【煙たい物語】第二篇~鈴木涼美「滞留」#特別寄稿

文壇の現在と未来を担う書き手たちが、それぞれの想いとともに煙草にまつわる物語を織りなす新連載――「煙たい物語」。
第二篇は、鈴木涼美さん「滞留」をお送りします。

外に出ることをやめた私と男は、終わりも始まりも分からない一日を過ごしている。惰性の日々と関係が続く部屋。捨てずにいるゴミ。くるまった掛布団。私は買い置きしている煙草に静かに火をつける――。

滞留

 かすかな旅先の匂いを頭髪の中に留めたまま、男が部屋から出るのをやめて三日たった午後、私も美容院の予約を無視して部屋の中にいることにした。携帯には一度、美容院から電話がかかってきたけれど、枕の下に入れてしばらくしたら着信は止まり、再度かかってくる様子はなかった。男の携帯はすでに店や後輩から一通りの着信を終えているようで、ナントカというゲームの連続コンボが電話によって遮られることもなく、ひとまず快適に過ごしている。ベッドを置いた部屋には床暖房がないので枕と掛布団は三日前からずっとソファの部屋に持ち込まれたまま、そこに座って食べるスーパーカップのバニラ味やラ王のしょうゆ味、それから煙草の煙をいくらか吸って、少しばかり重くなっている気がした。
 煙草がなくなれば家の外に出るきっかけもつかめたのであろうが、あいにく仕事先の団体旅行から帰った男は成田の免税店とインドネシアの免税店で買える限りの煙草をスーツケースの中に詰めていたし、ビーチの近くで買ったらしいガラムタバコも数箱持っていた。ただでさえ何日分かは買い置きしている私の性格も手伝って、家の中は少なくとも二週間以上は吸い続けられる量が潤沢にある。時折ポストに入っている出前のチラシはキッチンの冷蔵庫脇にクリップで留めてあり、インターネットで注文できる料理店も増えている。外に出る理由を一つ残らず奪われた私たち二人は、窓を閉め切った部屋の中にいるしかなかった。そのまま一日が過ぎ、二日目はどこで始まってどこで終わったのかよくわからないままやはり過ぎ、三日過ぎた。悩みはやはり閉め切ったカーテンが安物で、朝や昼の光が無遠慮に部屋に入ってくることだったが、遮光があまい分二重サッシの窓はマンションの裏にある中学校の生徒たちの声をほぼ完ぺきに締め出していた。午後になると部活中らしき少年たちがオーともエーともつかない叫び声を上げるのが聞こえることがあったが、その時間になると日差しの方が大分鋭さを削られてくるので耐えられた。
 歪な台形のソファの部屋を出ると玄関ドアとの間にトイレの扉があり、さらにその奥に洗面所とシャワールームに続く引き戸があるのだが、そこに続く床は玄関と同じ光沢のある石で作られているせいか異様なほど冷たく、男ははなから風呂や洗顔は諦めて、耐えられなくなったタイミングでトイレに立つことしかしなくなっていた。ソファの部屋に気の利いたバケツでもあれば、そこで用を足すようになりそうな勢いだ。キッチンで二回ほど歯を磨いているのは見かけたが、それも相変わらず一分に満たない適当な作業だった。
 出かけるのをやめた翌日、人の往来がなくなり、ますます冷たくなった洗面所の床まで行って顔を洗うと、私は急に一つ仕事をやり遂げたような達成感をおぼえて、台所の足で踏んで蓋を開けるゴミ箱に一杯になったゴミを一階の集合ゴミ捨て場まで運ぶのはまた今度でいいと思えた。郵便ポストはすでに一週間以上開けていなかったが、インドネシアの匂いをさせたまま、帰って一度も顔を洗っていない生物に比べれば、私は随分清潔で真っ当な生き方をしている気分になった。次の日も起きたらひとまず顔を洗い、再度とても満足してゴミは捨てていない。
 四日目の正午、ソファの部屋の床で目覚めてトイレに行くついでに腹に力を込めて冷たい廊下を歩いて洗面所まで行き、勢いよくお湯を出して顔を洗った後、顔から粉をふくようなことがないよう、洗面所からソファの部屋に持ってきた最低限の水とグリセリンを肌に刷り込むと、今度は私は立ってベッドの部屋の方へ入り、引き出しから適当な古いトレーナーとパジャマの素材のパンツを出して二分かけて着替えた。おそらく機内でも着ていたドンキホーテで買った星柄の上下を脱がない男に対して、私は裏起毛のパーカー以外の衣類は三十時間に一度くらいは着替えている。それも私を少なくともこの部屋で最も丁寧な暮らしをする者に押し上げている。
 すっかり清潔な気分になってソファの上のタオルケットに足を突っ込むようにして座り、男の後頭部を見ると、髪の毛こそいくらか脂で束のようになり、ピンでとめた箇所を中心に少し絡まっているが、頭皮は思いのほかつるっと綺麗なのは意外だった。脇や股間に顔を突っ込まない限り、とりたてて体臭が気になるということもない。むしろ顔を洗って着替えている私の足やうなじの方が異臭を放っているような気すらする。テキーラをショットで十三杯飲んでも吐いたり倒れたりしない生き物は、そもそも人体の初期設定がいろいろ違うのかもしれない。奥歯は上下左右ほとんどの歯に治療痕のある私は、二十九歳を境に酒も弱くなって水商売から脱落し、腰痛持ちで近視だ。三十四歳で毎日仕事で酒を飲み、裸眼で生活する男が唯一歯医者に行ったのは、仕事のトラブルで前歯とその隣の歯を派手に折られてブリッジを作った時だけだった。
