第六篇は、南木義隆さん「ここは世界で一番地獄だよ早く迎えに来て」をお送りします。
ここは世界で一番地獄だよ早く迎えに来て
さて、あなたは苛立っている。日がな一日、Xで紛争地域から流れてくるグロテスクな動画ばかり見ているセックスフレンドの女の子に。
だから「そんなんばっか見てると体に毒だよ」と忠告するけど、「は? おねーさんの吸ってる煙草の方がもろ毒でしょ、ウザ」と返される。
女の子――私は、「ってかさー、おねーさん老けるよ。煙草吸ってるおっさんってだいたいめちゃくちゃ肌汚いし。幾つだったっけ? 二十八?」と続けた。
「二十七。それはいいんだよ。早くおばさんになりたいから」とあなたは肩をすくめる。
「なんでおばさんになりたいの? 意味不明。私は永遠に十九歳のままでいたいけど」と私は首をかしげる。
「こないだ酒買うとき年齢確認されてたじゃん、面倒じゃない?」とあなたは眉をひそめる。
「十代だと大人ナシでも三万ヨユーで取れるもん」と言って、私はVサインをして見せる。
あなたは未だに性行為を大人と呼ぶ隠語を正気の沙汰とは思えない。マトモな人間の使う単語ではないと思う。それからまぁ大人を売っているやつも、買っているやつもマトモではないと思い直す。さっきまで抱きついて好き好きと言っていた私が冷めた表情で死体の動画を漁っているのがいい例だ。
「そんなん別に二十歳超えても十八歳でーすって言っときゃいいじゃん?」
「うっさいなぁ。ってかベッドで煙草吸わないで。危ないでしょ」と返され、それはもっともだなと思ったあなたはベッドから退散し、ソファーに座った。
アメリカン・スピリットをゆっくり一本分——アメリカン・スピリットは他の煙草と違って燃焼剤が入っていないので、これはちょっとした時間となる——熟慮してから、あなたは「いや、たしかに煙草は中長期的には体に悪いだろうけど、人体が損壊するレベルの動画は確実に精神に悪影響を及ぼすし、戦争に目をそむけないという大義ではなく興味本位だけなら、それはかなり短期的によろしくない」と言った。
私からの返答。
「は? ウザ」
あなたはため息を隠さない。
「なんで戦場の動画ばっかり見てんの?」
「この世にはもっと地獄があるんだって安心できるから。リスカよりマシでしょ?」
私はちょっと得意げに言う。
あなたはチェストの上に転がっていたアークロイヤルのバニラに火をつける。苛ついたときは癖の強い煙草で気を紛らわすのが流儀だ。
だが、私は不快感を込めて「ちょっとそれ吸われると変に甘くて頭痛くなるんですけど」と嫌そうに言う。
仕方ないのでアークロイヤルをもみ消して、アメリカン・スピリットにまた火をつけた。あなたはアークロイヤルを私との関係では意味合いのある銘柄のつもりでいるし、それは私自身わかっている。
けれど私は少ししてから、「うん、やっぱそれはギリ許せる」と言った。
「じゃあ家ではこれだけ吸うことにするよ」
「煙草吸ってるとさぁ、引っ越すときすごいお金かかるんでしょ? やめなよ」
「いいんだよ。このアパート、大学のときから住んでるから、もうクロス代は原状回復義務なくてチャラだから」
「原状回復義務ってなに?」と訊ねる。十九歳の私は驚くほど(実際にあなたをしばしば驚かせている)無知だ。
「引っ越すとき部屋を元どおりにしないといけないんだけど、経年劣化……住んだ年数次第でチャラになるやつがあるの。煙草のヤニはクロスを汚すけど、もう十年も住むと、クロスの価値がなくなるから」
「話長ッ」と私は笑った。
あなたは沈黙する。
紫煙が締め切った部屋のなかに留まって揺れる。
「あっ、ちいかわ更新されてる」と私はスマホをあなたの方に向けた。「シーサーちゃん回だ。おねーさん、シーサーちゃん好きだったよね?」
「好きでーす」とあなたはちいかわのシーサーの口調を真似て言った。私は疲れてくたびれた大人を演じているあなたが無邪気になる瞬間がとても好き。
締め切って生ぐさいにおいのする部屋に紫煙が留まってよどんで、息苦しくなる。
「わたしもおねーさん好きでーす」と私は後ろから抱きついてきた。「もう一回しよー」
