※本記事は2022年9月に「不定期連載 たばこのことば 第2回」として公開されましたが、「シガレット・バーン/映画的喫煙術」のスタートにあたり、特別編として再掲します。(編集部)
不定期連載 たばこのことば
第2回 いまも色あせない”松田優作と煙草のイカす関係”
1949年(昭和24年)9月21日、日本映画史において強烈な光を放つ、一人の俳優がこの世に生を受けました。
松田優作。
数々のテレビドラマ・映画で、生と死を全身で表現し、目で演じ分けた「名優」。
男らしく・色気にあふれ……図抜けてスタイリッシュ。
優作のスタイルには、スーツ、サングラス、ベルボトムのジーンズ、ピストル。そしてライターとタバコが欠かせません。
愛煙家にとっても忘れられない名優・松田優作の生誕にちなんで、ケムールでは映画ライターの小玉大輔さんに優作の魅力を書き下ろしていただきました。
レンタルビデオ業界を退いた後、『キネマ旬報』等雑誌、WEBでの執筆やTwitter (@eigaoh2)で自分の好きな映画を広めるべく日夜活動している70年代型映画少年。Twitterスペースで映画討論「#コダマ会」を月1開催。第2代WOWOW映画王・フジTV「映画の達人」優勝・映画検定1級・著書『刑事映画クロニクル』(発行:マクラウド Macleod)
優作に憧れて
©1979-1980・東映 出典:amazon
70年代に少年時代、青年時代を送った男性のどれほどが優作に憧れ、真似をしたことか!
大人になった今も駅の階段を駆け上がる時、脳内ジュークボックスで『太陽にほえろ!』(73~74)の「ジーパン刑事のテーマ」を再生している人はひとりやふたりじゃないでしょう。
また優作に憧れて煙草を始めた人も多いはず。優作の煙草の扱いはカッコ良かったですもの。親指と人差し指で煙草を挟み、目を細める、あの姿を思い浮かべながら紫煙に包まれれば、誰もが心の中では優作になれたのです。
多分、私だけでなく読者の方もやったことがあるはずです。カルティエならぬ100円ライターの火力を最大にしたことが。そして前髪を焦がす直前まで、私たちは確実に優作でした。それは「悪魔さえ否定出来ない事実」でした。
思い起こせば、優作と煙草は『太陽にほえろ!』の頃から切っても切れない関係にありました。そう、未だに語り草になっている“死にざま”です。優作が故郷・山口県のイントネーションで叫んだ「なんじゃ、こりゃ!!」はあまりに有名ですが、その後の演技を愛煙家は忘れられません。腹を撃たれ、地面に仰向けに倒れた優作は、最後の力を振り絞ってポケットから煙草を取り出し、一本咥えます。ここまではフランス映画『勝手にしやがれ』(60)でジャン=ポール・ベルモンドが見せた“死にざま”の真似ですが、優作はそこにひと捻り加え、煙草に火をつけることが出来ないまま、こと切れるのです。最後の一服が出来ない切なさ。当時、優作が日に100本吸うヘビースモーカーだったという事実を知ると同情を禁じ得ない最期でした。
この時、70年代っ子を魅了した優作と煙草のイカす関係が始まったのです。
ⓒ1974年・日活株式会社 出典:amazon
映画初主演作『あばよダチ公』(74)で、3年の刑期を終え、故郷・浦安に帰ってきた優作。冒頭でいきなり問答無用の歩き煙草。その姿はジーパン刑事とは真逆のカッコ悪さなのですが、それが不思議にキマっているのです。
©1976・東映
この歩き煙草は76年に起こした傷害事件の謹慎を終えて主演した映画『暴力教室』(76)でも披露。優作の役は高校教師。なのに豪快に歩き煙草をするのです。「いいのか!?そんなことして」と心配していると、校門前でポイ捨て!こんな先生、優作じゃないと許されません。
また『遊戯』シリーズ3部作の第2作『殺人遊戯』(78)では強烈な火の消し方を見せてくれます。夜の静寂で煙草をくゆらす優作が演じるのは凄腕の殺し屋。この男、なんと、手袋をした手の平で消すのです。優作気分で煙草を吸うことは簡単ですが、この消し方を真似するにはかなりの勇気が必要です。
©1978・東映
やくざ組織の資金源強奪に挑む犯罪者を演じた映画『俺達に墓はない』(79)で、優作は囚われた仲間を救出するため、右手に拳銃、左手にダイナマイトを持ってやくざの事務所に突入します。顔ばれを防ぐため優作はサングラスに布マスク姿。可笑しいのはそのマスクの中央には穴が開いていて、その穴から咥えた煙草が飛び出しているのですよ。ダイナマイトに火を着ける時に拳銃を手放さないための苦肉の策ですが、この煙草の吸い方、コロナ禍の現代こそ見習うべきではないでしょうか?
