【煙たい物語】第四篇~カツセマサヒコ「煙に巻く」【アメスピ・ぺリック】

文壇の現在と未来を担う書き手たちが、それぞれの想いとともに煙草にまつわる物語を織りなす新連載――「煙たい物語」。
第四篇は、カツセマサヒコさん「煙に巻く」をお送りします。

ついに蛍光灯が死んだ夏の夜、俺とミサさんは寄り添いながら、”長く吸えるから”と選んだアメスピの黒を口に咥える。暗い部屋のなかを泳ぐ煙が大事なことから逃げるように、未来を煙に巻いていく――。

煙に巻く

 愛はあっても金がなかった。この部屋の電気は大小二つの輪っかになってるタイプの蛍光灯で、それが半年前までは二つ連なって仲良く床を照らしてた。でも猛烈に雪が降った二月の夜、大きい方の輪っかが突然音もなく逝って、それから半年ほど経った今、この蒸し暑い夜に、とうとうもう片方も逝った。それだけで部屋は真っ暗になった。
「停電?」とミサさんが言って、でも便所の電気が点いてるのは間違いないし、蛍光灯が死んだに違いなかった。俺は「蛍光灯」とだけ告げて、なんとなく携帯のライトを点けると、ぐるぐると天井を照らした。
 少しすると、目が慣れてきて、窓から入り込んだ街の光が、ぼんやりとこの部屋を暗闇から逃してくれている。その微かな明かりで照らされたミサさんの肌が、なんだか妙にエロく思えて、俺はしゃがみ込むと、ミサさんのタンクトップの裾に手を掛けた。
 ミサさんはその手を雑に拒んで、俺の腹を、裸足で蹴った。
「これ、どうすんの」
 切れた蛍光灯を指差してるのが、暗くてもわかった。
 一個目の、大きい方の蛍光灯が切れたときも、同じようなキレ方をしていた。あの夜は、隙間風がひどくて、ミサさんは家の中でもマフラーをぐるぐる巻きにして、ダウンも着ていた。今は逆に、ほとんど下着みたいな格好をしていて、ずっと妙にエロい。それも、お互い脱水症状にならないギリギリのラインまで冷房をつけないようにしているせいだ。
 やっぱり、愛はあるが、金がない。
 ミサさんが台所に向かったかと思うと、水を入れたペットボトルを持って戻ってきた。携帯のライトを点けて、それを床に置くと、その上に、水入りのボトルを置いた。
「何してんの?」
「こうやると、明るくなるらしいよ」
「え。ああ」
 本当だ。まっすぐに伸びていた携帯の光が、ペットボトルの中で無数に屈折して、部屋の中をぼんやりと照らした。真っ暗な宇宙の真ん中に、太陽ができたみたいだと思った。
「なんか、キャンプしてるみたい」
 俺は、太陽みたいって思ったのに、ミサさんはキャンプなんて言う。平凡な発想に、なんかやるせなくなる。もっとあるだろ、太陽だろ、と思いながら、ほんとだねーって返してる自分にも苛立ってくる。
 でも、じっとペットボトルの光を見てると、そういう苛立ちもなんだかどうでもよくなって、いつの間にかミサさんが、俺の肩に頭を置いていて、それはなんだか雰囲気が良かった。
 洗面所を兼ねた台所と、便所と、かろうじて生き残っている天井の豆電球だけ点けて、あとはスマホで照らされたこの部屋の中で、くっついて煙草を吸った。
 アメスピの黒。俺は前までほかのを吸ってたのに、こっちの方が長く持つからって、いつの間にかミサさんと同じものを吸うようになった。貧乏人にはちょうどいいよって、笑いながら言ってた。煙がもくもくと暗闇を泳いで、何か大事なことから逃げるように、空気に溶けていくのを見ていた。
 ミサさんの携帯から、「オールナイトニッポン0」が流れてて、もうそれも終わろうとしてる。いつの間にそんな夜が深いんだって、毎日のように驚く。今も、驚いた。
「明日、休み?」
「うん」
「てか最近、バイト行ってなくない?」
「たまたま、シフトが少なくて」
「辞めてない?」
「辞めてないよ」
 本当は、辞めてた。上司がだるくて。思ったより忙しくて。言い出せなくて、二週間が経っている。明日には言わなきゃと、昨日も思って、もう今日だった。明日こそ、言わなきゃ。
「じゃあ、明日、一緒に電気屋行かない?」
「そだね、いいね」
 ミサさんのタバコの火が消えるのを待ってから、その口の中に、舌を入れた。今度は拒まなかったから、大丈夫。拒まれたら、寂しい。ミサさんの口から、煙草の、最悪な部分だけ切り取ったような味がする。おんなじアメスピ吸ってんのに、人の口の中でいろんなものと混ざると、それは本当にただ最悪な味になる。それすら愛しい。蒸し暑い夜だ。ミサさんの体に溜まった汗や汚れを、どうしても舐めたかった。ミサさんだけは受け入れていて欲しいって、いつも思う。
