“70年代型映画少年&少女”は終わらない
こちらの記事を読んでからご覧ください。
【大阪ニュー・シネマ・パラダイス】
は、本連載でもっともたくさんの反響をいただく記事でした。
「たとえ「親の仇レベルで」煙草が嫌いな嫌煙家の人であっても、当時の事を知る事が出来るので楽しいぞ」
「大阪の事情は存じ上げませんが、東京でもそんな「世界」が確かに在りました。池袋、馬場、中野、江古田…」
「続きはどこで読めるのか?」
などの声に応え、
1970年代のどうかしている映画少年の物語の、完結編を公開します。
■あらすじ
画像出典:青春タイムトラベル ~ 昭和の街角
映画館に行列ができ、テレビでは洋画劇場が視聴率TOPを埋めた時代、1970年代。
大阪に住む一人の少年は、テレビ放映版の『荒野の用心棒』に衝撃を受けて映画にハマり、ロードショー劇場を経て、二番館、三番館=名画座へ通うようになります。
「ニュー・シネマ・パラダイス」より © 1989 CristaldiFilm
そこは現代では考えられない異世界のような映画館。上映中に走り回る子ども、鼾をかく人、喋り声は絶えず、タバコの煙が充満している。まるで『ニュー・シネマ・パラダイス』の”パラダイス座”のような空間だったのです。
お小遣いで観にいった『ワイルドバンチ』(’69)、『ダーティハリー』(’71)。雑誌『スクリーン』を読みあさる中学生・高校生となり、バイト代でチケットを買った『さすらいの航海』(’76)『ニューヨーク・ニューヨーク』(’77)。
映画原作・サントラ盤・ノベライズ本にまで手を伸ばし、映画愛(中二病)をこじらせていく…。
ここからは物語の続き。
映画愛が止まらない少年は、ハリウッド大作ではあきたらず「アート系映画」「B級映画」の世界へ。
それにつれて、関西の中でもさらにディープな映画館のあるエリアに足を踏み入れていくのでした。
千日前。神戸新開地。天神橋。
そしてーー通天閣を見上げる新世界と、飛田地区です。
レンタルビデオ業界を退いた後、『キネマ旬報』等雑誌、WEBでの執筆やTwitter (@eigaoh2)で自分の好きな映画を広めるべく日夜活動している70年代型映画少年。Twitterスペースで映画討論「#コダマ会」を月1開催。第2代WOWOW映画王・フジTV「映画の達人」優勝・映画検定1級・著書『刑事映画クロニクル』(発行:マクラウド Macleod)
第四章:素晴らしき哉、東映
グッドバイ、大毎! ハロー、大劇
大阪の映画ファンのメッカ、西梅田の「大毎地下劇場」や心斎橋の「戎橋劇場」、そして、ロードショー落ちの近作を三本立てで上映する、近所のおっさんご用達の映画館にも足を延ばすようになった少年。平日にはテレビでも映画を観る訳ですから、鑑賞本数は飛躍的に増大し、本や雑誌から映画の知識もどんどん蓄えていきます。
そうなると「あの映画も、この映画も観なきゃ!」という義務感が生まれてきます。
幸運にも当時の大阪では様々な映画サークルが上映会を行っており、映画史にその名を残す作品や通な映画を借り切った劇場やホールで上映していました。少年はジャン=リュック・ゴダールやアラン・レネ、ルキノ・ヴィスコンティやフェデリコ・フェリーニ、アンジェイ・ワイダら大監督の“芸術映画”の上映会に参加するようになります。
今でいう“シネフィル”と一緒に芸術映画を観て、日曜日には千日前にやってくるおっさんたちとB級映画二本立てを観る。
「そんな高校生は広い大阪で自分だけに違いない。」
少年の自意識は風雲昇り龍モードに達していました。
時代は80’sへ。少年、ついに邦画を観る
この時代の少年&少女の多くはテレビの洋画劇場で育ったので、まず観るのは外国映画。日本映画にはほぼ目を向けませんでした。少年もそんな一人だったのです。松田優作の映画は観るものの、洋画のように古今の映画を観ていませんでした。
高校2年の秋、少年は「これからは日本映画も観ていこう」と決心します。
とは言え、角川映画などリアルタイムの映画では、昇り龍のごとく高まっていた少年の自意識が良しとはしません。やはり海外映画同様、昔の映画でなければ。黒澤明か? 小津安二郎か? 大島渚か?