「ウザいんじゃなかったの?」
「説教はウザい。エッチは上手い」
サービストークではなく、本音だ。ベッドの上で私がこれまで受けたことのないような愛情を与えるから、こうして懐かれて、そしてあなたは疲れてしまうのだ。
私はあなたから吸いさしの煙草を奪い取って、灰皿でもみ消した。
「きみが感じてるフリが上手いだけじゃない?」
「えー、私、男とやってるときは超マグロだよ」
「誰にでもそう言ってるでしょ」
「そんなひねたことばっかり言うならもうエッチさせてあげないよー」
「ならもう住まわせてあげませーん」
私たちはもみくちゃになりながら、行為の続きをした。
私とあなたは出会いからして最悪だったが、これはどちらかと言えばあなたが悪い。
手酷くフラれて落ち込んでお友達と歌舞伎町で飲み明かした冬先のあなたは、そのお友達が止めるのも聞かないで調子に乗ってトー横からの大久保公園の立ちんぼ見学に行った。
本当にずらっと女の子が並んでるのがおかしくて、財布の中に入ってた万札全部取り出して、「このなかでちゃんと十八歳超えてて女とヤレる人ー!」と叫んだ。
そして最初に挙手した、ストロングゼロの500ml缶片手に全身地雷系、ちいかわと、シナモロールのグッズを身につけているのが私だった。ちゃんと身分証も確認していた。律儀なことだ。
呆れて帰ったお友達と別れて、ホテルで雑に寝た直後、私は「おねーさん、いくつ? どこ住んでるの? 仕事は?」とあなたに訊ねた。
「二十七、南新宿の方の小さいアパートだけど住所的には渋谷区、今は漫画アプリの編集者、ちょっと前は写真週刊誌にいた」
「編集さんなんだ。私の知ってる漫画とかやってたりする? 最近はあんま読まないけど、高校の頃は読んでたよ。進撃とかチェンソーマンとか」
「あいにく講談社も集英社も一次面接で落ちたし、新人ばっか任されてるけど打ち切り続きだから絶対知らないね」
「クビにならないの?」
「正社員はそう簡単にはならない。漫画家の方は知らない」
「ふうん」と私は曖昧な表情をした。「小説の編集さんはやらないの?」
「配属されたらやるよ。どうして?」
「私、作家になりたいんだ」
「小説を書くの?」
「これから書くの」
あなたは苦笑を上手く隠す。代わりに「どんな小説が好き?」と訊ねる。
「あんまり読んだことない。だけど、なにかを書きたいの」
なにかを書きたい。この発言があなたを狂わせた。
「そっか、なにか書けるといいね」
「ねぇ、ところでおねーさん、ひとり暮らし?」
「うん」
「彼氏か彼女いる?」
「彼氏はいたことがいない。彼女は三日前までいたけど、フラれて酔って暴走してたのがさっき」
あなたは元カノの別れの言葉――――いつまで学生のころの親友の幻影を見てるの?――を思い出して、泣きそうになったので、立ち上がって、裸のまま煙草を吸ってごまかした。居酒屋で吸いすぎたせいでそのとき余っていたのは、もうアークロイヤルのバニラだけだった。
もちろん私はそんな複雑な過去や感情の機微には気づかず、「なにこのにおい。甘くてかわいいかも」と笑った。
「バニラ。昔、バーで吸ったら注意されたことあるよ」
「その煙草、なんかエロいね」
「そうかな」
「シーシャって吸う? そっち系のにおいっぽい」
「学生のころはいきがって通った」
「私、行ってみたいんだー、今度連れてって」
あなたは首を横に振った。
「今は面倒で、新宿駅西口の煙草屋で買える煙草以外は吸わない」
私はベッドに寝転んだまま頬杖をついて、あなたの方をじっと見ていた。
「じゃあ、毎日タダでエッチさせてあげるから、ちょっと住まわせてくれたりしない?」
なぜそこで「それならいいよ」と言ってしまったのか。酒は人間の判断力を最低にしてしまう。やはり、同じ合法的なドラッグでも、煙草の方がずっと優秀だとあなたの持論は強化される。
アルコール中毒で奥さんに逃げられて解雇までされた先輩がいるが、ニコチン中毒での解雇をあなたは寡聞にして知らない。
……大して広くもない会社の喫煙室で声をかけられていたことに気づいたのは、相手の白髪の中年男性があなたの前で両手を振っていたからだった。