 職がない。金もない。でも、ミサさんがいる。
 ミサさんは、バイトもしてるけど、金がなくなると、下着を売る。高く売れるらしい。この人は、おっさんが嫌いで、すぐに殴るから、水商売どころか接客業も向かない。何度か挑戦したみたいだけど、一日で辞めて帰ってきたこともあって、なんだかその時は誇らしいとすら思った。
 女は最終的に脱げばいいとか、よほど言えたもんじゃない。俺も、話がつまらんおばさんにニコニコしろって言われたら、無理だ。この世界は、笑顔と体力とコミュ力で乗り切らなきゃいけない仕事が、多すぎる。地頭の良さとか優しさとかは、蔑ろにされがちだ。
 だから、俺もミサさんも、ずっと貧乏だ。
 ミサさんの二の腕を舐める。出会った時から変わらずに、この細い二の腕が好きだ。もう二年前か。酔い潰れて、倒れていたミサさんを、高円寺の駅前のロータリーで見かけて、なんとなく、朝までその横に座って、男たちを追っ払ってた。水を渡すと飲んでくれて、吐いたり寝たりする、その様子を横でじっと見てた。日が昇る頃には、ミサさんのゲロが俺の服にもちょっとかかってて、ミサさんの服にももちろんゲロがついてて、それで、もう少し日が昇るまで二人で待ってから、朝からやってる古着屋で適当に服を選んで、銭湯に行った。そのまま解散になるのがなんだか寂しくて、俺はさっさと体を洗って、着ていたTシャツは捨てて、ものの十分で脱衣所から飛び出して、炎天下の中、ミサさんが出てくるのを待ってた。
 あの日から、なんかよく呼び出されるようになって、気づいたら、ミサさんは俺の部屋に住み着いてた。元々シェアハウスっていうかルームシェアをしてた女友達がいたらしいけど、ひょんなことから殴り合いの喧嘩になって、ミサさんが出て行かざるを得なくなったらしかった。話を聞いてみれば、家賃を全く納めてなかったらしいから、ミサさんが出ていくのも当然のことだと思った。
 出会った日も、転がりこんできた日も、今も、夏だった。ノースリーブから覗く、ミサさんの細い腕が、それらを思い出させた。
 あれから、働いたり、働かなかったりしながら、俺とミサさんは、ずっとこの部屋で人生を停滞させている。時折ムカついたり、たまにものすごく愛おしく思ったりしながら、現実から逃げるように、抱き合って眠っている。
 翌朝、といっても目が覚めたのは昼前で、やっぱり起きたらものすごく暑かった。蝉すら鳴くのを諦めているのか、その声の数は去年より明らかに少ない。鳴かないってことは、繁殖を諦めるってことだ。俺とミサさんは、懲りずにセックスばかりしている。七日しか生きられない蝉よりもよほどしつこく、体を交わらせている。
 床に落ちていたデニムを履いて、洗濯バサミに止まっていたTシャツを被った。ミサさんも歯磨きをしながら、その隣に干してあったブラジャーとTシャツを器用に片手で取る。ものの数分で着替えて支度を済ませると、蛍光灯のサイズだけ写真に撮って、そのまま、部屋を出た。
 ミサさんは出歩く時にも眉を描くくらいしか化粧をしない。一緒にいて楽だなと思う。その楽さに甘えて、どんどん楽なほうばかりを選んで、今に至っているとも思う。
 二人でいれば、なんとかなるよね。
 ミサさんはそんなことをよく言う。
 二人でいるからこんなことになってるんだ。と、俺はよく思う。
 俺たちには、金がない。それに、ミサさんはやっぱり俺にも、家賃を払ってくれない。
 アパートを出ると、痛いくらいに陽射しが強かった。二人それぞれ、日傘をさしながら歩いた。帰ったら水風呂に入ろうと話しながら、それでも小指だけはずっと繋いだまま、電気屋を目指した。
 高円寺の純情商店街を歩いている途中にリサイクルショップがあって、そこに立ち寄った。大して広くもない店だが、ピンポイントに欲しいものだけ置かれていることがあった。去年ここで買った扇風機はもう壊れて、とっくに捨てたけど、小さくてボロいエアホッケーの玩具は、確かまだ押し入れに入ってるはずだ。
 店にはドアがないから、エアコンの効きがすこぶる悪い。それでも、外にいるよりはいくらかマシで、呼吸がしやすい。今日の陽射しは、炎みたいだ。
 やる気のない様子でレジ前に立っていた男性店員に、蛍光灯はあるかと尋ねる。やる気なく見えるのは外見だけだったようで、わざわざご丁寧に売り場まで案内してくれた。この人は見た目で損しているタイプだ。俺と似たタイプだと思った。
「全部、未使用なので」
