二才になりました
24回目ということは、二周年。つまり二才。
“青二才”というくらいだから、二年なんぞ、なんの自慢にもならない数だけど、やっている当人としてはなかなか大変だった。
なにが大変かって、仕事の合間に書けばいいや、くらいに思ってたのが、そもそも合間なんてなかった。
うへー。いま、書店はそれくらいキビシーのです。
せっかくなので「24」という数字をググってみた。
きっとヒットの最上位には「自然数における23の次の数、25の前の数」みたいな、数字そのもののウィキペディアが来るにちがいない。
もしそうなら、1にも2にも100にも1000にも、同様のウィキがあるのかしら、いやそれどころか“数ごと”にページがあったりするのかしら、だとしたらいくつまでページはあるのかしら、1234567890のページはどうなっているのかしら、などと、ワクワクしてキーを叩いた――
……
トップに表示されたのは、ジャック・バウアー。
出典:僕の心のヤバイやつ ©桜井のりお・秋田書店
……いやいや、その結論は早急にすぎる。
最近話題の対話型チャットAI「ChatGPT」ならどうだろう。
ためしに「24」とだけ打って、AIの回答をしばし待ってみた。
「24は数字です。10進数システムで表すと「24」です。24は複数の数学的な概念に関連しています。また、カルトや歴史、文化、時間や角度などの測定単位にも関連している数字として知られています」
おおー。ググるよりは圧倒的に期待した答えに近い。
かのGoogleが、このChatGPTのリリースに「コードレッド」(事業に対する深刻な脅威への警戒を示すコード)を発令したくらいだから、さすがである。
なるほど、現在のオーソドックスな検索では、検索結果に序列を与えてそのなかから探すわけだが、この技術は“答えそのもの”をダイレクトに返すのか。
これは便利……というより、使いかたをよく学ぶ必要がありそうだなー
べつに聞く相手がAIだからじゃない。
聞く相手が親とか、先生とか、先輩とかでも、これは同じだ。ダイレクトに答えだけ教わること自体が危ういと思う。
たとえば数学の問題集があったとして、答えの欄に解答ページの答えを「書き写す」ことになんの意味があるだろう。
師に問うのは、解き方・考え方であって、答えそのものではないだろう。
そもそもChatGPTは、まだまだ変な答えを返すこともあるが、ぼくは答えの精度はまるで問題ではないと思っている。
答えを“鵜呑み”にする人は、合ってようが・間違ってようが、それが答えだと考えるからだ。そういう思考スタイル自体をまずは否定しないと、トンデモな社会に成り果ててしまうことだろう。
ぼくもこの二年、このコラムでおもしろいから読め、みたいなことを書いたりもしたけれど、これだって“答えを出した”つもりはない。「Aというマンガはおもしろい」と書いたとき「Aイコールおもしろい」と「正解」を披露しているわけでは断じてないのだ。
ぼくはそう思うけど、あなたがそう思うとは限らない。
ただぼくは、そんなぼくの「おもしろがりかた」をお見せすることを通して、皆さんにも自分の・自分だけの「おもしろがりかた」がきっとありますよ……とお伝えしたいだけだ。
もちろん、すべてを主観で判断すべき、と言いたいのでもない。
ただとにかく、ぼくは<多様性>が担保されていること、これが大事だと思う。それはマンガのありかたに限らず、存在するものすべてに、推し並べて適用されるべきことだと信ずる。
これからも見せたりますよ、ぼくの恥ずかしいおもしろがりかたを……!