しかしサブスクは勿論、レンタルビデオもない80年代初頭。観たい作品があっても上映されない限り観ることは叶いません。少年は京阪神の映画上映スケジュールが載っている情報誌『プレイガイドジャーナル』の頁をめくります。そして見つけたのが、神戸・新開地にある「神戸東映」での“『仁義なき戦い』 (‘73-’74)五部作一挙上映”の告知。
「これだ!」
少年は思いました。
『仁義なき戦い』といえば当時の様々な映画本で高く評価されていた作品。中身はやくざ映画のようですが、洋画アクションが好きだった者にとって本格的な邦画への第一歩としてこれほど適した作品はないと確信したのでした。
東映開眼!-それは『完結篇』から始まった
かくて1982年10月10日朝。
少年は家から1時間電車に揺られて「神戸東映」にやってきました。当時はまだ今ほど『仁義なき戦い』は神格化されていませんでしたから、客席はまばらです。前日に電話確認した上映開始時間をドキドキしながら待つ少年。
やがて幕が上がり、上映開始。
お馴染みの東映マークの後、映画のタイトルが出た瞬間、少年は自分の誤りを知りました。
五部作一挙上映の朝一は第5作『完結篇』から始まったのです。「神戸東映」は大阪の近所のおっさん御用達の名画座同様、客が来るお昼前から第一部を上映する判断をしていたのです。こんなことなら上映順も確認しておけば良かったと思ったものの、帰りの時間を考えると第一部が始まるまでロビーで待つなんてことは出来ません。
「後があるんや、後が」
少年は腹を括って『完結篇』を観始めました。しかしテレビで見知った顔が続々出てくるものの、それまでの経緯を知りませんから物語が理解不能。続いて始まった第1作で少年はさらに混乱します。『完結篇』にも登場していた松方弘樹や川谷拓三が殺されてしまったのです。予想を超えた作りにどう対処したらいいのか…。
その後のシリーズも死んだはずの役者が別の役で再登場し続けた末、夜7時頃、広島やくざ流血20年の記録は幕を降ろしました。結局、少年は最後まで物語の細部がわかりませんでした。しかし、飛び交う広島弁の怒声と縦横無尽な手持ちカメラで捉えられた暴力に圧倒されて放心状態になっていました。
小学6年の時、『荒野の用心棒』(‘64)から受けたのと同じ衝撃を受けたのです。
この時、少年は心に決めました。
「東映映画。これに生きよう。東映映画を魂として常に見、どこまで映画マニアとして己を高められるかやってみよう。青春十七、遅くはない・・・」
第五章:ニューワールド1981
Across the 天神橋筋六丁目交差点
日本一長い商店街がある天神橋筋六丁目に「天六ユウラク劇場」「天六コクサイ劇場」という名画座がありました。「ユウラク劇場」では数年以内の東映映画を中心とした邦画の三本立てを、「コクサイ劇場」では洋画ポルノ三本立てを上映していたのです。
東映映画に開眼した少年は、東映実録やくざ映画路線の作品が「ユウラク劇場」で上映される時は必ず行くようになりました。
映画館に行けない時には『仁義なき戦い』第1~4作の脚本を収録した『笠原和夫シナリオ集』で台詞を覚え、映画評論家・山根貞夫の本で観たい作品を増やし、東映の監督や俳優を覚える毎日を過ごす少年。東映沼にどっぷりつかって這いずりまわったのです
こうなってくると少年は「天六ユウラク劇場」が物足りなくなってきました。というのも「ユウラク劇場」では東映以外の日本映画や洋画で三本立ての番組を組む週もあったのです。
毎週、東映映画を観たい!そんな少年のニーズに応えられる映画館が大阪にはひとつありました。愛読本『ポスターでつづる東映映画史』の巻末で紹介されていた「新世界日劇会館」です。ここでは毎週、東映映画が三本立てで上映されていたのです。しかし問題は劇場のある場所、新世界でした。