 店員は無愛想にそう言って、その場を去った。蛍光灯は、オフィスや店舗に使われていそうな棒状のものが多かったが、それらの隅の方に、我が家と同じ、輪の形をしたタイプのものも二、三、売られていた。
「あるもんだね」
 一体、どんな人が、未使用のまま売るのだろうか。買ったものの、サイズが合わなかったのか。スペアを用意していたけれど、使う間もなくその家から引っ越すことになったのか。出番を待っている蛍光灯たちが、俺とミサさんを品定めするように見ている気がした。
 照明器具の定価や相場なんて、まったく気にしたことがなかったが、ここに置いてあるものだけでも、値段はかなり違った。そのうち二つは同じサイズなのに、値段だけが三倍違う。
「何が違うの、これ」
 ミサさんが、パッケージに顔を近づける。
 右手の真新しそうなものは、LEDと大きく書かれていて、寿命が四万時間と記載されている。それに対し、左手の古そうな蛍光灯は「長寿命」を謳っていながら八千時間しか持たない。値段は、前者が三千六百円もするのに、後者は千二百円だった。
「寿命が五倍も違うよ、これ」
 ミサさんが、両手でそれぞれの寿命を指差しながら言う。
 そうだねえと返しながら、しかし、金のない今、三千円を越える出費が痛い。
「値段は三倍なのに、寿命五倍なんだから、こっちの方がどう見ても得じゃん。これじゃない?」
「でも、今、そんなに金ない」
「え、こっちのほうが明らかに得するじゃん」
「いや、得するけど、今、金がないから」
「え、私貸すよ」
「え、貸すっていうかさ。ほら、同じ家のものだし」
「ああ、じゃあいいよ、半分もつよ」
「うーん」
 なんか。なんかさ。じゃあってなんだよ。
 言葉が喉元まで出てきて、飲み込む。替わりに、もっとひどい言葉が出てくる。
「俺たちさ、四万時間も一緒にいるか、わかんなくない?」
「え、なんで?」
「なんでって、だって、四万時間って、どんくらい?」
 ミサさんが、乱暴に携帯を取り出して、電卓アプリを叩く。
 四万時間を、二十四で割る。ミサさんが、画面に表示された日数を、口にする。
「1666日」
「でしょ? 俺たち、そんなに長い時間、あの部屋に一緒にいる?」
「え、いないの?」
「いや、いたいよ? いたいけどー、でも、未来は、わかんないよねーって」
 あははは。
 ミサさんは、笑ってくれなかった。店の中の蒸し暑さが、どうにも気になった。店内にかかっているラジオが、気象予報を告げる。明日は、今日より暑くなるとキャスターが言った。
 ミサさんはもう一度、携帯に数字を打ち込み始めた。今度は「八千」と入力して、二十四で割った。安い方の寿命は、333日。一年未満。
 妥当だな、と思った。
 この古いほうの蛍光灯を部屋で付けっぱなしにしていれば、あと一年以内に、また寿命がくる。ちょうどその頃には、俺もミサさんも、きっと何か、別の人生に向けて、今の心地良い停滞から、抜け出ているんじゃなかろうか。
 少なくとも、俺は今のしょうもない暮らしから、抜け出してるんじゃないか。そうあってほしい。1666日も、あの部屋にいたくないと思った。
 金がないのは、しんどい。
 こっちにしない? と、安い蛍光灯を指差すより先に、ミサさんは店の外に、歩き出していた。
「煙草吸うから、決めてていいよ」
 怒ってる声だった。
 なんでそんな、怒るんだろうか。
 ミサさんの右手には、やっぱり俺と同じ、アメスピの黒が握られていた。
 ほかのより、長く持つから。そう言っていたアメスピが、今はなんだか、タール数以上に重たく見える。気付けば、店内で吸ったわけでもないのに、店の中は煙たくて、もうミサさんは、店から出たらいなくなってるかもしれないと思った。


カツセマサヒコ
1986年東京都生まれ。一般企業勤務を経て、ライターとして活動を開始。2020年『明け方の若者たち』(幻冬舎)で小説家デビュー。同作は累計14万部を超えるベストセラーとなり、翌年に映画化。二作目となる『夜行秘密』(双葉社)も大きな話題を呼んだ。他の活動に雑誌連載や、ラジオ『NIGHT DIVER』(TOKYO FM 毎週木曜28:00~)パーソナリティなど。
Twitter:@katsuse_m

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💡次回(2 月上旬ごろ予定)のゲスト作家は……鹿苑牡丹(ろくおん・ぼたん)さん

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