©1979・東映
煙草が物語の重要な鍵となった『大都会PARTⅡ』(77~78)第37話「銀行ギャング徳吉(とく)」。冒頭で優作演じる城西署の徳吉刑事は神田正輝演じる同僚刑事に珍しい洋モク“アントニオとクレオパトラ”を貰うのですが、結局、どさくさ紛れに箱ごとポッケナイナイします。この時の優作と神田正輝のユーモラスなやり取りはほぼアドリブ演技。だから場繋ぎの遊びのシーンだろうと思っていたら、この洋モクがまさかまさかの伏線になっていたのです。ネタバレになるので詳しくご説明出来ませんが、観れば「なるほどね」となること間違いなし。気になった方は配信などでご確認ください。
己の長所を生かせ!“アフロ松田”時代の演技スタイル
どうして煙草を吸う優作はあれほどまでにカッコ良いのでしょう?思うに、優作の大きな手と長い指にその理由がある気がします。親指と人差し指を曲げて煙草をつまんだり、人差し指と中指の間に煙草を挟んだりするのが、優作のスモーキング・スタイル。このスタイルは指が短かったら決まりません。優作は自分の太くて長い指が最も映える煙草の吸い方はこれだ!と確信していたのではないでしょうか。でなければこれ程、私たちファンの記憶にその吸い方が刻まれることはなかったはず。
優作の指の長さ、手の大きさが活かされるのは喫煙場面だけではありません。新米探偵を演じた映画『乱れからくり』(79)では篠ひろ子演じるファム・ファタルの告白を手の甲を上げて止めるのです。その手の動きには有無を言わせぬ説得力がありました。
©1979・東宝
またベッドシーンでも優作は自らの手を目立たせます。映画『殺人遊戯』(78)、『蘇える金狼』(79)で女優のおっぱいを揉むシーン。観客の目は揉まれるおっぱいよりも優作のちょっと乱暴な指の動きの方に目が行ってしまうほどです。
©1979・東映
優作は1978年、映画雑誌『キネマ旬報』(1978年12月上旬号)のインタビューで“アクション映画”と“アクション映画の主役”とは何か?と問われて、こう語っています。
「千葉真一さん、小林旭さんというかたたちが主演する、つまり身体が動くということに重点が置かれ、そういう人が主演というのがあるでしょ。もちろん、ぼくはそういうかたたちのこと大好きですけど、それだけがアクション映画だとは思わない。(略)歯を磨くとき、使っている歯ブラシひとつにも、それから、どんなタオルを使ってるかとか、靴下は右からはくか左からはくか―そんなとこをショットしていくのがアクション映画だと思うんです。
生活っぽいものが根底にあって、それと自分の肉体の飛躍が、不条理に飛んじゃう-それがアクション映画の楽しさだと-(略)」
この発言から優作にとって「煙草を吸う」「おっぱいを揉む」など日常の延長にある行為は自らの長所を際立たせるだけでなく、小林旭のガンアクション、千葉真一の空手アクションと同じものだったということがわかります。
《肉体の飛躍が、不条理に飛んじゃう》ところから生まれる“優作アクション”の頂点は“走る姿”です。他の俳優が走ってもそれは走っているだけですが、優作のその長い脚がしなやかに動いてコンクリート・ジャングルを駆け抜けると“走る姿”がアクションの見せ場へと変わるのです。
“アフロ松田”の魅力が詰まった『遊戯』シリーズ3部作
(画像提供:小玉大輔氏)
優作の “走る姿”といえば、優作が殺し屋を演じた『最も危険な遊戯』(78)、『殺人遊戯』(78)、『処刑遊戯』(79)の『遊戯』シリーズ3部作が忘れられません。
第1作の『最も危険な遊戯』ではヒロインを拉致した悪の車を追って、優作は走って、走って、走りまくります。カーチェイスの予算がなかったからという裏事情があるのですが、優作の完全無欠の“走る姿”を見ていると、これ以上のアクションがあるのか!という気がしてきます。そして最後には車に追いついてしまう優作。『ターミネーター2』(91)でもT-1000が同じように車に追いつきますが、あちらはアンドロイド。一方、優作は生身の人間で、しかも喫煙者。優作は超人です。
走るだけで観客の心を鷲掴みにする優作。そこに“ガンアクション”が加われば鬼に金棒。空前絶後のクールな見せ場になります。それが『遊戯』シリーズのクライマックス。3作共、優作は銃を片手にビルの階段を駆け上がり、廊下を駆け抜けたりしながら、扉の影、通路の角に隠れる数十人の敵を次々と倒していきます。ここでも優作は自らの身体的長所を最大限に活かします。それはシルエット。影だけで表現される走り、銃を撃つ優作の雄姿はその手足の長さが生かされてとてもスタイリッシュ。007シリーズ『ノー・タイム・トゥ・ダイ』(21)にも同様の駆け上がり銃撃アクションがありましたが、見比べれば、優作のシルエットがある分、『遊戯』シリーズに軍配が上がります。優作の肉体は007を凌駕しているのです。
“死にざま”を見ろ!