「鈴木さん、なにしてるんですか?」とあなたは首をかしげた。
「三回声かけたけど空中を見つめてるから、僕を本気で無視したいのか、ついに精神を病んだか、薬でおかしくなったか、どれか気になりまして」と彼は言った。
「どれでもないですよ……あー、仕事のこと考えてました」
鈴木さんは写真週刊誌の契約カメラマンで、あなたがそっちの部署にいたときはよく一緒に仕事をしていた。芸能人やスポーツ選手や、たまに政治家の尻を追い回して。
あなたとはたまたま大学が学部まで同じで、何かと馬が合った。彼は異常なチェーンスモーカーで、一度泊まりの取材のとき、ピースを一日三箱空けていた。
「今も漫画の部門で?」
「そうです」
「いい作品を作れてますか?」
「ぜんぜん」あなたは首を振る。「新しいアプリって部門がよくないのかもですが、四人担当してても、誰にも才能を感じないですね。そもそもみんな私より漫画知らないですし。今の若い漫画家志望の子、お金なくて買えないって。最近なに興味ある? って訊いたら、YouTubeのゲームの実況の話題ばっか。でも自分でゲームをやるわけでもない、ソシャゲ以外は」
「日本の不況を感じさせますね。僕にも責任の一端がありそうだ」
「手塚治虫も萩尾望都も岡崎京子も谷口ジローも豊田徹也も矢沢あいもアラン・ムーアも、どーれも読んだことがない。なにを話せばいいのやら。ロバート・キャパもケビン・カーターも知らない報道カメラマン志望みたいなものですよ」
「写真は技術職だから、そういう人も珍しくないですよ」彼はたしなめるような苦笑を浮かべた。「ただ、今の職場に不満を感じているのは、一瞬で伝わりました」
職場というよりかは、家に居つかれた小娘のせいだが、それはさすがに口にしない。
「ああ、でもちいかわだけはみんな読んでますね、鈴木さん、ちいかわ知ってますか?」
「不勉強なことに」と彼は肩をすくめた。あなたはこの世にちいかわを知らない人間がいることに奇妙な安堵を覚えた。自分は自分で、さんざん家では連載中の『セイレーン編』について語り合っているくせに。
そんな風にしてまた私のことを考えていると、鈴木さんは思い出したかのように「そういや僕、今月でここと契約切れるんですよ。今までお世話になりました」と言った。
「えっ、どうしてですか?」と考えなしだったので無礼な問いかけが口をついて出る。そして、返答はかなり意外なものだった。
「昔の友人がバグダッドで独立系メディアを立ち上げて、それでそこを拠点に色々回ろうかと」
「戦争カメラマンにでもなるんですか?」
「戦地には行かないですが、今の歴史は撮っておく必要にかられて。ま、私みたいな年寄りが出張る必要はないでしょうが」
「いいなぁ」とまた無遠慮を口にする。
「もし興味あったら、今月中に僕に声かけて下さい。もちろん、命の保証はしませんが」
鈴木さんは本気とも冗談ともつかないような口調で言った。
中東でジャーナリズムに生きる。格好いいとあなたは思う。とても真似できないのはそれが危険なのではなく、編集者としてのあなたは既に大切なものを五年前に置き忘れてきたからだ。学生時代の幻影。
――じゃあ、私が編集者になるから、一緒に芥川賞、いや、読売文学賞を目指そう。
遠い記憶のなかの親友が困ったような笑みを浮かべる。
その日、割り切れない閉塞感を抱えたまま家に帰ると、私はスマートフォンで大きな音を出して男性アイドルの動画を観ていた。なかなかご機嫌だ。席もよかった。お気に入りの曲も聴けた。
グロテスクな映像よりずっと健康的なはずなのに、あなたは気にさわったものを感じてしまう。コンサートに行ってくるとは昨日聞いていたが、そこに持っていったらしきアイドルの名前と写真付きの団扇が転がっていて、その名前と顔に覚えがあったからだ。
「よくチケット取れたね、今人気でしょ」
「そりゃー……積んだからね。オーディション番組のときから推してるもん。結構、古参」
おっさんと寝た金で、とあなたは心のなかで相槌を打つ。
「どこがいいのやら」