大阪の象徴である通天閣がある新世界。ここは当時、女性や子どもが一人で行ってはいけない危険地帯と言われていました。日雇い労務者向けの古着の露店が立ち、通天閣に向うジャンジャン横丁はホルモン焼きの匂いが立ち込め、昼間から酒を飲んでいるおっさんが多数。そこを抜けた道路にはホームレスが横になっていました。実際、少年も以前、新世界に映画を観に行こうとしたら家族から強く止められたことがありました。
そんな経験から少年は新世界行きを躊躇していました。しかしそれも「新世界日劇会館」で『仁義なき戦い』シリーズの監督・主演・脚本家トリオが再び組んだ作品が上映されることを知るまでです。
「犬か猫になってもいい 俺は『県警対組織暴力』(‘75)が観たい!」
少年は家族に黙って新世界に行く決心をしました。地下鉄の駅を降りると人と目を合わさないように注意しながら劇場に向います。
”WELCOME TO NEW WORLD”危険地帯にある映画館
「日劇会館」のある建物には他に「新世界東映」という東映ロードショー館と「日劇地下O.P.K」というピンク映画専門館がありました。劇場の前には上映中の作品のロビーカードが貼られた立て看板が並び、入場券売り場からは係のおばちゃんの呼び込みが聞こえてきます。入場券売り場の横には客席階に行くエレベーターがあり、乗り込むと別のおばちゃんが入場券を回収。昔のヨーロッパ映画に出てくるような鉄格子の扉が閉まり、エレベーターを昇っていくと、映画の音が徐々に大きくなっていきます。
そして劇場で聞く音量になったと思った時、エレベーターが止まり、扉が開かれます。
少年の目にスクリーンに映る高倉健の大きな顔が飛び込んできました。なんと「日劇会館」にはロビーがなく、エレベーターは客席に直結していたのです。これでは途中から観るのは嫌だからと次の作品の上映をロビーで待つことは不可能。
しかたなく客席に着いた少年の鼻を煙草の匂いが襲います。これまで通っていた「近所のおっさん御用達の映画館」でもタバコを喫う人はいましたが、これほどの煙草臭さではありませんでした。客席のそこかしこには蛍のように煙草の火がチラチラしているではありませんか!ここは受動喫煙、消防法という言葉が存在していない無法地帯だったのです。
高倉健の映画が終わり、場内は明るくなりました。辺りを見回すと、席は結構埋まっています。女性客は勿論、「大毎地下」や自主上映会にいるような映画青年の姿はありません。いるのは労務者風のおっさんばかり。前の席に足を乗せている人やワンカップ大関を飲んでいる人もいます。
「なんちゅう映画館や・・・」
あまりのことに言葉が出ない少年は、目当ての『県警対組織暴力』が終わったら早々に劇場を出ようと決心するのでした。
しかしその考えは映画を観ているうちに変わってきます。有名な地獄の取調室のシーンで大笑いし、主人公たちが悲劇に向かって堕ちていく終盤では固唾を飲んで画面に見入るおっさんたち。彼らは「大毎地下」や「戎橋劇場」に来る映画ファンに負けないぐらい熱心に映画を楽しんでいたのです。
少年はおっさんたちに親近感を覚え始めました。結局、三本立てをすべて観て、劇場を出る時には「これからはここに通おう」と思うようになっていたのです。
「『県警対組織暴力』予告編。地獄の取調室のシーンが少し見られる」
© 東映
大阪ニュー・シネマ・パラダイス
当時、新世界にはポルノ&ピンク映画専門館を除くと映画館が8館ありました。
「日劇会館」と、封切館ながらアニメが公開される時には東映の近作を上映する「新世界東映」、松竹や大映、ポルノ以前の日活映画を上映する「新世界座」と「松竹公楽座」、封切りの合間に旧作を上映する「新世界東宝敷島」、洋画ジャンル映画専門で男を狙う痴漢が出没する「新世界国際」と「新世界国際地下」(幸運にも少年は被害にあいませんでした)、60~70年代のアクション、西部劇専門に上映し、客席後方では売店の明かりが常に点いている「シネマ温劇」です。