※画像は「太陽にほえろ!ジーパン刑事 ミュージックファイル (松田優作サウンドメモリアル)」より
出典:HMV
優作の肉体は“死にざま”さえもアクションに変える時があります。『太陽にほえろ!』での血に染まった大きな手を呆然と見ての「なんじゃ、こりゃ!!」から両膝立ちの状態のままで後方に倒れる。こんなムーブ、今から死にゆく人間には絶対に出来ません。優作の身体あっての死に方でしょう。だからこそ強烈なインパクトを残したのです。
『蘇える金狼』(79)の足に力が入らなくなり、成田空港の通路で転ぶ姿(正確にはこの時点ではまだ死んでいませんが)、と『野獣死すべし』(80)の日比谷公会堂の階段手すりに掴まって身体を反らして倒れていく姿は手足の長さが際立って、まさにワン&オンリーな“死にざま”でした。
©1980・角川春樹事務所/東映
暴走する“アドリブ”
©1979-1980・東映 出典:amazon
優作にはもうひとつ、ファンを魅了してやまない演技があります。それは“アドリブ”。優作が俳優として活動を始めた70年代初頭。若い俳優たちの間では台本で指示されたことをそのまま演じるのではなく、自らの個性に合わせて解釈した“演技に見えない演技”によってリアルな人物像を生み出すことが流行していました。その最先端にいたのが原田芳雄と萩原健一でした。二人は台本を離れた独特の仕草と台詞回しで、若い俳優たちの目標となっていました。
そんな中に優作もいました。映画デビュー作『狼の紋章』(73)では、共演女優を柔道技で何度も投げて、周囲を驚かせます。出世作『太陽にほえろ!』『俺たちの勲章』(75)の頃から台本を重視しない即興的な演技を始め、先輩俳優たちからは「台本通りに演じろ」と怒られるようになりました。
ところが『大都会PARTⅡ』にレギュラー出演することになった時、主演の石原裕次郎、渡哲也は優作の演技スタイルを容認してくれました。そこから優作のアドリブ演技は過激化していきます。台本にない台詞を言うのは当たり前。やがて楽屋落ちめいたものになり、共演者を役名ではなく、本名で呼ぶ時もありました。
視聴者の多くは優作のアドリブに戸惑いました。しかし放送を重ねていく内に「今日は何をしでかすか?」と楽しみにする10代20代の若者たちが増えていきます。台本という決まりから逸脱する優作に、学校や家族など社会のシステムにがんじがらめにされている自分たちにはないアナーキーさを感じ、憧れたのでした。彼らの多くは『太陽にほえろ!』の頃から優作のファンでしたが、『大都会PARTⅡ』でのアドリブ演技でますます好きになっていったのです。
優作のアドリブ演技は初の単独主演を果たしたテレビドラマ『探偵物語』(79~80)で頂点を迎えます。それもそのはず、このドラマには優作の演技への情熱と作品への熱意を共有する監督、スタッフ、キャストが揃っていたのです。監督やスタッフたちは優作の魅力を最大限に活かそうとし、共演者たちは優作がアドリブ演技を仕掛けてきたら、そのノリに乗ってくれたのです。優作が“共犯者”と呼ぶ彼らとの共同作業によってファンにとってはこの上なく楽しい“優作ワールド”が生み出されました。こうして『探偵物語』は『太陽にほえろ!』から始まる“アフロ松田”時代の優作の集大成と呼べる番組となり、伝説化したのでした。
金狼と野獣 “アドリブ”を越えて
(画像提供:小玉大輔氏)
『探偵物語』で優作のファンになった人々を驚かせたのが映画『野獣死すべし』(80)。優作の役は過酷な戦場経験で常軌を逸し、犯罪者となった元報道カメラマン。演じるにあたって、優作はトレードマークだったアフロヘアをやめただけでなく、10キロ減量し、奥歯を上下4本抜き、頬をこけさせてイメージチェンジを果たしました(自慢の長い足を切って、身長を縮めようとしたとも伝えられています)。