「おねーさんは男の魅力わかんないだけでしょー。ダンスとかさ、オーディションのときはさっぱりだったのに今は凄い練習してて、グループのエースだし。ほんと、尊いって、この人のためにあるっていうか……」
「その子、前の職場で話したことあるよ」と団扇を指さして言った。
「えっ、嘘」と私は顔を上げた。
「ほんと。芸能人の尻を追いかけるのが仕事の半分だったし」
「えっ、嘘、えー、羨ましすぎ……誰かと付き合ってたとか? 聞いていい? 絶対黙ってるし、私ガチ恋系じゃないから推しの恋愛もありだし」
「いいよ。でもぜんぜん大したことなくてさ。そこの事務所、社長が面倒見よくて、足が付かないようにラウンジ嬢の大学生とかセミプロをあてがっててさ、そういうのを取っ替えひっかえ。大物がそういうことやってりゃネタになるけど、その子くらいでそういう下らない遊びをしててもねぇ……数字になんないからって却下。今も続けてたら記事になるかもだけど——」
「もういい、黙って」と私からはスッと笑顔が消えた。
「芸能人ってそんなんばっかりだよ。記事になるのが有名人同士ってばかりで」
「まぁ、そうだろうね。でも、ホストよりかはマシじゃん」
「そう? どっちもロマンス詐欺みたいなもんじゃん」
「ロマンス詐欺ってなに? ……いやいい、別に。興味ない」
「あ、あとさっき流してた新曲も知ってる。あれでしょ、十年前くらいに微妙に売れたバンドのやつ作詞作曲。あのテレキャスの音、古くさーっていうか、今の若い子だと逆に新しいの?」
「もういい、ウザ」
「いやいや、仕事から帰ってきてさー、そういうクソダサい音楽流されてる方がウザいって。それにアイドルってパターナリズムの権化じゃん。男も女も、性別役割規範推進委員会ですかって感じ」
「わかった、ごめん」
「もっとマトモな音楽聴きなよ。そうだな、流行りの男性ボーカルでもせめてThe 1975かマネスキンとかかな。クィアで音楽性も悪くないし。YouTubeで今、検索してみなよ。サマソニのライブ映像出てくるかも……」
「……私みたいなバカを見下して楽しい?」
あなたはため息をついた。私に対してではなく、苛立ちで無駄に舌の回った自分に対して。苛立ちを蔑視にしてぶつけた。上から目線。誰かを傷つけるのにもっとも手っ取り早い手段。大事なものを馬鹿にして見下す。あなたはちょっと選民主義的なところがある。
「最近苛ついて、当てこすった。認める。ごめん」
「いいよ……最初から、そうだろうなって思ってたし」
「私も他人を見下せるほど大した人間じゃないけどね」
「いい大学出ていい会社勤めるくせに」
「いい大学? 中央の文学部で? ぜんぜん。会社も出版社としては二線級というか。そこですら主流派が早慶だから、一回トチったらクソつまんない部門に飛ばされたし……」
私は転がっていた団扇を、あなたの方に投げた。『田』とデカデカと書かれた団扇は、くるくると回転し、壁に当たった。
「私みたいな、バカを、見下して、楽しい?」
私は先ほどと同じ言葉を、一つ一つ強調しながら言った。
「……君はそんなにバカじゃないと思うよ。一緒に少し暮らしてて。なんだろう、ほら、大学行ってみるつもりとかないのかな。作家になりたいんでしょ」
「そんなお金どこにあるの? 真面目にキャバでもやれって?」
「奨学金ってあれ申請すれば基本出るし、返済もすごい長いスパンでできるし。私もまだ四分の一も返してないよ」
「勉強できないし」
「二科目か、一科目でいける大学だってあるし、選べばぜんぜんちゃんとしてるよ。文学部は入りやすいしね。できれば英語、苦手なら国語でも。本気なら私は私立文系三教科は教えてあげられるし……」
そこまで言われたところで、私は声を上げて笑ってしまう。
「そこらのおっさんみたいなこと言うじゃん……エッチしたバカな女に勉強しろって言うの、楽しい?」
私の反撃はあなたにとって図星だった。苦し紛れに、なんとか話を続ける。
「……腐れ縁と思って、まずはマトモなNPO教えるから、そこで生活相談しなよ。住むところとか」
「NPO? なにそれ。うさんくさい」
私は無知だ。自分でもしばしば驚くほど。
