【煙たい物語】第五篇~鹿苑牡丹「ショートホープ・フラッシュバック」

文壇の現在と未来を担う書き手たちが、それぞれの想いとともに煙草にまつわる物語を織りなす新連載――「煙たい物語」。
第五篇は、鹿苑牡丹さん「ショートホープ・フラッシュバック」をお送りします。

就職を機に集まったかつての野球部の仲間たち。大学野球で挫折した幸一は、クマサンとタイショーに誘われて河川敷での一打席勝負に臨む。無我夢中で白球を追いかけたあの頃の希望が、つかの間の明かりのなかで揺らめいて――。

ショートホープ・フラッシュバック

 赤提灯を吊るした焼き鳥屋の店先で幸一は一服していた。
 指先から立ち昇る白煙が空気中にくゆり、解れて、消えていく。その様子を見ながら幸一は「外が寒いほど煙草は旨いな」と思った。
 彼は今一度口から煙を吐き出し、店内から聞こえる喧噪に耳を傾ける。「ああ、あの一際大きな声は彼らのものだろうか」と数年ぶりに会う旧友との関係を必要以上に懸念し、物憂げな表情を浮かべた。
 風が吹き、幸一の手の中の煙草の灰が落ちる。いつの間にかフィルターまでが燃えている。彼は赤缶に火を押し付けて消し、暖簾を潜って店に入っていった。

 幸一が店に入って辺りを見まわしていると、彼と同期の、高校時代はキャッチャーを務め、今は農家をしているクマサンが「コウちゃん、こっちこっち!」と幸一に向かって手招きをした。元投手のタイショーも「やあ」と手を挙げた。パイン材の小さなテーブルを囲んで大柄な男二人が丸椅子に座っており、子供用を無理して使っているようで少々狭々しい。
 幸一は廊下に丸椅子を寄せた後、タイショーの横に座り「遅れてすまん」と彼らに挨拶をした。そしてぼそりと、「お前ら老けたな」と付け加える。「遅れてきた第一声がそれか」とタイショーが苦笑した。
 飲み物を注文した後、店員がすぐさま生ビール3杯とお通しのキャベツを持ってきた。待ちきれないといわんばかりにグラスを配ったクマサンが「一年の労いと、みんなの就職、再会等々を祝して、乾杯!」と音頭を取る。

「3人揃うのは成人式ぶりかな?」
 とタイショーが言う。
「あの時は大学2回生だったか、色々呑気にやれていたな」
「おいおい、その時は雨が多くてうちの畑が大変だったんだぜ。学生さんは気楽でいいねぇ」
 クマサンがビールをぐびぐびと飲みながらぼやく。
「で、そんな学生さん達は春から何になるの?」
「市役所職員」
 とすぐさま自慢げにタイショーが答える。髭面にビールの泡が付いている。
「おー、いいじゃん、安定、大事だよな」
 幸一は知ったような口振りで話す。「まぁね。ずっとここに住めるのも願ったり叶ったりさ」とタイショーは嬉しそうだ。

 ジョッキをあっという間に空けたクマサンがお代わりを注文する。その後、店員からテーブルに向き直った。
「それで、コウちゃんは?」
「フロントエンジニアっていう、世間でいうプログラマーかな」
「え? 幸一、文系じゃなかった? 珍しいね」
「なんだかんだあって、去年、大学を中退したんだよ。それから、プログラミングスクールに通いはじめて、就職先もスクールの仲介を受けて決めた」
 幸一は手をグーとパーの形に交互に変えながら言った。
「はー、大変だったんだな」とタイショーが相槌を打ち、「まぁ、進路が決まったなら良かった」とクマサンが頷く。
 幸一が暗い顔で言ったものだから、少しの間、気まずい沈黙が訪れた。

 やがて、3人に酔いが回ってきて、話題に遠慮がなくなってきた。
 クマサンの彼女がゼクシィを渡してきて結婚に圧をかけてくるとか、タイショーの髭が随分と濃くなったとか、運動をやめてからかなり太ったとか、会っていなかった二年を凝縮するかのように、時に重く、時に軽い、如何にも居酒屋の話題として適当な事々を彼らは喧々囂々と話し続ける。都度都度、かつての担任教師の口癖や、高校時代のエピソードも混じり、幸一は練習前に部室でしていた雑談を連想した。
「こいつらに気を遣う必要なんてなかったな」と彼はキャベツの最後の一切れを口にしながら思う。いつの間にか、テーブルの食べ物が尽きていた。

