ってしまう。レトリバーは眠たげな様子のまま、大きな身体を揺らしながらあたしのそばに来て、そっとあたしの手のひらを舐めた。
 四畳間の右手には廊下があり、その先に台所と六畳間、突き当たりに洗面所と浴室がある。ひんやりと乾いた木の感触を足裏に感じながらあたしたちはまっすぐ洗面所に向かった。けれど、あたしが洗面所に足を踏み入れた瞬間、さっきまであたしの後ろをぴったりついてきたレトリバーがくるりと踵を返して土間の方へ戻って行った。
「ちょっと!」
 あたしの声が少し咎めるように廊下に響いた。けれど、レトリバーは振り返りもしない。仕方なく手を洗おうと蛇口に手を伸ばした瞬間、ふいに背後から何かが燃えるような匂いがした。咄嗟に後ろを振り返っても、そこには白い浴室があるだけで、誰もいない。あたしは吸い寄せられるように浴室のドアを開けた。
 青いタイル貼りの浴室は、南側に大きなすりガラスの窓が二つあって、電気をつけなくても十分明るい。燦々と降り注ぐ光に照らされた浴室は、湯気とは違う、白い揺らぎに満ちていた。揺らぎは、光に晒されると、すぅと溶けるように見えなくなる。甘やかな燻るような匂いの中心に、その人はいた。銀糸のようにきらきらと光る長い髪、透き通るように白い肌に、海の底をそのまま写し取ったみたいに深い青色の瞳。そして、なによりもあたしの目をくぎ付けにしたのは、生成り色の空っぽの浴槽の中に窮屈そうに押し込められた鈍色に光る長い鰭だった。
 ――人魚だ。
 浴槽の縁に肘をついて、煙草を気持ちよさそうに吸っている。形の良い唇から吐き出された煙は、つんと尖った人魚の鼻先をゆっくりと撫でてゆく。あたしは、声を出すことすらできず、ただ、食い入るように人魚の横顔を見つめた。
 突然、人魚があたしの方に顔を向けた。ぱっと花のほころぶような笑顔だった。青い瞳いっぱいに光を纏って、何か大切なものを慈しむようなやわらかな眼差しは、あたしを通り越して、その向こうを見つめていた。
「ごめん、言いそびれてた……この子も拾ったの」
 あたしのすぐ後ろでふみ子さんの声がした。

 ふみ子さんは浴室のすぐ隣にある六畳間にあたしを座らせると、紅茶を淹れてくれた。あたたかい液体がするすると身体の内側をなぞってゆく感触は、ゆっくりとあたしを現実に引き戻してくれた。あたしが小さく息を吐いたのを見て、ふみ子さんは、とつとつと人魚のことを話し始めた。ふみ子さんは、三か月前の大雨の日に浜辺で人魚を拾ったらしい。そのときは、小型犬くらいの大きさで、いつの間にかこんなに大きくなったとのこと。お刺身や果物、人間の食べ物はもちろん、金魚のえさやドッグフードまで試してみたけれど、一切口にせず、やけくそになったふみ子さんが自分の煙草を与えてみたところ、すっかり気に入って、いまではふみ子さん以上のヘビースモーカーになってしまったのだという。ふみ子さんは、まさか人魚が煙草を吸うなんてね、といたずらっぽく笑った。人魚は、言葉を話せないけれど、こちらの言っていることはなんとなく理解できているらしい。
 あたしは、ふみ子さんの話をただ黙って聞いていた。もうこの目で見てしまった以上、ふみ子さんの話を否定することはできない。けれど、素直に受け入れるには何か足りない気もして、どこかもやもやした気持ちだった。すると、ふみ子さんが時計を見て、あっと声をあげて立ち上がった。