「国が認めた民間非営利団体。LINEで公式サイト送っとくから、ちょっと見てみなよ。その後ならいいバイト先紹介するし」
「いい。朝起きれないもん」
「ちゃんと夕方から夜までのとこ。出版社のデータ整理だけど、割りいいよ。普通の求人出してなくて、紹介制。私は学生のころやってた」
「へぇ、頭のいい人たちってそういう繋がりがあるんだ。さっすがー」
「こういうのは頭の良し悪しじゃなくてさ。きみはコミュニケーション能力はあると思うし……」
「はぁ……ウザ。女のことも、芸術のことも、社会のこともなんでもわかるってことね。はいはい。凄いね」
「これ最後の年寄りの意見だけどさ、どっかで意地でも踏み留まらないと、本当の地獄に落ちるよ……そういうやつ、何人かは見てきた」
「じゃあ、私はその人たちみたいになるだけでしょ。ウザ。メサコン女だったんだ。宗教とかやんなよ」
「他人を救えるとまでは思い上がっていないけど、老婆心で言えることは言わないと私の寝覚めが悪くなるからね」
すると、私の頬を涙がつたった。
「どうしてそんなひどいこと言うの? わかるでしょ、おねーさんなら、自分がひどいこと言ってるってことに」
あなたは頭を抱えながら、煙草を探し求めたが、あいにくアメリカン・スピリットは切らしていた。こんなタイミングで先日の私の発言をまだ気にしている。その煙草ならギリ許せる。
私は話を続けた。
「ひどいよ……どうしてできもしないことをしろなんて言うの? おねーさんは、男と違うと思ったのに」
「なにが違うと思ったの? 同じように金で買ったのに。女なら特別女の繊細な気持ちや境遇に理解があるとでも……そっちの方が逆に差別的というか……」
「そっちも泣くくらいなら、説教なんてすんなよ!」と私は叫んだ。
大人の女も泣くんだな。当たり前だけど。
耐えきれなくなったあなたは、コートだけひっつかんで、外に出た。二月は寒さの底で、今年の東京では一度しか降らなかった雪がアスファルトに積もっていた。吐く息は白く、潤む瞳は痛いくらいだった。コートのポケットを漁るとアークロイヤルが余っていた。かじかんだ手で火をつける。
あなたは素直にこう言えば良かったのだ。
——もう耐えられないので、出て行ってくれないか。
と。
あなたはそんな強い大人ではない。後悔する。自分はこれまであの女の子を買ってきた男たちとなにも変わりはしない、と。そのくせ、自分を悪者にしたくないかのように、誰にでも言えるような薄っぺらな常識をペラペラ並べ立てた。でもそんなものはちっともリアルじゃない。空辣そのものだ。いっそ暴力的ですらある――そう思うと涙がこぼれるが、それすらも身勝手に感じる。
多分、私はあなたが仕事に行っている間に出ていくだろう。あなたの望み通りに……いや、あなたの限界を察して。いくらなんでもそれほどまでには愚鈍ではない。
アークロイヤルはこんな気分のときに吸うべき煙草ではなかった。いやに甘ったるい。学生のころ、バーでマスターからにおいの強いものはやめてくれとやんわり苦言を呈されたときの、恥ずかしい記憶が蘇る。あなたは私の煙草についての意見も肯定する。
かわいいにおいだけど、気にさわる。
近くのコンビニでいつものようにアメリカン・スピリットのライトを買ったところで、入り口のところにあるATMが目についた。あなたはキャッシュカードを差し込んで、少し悩んでから、次のアパートの更新費用と、シーズンオフに有給を取って友達とベトナム旅行する予定だった旅費のぶん、計三十万ほどを引き出した。
あなたの金銭感覚では、ちょっとした額で、ちゃんと努力して貯めたものだ。けど、誰かの人生を変えるには程遠いとも思う。
ちょうど空になったアークロイヤルの箱に、三十万をねじ込んだ。
これだとゴミか、はては手紙と勘違いして中身を改められずに捨てられるかもしれないなと思い、胸ポケットに入れたままだったペンで『たばこの煙は、周りの人の健康に悪影響を及ぼします。健康増進法で禁じられている場所では喫煙できません』という注意書きの上から『三十万』と殴り書きする。
それを狸寝入りしている私が気づかないようにさりげなく、素早く、ちいかわとシナモロールまみれのリュックの奥底に仕舞った。