「どうする? 時間も丁度いいし、2軒目に行くか?」
 とクマサンが聞く。
 右手でグーパー運動をしながら幸一が考える。その動作がタイショーの目に留まった。
「幸一、確か、スポーツ推薦で大学に入っていたよね? 野球は続けているの?」
 幸一は暫く黙ったのちに、「やめたんだ」とか細く言った。
「そうだったんだ。……気を悪くしてしまったら、ごめん」
 とタイショーが謝る。

「よし! 野球をするぞ!」と、クマサンが突然2人の沈黙に割って入った。焼き鳥の串でキャッチャーミットを模している彼を見て、ついつい幸一は吹き出した。

 店から出てタクシーを捕まえた3人は、彼らの家を順番に回り、野球道具を取ってきた。
 幸一が持ってきたのは大学野球では規定上使うことの出来なかった金属バットで、彼はヘッドを撫でてその冷たさを懐かしむ。
 道具を回収した後、深夜に行く場所として大の大人に指定されたことがないのか、運転手に訝しがられつつも、付近で一番大きな河川敷公園へと彼らはやってきた。
 グラウンドとまではいかないが、この公園はまずまず広い多目的広場を有している。到着早々、3人は靴の踵で地面に線を引き、簡易的なファールライン、ホームベース、マウンドを作った。あとはナイターがあれば言うこと無しだが、残念ながら周りに明かりはなく、遠くの住宅街の街灯と星光によって表情が辛うじて見えるといった程度に広場は照らされている。広場から少し離れて流れる川は、微かな反射光で所々きらめき、蠢く黒雲母のようですらあった。
 3人は辺りを見回して野球をするには暗すぎると判断し、スマホにビニール袋を被せた簡易ナイターを地面へ置いた。ほのかに明るくなった広場を再度眺め、幸一はファールラインの歪みを指摘する。タイショーがぼやきながら直し、ようやく野球場が完成した。

「せっかくだから勝負にしよう。久々に一打席勝負だ」と体をほぐしながらクマサンが提案する。
 プロテクターを付けたクマサンは地面のビニール袋に下から照らされており、まるで亡霊のように幸一には見えた。
「いや、過去ばかり気にする俺こそが亡霊のようなものか」と彼は心中で自嘲する。そして何かを追い払うかのようにバットを振り、「いいね、やろうか」と言った。

 地面に線を引いただけのピッチャーマウンドにタイショーが立つ。クマサンとアップを始めるが、ブランクがあるとは思えないほどにその投球は鋭い。
「たまにストラックアウトで遊んでたんだよ」と彼が言う。「黄金時代って伊達に呼ばれちゃいないよな」とクマサンが言葉を紡いで、
「超高校級の黄金バッテリーに引き続きまして、4番、ファースト、三条幸一くん」
 と打席に立つ前のアナウンスを真似し、素振りを終えて打席にやって来た幸一を囃し立てる。
「年齢的には確かに超高校級だけどな。あと、4番っていつの時代の話だよ」
「俺たちは4番のコウちゃんしか知らないからな。……今日はあっさり三振になって、その肩書も終わりになるかも」
「言ってろ、贋金バッテリー。初球で終わりにしてやるよ」

 風の音に混じる、バシンという捕球音。即席の野球場に、確かな試合前の緊張感が作られてゆく。
 クマサンがボールをタイショーに返し、今度はアンパイアになりきって、「プレイボール!」と宣言した。

 真っ暗な背景に浮かび上がっているタイショーが胸元にグローブを構える。彼が機械じみた滑らかさで足を廻しながら腰を入れてゆく。
 土を擦る靴の音の後に放たれた白球は、幸一のスイングに先んじて真っ直ぐキャッチャーミットへと吸い込まれた。
「初球で何をするって?」
 とタイショーが嬉しそうに叫ぶ。「酔ってるからタイミングがずれた!」と幸一が言い訳をした。

「体だけは鈍らないように鍛え続けてきた。大丈夫だ」と幸一は自分に言い聞かせる。タイショーが投球フォームに入る。
 彼の一挙手一投足を見逃さないように、幸一の視野が狭まり、心臓の鼓動が高まる。タイショーの指の肌色が一瞬ちらつき、ボールが彼の手を離れた。
「捉えた」
 と幸一が思った瞬間、ボールが下へと方向を変えて曲がり、彼の目論見を外れてバットをかすめる。
 ライターの火打石を擦るのに似た、チッという金属音が鳴った。