それにしても、たった二年ぽっちでこんなに苦労するんだから、五年、十年とやろうとするなら、精神的露出狂になるくらいの覚悟がいるんだろうな。
十周年とか、ぼくはどんだけの変態になっているんだか、いまから楽しみです。
さて、ステキでムテキな決意表明をしたところで、そんな二周年を記念して、今回はちょっと以前からやってみたかった、ケムールならではの企画モノにしてみたい。
ずばり「喫煙マンガ」特集だ。
すばらしき「喫煙マンガ」の世界
喫煙描写があるマンガは、このコラムでもこれまでとりあげてきた。
だが、「喫煙そのもの」を題材とするマンガはなかった。
別に避けていたわけじゃなくて、単に目立つところにそういうマンガを見かけなかっただけだ。
ところが、おもしろいことにここ最近(具体的には一年内外くらい)、なぜか急に「喫煙マンガ」が視界に入ってくるようになった。
これはつまり、本屋さん風にいえば、「差しじゃなくて、平で扱っている」ということだ。
扱う冊数が少なければ棚に“差す”だけだが、売上が見込める、イコール冊数が多い場合は、表紙を面にして“平置き”するわけだ。
ようするに視界に入ってくるということは、平で扱う、つまり売れそうだなあ、と店の仕入れ担当が考えたわけだ。
当然、これはぼくの店だけの話じゃない。
いくつかサンプリングされた、不特定の書店のどこでもみられる傾向だ。
喫煙はかなりニッチなテーマだと思うのだが……これはどういうことだろう?
まさか急に喫煙者が爆増した、なんてことはあるまい。
まあ、喫煙それ自体は「キャラクターの性格付け」に有効だから、背が高い・髪が短いなどと同じように、ごく普通にこれまでも物語のなかで扱われてきたものだ。
ただ、それはあくまでも“属性”のひとつであって、いわば素材ではなく、味付け用の調味料でしかない。
それが、素材そのものとして、急にクローズアップされてきたわけである。
ぼくにはこれがただの偶然とは思えない。
なぜなら、ぼくはちょっとこれら“新しい”「喫煙マンガ」に、どこか共通するものを感じていて、それが平置きになっている理由だと思うからである。
その辺はあとでまとめてみたい。
では、さっそく「喫煙マンガ」の世界へご案内しよう。
トップバッターは「スーパーの裏でヤニ吸うふたり」(地主 スクウェア・エニックス。以下「スーパーの裏」)。
スタイリッシュな装丁、現代的な絵柄。
このことから、読者ターゲットが比較的“若め”に設定されていることがわかる。
もともと、このマンガは作者・地主先生の個人アカウントでtwitter連載していたそうだ。
2022年からは「月刊ビッグガンガン」での雑誌連載に転向している。なにかを強く描きたいマンガというより、習作的なマンガなのかもしれない(事実、担当編集さんにアドバイスされて、短編修行のために描き始めた、とあるインタビューで語られている)。
現在、単行本は二巻まで出ている。
twitter発の単話スタイルのマンガに強い需要があることは、リアル書店で働いていると身にしみて感じることだ。
それはもしかすると、「長い物語」に耐えられない読者の増加、強めのコトバでいいかえれば「読むチカラの劣化」をしめしているのかもしれない。
まあ、単に「無料」で読めるから、そこに殺到するだけなのかもだが、とにかく閲覧数の大きさをみているとクラクラきてしまう。
これだけの数が、追い切れないくらいの量と速度で無料マンガを消費しているのだから、そりゃ雑誌も部数を減らすわけだ。
是非はともかく、マンガの受容のされかたが雑誌+コミックスだけの時代から、いまや変化していることには、書店員として日々向き合っていかなければならないのです。
さて、この「スーパーの裏」というマンガは、ぼくがイメージする現代的な「喫煙マンガ」としての特徴を全て備えていて、それはtwitterマンガであることと無関係ではない。
そのことも含めてぜひご紹介したい。
出典:スーパーの裏でヤニ吸うふたり ©地主・スクウェア・エニックス