あなたがベッドに入って、同じように狸寝入りしていると、一時間くらいしてから、私は起き上がって、荷物を片付け始めた。
まるきり『勝手にしやがれ』だなとあなたは心のなかで歌って気を紛らわせる。寝たふりしてる間に出て行ってくれ。三回リピートしたくらいで、私は本当に出て行った。
あなたは思う。
行くアテはあるのだろうか? また立ちんぼに戻るだけなのかもしれない。
明かりをつけたら特に置き手紙とかそういうものはなく、ゴミ箱に歯ブラシとアイドルの団扇が捨てられているだけだった。合鍵もちゃんとテーブルの上にあった。
あなたと私は写真を一緒に撮ったこともなかった。だから、あなたの家に冬の二ヶ月、私がいた痕跡はそれだけだった。ワンナイトがちょっと長く続いただけ。そうどちらも思う。
いくらヤケになっていたからって、あんな下劣な真似は二度しまいとあなたは誓う。
そしてなにより——身にならない小知恵を安酒に、必死にあがく誰かを見下して馬鹿にして肴にして、卑小で矮小な悪酔いに明け暮れる——そんなことは、もうやめにしよう。
あなたは睡眠薬代わりにウィスキーをロックで飲んだのに眠れず、そのまま仕事に出て、吐き気を堪えて一日過ごした。自分を振った元カノだけが賢明だったと認めざるを得ない。もう一生、酒を口にしないでいようか。
なんとか一日をやり過ごし、もし私が部屋の前で三角座りでもしていたらどうしようと不安に思いながら帰ったが、幸い、廊下には誰の影もなかった。
そこでようやく一息つけたことにまた自己嫌悪を覚えながら扉を開けると、アパートの安普請の扉が、何かを弾いて、廊下に転がった。
掌くらいの箱を拾って、中を見ると、それは新品のジッポライターだった。ハート柄に、ピンク色の。
手紙だとかそういうものは添えられていなかった。ただただ箱に入ったジッポライター。それだけ。
翌週、あなたが会社の喫煙室で一服しながら担当作家から送られてきたネームへの返信、とりわけキスシーンの有無について熟慮していると、また鈴木さんに出くわした。
今度はあなたの方が先に会釈した。
同じ灰皿の前で煙草に火をつけた彼は、「アークロイヤル?」とあなたに訊ねた。
「そうです。不快だったらごめんなさい」
「いえ……ちょっと懐かしくて」
「なにか思い出でも?」
「ずいぶん昔、入れ込んでいたスナックの女の子が吸ってましたね」
「バニラを?」
「そうです」
「そういう青春属性でもついてるんですか、これ」と苦笑しつつ、二本目に火をつける。
鈴木さんが派手派手しいジッポを見ているので、思わず、「今、ダサいって思いましたよね?」と訊ねる。
「いえいえ、いつもモノトーンなので、少し意外だっただけですよ」
「たまには女の子らしい気分になりたくて」と心にもないことを言ったところで、あなたの電話が鳴った。
何かを期待しつつ、あるいは何かに怯えつつ、画面を見ると、冬の始めにあなたを振った元カノからだった。
開口一番、元カノは「いきなりごめん……今日会える?」と言った。
「いいけど、一昨日までトー横で拾った女の子と毎日やってたから、性病移されてるかも」とあなたは言った。大久保公園の立ちんぼと言わなかったのはせめてもの遠慮。
一拍置いて、「死ね!」とスマホのスピーカーが割れんばかりの大声で叫び、元カノは電話を切った。
横で苦笑を浮かべている鈴木さんに、あなたは「バグダッドってお酒飲めないんですよね?」と話しかける。
「ええ、イスラム教国なので原則的には。抜け道もなくはないですが、ちょうど去年の春に輸入が全面禁止となりました」
「なるほど。あと、シーシャの本場ですよね?」
「それはどこにでも吸えるパブがありますよ」
「なるほど、いいですね……うん、それはアリだな」と頷きつつ、あなたは私にLINEで電話をかけた。てっきりブロックされていると思って、諦めるためにかけたのだが、四コール目で私は「もしもし」と電話に出た。
「出ると思わなかった」と言った。あなたは他に言いようがなかった。