どの劇場も三本立て。学生の入場料金は最高値1000円、最安値は400円でした。
新世界に行けば、ロードショー落ちの新作から他の劇場ではなかなか上映されない旧作まであらゆる映画を観ることが出来たのです。アメリカ風に言えば“日本のグラインドハウス街”、カッコ良く言えば“庶民のフィルムセンター”です。
通っているうちに街への恐怖心がなくなった少年は新世界の反対側、飛田地区にも足を延ばすようになります。ここには飛田遊郭があり、日雇い労務者が暮らす釜ヶ崎の近く。おまけに暴力団事務所が多数ありました。平たく言えば、“日本のハーレム”です。
そこに3館の映画館がありました。新旧取り混ぜた邦画と洋画三本立てをそれぞれ上映する「トビタ東映」「トビタシネマ」、トイレを通らないと客席に入れない洋画三本立ての「トビタOS劇場」です。
驚いたのは「トビタOS劇場」。三本立てが一周するまで休憩時間がなかったのです。しかもエンドクレジットが上がると途中で切られ、次の映画が上映されます。
新世界と飛田の劇場はどこもおっさん、じいさんばかり。
床にはゴミが散乱し、常に煙草の煙が上がり、スクリーンや客席の壁はニコチンで黄ばんでいます。鑑賞姿勢は最悪で、鼾が前後から聞こえてくることがあります。それでいてトラブルで映写機が止まった時には一斉に怒声が挙がります。ここのおっさんたちも真面目に映画と接していました。
新世界・飛田の映画館は雰囲気もそこに来る人たちも『ニュー・シネマ・パラダイス』の舞台になったシチリアの映画館「パラダイス座」によく似ていました。
そう、そこは『大阪ニュー・シネマ・パラダイス』と呼べる場所だったのです。
第六章:大人は判って…くれた
怖いものなし!自分のための東映シネマ・フェスティバル
禁断の地、新世界・飛田地区を征服(?)した少年は、観たい映画のためならどこにでも行くようになります。
神戸・新開地にある、東映を中心に邦画各社の五本立てが学生500円で観られる映画館「福原国際東映」を知れば、そこがソープ街の近くでも躊躇せず、遠征に向います。
また、当時の入場券売り場での年齢確認が適当だったのをいいことに『ソドムの市』(’75)、『カリギュラ』(’79)、蓮實重彦が褒めた『ウォーターパワー/アブノーマル・スペシャル』(’78)等、成人映画を上映している映画館に堂々と入ったりもしました。
少年は「大阪の高校生で誰よりも映画を観ているのは俺だ!」という根拠のない自信を深めます。そして、自身の映画、特に東映への愛を何かの形で表現したいと思い始めるようになりました。
少年が思いついたのは文化祭で映画研究部の出し物として東映映画のポスター展を開催し、同時に当時の大学の映研のように好きな映画の自主上映会を行うことです。総額10万円の16㎜フィルムのレンタル料は部費とバイトで貯めた金で何とかするとして、問題はポスターの手配です。映画ファンがパンフやチラシを買う映画ショップに東映やくざ映画のポスターがあるとは思えませんし、よしんばあったとしても予算がありません。
少年は映画館に協力を求めました。いつも通っている映画館に「ポスターを貸してください」と頼みに回ったのです。いきなり見ず知らずの高校生が金も払わずポスターを貸してなんて言ってきたら、映画館は門前払いしそうなもの。
しかし天は少年を見捨てませんでした。まず、「トビタ東映」さんは1956年の開館以来ストックして来たポスターを自由に使っていいと言い、「天六ユウラク劇場」さんは「東映から直接買ったら1枚100円もせんで」と東映の宣材倉庫を紹介してくれました。おまけに16㎜フィルムのレンタル業者さんは若干の値引きをしてくれたのです。