……社畜サラリーマンの佐々木は、会社帰りに寄るスーパーの、二番レジを担当しているふんわり系女性店員・山田さんに癒やされている。
男女の仲になりたいとか、そういう不純な目的はない。
ただ、その笑顔や雰囲気だけで彼は癒やされるのだ。
ある日、スーパーに立ち寄った佐々木は、山田さんがいないのでガッカリしながらスーパーを出る。
そこで佐々木はタバコを吸おうとするが、どこも禁煙でいい場所がない。
するとそのとき、スーパーの裏手の狭いスペースから手招きされる。
行ってみると小さな喫煙所になっており、そこにはパンキッシュな格好の、タバコをくわえた若い女性がいた。
なりゆきで、ふたり並んで一服することになる。
彼女は、なぜか佐々木が山田さん目当てだと知っていて、さんざんからかってくるので佐々木はムキになってそれを否定する。
そんな彼にその女性は別れ際に言う。
「頑張ってお上品でいてね……佐々木(・・・)さん(・・)」。
後日、彼女は「田山」という名であると知るのだが――
出典:スーパーの裏でヤニ吸うふたり ©地主・スクウェア・エニックス
さて、読者には明かされているが、この田山は、山田さんなのである(山⇔田。漢字を入れ替えただけ)。
見た目や雰囲気、話し方が別人のようにちがうため、佐々木はそのことにまったく気づかない。
つまり、山田さんに癒やされている佐々木は、まさか本人と知らずに、山田さんについての(本人だと知っていたらとても言い出せないような)話をいろいろとしてしまうわけだ。
真実を佐々木が知ったら死にたくなる(笑)であろうが、このマンガのキモは、まさにこの“構造的な仕掛け”にある。
いわゆる<神の視点>からみたときの佐々木のこっけいさと、山田さん=田山の二面性。
そのすべてを、読者だけが俯瞰できる。つまりは、かなりテクニカルなマンガなのである。
山田さん=田山は、佐々木がただのエロオヤジでなく、かなりピュアに山田さんに好感を抱いていることを知ってしまっている。
なので、山田さんの姿でいるときは、そんなことはおくびにも出さず佐々木に接するが、やはり“知っている”がゆえの際どい挙動をとってしまうこともあり、ここでまた読者は身悶えローリングするわけである。
そして、このふたりの接点が、「喫煙」というわけだ。
素のままの山田さん=田山に会えるのは、喫煙所だけであるというたくみな設定が、まさにこのマンガを、ただのキャラクターマンガでない「喫煙マンガ」にしている。
きっと、このマンガのターゲット層である若い読者は、このマンガを田山のちょっとツンデレっている態度とか仕草にギャップ萌えしている(田山が佐々木の服のすそを、ちょんとつまむシーンとか)んだろうが、ぼくのようなアラフィフは違う。
このマンガは、煙草を吸っているときのほうが「素顔」である、というところにギュギュンくるマンガなのだ!
レジに立つときと煙草を吸うときで、コインの表と裏みたいに違う山田さん=田山の、素顔がどちらにあるのか――それは読者には自明である。
つまり、煙草を吸うとき、ひとは素顔をさらす。
煙草はスイッチのようなもので、田山はもちろんのこと、佐々木も、あるいは途中から登場する店長(40才女性)も、喫煙しているときは素が出てしまう。
「喫煙マンガ」の重要な特徴は、まずここにあるのだとぼくは思う。
たとえば佐々木も一服しながらだからこそ、こんなふうにスナオなコトバをもらしてしまうのだ。
出典:スーパーの裏でヤニ吸うふたり ©地主・スクウェア・エニックス
物語はおおむね、この<スーパーの裏>の喫煙所で、佐々木と田山(といつわる山田さん)の、喫煙しながらのゆるーい会話シーンが核となる。
まず、佐々木が仕事でストレスを溜め込み、癒やしを求めて山田さんに会いにいくが、会えず代わりに喫煙所には田山がいる(同一人物だから当然だ)。
ふたりは煙草を吸いながら、とりとめのない会話をし、最後にちょっとだけハッとするオチがつく……というのが基本形。