 ソファとちゃぶ台の間に毛布と一体化する形で座っている男は対戦相手が少ない時間帯だからか、ほぼ一日中接続しているゲームを一旦抜けてスマホ画面で歴史漫画を読んでいる。男の後輩に熱心に勧められて以来、当時出ていた十六巻までは紙を綴じた漫画本を買って交互に読んでいたが、その後はお互いスマホのアプリでそれぞれ購入するようになった。ちょうど先週、二十三巻が発売されたのだ。すでに自分のアプリで読み終わった私は男の読んでいるページを盗み見て、つい副音声で解説をしたい欲求にかられたが、残り四分の一ほどで一冊が終わるのでそれまでは黙っていることにして煙草に火をつけた。私の吸っているメントール入りの細い煙草はストックがあと三箱、それでも時折男が免税で買ったものやガラムタバコにも手を付けるので、いつもより減りは遅い。
 遮光の甘いカーテンのせいで明るい昼の部屋で煙草を吸うと、特に日差しが強く漏れているテレビの上やソファの横に煙が流れていき、行き場を失っていつまでもそこにある。火をつけた煙草を吸い込んであえて最も明るいソファの横に向かってふーっと煙を吐くと、はっきりと形が見える煙が少しずつ形を変えながらその場にとどまり続けた。夜の部屋や店の中ではどんなに電気をつけて明るくしても見えない煙が、朝や昼の光の中ではしっかり形を持っているのが不思議だった。最近やけに混んでいる喫煙所では、囲いの中で何十人が同時に煙を吐いているのに、自分の吐いた煙なんて一瞬でどこかに綺麗に消えてしまう。
 戦闘の場面を読み終わったからか、まだいくらかページを残して男が顔をあげ、微妙な笑顔を作ってこっちを見てきた。
「あれ、顔洗った? さっぱりしてる」
 そういって自分の腰のあたりをごそごそとしだしたので、私はソファの端のクッションに挟まった男の煙草に手を伸ばしてそれを渡してあげた。ありがとう、とギャルみたいな声を出してそれを受け取った二つ年上の水商売の男は、わざと唇を尖らせるように煙草を咥えて、昔お客にもらったらしい高級品のオイルライターで火をつけた。
「今回、面白いよね? 前回はちょっと停滞してる気がしたけど」
 私が男の手元を指してそう言うと、男は勢いよく再びこちらを振り返り、面白い、と元気な声を出す。
「読み終わるのもったいないから途中で栄養補給してんの」
 煙草を利き手の左手で掲げて男がそう言った。男の吐いた煙もやはり光の中を天井付近まで上昇し、消えずにそのままカーテンの近くを漂っている。
 男と出会ったのは、私がキャバクラを上がる一年と少し前、つまりもう四年前の秋口だった。三十歳になったばかりの男は時々自分をオヤジと自虐することがあっても、店では幹部を名乗り、休日は売れない若いホストを連れ歩いて文句を言いながら高い肉なんかを食べさせていた。私の働いていた店に週四出勤して他の日は風俗と兼業していた同い年の女の子が、男と仲良しの後輩のことが好きで、何度か店終わりに合流して四人でご飯を食べて、気づけばそれぞれが同棲を始めていた。
 その子は、金銭的な問題っていうより彼の店にもっと行きたいから、と言って水商売を辞めてデリヘルだけに出勤するようになり、私は腎臓が悪くなってやはり店を辞め、大学時代の友人のコネでスポーツ記事の翻訳など細かい仕事を始めた。ちょうどその頃、男は独立をそそのかされておかしな投資話に乗り、手始めに雀荘の経営をすると言って結局借金だけ残って独立の話はなくなった。後輩の男は連絡もなく店からいなくなり、私もあの女の子とは長い間連絡をとっていない。彼だけは同じ店で、同じ役職で変わらず女の子に不満を売っている。
 借金があっても、経営側にまわる運と能力がなくとも、かつて関西では何度も店の看板に大きく写真が乗り、ホスト雑誌の表紙モデルを長く勤めた男は、店のプレーヤーとしては一流で、遠方から彼を目当てにやってくる年増の風俗嬢は何人もいた。有名だという理由で客の要求は比較的緩やかで、かなりいい加減な営業をしていても、セックスやディズニーランドに付き合わなくても、ずっと安定した売り上げを誇っていた。マメな連絡は苦手なようで、ホストの噂話をする掲示板では連絡がつかないことに苛立った客たちによって、結婚をして子どもがいるだの、精神不安定だの、もうすぐ水商売を上がるからやる気がないだけだの、適当な推測が飛び交っていた。それでも店のイベント日や締め日に頼めば必ず来てくれる女の子は何人かいたし、定期的にやってくる古いお客も切れることがなかった。その安定は劇的な進化をすることもないかわりに、急速に崩れることもない、と男も、私も思っていた。