「散らかっててごめんね、つぎの公演の仕上げが近くて……」
 小さな劇団の衣装係をやっているふみ子さんのアトリエは、どこを見ても布で溢れている。あたしはふみ子さんに連れられて、久々にアトリエに足を踏み入れた。廊下には、ハンガーラックが規則正しく並べられ、ビーズが散りばめられたドレスや端切れを幾重にも重ねて羽根のように見えるマントとか、へんてこだけれど、とびきり素敵な衣装が所狭しと掛けられている。
 スパンコールやビーズを縫いつけたシフォンスカートたちのラックの横をすり抜けて、突き当りにあるふみ子さんの寝室へ入った。ふみ子さんの寝室は、ベッドと小さなランプがあるだけでひどく殺風景だった。ふみ子さんは電気も点けず、押入れをごそごそとまさぐって、ペンギンの絵のついた黄色い大きなビニール袋を取り出すと、そのままあたしに手渡した。中には、パッケージに小さく銀色の鳥の絵のついた煙草がぎっしりと詰まっていた。
「朝、昼、夕、適当な時間に人魚に一箱ずつあげてくれる?」
 ふみ子さんは申し訳なさそうに顔の前で手を合わせた。
「今ちょっと仕事が立て込んでてさ、人魚と仲良くしてくれたらうれしいな」
 ふみ子さんの言葉に、あたしはゆっくり頷いた。――ああ、人魚もあたしと同じなんだ。そう思った瞬間、あたしは人魚のことをするりと受け入れられた気がした。

 浴室のドアを開けると、人魚はさっきと同じく、浴槽の縁にもたれながら煙草を吸っていた。明るい光に晒された人魚の横顔は煙と一緒に消えてしまいそうなほど白く透き通っている。あたしは意を決して、ゆっくりと浴室に足を踏み入れた。立ち込める煙草の煙に思わずむせそうになる。煙は、喉にこびりつくような苦さとやわらかな甘い匂いが混ざり合っていた。青いタイルのひんやりとした感触だけがあたしを現実に引き留めてくれるような気がした。
 ちょうど、人魚のそばの床に煙草の箱が落ちていた。拾い上げると、中は空っぽで、いま人魚が吸っているのが最後の一本らしかった。あたしは、そのままゆっくりと腰をおろして人魚の目線に合わせた。人魚は、ゆるりと瞳だけをあたしに向けて、細く長く息を吐く。
「あたし、弥生」
 人差し指で自分の顔を指さしながら言った。
「ふみ子さんの姪」
 人魚は、たぶんわかっていないのだろう。すこし首をかしげながら、ゆっくりと瞬きをした。
「これあげる」
 あたしが人魚に煙草の箱を差し出すと、人魚はぱっと瞳を輝かせた。小さくなった煙草を浴槽のそばに置かれたガラスの灰皿に押し当てて消すと、新しい煙草の箱を受け取った。一瞬、白く柔らかな指先があたしの手に触れた。
「あなたとあたし、きっとおんなじだね」
 あたしがそういって笑うと、人魚もにっこり微笑んだ。 

 それから、あたしは寝る時以外はずっと人魚のそばにいた。人魚のそばで、ご飯を食べ、人魚のそばで本を読み、人魚のそばで眠った。人魚は、いつも、ただ静かに煙草を吸っていた。ママのそばでも、ふみ子さんのそばでも、何者にもなれなかったあたしは、人魚のそばにいるときだけ、彼女の唯一の友達として役割を得ることができた。今ここを放り出されてしまったら、どうにもならない人魚とあたしは、同じように「ひとりぼっち」でさみしくて、だからこそ、お互いがお互いにとって唯一無二の存在に思えた。