各話の連続性は極めて薄く、これといった全てをつらぬく太いストーリーラインがあるわけではない。
どこから読んでも大差はない。
それはこのマンガが、もとはtwitter連載であったことと無縁ではないだろう。
いい機会なので、ここでtwitterマンガ(あるいは、雑誌発表でなくSNS上で発表されるマンガ全般)について、すこし掘り下げてみたい。
twitterマンガとルーティンマンガのこと
あるマンガを読み始めた読者の「離脱率」は、ページが進むにつれて、みるみる高くなっていくそうだ。
先日、偶然読んだマンガアプリ「ジャンプ+」のデータ解析に関する興味深い記事によれば「大体のユーザーは最初の3~5ページ、長くても10ページ前後で読むかどうかを判断している」のだとか。
だから、読者の離脱を食い止めるためには、ふたつのアプローチが考えられる。
ひとつは、離脱しそうになる前にどんどん「エサ」を与えるという手法。
次はどうなるんだろう、とドキドキ・ワクワクさせつづけて、離脱したくないと読者に思わせるという、まあいわば王道だ。
そしてもうひとつは、離脱する前に「終わらせてしまう」ことだ。
まさにこの点が、twitterマンガの本質なのだとぼくは思う。
twitterマンガのすべてがそうだとは言わないが、やはり単話あたりの「短さ」が意味するのは、ただの読みやすさというより、最低でも作者の表現したいことを読者に一応最後まで伝えることができる、という“即効性”にこそあるとぼくは思う。
離脱するヒマさえ与えない短さ。
なんというか、強制的に読み終わらせることができること。それがtwitterマンガという形式のしめす本質だ。
twitterで長い続きモノを描いちゃだめってことはないが(ニンジャスレイヤーの例もある)、twitterは長編にはどちらかといえば不向きだろう。
というか、twitterのアドバンテージを活かそうとするなら、短編がいいということだ。
そしてこの点で、「スーパーの裏」というマンガは、twitterマンガという形式をとてもよく活かしている。
雑誌連載前に、気軽に発表できる場がtwitterくらいしかなかった、という事情もあるとは思うが、結果としてこの形式はこの作品に非常にうまくハマったのだと言える。
結論から言ってしまうが、この短さは「喫煙時間の長さ」と相性がいい。
“一服する”という言い方が示すように、喫煙という行為はちょっと一休みを意味する。
それはtwitterにも通じる。
この「スーパーの裏」というマンガは、twitterという形式と「喫煙マンガ」という題材の、いわばマリアージュというわけだ。
各話は短くまとめられていて、基本一話12ページ。
ここ最近このコラムでよく使うぼく自作の用語「ルーティンマンガ」にこれも該当するだろうか。
きらら系4コマ、あるいは趣味系マンガ(特にグルメ系)の流行においても、ルーティンマンガ的な枠の嵌め方が顕著に見られるとぼくは感じるが、SNS発のマンガでは特にこの傾向が強い。
読者にとって、タイパ・コスパがいいからだろうか。
「スーパーの裏」というマンガは、こうした媒体の力を活用することで、まさに現代的な「喫煙マンガ」になっていると思う。
つづいての「喫煙マンガ」は、「煙の先の敷島さん」(野中かをる 少年画報社)。
今回、喫煙マンガという括りでやろう、と思ったそもそものきっかけは、このマンガに出会ったからだ。
こちらも装丁デザインはすばらしく洗練されている。
今回はじめて確認してみたら、なんとデザインはVOLAREの関善之さん!そりゃスゲエわけだ、超一流が手掛けてたのかー。
このマンガはデザインも内容も「スーパーの裏」とは違う方向性である。
どちらかと言えば、オトナの読者を想定しているマンガ、デザインだろう。掲載誌が「ヤングキング」ってこともあるし。
2022年から連載されており、まだ単行本は一冊出たばかり。
作者・野中かをる先生はマンガアプリや読み切りでさまざまな作品を発表されている。