こうして少年は「東映ポスター展」と『仁義なき戦い/広島死闘篇』の自主上映会を実現させます。文化祭当日、自主上映会が「近所のおっさん御用達の映画館」の朝一の回のような客の入りで終わっても満足でした。大好きな東映に仁義を通したのですから。
少年、トトになるーー映画館の大人たちの言葉
『ポスター展』をきっかけに少年は映画館の人たちと親しくなります。たぶん「東映好きの高校生」というのが珍しかったのでしょう。映写室に入れてもらい、映画を観に来ていないのに倉庫に保管されている30年分の洋邦の映画ポスターを自由に見せてくれました。時には映画に関して少年の知らないことを教えてくれました。
一人目は「天六ユウラク劇場」の若い支配人さん。
「映画を観ていると何分かに一度、画面の右端に黒い丸が出たりすることがあるやろ?あれは二台ある映写機の切り替えのタイミングを知らせるんやで。一回目は準備、二回目は映写機交代や」
少年が映画研究部の先輩のように思えた人から教わった黒い丸が、英語で“シガレット・バーン”と呼ばれていることを知るのは、その後だいぶ経ってからでした。
二人目は渡瀬恒彦と撮った記念写真を机に飾っていた「トビタ東映」「トビタシネマ」の白髪頭の館主さん。少年にジュースをご馳走しながら、こんな話をしてくれました。
「どんなにおもろない映画でもな、一か所でも記憶に残る場面があればええねん。うちで上映してるんはそんな映画なんやで」
また、「トビタ東映」には“大阪のおばちゃん”としか形容出来ない女性が働いていて、少年が行くと「また来たんかいな」と笑いながら声をかけてくれました。ある時、おばちゃんから「今日はタダで観ていき」と言われた少年は映画マニアとして認められたような気がしたのでした。
三人目は、東映の宣材倉庫にいた、いかにも“活動屋”って感じのおっさん。この人に映画を薦められたこともありました。
「やくざ映画が好き言うんやったら実録もんばかりやのうて、『博奕打ち/総長賭博』(‘68)『明治侠客伝/三代目襲名』(’65)とか観んといかんで」
四人目は声だけで知り合いになったおばさん。新世界・飛田の映画館の中には上映プログラムが情報誌に載っていない所がありました。少年はそんな劇場に電話してプログラムを尋ねるのです。電話を取るのはいつも同じおばさん。毎月毎月繰り返すものですから、声を覚えて、少年が嬉しくなることを言ってくれました。
「また、あんたか。ほんまに映画が好きなんやな」
映画の話を出来る同世代がいなかった少年は、常に映画と接している大人たちとの会話が楽しくてなりませんでした。
この頃、少年は『ニュー・シネマ・パラダイス』のトトのようだったのです。
最終章:映画少年都へ行く
We are not aloneーー東京に映画少年がいた
こうした経験を経た少年は、映画を勉強しようと決意。『真夜中のカーボーイ』(‘69)の主人公のようにあえて夜行バスで上京し、東京郊外にある、映像関係の専門学校に進学します。自分のような映画にまつわる体験をしてきた同世代はいないと少年は思っていました。
しかし、この学校に来ているのは少年みたいに「勉強もせず、映画を見てきた」70年代型映画少年ばかり。
「「天六ユウラク劇場」で一般三本、洋ピン三本をはしごしていたわ」
「「新世界国際」でおっさんに触られてん」
という大阪出身者もいれば、
「劇場のチェックがザルだから日活ロマンポルノを観まくったぜ、神代辰巳最高!」
「浅草の映画館はタバコが喫い放題なんだぜ」
「『ゾンビ』(‘78)は30回観ても飽きねえ」
という東京育ちの者がいたのです。
まさに井の中の蛙、大海を知らず。少年の脳裏に映画が好きになるきっかけとなったクリント・イーストウッドが『ダーティハリー2』(‘73)で言ったセリフが蘇りました。