 あまりに熱心に営業する男や客のひとりをとことん育てるような男は一緒に暮らすのには心配事が多すぎる。私は男の身軽さを気に入っていた。休日は今のように部屋から出ずに過ごし、おなかが減ったら近所のラーメン屋まで歩くような生活が心地よかった。休日まで客との予定で埋まってしまうようなホストは要領が悪いとすら思っていた。
 停滞から下降へ少しでも傾くと、その後転落までの速度はとても速い。三年ほど男の売上を最も支えていたのは川崎の高級店に勤めるAV女優でもある女で、掲示板情報を元に一度だけ川崎の店のホームページを見たところ、まっすぐな黒髪のとても綺麗な人だった。その人が最後に男の誕生日に高額の売掛を作って連絡がつかなくなった。それまで一度も入金日に間に合わないことがなかった人で、自宅はもちろん男が何度も遊びに行っている場所にあるため、実家の住所や電話番号が偽りであることに誰も気づかなかった。彼女は男に言わずに引っ越して、川崎の店も退店しているようだった。きっと歌舞伎町にはもうやって来ないだろう、と男はひとまずその二百五十万を超える金額は自分がかぶると言った。雀荘への投資で作った借金は順調に返していたし、これまで男のもとに運ばれた女たちのお金の量を考えれば非現実的な金額ではなかった。そもそもその黒髪ソープ嬢はすでに横浜のはずれのマンションくらい余裕で買えるような金額を使っていた。
 久しぶりに売り上げ上位に入らなかった男から徐々に客の女が離れていくのを、最初は少しだけ愉快に思っていた。二回、どうしても指名客がいなければ格好がつかないという日にどうしてもと頼まれて私まで店に行った。それまでもかつて同じ店で働いていたあの子と何度か一緒に行ったことはあったけれど、男からオーラがなくなった、というより、周囲にオーラがなくなったと思われている、ということはよくわかった。店を休みがちになり、借金の返済は終わっていない。店の旅行も本来は節約するために行かないと言っていたのを、男の旧友でもあるグループの責任者に言われてしぶしぶ行ったのだった。
 男が続けざまに煙草を咥えて、火をつけないまま手元で画面が暗くなっていたスマホを触り、漫画の続きを読み始めた。読み終えるまでは古代中国の戦乱のなかで、罪悪感や焦りから解き放たれて、いつまでここにいようとか、再び外に出るのはいつにしようとか、次に店から電話がかかってきたらどうしようとか、そういうことは考えずに済むだろう。男は時代の変化と自分の加齢をうまく使い分けて、何かとうまくいかないことの言い訳をつくる。でも掲示板の評価はまた別だったし、実際男と同じ店で彼より年上のきちんと仕事をしている者は何人かいる。
「読み終わったら出前選ぶ?」
 べたついた髪の毛に向かってそう言うと、男はスマホの画面から目は話さずに、選ぶ―!とわざと子供っぽい調子で答えた。罪悪感と焦りがやってくる時間を少し後ろにずらしてあげておいて、内心いつまでこの男と一緒にいるべきかと考えている私は性格が悪い。
 男の吐いた煙はカーテンの前からテレビの上のあたりにかけて、未だ消えずにとどまっている。それでもカーテンがちょっとだけそれを吸いこんでいるのか、その白色が薄くなり、消えかかっているようにも見えた。彼が咥えた煙草に火をつける様子がないので、私は自分の煙草に再び火をつけて、思いきり吸い込んでから濃い煙をゆっくり口から吐いた。容赦のない日差しがあたる明るい壁際に、再び白い煙がはっきりとした色で揺蕩い出し、するすると上に上がった割には天井手前で勢いを失い、いつまでもそこにあった。


鈴木涼美(すずき・すずみ)
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学卒業。東京大学大学院 修士課程修了。小説『ギフテッド』が第167 回芥川賞候補、 『グレイスレス』が第 168 回芥川賞候補。著書に『身体を 売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』『愛と子宮に 花束を 夜のオネエサンの母娘論』 『おじさんメモリアル』 『ニッ ポンのおじさん』 『往復書簡限界から始まる』(共著) 『娼婦の本 棚』『8㎝ヒールのニュースショー』 『「AV女優」の社会学 増 補新版』『浮き身』などがある。
夜の世界を「生き場所」とする女性たちの蠱惑と渇望を描いた最新作『トラディション』が12月8日に発売。
Twitter:@Suzumixxx

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💡次回(1月上旬ごろ予定)のゲスト作家は……大庭繭(おおば・まゆ)さん

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