実はこのマンガを読んで、ぼくは正直ちょっとジェラシーを感じた。
喫煙マンガをプロデュースするとしたら、こんなふうにするだろう、ということをすべてやられてしまった、そんなマンガだったからだ。
まあぼくは別に編集者でもなんでもないのだが。
あらすじをご紹介する。
出典:煙の先の敷島さん ©野中かをる・少年画報社
……冴えない営業マン・幸田は、会社の非常階段の踊り場にある喫煙場で一服する。
同僚からは不評だが、仕事の息抜きにその一服はかかせないものであった。
ある日、その喫煙場で職場の同僚・敷島さんが煙草を吸っているところに遭遇する。
普段の彼女は常にマスクをしていて、素顔は誰も知らない。
仕事ができ、クールな彼女は職場でもミステリアスな存在として畏怖されていたが、そんな彼女がマスクを外し、くつろいで煙草を吸っているのだ。
「見つかっちゃいましたか」。
出典:煙の先の敷島さん ©野中かをる・少年画報社
同僚の誰も知らない敷島さんの素顔を自分だけが知っていると幸田は優越感を抱く。
だが、もちろん敷島さんのミステリアスさはそんな浅いものではないので、幸田はひとり空回って敷島さんの前でみっともないところばかりみせてしまう。
非常階段で二人っきりで煙草を吸うとき、幸田は敷島さんにいつもドキッとさせられてしまうのだ。
たとえばこんなシーン。
出典:煙の先の敷島さん ©野中かをる・少年画報社
いわゆる“シガーキス”というやつ。「喫煙マンガ」の定番シチュだ。
いやー、これは実際やったら破壊力ありますよ。
ちなみにぼくは初めて煙草を吸った日、大学の先輩(男)にこれをやられて、そうか、こうやって火をつけるのか、と間違った知識をインプットしてしまい、その後いたるところでこれをやりまくってキモいキャラに成り果ててしまったのはいい思い出です。
ともあれ、敷島さんのこうしたさりげない喫煙時の振る舞いや仕草に、幸田はどぎまぎしっぱなしなのであった。
それでも、日々のさまざまなできごとを通して、敷島さんとの距離はゆっくりだが、確かに近づいていく……
出典:煙の先の敷島さん ©野中かをる・少年画報社
さて、サラリーマン喫煙者なら、このマンガにはド共感するに違いない。
ぼくなど、また自分の体験談を読んでいるような気分になりました。
会社の<喫煙所>って、人生の裏話劇場ですよね。
なんて言うんでしょう、喫煙者同士だけにある、仲間意識?あるいは共犯意識?みたいなものがあって、ポロッとホンネが出てしまうとか。
先日、野中先生ご本人とお会いする機会があって、お話をうかがったとき、まさにこの共犯感覚について触れておられて、“わかってる”人が描くから説得力があるんだなー、とあらためて思いました。
さて、オフィスが舞台だとしたら喫煙所は楽屋だ。
そこでひとは少し肩の力を抜き、素顔をみせる。
でも、それはいわば「煙草一本分」くらいの、刹那の間だ。
仕事終わりの赤提灯みたいにズブズブな話にはならない。
それくらいの距離感だからいいのだ。
この「敷島さん」は、そんなサラリーマンならではの、仕事のなかでの喫煙シーンが描かれているわけだが、「スーパーの裏」と同じく喫煙が素顔をさらすトリガーとして機能している。
ところでお気づきと思うが、ここでいう“素顔”とは、男性でなく女性のそれであることが多いのである。
この「敷島さん」というマンガのすばらしいところは<煙草>と<女性>を関連づける描写だ。
煙草を吸うということが、女性の素顔をさらす(直接的にマスクを外す、という設定がそれを強調している)という演出になっているのだ。
ちなみにこのケムールにも、映画における<煙草>と<女性>の関係を掘り下げた記事があり、とても興味深い。
▶︎【#1】スモーキング・ウーマン・クロニクル/映画とタバコと21人の女優たち【シガレット・バーン/映画的喫煙術】
ぼくが喫煙する女性と言って連想するのは、マレーネ・ディードリッヒですねー。
「上海特急」(1932)とか。ベタすぎ?