 芯を外したスイング特有の肘の疼痛に同期して、幸一の網膜に焼き付いて離れない光景が、その時に感じていた情緒へと熱を与えて蘇らせていく。
「おいおい、変な方向に飛ばさないでくれよ」
 とボールを拾ってきたクマサンが茶化す。
「大丈夫だ。次は探せないほど遠くに飛ばすから」

 冬日、真夜中の公園。もうすぐ若者気分ではいられなくなる大人達。幼児に「おじさん」と言われかねないタイショーが投球する。
 けれども、高校時代に濃い時間を共にした3人が再びここに揃って野球をしているのだ。蝉の声、じりじりと照りつく太陽、白いユニフォーム。県大会のサヨナラホームランが幸一の中でフラッシュバックする。
「ああ、そうだ、青空の下。世界全てがそのまま鐘になったらこう鳴るのだろう、という気持ちのいい金属音が響いて……」
 ボールが彼の振るったバットの芯に当たり、「カキーン」と澄み切った音が辺りに響いた。
 白球はみるみるうちに遠ざかり、幸一の幻覚とともに夜に溶けてゆく。

 試合後、3人は大した運動をしていないのにも関わらず、倒れるようにして近くの芝生に寝転がった。
「お前らとやる野球は楽しいな」
 と言いながら、幸一はポケットから取り出したショートホープに火を点ける。
「煙草、吸ってたっけ?」
 とクマサンが聞く。幸一は、彼のむき出しになった、呼吸とともに上下する腹の贅肉を見ながら返事をする。
「大学で、野球で活躍することを諦めた時に吸い始めたんだよ。一生懸命やってもどうしてもレギュラーになれなくて、腐っちゃったんだよな。……煙草を吸うと、マッチ売りの少女みたいに、楽しかった思い出に浸れる気がしないか? 俺だけかな?」
「まぁ確かに、無心で煙草を吸うことはあまりないかもな。コウちゃんはその時、俺たちとの野球を思い出すわけだ」
「思い出か。僕は煙草吸ったことがないから分からないな。試しに一つくれないか?」
 幸一は二人にショートホープを分けてやった。クマサンは吸いなれているようだが、タイショーは火を点けるのにも苦労をして、いざ吸った際には大きく咽《む》せる。タイショーが数度吸った後に地面に押し付けて火を消して言った。
「苦いな! 僕は嫌なことを思い出したよ。彼女に帰りが遅くなると言ってないから、怒られるだろうなって」
「何だよ、ただの惚気話じゃないか。俺の理論からすると、タイショーは今が一番楽しいんだろうな。俺は、我ながら卑屈だが、仕事だの結婚だの、未来を考えたくないよ」
「相変わらず虚無的だね」とタイショーが感想を言う。
「幸一の言うことも少し共感できるよ。つくづく、大人って大変だよな。未来に向けて自分の前にニンジンをぶら下げて動機付けるのも、それにありつけないと知りつつ全力で走るのも役目なんだからな」
 その言葉を聞いたクマサンが、鼻で笑って煙草を地面に押し付けた。それを横目に、幸一も手慰みに芝生に触れてみる。金属とは違う、湿り気を帯びた冷たさ。

 ふと、目の前の、全ての水彩絵の具を1つの筆洗で溶いたような色をした川から聞こえる音が、幸一の耳に付いた。刻々と変化するそれに注意を払っていると、彼が自然から感じていた不変性が何故だか崩れていく。
 彼は心細くなって夜空を見つめた。今日は新月のため、星々が燦然と輝いて見える。しかしながら、星座について彼が知っていることは少ない。法則なく散らばった星々を眺めて、煙草の白煙をたどって自分が空虚な夜空に吸い込まれていくような錯覚を彼は抱いた。

 川風が吹き、幸一の持つ煙草の火が揺らぐ。「お前ら、年をとったな。当然、俺もだけれど」
 ショートホープの赤光がかすかに川辺を照らしている。やがて、線香花火のように光は弱まり、消えた。


鹿苑牡丹(ろくおん・ぼたん)
岩手県盛岡市出身、現在東京都在住。”ろくおんぼたん”と読みます。ゲンロン 大森望 SF創作講座 第7期生。幻想小説・SF小説を中心に、祈りに似た執筆をしています。この物語が誰かに寄り添えるものでありますように。
Twitter(X):@rokuonbutton

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💡次回(2 月下旬ごろ予定)のゲスト作家は……南木義隆(なんぼく・よしたか)さん

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