変わったのは外見だけではありません。これまでのアドリブ演技を封印し、凄まじい量の長台詞を話す、演劇的な一人芝居を劇中3度も行ったのです。おまけに劇中では煙草を咥えませんでした。そこにはこれまでファンが慣れ親しんだ優作の面影は微塵もありませんでした。
一体優作に何が起こったのでしょうか? アフロヘアをやめたのはそれまで彼にパーマをかけてくれていた最初の妻との離婚がひとつの要因かもしれませんが、それ以上に優作は俳優としてさらに成長しようと考えたのだと思います。
優作の変化は『探偵物語』の直前に主演した映画『蘇える金狼』で既に現れていました。犯罪行為も厭わず、巨大企業の頂点で富を得ようとするサラリーマンを演じた優作。遂に野望が実現した時、優作はいきなり田中泯や土方巽ばりの前衛舞踏を始めたのです。「何をしているんだ、優作?」。観客の大半は驚きました。優作のアクション俳優とは思えぬ演技はそれだけにとどまりません。その後の愛人を絞め殺すシーンで、優作は死体の前で慟哭し、神に祈りを捧げるというそれまでのキャラから想像もつかないことを行ったのです。一連の演技で優作がどこを目指しているのかファンは疑問を持ちました。
その答えが『野獣死すべし』だったのです。公開時、優作の演技をオーバーアクトだと批判する声もあり、優作ファンの間でも賛否両論を生みましたが、一部からはカルト的な人気を集めました。特に当時の20歳前後の映画青年の間では「リップ・ヴァン・ウィンクルの話をしてるんですよ~」という優作の台詞の真似をすることが流行りました。現在、『野獣死すべし』は優作の代表作の一本として高く評価されています。
“足し算の演技”の限界
(画像提供:小玉大輔氏)
変わったとは言え、この頃の優作は“足し算の演技”の人でした。アドリブ、自身の身体的特徴を際立たせる煙草の吸い方や走り方、サングラスのフレームを指で押さえて哀しみを表現した『殺人遊戯』『俺達に墓はない』での小道具を使った芝居、そして『野獣死すべし』の大芝居など、演技に何かをつけ加えるのが優作のスタイルです。しかし、『陽炎座』(81)に出演した時、“足し算の演技”に限界を感じはじめます。この時の悔しさを優作は『キネマ旬報』(1984年2月下旬決算特別号)のインタビューで語っています。
「ものすごく広い公園で、他の人たち、大楠(道代)さんとか中村(嘉葎雄)さんとか、原田(芳雄)さんなんかは、ブランコをしたりすべり台で遊んでいるのに、一人だけ砂場でつかめない砂をつかんでいるんだなって感じで、すごくショックを受けたんですよね」
“足し算の演技”は極限すれば自分だけが目立てばいいという演技です。良くも悪くも優作は“足し算の演技”でスターになった俳優です。それが可能だったのはベテラン俳優が優作の芝居を大目に見てくれたり、主演映画で格下の共演者が芝居を受けてくれたりしたからです。一方『陽炎座』では、自分が主演とは言え、それ以上に監督・鈴木清順が売りで、共演は主演経験がある同格以上の俳優たち。この時、これまでの演技では全く通用しないことを思い知らされたのです。
これにショックを受けた優作は自信を失い、20本のオファーを断り、二年ほど映画に出演しなくなりました。その間に優作は自らの演技を見直し、余計なことを一切せず、役に同化し、ここぞと言う場面では観客をハッとさせる“引き算の演技”を身につけます。
“引き算の演技” 新たなるステージへ
優作がその成果を満天下に知らしめた映画が『家族ゲーム』(83)。奇妙な家庭教師を演じた優作は共演者の芝居を受けて、返すというキャッチボールのような演技を披露しました。そこには「俺だけを見ろ!」と主張する一方通行な演技は微塵もありませんでした。
©1983・日活
それは同じ年に出演した映画『探偵物語』(83)でも同様でした。当時の若手トップ女優、薬師丸ひろ子の演技をすべて受けきり、彼女の魅力を最大限に生かすという相手役の鑑のような演技を見せたのです。薬師丸ひろ子は優作に刺激を受けたのか、劇中で喫煙シーンを披露しています。