敷島さんが、現代のマレーネだ……とは言わないが、ぼくはこのマンガを読んで、どこかかの大女優のシルエットを思いだした、といったら大げさだろうか。
喫煙者である、というだけではなくて生き方やファッションにおいて、マレーネ的なイメージがどことなく脳裏をよぎってならなかった。
敷島さんは、普段素顔をマスクで隠している。
そのことが、マスクの下の素顔についてのさまざまな憶測を呼ぶ(すごい美人じゃないか、とか)のだが、マレーネ・ディードリッヒも「上海特急」でパラマウント社が100万ドルの保険をかけた美脚を、美しいマーメイドラインのドレスで惜しげもなく(?)隠している。
「秘すれば花」というが、ふたりとも意思をもって隠し、そしてまたいっぽうで毅然とした姿勢で煙草を吸うのだ。
ポリシーのある女性はかっこいいとぼくは思う。
そして<煙草を吸う女性>とは、恐らくそれを示す特別な記号なのだ。
そのことにたぶん、「敷島さん」というマンガは自覚的なのだと思う。
それはおそろしくバランス感覚の必要な描写が要求されることだ。
なぜなら、鼻についたり下品になったりしないよう、かっこよさを描かなければならないからだ。
この点で「敷島さん」は完璧に成功していると思う。
そして最後のご紹介は、これまで紹介した漫画とは打って変わった感じの「戦野の一服」(著:清澄炯一 考証協力:軍事法規研究会 日本文芸社)。
これまでの「喫煙マンガ」が、現代日本を舞台にしていたのと異なり、このマンガは「日露戦争」を舞台にしている。
……日露戦争(1904~05)最大の激戦となった「旅順攻略戦」。
その戦地で、さまざまな立場の軍人たちに一時の安らぎをもたらした慰問品の煙草。
そんな一服をめぐるエピソードをオムニバス形式で描くマンガだ。
史実を織り交ぜつつ、虚構も巧みに組み込んで、ミリタリーマンガとしても厚みのある内容になっていると思う。
だが、正直に言えば、ぼくはこのマンガを見つけたとき、まったく誰をターゲットにしているのか理解できなかった(笑)。
ぼくのような喫煙者で、戦争マンガも好きで、かつそういうモノが描きたい場合にすぐに異世界モノに逃げる(史実を調べたり、歴史的配慮をしなくていい)ことをせず、断固として現実の戦争を舞台に選ぶような硬派なマンガを支持する層……って、そんなんいるのかー!?
と、いうくらい意図を計りかねたわけである。
だが、妙に気になっていざ読んでみたら、これがもう激烈にすばらしいマンガだった。
まあ、オレにはすげえおもしろかったけど、これおもしろいっていうの、オレだけじゃないんかー、という疑問は依然として残ったのだが。
作者の清澄炯一先生は、同人誌活動のほうで以前から存じ上げていたし、商業作「めしあげ!!~明治陸軍糧食物語~」にも注目していたから、その実力に疑いなどなかったが、この「戦野の一服」は、さすがにスキマに落ちた針の穴くらいニッチすぎやせんか?と心配になったくらいである。
だいたい、なぜ日露戦争?現代の読者にとって、日露戦争はマイナーな戦争と言わざるをえないわけで、これといった必然性もないように思う。
だが、もろもろの先入観を捨ててこのマンガを読んでほしいと思う。
ニッチはニッチだが、これは類書のない、じつに挑戦的な作品だからだ。
さて、このコラムで何度も何度も指摘しているが、本質的にミリタリーマンガという形式は「死」に匹敵する価値について、問うために選ばれる形式だ。
「戦野の一服」もやはり「死」がいたるところにあるマンガだが、死に対置されているのは「喫煙」なわけだ。
戦地における一服に、死を対価にできるほどの価値がある……?
戦争を知らないぼくには、それに答える資格はないかもしれない。
だが、想像してみることはできる。
極限状態で吸う一服のことを考えるとき、例えば敵に捕まりもう殺されるだけ、という状況で最後に煙草を一本所望する、みたいなシチュエーションのことをいつも考える。
そのとき煙草を吸うことは、あと生きていられる時間そのものを意味する重いものになるのだ。たかが一服、などと言えようはずがない。
言い換えれば、ぼくのイメージでは、戦争や戦いにおける喫煙は、いよいよもう死ぬしかないという死を目前にしたサイン、いわゆる「死亡フラグ」であった。
だが、「戦野の一服」における喫煙は、おもしろいことに、すべてその逆なのだ。
このマンガにおける一服は、“生きる”あるいは“生き残る”ことの象徴として扱われる。
