第一篇となる今回は、一般投稿よりやらずのさん「灰になるまで」をお送りします。
灰になるまで
部屋を満たす六畳半の孤独を裂くように、軽やかなインターホンの音が鳴る。
私は手櫛で前髪を整え、姿見で身なりをチェックする。そして二度目のインターホンが鳴る前に、小走りで玄関へと向かう。
ああ、馬鹿みたい。
ふと過ぎるそんな気持ちは、だけど扉を開けた瞬間にどうでもよくなってしまうのだ。
「よっす、お疲れ」
お酒の入ったビニール袋を掲げる君。ニッと妙に綺麗な並びの歯を見せて笑うと、左耳のピアスが控えめに揺れる。
好きだなと、素直に思う。
最初は音楽が好きなだけだった。君の夢。君の作る音楽。君が歌うリリック。
だけど気がついたときには、君自身を好きになっていた。
小学生みたいに無邪気な笑顔も。さらさらした髪も。大きくて骨張った手も。声も。君の全部が好きだった。
私は思わず緩んでしまう頬を隠すように振り返り、廊下を通って部屋へと戻る。
「今日もスタジオだっけ?」
「ん? そうそう。ライブ近いかんねー。けっこう仕上がりイイ感じ。楽しみにしててよ。……お邪魔しまーす」
「期待してる」
君は脱いだ靴を行儀よく揃えて私の後に続き、部屋の隅にギターケースを下ろす。待っている間読んでいたラヴクラフトが逆さまに置いてある机に、君はお酒とつまみを並べていく。私は冷蔵庫から氷とサイダーを用意する。
「つまみくらいなんか作ったのに」
「いいのいいの。いっつも悪いからさ。それに――」
君はベッドを背にして床に座り、自分の隣りをポンポンと叩く。
「少しでも長く近くにいてほしいじゃん」
私は返すべき言葉が分からなくて、胸の奥からわっと噴き出してくる熱に頬も耳も赤くした。それからまるで街灯に吸い寄せられる蛾みたいに、笑顔を浮かべている君の隣りに腰を下ろした。
やっぱり、馬鹿みたい。けれど君が隣りにいてくれるなら、微笑んでくれるなら、たとえ馬鹿だっていいとすら思ってしまう。
君は私の肩に手を回した。逆の手で缶ビールを手に持って、私の缶チューハイとぶつけ合った。
「それじゃ、乾杯」
一気に流し込まれるチューハイが、喉の奥のほうでわだかまる感情を押し流していく。
考えなくていい。余計なことは何一つ。君の隣りにいられるなら、それでいい。ただそれだけで私はきっと幸せでいられる。
お酒を飲んで、寄り添って。サブスクで映画を観て、その途中でキスをして。君の骨張った手が私の下の茂みを洋服越しに優しく触って。
私たちは赤らんだ顔で笑い合いながら、お互いの服を脱がし合ってシャワーを浴びる。
シャンプーで髪を尖らせて遊ぶ君を「お子様だなぁ」なんて言って笑って、私は愛おしさに堪らなくなって君を抱き締めキスをする。重ねた唇は、シャンプーのピーチの味がする。
シャワーから出た君はまだ少し濡れた髪を掻き上げて電気を消すと、私をベッドに押し倒す。
「まだドライヤーしてないよ」
「うん。でも我慢できない」
君の体重が私に優しく圧し掛かる。その心地よい重みが私をこの現実に繋ぎ止めてくれているような気がして、私は君の優しさに応えるように背中に回した腕に力を込める。
君の唇が頬から首筋をなぞり鎖骨に触れる。満ちていく幸福感と快楽に、私の噛んだ唇の隙間から思わず声が漏れる。
「可愛い」
「……見えないでしょ」
「これくらい近づいたら見えるよ」
君の吐息が頬に触れる。それから君は私の耳を優しく食んで、子宮をなぞりながら茂みのなかへと指を滑り込ませていく。
「すごい」
「言うな、馬鹿」
私は私のなかへと入り込んでくる君の指を受け入れる。ギターを弾く指。あの音を鳴らす指だ。
押し寄せる快感に身を委ねていく。不安も不満もぜんぶ捨て去って、君と重なる時間に沈んでいく。
不意に泣きたくなってしまうのはたぶん、怖いくらいに幸せだから。
ステージに立つときとは全然違う君の荒くなった息遣いを感じながら、私は何度も君の名前を呼ぶ。