「私にしてはかっこいい別れ方したんだし、もうかけてくんなよ、ダサ、って思いながら、なぜか出た」と私は言った。私は私で結構ダサい。
数十秒の沈黙の間に、あなたの手元のアークロイヤルはフィルターまで燃え尽きた。
鈴木さんの姿はいつの間にかなくなくなり、喫煙室にはあなたひとりだけになっていた。
「えーっと……シーシャ吸いたいって言ってたじゃん?」
「言った気がする」
「今度、私とバグダッドにシーシャ吸いに行かない?」
「新宿のお店?」
「いや、イラクの首都」
「いま私、実家の山形なんですけど」と私は笑った。
そのとき、私はあぜ道を歩いていて、目の前に広がるのは山、田んぼ、遠くにさびれた商店街。
「あっ、帰ったんだ」
あなたは少し安堵した。
「そう。山ばっかり見えてる。そっちこそ、芋煮会、来る?」
「明後日以降なら行ける。仕事をリモート申請して」
「真に受けんなよ、やるわけないじゃん……実家、終わってるし」
「家族仲が悪い、とか」
「そうだよ、そうに決まってるじゃん! じゃないとあんな場所いねーよ! おねーさんにお金もらってさ、いろいろ言われて、東京でもひどい目にしか合わなかったから、私、じゃあ真面目にやってみよう、もしかしたら親も心配してるかもって……でもね、無理。そんなわけなかった。終わってる」
生い立ちを聞いたことはなかったが、私のような夜の街に立つ小娘のそれは、もちろんあなたにとって想像に難くはなかった。
「どれだけ我慢できるかはわからないけど、またうちに来る?」
「無理。お金全部取られた。おねーさんのも。ごめんね」
「新幹線の停まる駅か、もしくはそれに一番近い駅にいて。今から行く」
「なにマジになってんの。バカじゃない。どうせまた耐えきれなくなって捨てるでしょ。みんな終わってるよ」
「でも……私はまだ、きみが書いたものを一度も読んだことないから」
「才能ないし」
「やってみないとわからない」
「わかる。すげー馬鹿だもん、私。一緒に暮らしててわかったでしょ?」
わかっている。だけど、思えばその馬鹿さ加減がちょうど良いような気すらする。あなたの親友は頭が良すぎた。
「じゃあ行かない方がいい? 私はきみがいなくなって、とてもさびしい」
「おねーさんならもっとマトモな恋人作れるでしょ。洋楽とか海外映画に詳しいみたいな」
「でも、きみとベッドでちいかわの話をしてるのが、実は一番楽しかったよ。最新話読んだ? 栗まんじゅうがお酒やめてた。セイレーン編のラスト、どう思う? 私は正直、ちょっと長すぎたんじゃないかって思ってる」
「私は……私は、どうだろう……わかんないよ」
そう言って、私がしばらく黙ったので、あなたは新しい煙草に火をつけた。少しして、私は絞り出した。
「ここは世界で一番地獄だよ早く迎えに来て」
あなたは火をつけたばかりの煙草を灰皿に捨てて、会社を出て、東京駅に急いだ。
そしてのぞみの車内で、まだ今年の春までは新幹線に喫煙ルームが設けられていることを三時間弱、感謝し続けた。アメリカン・スピリットを一箱空けても気持ちが変わらなかった以上、それはきっと正しいのだろうとあなたは思う。
もしも間違っていたならば、今度こそ禁煙するしか道はないと本日三度目の誓いを立てる。
でも大丈夫、煙草をやめてくれなんて言わないよ。そんなことよりうんと優しくしてね。これから初めて書く小説だって、ちゃんといいところを探して、上手に褒めてね。あなたの死んだ親友みたいに才能はないかもしれないけど、その代わりに私は死んだりしないから。絶対に。それにきっとあなたの方が肺癌で早死にするよ。
1991年生まれ。短編「月と怪物」が『アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー』(早川書房)に収録されデビュー。
単著に第一長編『蝶と帝国』(河出書房新社)、同作は箕田海道によりコミカライズ連載中。Twitter:@Namboku_nanboku
💡次回(3月上旬ごろ予定)のゲスト作家は……小野繙(おの・ひもとく)さん
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