少年は初めて同じレベルで映画の話が出来る同世代と出会えたのでした。
Still Crazy After All These Yearsーー映画館が禁煙になっても
大阪の少年が上京した1983年、新宿には客席で喫煙しても注意されない映画館がいくつかありました。東映の旧作を三本立てで上映する「新宿昭和館」がそうでしたし、歌舞伎町のロードショー館は週末のオールナイト興行の時には喫煙所状態でした。
少年が現在の小田急ハルクの裏にあった名画座「新宿パレス座」に『ヘルハウス』(’73)と『エクソシスト』(’73)のオカルト・ホラー二本立てを観に行った時のことです。
その頃には立派な喫煙者になっていた少年は、ガラガラの場内の席に着くなり新世界のおっさんたちのように煙草を喫おうとしました。だってここは新宿だもの。
しかし火を着けようとした、その瞬間、どこからともなく飛んできた劇場スタッフに
「館内禁煙です!」
というキツ~い、いや当たり前のひと言を言われたのです。
このあたりから、映画館での喫煙には厳しい目が注がれるようになっていきます。
そして徐々に客席で煙草を喫う者が減っていき、映画館のスタッフが見回りをしなくても良くなりました。
煙草はロビーのあちこちに置かれた灰皿の側で喫うようになったのです。
そう、当時はまだ喫煙所なんてものは映画館には無かったのです・・・。
少年もこの出来事以降、客席で煙草を喫うことはありませんでした。
それから40年。少年は今も好きな映画を観て、語り、書き続けています。
ポール・サイモンのヒット曲『時の流れに』の歌詞ではありませんが、
“Still Crazy After All These Years “
なのです。
ケムール編集部にて
ケムール担当「現在、新世界や飛田はどうなっているんです?」
私「当時の名残は若干残ってますけど、カップルや女性グループ、外国人観光客が来る観光地になってますわ。ただあんなにあった映画館は一般映画を上映する映画館が2館、ポルノ映画を上映する映画館3館しか残っていませんわ」
担「変わったものですね」
私「世話になった「トビタ東映」「トビタシネマ」は閉館してしまいました。「天六ユウラク劇場」も今はもうありまへん」
担「あの映画館主の方たちも…」
私「でもね。「新世界日劇会館」は健在です。ビルを改築して「新世界東映」と名前が変わり、三本立てから二本立てに減ったけど、東映映画を上映し続けています」
担「残っているんですか!」
私「いまでも『パラダイス座』のようにタバコの煙が目に染みまっせ!」
担「ところで小玉さん・・・この大阪の少年の話はほんとですか?」
私「担当はん・・・つまらないホントとおもろいウソ、どっちが読みたいですか?」
担「そりゃあ、ね・・・」
このお話の続きは、
小玉大輔さんとケムールのTwitterで。
1970年代にタバコの匂いのする映画館に通った人
最近 映画沼にハマってしまった人
何かをとてつもなく好きだった頃を思い出した人
そして
すべての映画少年少女に幸運あれ。
今回登場した映画
未来元年・破壊都市(’69)
仁義なき戦い(’73)
仁義なき戦い/広島死闘篇(’73)
仁義なき戦い/代理戦争(’73)
仁義なき戦い/頂上作戦(’74)
仁義なき戦い/完結篇(’74)
県警対組織暴力(’75)
ソドムの市(’75)
カリギュラ(’79)
ウォーターパワー/アブノーマル・スペシャル (’78)
博奕打ち/総長賭博(’68)
明治侠客伝/三代目襲名(’65)
真夜中のカーボーイ(’69)
ダーティハリー2(’73)
ヘルハウス(’73)
エクソシスト(’73)
ゾンビ(’78)
◉
ニュー・シネマ・パラダイス(’88)