◇
本当は、決して交わることのなかった存在。それが君。
下北沢のライブハウス。学生時代の先輩が働いている縁もあって、久しぶりに訪れたその場所で私は君を知った。
粗削りだけどグルーヴ感のある音楽に、エモーショナルで尖ったリリック。ギターを抱えながらライトの下で歌う君に、私は気づけば釘付けになっていた。
「あのバンドいいでしょ。あれでまだみんな二十歳なんだよ」
「へぇ。そうなんですか」
先輩とそんな話をしながら、私はオーディエンスの拍手に嬉しそうな顔を見せる君を眺める。子供みたいに笑うんだな、なんて思いながら私もささやかな拍手を送る。
「久々に来てみるといいもんですね。すっかりハマりそうです」
「だろ? お前が好きな感じだと思ったんだよ」
今思えば、このときの私は先輩の思惑にまんまと引っ掛けられていた。いや、先輩の予想なんて遥かに超えるほどに君と君の音楽にハマろうとしていた。
「あ、そうそう。今日この後大丈夫? 打ち上げあるけど良かったら」
「うーん、考えときます」
やがて君のバンドの演奏が拍手喝采のうちに終わり、次のバンドの準備が始まる。次はだいぶ毛色が変わって、メルヘンなサウンドのガールズバンドの出番らしい。
インディーズにも及ばない駆け出しのバンドはこうやって小さなライブハウスが行う対バンに出演してファンを増やしていく。今は配信なんかで一気にバズるアーティストも多いけれど、やっぱりバンドは生の音楽を鳴らしてこそだと改めて思う。
私は代わる代わるステージに上がるバンドの音楽を聴いたり、スミノフを飲んだり、煙草を吸ったりしながら社会人になって久しく来ていなかったライブハウスの空気を満喫した。
ライブは心地よい盛り上がりのうちに幕を閉じ、お客さんが感想を言い合ったりしながら帰っていく。私は入り口横の喫煙スペースで何本目かのハイライトを吸っている。
もちろん打ち上げに行くつもりはなかった。出演者でもスタッフでもない私が行っても、浮いて居心地が悪くなるだけだ。そもそもどんな顔で席に座っていればいいのかが分からない。
だけど運命はいたずらをする。
「火、貸してください」
横から何気なく言われてライターを差し出した先に立っていたのは君だった。
「俺もハイライトなんすよ。運命っすね」
そう言って君は咥えたハイライトに火をつける。そんな重い煙草なんか吸って喉は大丈夫なのと思わずおせっかいを焼きそうになる。
自分の出番を終えたアーティストがフロアで他の出演者の演奏を聴いている、なんていうのはこの程度の規模感と知名度ならよくある話だ。だけど完全な不意打ちを食らった私は妙に緊張してしまっていて、君の軽口に溜息みたいな相槌を打つ。
感じ悪いなと思われただろうか。思われたところでどうともならないのに、そんなことが気になった。
「お姉さん、さっき俺たちの出番のとき拍手してくれてたでしょ!」
「は? へ? みんな拍手してましたよね……」
「あー、うん、そうなんだけど、田中さんと話してたのちょうど見えて。知り合いなんすか?」
なるほど。よく見てるもんだな、と私は思った。田中さんとはもちろん、今日のライブに私を誘ってくれた先輩のことだ。
「学生のときの先輩です。それで、今日も誘ってもらって」
「そうなんだー。あ、じゃあこのあとの打ち上げも来る?」
「いや、打ち上げは……。ただの部外者だし」
「いいじゃんいいじゃん。行こうよ! 行ったら絶対楽しいって」
人懐っこい仔犬みたいな笑顔を浮かべる君に根負けして、結局私はなし崩し的に打ち上げに参加することになった。
最初は「誰だよあの人」みたいな空気も若干はあったけれど、お酒が入ればそんなものはどうでもよくなるらしい。結果的に「行ったら楽しい」という君の言葉は見事に現実のものになり、私はそれなりに飛び入り参加の打ち上げを楽しんだ。
あっという間に時間が過ぎ、打ち上げはお開きになる。各々で二次会をする人もいたけれどまだ多少の冷静さを持ち合わせていた私は大人しく帰ることにする。