一方でどちらの作品にも“足し算の演技”時代の優作を思い起こさせる瞬間があります。『家族ゲーム』での突然、食卓を破壊するクライマックスと、映画『探偵物語』のラスト。優作は恐ろしく長い時間、薬師丸ひろ子にキスし続け、ひろ子ファンをやきもきさせます。そこには、何をしでかすか分からない“アフロ松田”がまさに金狼のごとく蘇えっていました。
©1980・角川春樹事務所/東映
『家族ゲーム』と『探偵物語』の演技で念願の『キネマ旬報』ベスト・テン主演男優賞を獲得した優作は、久々のアクション映画『ア・ホーマンス』(86)で初めて監督業に挑みます。この映画で優作は“引き算の演技”を共演者たちにも求めました。アフロ時代の自分のように型にはまった演技をしがちなベテランたちにその型を崩させる一方、本作がデビューになる石橋凌には演技に何もつけ加えるな、と指導します。こうして出来上がったのが優作流 “引き算の演技”の到達点とも呼べる作品でした。
それを如実に表しているのが、優作が石橋凌を殺した3人のヒットマンを追うクライマックス。このシチュエーションならファンはかつてのような“走る優作”のカッコ良い姿を期待してしまいます。しかし追跡はカメラレンズが“優作の目”となった手持ちカメラによる一人称POVスタイルで描かれたのです。結果、観客は“走る優作”を一度も見ることが出来ませんでした。優作はファンを魅了していた姿を自ら封印したのです。これを“引き算の演技”の到達点と言わずして、です。
”永遠の未完” 松田優作
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『陽炎座』での屈辱をバネに、“足し算の演技”に加えて新たに“引き算の演技”も身につけた優作は、満を持して、名のある監督作品で主役級のスターとの共演に再挑戦します。それが海外で高く評価されている吉田喜重監督の『嵐が丘』(88)と、日本映画きってのヒットメーカー、深作欣二監督、吉永小百合主演の『華の乱』(88)。
©1988・東映
これまで“共犯者”と呼んで、スタッフやキャストに自らのビジョンの共有を求めてきた優作でしたが、この2作では監督のビジョンに従うことに徹します。『ア・ホーマンス』の時、意見の相違で監督を降ろし、自らメガホンを奪った男とは思えない変わりようです。
監督のビジョンに近づけようと、『嵐が丘』では能の型を学び、『華の乱』では自らの演技プランをすべて捨てたといいます。
こうして生まれたのが、愛のために鬼神となる鬼丸であり、愛と死の狭間で揺れ動く有島武郎でした。そこには“足し算の演技”とも“引き算の演技”とも違う新たなる優作の演技スタイルの萌芽がありました。このあと優作はどこへ向かおうとしていたのでしょうか?しかしこの時、すでに優作の身体は癌に侵されていたのです。
そして『ブラック・レイン』(89)です。この映画については多くのことが語られているので、今更つけ足すこともあまりありません。けれども一点だけ是非、注目して欲しいところがあるのです。優作の初登場シーンです。
ニューヨークのレストランに姿を現した優作は懐から出した煙草の匂いを嗅ぐと、忌々しそうに投げ捨てます。“アフロ松田”時代から演技を見てきた者にはその行為が「これからは小道具に頼る芝居はしないぞ」という優作の決意表明に思えます。あの煙草を捨てたシーンこそ、新しい優作誕生の瞬間だったのではないでしょうか?
1986年、『キネマ旬報』(1986年10月上旬号)のインタビューで優作は語っています。
「二十代は走って、ファッションでピストル撃ってきたけど、三十代は、初めてやっと役者に向かわなきゃいけないという、その準備をしてるというか、その練習をしてるというか、まず心のフラットさをいますごく勉強してる。四十からですよ、むちゃくちゃやるのは。待っててくださいよ(笑)」
優作がこの世を去ったのは、1989年11月6日。享年、40歳。