 あたしは、人魚と一緒によく真夜中にお風呂に入った。ふみ子さんは、二階のシャワールームを使っていいよと言ってくれたけれど、あたしは頑なに毎日人魚と一緒にお風呂に入った。
 ふみ子さんの家に来てから、一週間が過ぎた頃、その日はちょうど満月で、水蜜桃のようにたっぷりと濡れた月の光が窓から溢れ、皓々と浴室を照らしていた。あたしたちは、浴室の電気を消して月の光をたっぷり浴びた。人魚も、煙草の煙も、輪郭がぼんやりと淡く光って、今まででいちばん綺麗に見えた。
 人魚の浴槽にぬるま湯をゆっくりと溜めて、人魚の肩や髪に少しずつお湯をかけてやる。人魚の髪は、水気を帯びるとほのかに海の匂いがした。人魚の全身をしっとりと濡らし終えたら、あたしは人魚の鰭の隙間に身体をすべり込ませる。素肌に触れる鱗のさりさりとした感触が身震いするほど心地良い。人魚の身体はぬるま湯の中では、輪郭がひどくあいまいになった。触れると、どこまでも深くまであたしを受け入れて、ひとつになれるような錯覚。あたしは身体を小さく丸めて、人魚の鰭の上に横たわる。鰭をゆっくり指でなぞると、さざ波のように小さく規則的な凹凸がどこかあたしを安心させた。
 人魚はあたしを見下ろしながら、ゆっくり煙草に火をつけた。喉を焼くような苦い匂いと甘いバニラのような匂い。煙が淡いベールのように、月明かりに照らされた人魚の顔を覆ってゆく。あまりにも綺麗で、あたしは少し泣きそうになった。
 あたしは身体を起こすと、たっぷりの泡で人魚の髪も身体も鰭も丁寧に洗ってやった。人魚の髪は、やっぱり触れるたびほのかに海の匂いがした。あたしが髪を洗っている間も、人魚は構わず煙草を吸った。石鹸の匂いと、煙の匂いが混ざり合った香りはひどく官能的で、あたしはなんだか悪いことをしているような気持ちにさせられた。人魚は浴槽から動くことを知らないので、あたしが一生懸命に洗えば洗うほど、お湯はどんどん泡だらけになってゆく。人魚が、増えてゆく泡を不思議そうな目で見つめた。
 この日、人魚はなぜかあたしの髪や身体を洗ってくれた。浴室の中で、あたしたちの身体の輪郭だけが月明かりをあつめて仄白く光っていた。そのせいか、人魚の指先があたしの身体に触れるたび、あたしたちの境界線が青白く浮かび上がって見えた。あたしは、人魚に触れられれば触れられるほど、胸の奥が苦しくて、必死に空気を吸った。けれど、煙草の煙で満ちた浴室の中では、どんなに息を吸ってもずっと苦しいままだった。ふと、あたしの目から涙が溢れた。人魚は、あたしの涙を唇で拭うと、そのままあたしにキスをした。人魚の舌は、苦くて甘くて、びっくりするほど熱かった。

 次の日の朝、あたしは高熱を出して寝込んでしまった。それからのことはよく覚えていない。ふみ子さんがママに連絡したのか、その日の夕方にはママの車に乗せられていたように思う。あたしはずっと人魚のことを考えながらうつらうつらしていて、ママは、あたしの髪がやけに煙草臭いのをふみ子さんのせいだと思って一人でぶつぶつと文句を言っていた。

 それからしばらくして、ふみ子さんが家を売りに出したと聞いた。あたしもママもびっくりしてふみ子さんの家に行ったけれど、もうすでにもぬけの殻だった。
 あたしは、真っ先に浴室に飛び込んだ。明るい浴室は乾いたお日さまの匂いがした。煙草の煙も、匂いも、人魚の面影は何一つ残ってなかった。だから、あたしは人魚のことを誰にも言わなかった。大人たちは、ふみ子さんが駆け落ちしたんじゃないかとか、借金があったんじゃないかとか、あれこれ噂をしていたけれど、結局、本当のことは誰も何も知らなかった。

   ◇

 今思うと、たぶんきっと、人魚があたしの初恋だったのかもしれない。だからこそ、今でもあたしはこうして、空っぽの浴槽で人魚と同じ苦くて甘い煙草を吸って、人魚のやわい肌の、さりさりと濡れた鱗の、もう記憶の奥深くで薄れかけている手触りを必死に手繰り寄せている。


大庭繭(おおば・まゆ)
6月生まれ。かに座。ゲンロン大森望SF講座第7期生。誰かの「ない記憶」になれるような物語を書きたくて、いつも泣きながら執筆しています。

Twitter(X):@akegatano_hoshi

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💡次回(1月中旬ごろ予定)のゲスト作家は……カツセマサヒコさん

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