小田急線のホームで電車を待つ。地下を吹く風は生温くて、酔いを醒ますには少し物足りない。
「あーいたいた!」
声がした方向を見れば、ギターケースを背負った君が階段を一段飛ばしで駆け下りてくる。君は私のもとまで駆け寄るや、CDを私に手渡す。
「なにこれ?」
「なにこれって俺らのCD。プレゼントするよって言ったじゃん。それなのに渡す前に帰っちゃうから」
「え、それだけのために……というか二次会は?」
私は受け取ったCDと君の顔を交互に見ながら訊ねる。膝に手をついていた彼は深呼吸で強引に息を整えて、満面の笑みを私へ向けた。
「断ってきた。一緒に帰ろうと思って」
「は?」
驚愕と困惑、そして警戒で眉根を寄せた私に怯むことなく、君は楽しげに続ける。
「だって、打ち上げも俺が無理言って付き合わせちゃったわけだし。お姉さん最寄りどこ?」
「荻窪」
「わ、マジか。俺、阿佐ヶ谷。なんだぁー、ご近所じゃん」
「近所ではなくない?」
「え、そう? 俺の田舎だとチャリ圏内はだいたい近所」
彼が楽しそうに笑うから、私もとうとう堪え切れなくなって笑ってしまう。
その日の帰り道、君は短い時間で色々なことを話してくれた。
高校卒業と同時に音楽をやるために上京してきたこと。最初の一年はバンドメンバーを探す日々とバイトだけで終わったこと。ようやくバンドが始動して今が最高に楽しいこと。影響を受けたバンドのこと。意外と読書家で、ラヴクラフトという変な名前の海外作家が好きなこと。
真っ直ぐに夢を語り、音楽を語る君のことをたぶんもう私は好きになりかけていた。だから君が私の最寄り駅で降りてきたときも、私はあえて何も言わずに君を家へと連れ帰った。
そして君は、私を抱いた。
君の腕に抱かれながら、私が「好きだよ」と言う。君は照れくさそうに、そして少し困ったように笑いながら「かわいいなぁ」と誤魔化す。
君にとって、私って何のなのかな。
喉の奥でわだかまる感情を口に出せないままあれから一年、私たちの関係は今も続いている。
◇
行為が終わると、私たちは決まって下着姿のまま換気扇の下で煙草を吸った。出会ったときと同じハイライト。君は「一本ちょうだい」とハイライトを咥える。そして私の煙草の火に自分の煙草を寄せてそっと火を点ける。あえてライターを使わないそれは、セックスの最中に何度も重ねたキスよりも、ずっと官能的だった。
けれどこれはカウントダウンでもある。
この煙草が灰になるまで。
それが、私が君の隣りにいられる残り時間。
満たされた性欲のあとのロスタイム。
もう間もなく終わる時間を惜しみながら、私はゆっくりと煙を吐く。たかだか数センチの煙草は五分と経たず、あっという間に灰に変わる。
君は灰皿に吸い殻を捨て、私の頭を撫でる。魔法は瞬く間に溶けていく。気がつけば時計の針は午前零時を指している。
たぶん恋をしてるのは私だけ。最初からそうだった。
前に君は友達と住んでいるから自分の家では会えないと言った。何度も鵜吞みにしようとしたその言葉の本当の意味に、私だって本当はとっくに気づいている。
「ありがと。また来るね」
もう来ないで。
私は君の何なの。
出かかった言葉は喉に引っ掛かってお腹の奥へと落ちていく。代わりに私は「うん、またね」と物分かりと都合のいい女の振りをして笑顔をつくる。
遅刻しそうと笑いながらスタジオ練に向かう君を、私は見送った。扉が閉まった部屋にはお酒の空き缶と食べかけのつまみが残されている。それなのに、六畳半の部屋を満たす孤独は君が来る前よりもずっと鋭くて冷たかった。
この気持ちが灰になるまで、あとどれくらいの時間が必要なんだろう。
💡次回(12月20日ごろ予定)のゲスト作家は……鈴木涼美(すずき・すずみ)さん
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