つまるところ、このマンガにおける一服は、ミリタリーマンガにおける「死」の価値を、あるいはひるがえって「生」の価値を「喫煙」をとおして問う行為だ。
言い換えれば「死(あるいは生)」と「喫煙」を天秤にかけたマンガなのだ。
出典:戦野の一服 ©清澄炯一・日本文芸社
この「戦野の一服」は、八篇のエピソードから成っている。
多少、エピソードをまたいで登場するキャラクターはいるが、それも名前だけですべてのエピソードの登場人物は別であると言っていい。
旅順攻略戦の実在の将校が登場したり、あとは後世に自伝的小説を残した兵が主役の回があったりもする。
おもしろいのは、各話に登場する煙草の「銘柄」がタイトルになっているところだ。
ぼくは正直、どれもまったく知らない銘柄だった。
朝日、山桜、敷島、大和、スター、チェリー、リリー、オリエント。
あれ、敷島ってもしかして「敷島さん」ってここから取られてるのかしらん。
チェリーはつい最近まで売ってたなあと思ったら、それは明治期に売ってたのと違ってアメリカンブレンドの別物だそうだ(東日本大震災の影響で、2011年に販売終了。残念!)。
特に個人的に好きなエピソードは、第二話「山桜」。
……故郷の幼馴染が、貧しさから吉原に身売りし、それを金で買ったときの娘の煙草の匂いから、煙草を嫌いになった兵士の話。
ピロートークにおける煙草というのは、いろんな意味で忘れがたいものになるわけですね。あいたた。
そして、第三話「敷島」。これはちょっと思いきった話というか、煙草を吸って世界平和みたいな話だ。
……索敵中、背の丈より高く茂る「高粱(コーリャン。モロコシの一種)」畑に入り込んだ真中野軍曹は、ふと気配を感じ畑の奥深くへさまよいこむ。
するとそこには脱走したと思われるロシア兵が、無防備に煙草を吸っていたのだ。
真中野は、ただ黙ってとなりに座り、並んで煙草を吸うのだった。
出典:戦野の一服 ©清澄炯一・日本文芸社
そう、これですよ!ここではもはや国や性別を超えて、人間としての「素顔」がさらされているのです。
「喫煙マンガ」とはなんなのか
他にもご紹介したい「喫煙マンガ」はあるが、まずはこの三作品にておしまい。
どれも個性的なマンガだから、むりやり「喫煙マンガ」としてひとくくりにしなくてもいいのかもしれない。
だが、ぼくにはなんとなく、共通するところがあるように思われた。
たとえば、「スーパーの裏」や「敷島さん」では、核となる場面は、<喫煙所>という限定空間だ。
そこでは「喫煙者・二人」だけが登場し、会話する。
「戦野の一服」に喫煙所は出てこないが、戦地の一服シーンは極限状況であり、やはりどこか切り離された空間であることに変わりはない。
こうした限定空間のみで繰り広げられる対話劇は、つまりこれ以上要素を減らせない、もっともミニマムな物語単位なのだと言える。
極限まで肉を削ぎ落とされたそれは、いわば物語の“祖型”だ。
登場人物がひとりの一人芝居(=独演劇)を除けば、最低人数は二人。
ところで「喫煙マンガ」とは、つまりは“コレ”なんだとぼくは思っている。
煙草を媒介として、ふたりの人物がそこにはいる。
くつろぎ、「素顔」をさらして、ふたりはお互いだけを意識して会話をする。
あるいは沈黙する。
その合間に煙草を吸って、吐く。
けむりが虚空に薄れて消える。
動きが、思考が、時間が、止まる――煙草の先からたゆたう紫煙をのぞいては。
煙草というアイテムは、物語世界の時間をゆっくりにするのだ。
「喫煙マンガ」は、少しおおげさに言うなら、“時間の速度”を操る形式なのだと思う。
今風の言い方をすれば、時間の“解像度”が異様に高くなる演出、とでも言おうか。
自然、すべてがゆったりとして、細かい動作にも敏感な描写が多くなる。
その細やかさのなかに“気づき”があったり、“癒やし”があったりする。
数秒の時間のなかに多くの意味が、感情が、込められている。
なにより、そこでひとは「素顔」になる。
素顔をさらすことがデリケートな意味をはらんでしまうこの数年、人々の深層心理にそうしたことへの抑圧があって、どこかでそれを解消したいと思っている……そう考えるのは穿ちすぎだろうか。
まあ、いちいち裏を読まなくてもいいのだろうが、ぼくは「喫煙マンガ」がここにきて求められているのは、案外、根っこにそんな理由があってもおかしくないな、と思う。
さて、コラムも書き終わったし、さっそく一服しようかな!